| 英:Instrument of Government | |
| 正式名称 | The Government of the Commonwealth of England, Scotland and Ireland and the Dominions thereunto belonging |
|---|---|
| 提出者 | ジョン・ランバート |
| 適用地域 | |
| 日付 | |
| 裁可 | 1653年12月15日 |
| 発効 | 1653年12月16日 護国卿創設 |
| 廃止 | 1657年5月25日 |
| 他の法律 | |
| 後継 | 謙虚な請願と勧告 |
現況: 廃止 | |
統治章典(とうちしょうてん、英:Instrument of Government)とは、かつて清教徒革命期のイングランド共和国で制定された法律である。イギリス史上初の成文憲法として1653年12月16日に公布されたが、議会の承認を得られず3年余りで廃止され、謙虚な請願と勧告に取って代わられた。
ニューモデル軍幹部で司令官オリバー・クロムウェルの腹心ジョン・ランバートを中心とした将校会議が『建議要目』と『人民協定』を参考にしながら1653年9月から11月にかけて作成、12月16日に公布、同時にクロムウェルが終身の護国卿に就任し護国卿時代が開始された。内容は全42条からなる[1][2]。
ベアボーンズ議会解散後、次の政権構想を既に考案していたランバートにより統治章典に基づいた護国卿時代が始まり、イングランド共和国は護国卿クロムウェルと議会が共同統治する政治形態と定められた。クロムウェルは王ではないが軍事・外交・官吏任免権が与えられ王同然の立場に置かれる一方、立法・行政は護国卿・議会・国務会議が互いにチェックし牽制し合う均衡状態が取られた。しかし実際は議会の権限が弱く、曖昧な項目を利用した政府の議員排除が規定され、自由な選挙を理想としながらも反対派選出を恐れた政府により選挙資格と議員の権力も制限がかけられ、国務会議はクロムウェルの諮問機関として権勢を振るい、比重が護国卿に傾く体制では議会が反対することが予想された[3]。
1654年9月3日に第一議会が開会されると、案の定議会は統治章典の内容を批判し改定を要求、開会前にクロムウェルと国務会議が制定した諸法は無視され、法案作成より政争が中心となった議会は混乱するばかりであった。クロムウェルは妥協を図り統治章典の4つの基本的項目(護国卿と議会の共同統治・議会常設化の抑制・信仰の自由・護国卿と議会の共同の軍統帥権)以外は変更しても良いと提案したが一向に改善は見られず、1655年1月22日にしびれを切らしたクロムウェルにより議会は解散された。統治章典は議会に承認・批准されず政府の正統性は保証されなかったばかりか、支持層が中産階級だけの政府は共和主義勢力や王党派の反乱陰謀に脅かされた[4]。
クロムウェルら政府は軍政監設置で反対派検挙と軍の支配を試みたが、反発が強まるばかりで財政難もあり、1656年9月17日に第二議会を召集せざるを得なかった。そこで体制回帰が唱えられて、1657年にクロムウェルの王即位と統治章典廃止に伴う新憲法制定の提案が議会にかけられ、クロムウェルの拒否で王即位はなかったことにされたが新憲法制定は可決、統治章典は廃止され5月25日に謙虚な請願と勧告が成立、王政のほとんどが復活した体制回帰で改めて護国卿と議会の権力均衡が図られ、政権は王政に近い状態で存続した[1][5]。