グルジア王国 საქართველოს სამეფო (国旗) (国章)
13世紀のはじめ、王国最盛期の地図 グルジア王国 (グルジア語 :საქართველოს სამეფო サカルトヴェロス・サメポ )は、1008年 ごろに成立した中世 の王国 。グルジア連合王国 [ 1] 、またはグルジア帝国 とも呼ばれる[ 2] [ 3] [ 4] [ 5] 。11世紀 から13世紀 にかけて、ダヴィト4世 とタマル女王 の治世の下、黄金時代 を現出した。その最盛期には今日のウクライナ 南部とイラン 北部までを版図に収め、アトス山 とエルサレム に修道院 を保持した。住民の多くはグルジア語 を話す正教徒 であり、現代のグルジア の前身となった。
13世紀、王国はモンゴルの侵攻 に晒されたが、1340年代に再独立した。しかし、その後も遊牧民 がもたらした黒死病 とティムール の数回にわたる侵攻に悩まされ、王国の人口は減少、経済は大打撃を受けた。さらに1453年 、コンスタンティノープルの陥落 により王国の古くからの同盟国である東ローマ帝国 が滅亡した。15世紀末までに王国はテュルク系民族 とイラン系民族 の国に囲まれ、キリスト教のグルジア王国は孤立した。1386年 にティムールの侵攻がはじまり、最終的に1466年の王国崩壊をもたらした。無政府状態はその後、1490年にイメレティ王国 (英語版 ) 、カヘティ王国 (英語版 ) 、カルトリ王国 が独立を相互承認するまで続いた。1762年にカルトリ王国とカヘティ王国が統合され、カルトリ・カヘティ王国 が成立し、グルジアは再統一された。カルトリ・カヘティ王国はさらに18世紀、ロシア帝国 に併合された。
バグラティオニ朝 (英語版 ) の起源は8世紀 ごろ、タオ・クラルジェティ (英語版 ) の時代まで辿ることができる。888年 、アダルナセ4世 (英語版 ) が「グルジア人の王」を名乗ったことでグルジア人の王位が復活した。
グルジア連合王国は1008年 に成立した。この年、すでに父方からタオ・クラルジェティの王位を継承したバグラト3世 (英語版 ) は母方からアブハジア王国 (英語版 ) の王位を継承、グルジアを統一した。
グルジア黄金時代 はグルジア王国の最盛期で、11世紀 末から13世紀 を指す。この時代、王国は大きく発展を遂げ、中世グルジアの建築、絵画、詩歌などの文化が開花した。この時期はキリスト教美術と世俗的な文学が発展し、王国は軍事、政治、経済、文化などで繁栄を謳歌した。この時代はグルジア・ルネサンス、または東方ルネサンスと呼ばれている[ 6] [ 7] 。
シオ・ムグヴィメリ修道院 (英語版 ) のフレスコ に描かれたダヴィト4世 。黄金時代はダヴィト4世 の治世に始まる。彼はギオルギ2世 と王妃ヘレナの息子であり、16歳のとき、セルジューク朝 の最盛期に即位した。彼はまず封建領主 の力を弱め、王国の中央集権 を進めた。権力を手中に収めたことにより外国の脅威の対処に集中できたダヴィト4世は1121年 のディドゴリの戦い (英語版 ) で大勝利を収めた。グルジア軍はその後セルジューク軍を数日間追撃し、戦利品を多数確保、トビリシ を獲得した[ 8] 。
ユネスコ が登録した文化遺産 であるゲラティ修道院 。王国の隆盛を見たダヴィト4世は、グルジア王で初めて東ローマ帝国 での封号 を名乗らなかった者となった。これはグルジア王国と東ローマ帝国の対等を主張することを意味する。マリア・バグラティオニ が東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカス と結婚した後、12世紀には少なくとも16人のグルジア王族が東ローマ帝国での封号を得たが、ダヴィトはその最後となった[ 9] 。
ダヴィト4世は東方からの影響の排除に努め、西方のキリスト教や東ローマ帝国の文化を取り入れた。ゲラティ修道院 の建設がその一環であり、当時の正教会 の信仰の中心となった。ゲラティ修道院は現代ではユネスコ が登録した文化遺産 となった。
ダヴィト4世はまた、グルジアの聖歌 の伝統を復活させ、いくつかの「悔い改めの賛歌」(グルジア語 :გალობანი სინანულისანი,galobani sinanulisani )を作曲した[ 10] 。
キンツヴィシ修道院 (英語版 ) 所蔵の「キンツヴィシの大天使」。絵に使われたウルトラマリン は貴重なもので、グルジア王国の繁栄を象徴する。王国の繁栄はダヴィト4世の子デメトレ1世 (英語版 ) の治世でも続いた。彼の治世では王位継承の争いが起こったが、グルジアは中央集権 であり続け、軍事力を保持した。ムスリム に対してはギャンジャ で決定的な勝利を収めた。
デメトレ1世は父と同じく詩人としての才能があり、グルジアの聖歌を数多く詠った。そのうち一番有名なものはThou Art a Vineyard であり、現代のグルジア正教会 を代表する讃美歌となっている。
1156年 、デメトレ1世の子ギオルギ3世 が王位を継承した。同年、ギオルギはアナトリア半島 東部のセルジューク朝 地方政権を攻撃、ドゥヴィン を解放した。さらに娘のルスダンを東ローマ皇帝 アンドロニコス1世コムネノス の息子マヌエル・コムネノス に嫁がせ、王家の権威を高めた。
ギオルギ3世の娘タマル は単独でグルジア史上初めての女王になり、その治世にグルジア王国は最盛期を現出した。彼女は王国をテュルク人 から守っただけでなく、国内の緊張を和らげ、最初の夫ユーリー・ボゴリュブスキー が画策したクーデター も粉砕した。また、死刑 と拷問 の廃止など、彼女の時代にしては進歩的な政策もあった[ 11] 。
タマル女王の治世、王国は国外での修道院建設を推進した。画像はアトス山 のイヴィロン修道院 (英語版 ) 。 タマル女王の治世で特筆すべき事件としては1204年 のトレビゾンド帝国 成立がある。その年、東ローマ帝国 が一時的に滅亡したため、女王は親族にあたるアレクシオス1世 とその弟ダヴィドを援助し、帝国を建国した[ 12] 。タマル女王御用の歴史家によると、トレビゾンド援助の目的はアンティオキア とアトス山 の修道院への送金の約束を破ったアレクシオス4世アンゲロス への懲罰であるという。しかし、これには異説があり、アンゲロス王朝 が第4回十字軍 の侵攻で先が長くないのでグルジアの南西に友好的な国を建てた、という説もある[ 13] [ 14] 。
タマル女王の治世の後半、王国は聖地 におけるグルジア教会の保護に奔走した[ 15] 。サラディン の伝記作者によると、1187年 のアイユーブ朝 によるエルサレム 侵攻の後、タマル女王はサラディンに使者を送り、エルサレムでのグルジア教会の返還を要請したという。サラディンの返事は記録されていないが、女王の努力は結実した[ 16] 。さらに、サラディンに対しヒッティーンの戦い で奪われた聖十字架 を20万の金塊で買い戻す提案をしたという。これは東ローマ皇帝が提案した金額よりも上であったが、サラディンは拒否した[ 17] 。
ラテン・エルサレム総大司教 のジャック・ド・ヴィトリ は当時、グルジア王国について書き残している:[ 18]
「 東方にもキリスト教の人々がいる。彼らは戦いに強く、勇敢で、無数の力強い戦士がおり...異教徒の国に包囲され...彼らは聖ゲオルギオス を崇拝するので、グルジア人と呼ばれている...聖墳墓教会 に巡礼に行くとき、彼らは行進して聖なる城に入る...誰にも通行料を払うことなく。それはサラセン人 が彼らを侮辱できるわけないから... 」
モンゴルのルーシ侵攻 と同じ頃、モンゴル軍の一部は南下してグルジアに侵攻した。タマル女王の子ギオルギ4世 (英語版 ) はすぐさま第5回十字軍 支援を取りやめ、国を挙げての抵抗をはじめた。しかし、グルジアはモンゴルの軍事力には対抗できず、ギオルギ4世は緒戦で重傷を負い、1222年に31歳で亡くなった。
モンゴルの支配にもかかわらず、グルジア文化の開花は続いた。画像はウビサ修道院 のフレスコ 。 ギオルギ4世の妹ルスダン が王位を継承したが、彼女には国政の経験がなく、国自体も遊牧民を追い出すには弱すぎた。1236年 、チョルマグン 率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻すると、ルスダンはグルジア西部への避難を余儀なくされた。東部で抵抗を続ける貴族は完全に消滅させられ、残りの貴族はモンゴルに臣従し貢税を支払った。モンゴル軍はスラミ山脈 を越えなかったためグルジア西部の被害は少なく、ルスダンは危機を脱した。その後、ルスダンはローマ教皇 グレゴリウス9世 に支援を求めたが失敗し、1243年 にモンゴルに臣従した。
しかし、モンゴルのグルジア支配は磐石ではなく、反モンゴル蜂起が相次いだ。1259年 にダヴィト6世 (英語版 ) が起こした蜂起は30年後デメトレ2世 (英語版 ) が処刑されるまで続き、その後もダヴィト8世 (英語版 ) が闘争を続けた。抗争が続いている間にイルハン朝 が衰退し、ギオルギ5世 (英語版 ) の治世に結実した。ギオルギ5世はイルハン朝への貢税支払いを止め、モンゴル侵攻以前の領土を回復、東ローマ帝国 やヴェネツィア共和国 、ジェノヴァ共和国 との貿易を発展させ、さらにトレビゾンド帝国 への影響力を再び強めた。ギオルギ5世はまた、エルサレム にあるいくつかの教会をグルジア正教会 に返還させ、グルジア人巡礼者 の聖地 への通行権を認めさせた。中世グルジアで広く使われているエルサレム十字 (英語版 ) はギオルギ5世時代に考案されたものであり、それが現代のグルジアの国旗 にも使われた[ 19] 。
グルジアの政治的と軍事的衰退の原因は黒死病 と言われている。黒死病は1336年 、ギオルギ5世 が南西グルジアを遠征し、オルハン の侵攻を撃退したときにもたらされた。この疫病はグルジアの人口の半分近くを死亡させたという[ 20] [ 21] 。これにより、帝国の軍事力は衰退、物流 も大きく阻害された。
1490年におけるグルジアの3王国5公国 ギオルギ5世 の治世(1299年 -1302年 、1314年 -1346年 )では王国がモンゴルの侵攻から回復し、再び繁栄するように思えたが、1386年 から1403年 まで8回を数えるティムール の侵攻は王国に大打撃を与えた。最終的に王国は1490年に崩壊、イメレティ王国 (英語版 ) (西グルジア)、カヘティ王国 (英語版 ) (東グルジア)、カルトリ王国 (グルジア中部から東部にかけて)に分裂し、バグラティオニ朝 (英語版 ) の分家にあたる王族がそれぞれの王位についた。王国の残りの領地は5つの公国にわかれ、グルジアの貴族が公に即位した。
代数 君主名 在位期間 備考 1 バグラト3世(Bagrat III) 1008–1014 グルジア王国初代国王、イベリアとアブハジアを統一 2 ギオルギ1世(George I) 1014–1027 東ローマ帝国と抗争 3 バグラト4世(Bagrat IV) 1027–1072 内乱とセルジューク朝の脅威に直面 4 ギオルギ2世(George II) 1072–1089 セルジューク朝の侵攻で苦戦 5 ダヴィト4世 "建設王"(David IV "the Builder") 1089–1125 グルジア黄金時代の礎を築く、セルジューク朝撃退 6 デメトレ1世(Demetre I) 1125–1156 詩人王としても有名 7 ダヴィト5世(David V) 1155–1155 短期間即位、詳細不明(異説あり) 8 ギオルギ3世(George III) 1156–1184 皇帝風の統治、娘タマルに権力移譲 9 タマル女王(Tamar the Great) 1184–1213 グルジア黄金時代の絶頂期、十字軍にも関与 10 ギオルギ4世 "ラシャ"(George IV "Lasha") 1213–1223 モンゴルとの最初の接触 11 ルスダン女王(Queen Rusudan) 1223–1245 モンゴルの侵攻に直面し、実質的に臣従
代数 君主名 在位期間 備考 12 ダヴィト6世(David VI Narin) 1245–1293 西部グルジア(イメレティ)を統治、分裂の始まり 13 ダヴィト7世(David VII Ulu) 1247–1270 東部グルジア(カルトリ)を統治 14 デメトレ2世(Demetre II) 1270–1289 モンゴルに処刑され「受難王」 15 ヴァフタング2世(Vakhtang II) 1289-1292 イルハン朝(モンゴル)の承認による傀儡的統治 16 ダヴィト8世(David VIII) 1293–1311 モンゴル支配に反抗 → 山岳地帯に逃れ自立;弟たちと王位争い 17 ヴァフタング3世(Vakhtang III) 1302–1308(名目的共同統治) イルハン朝がダヴィト8世の対抗馬として立てた弟;内戦状態 18 ギオルギ5世 "輝ける"(George V "the Brilliant") 1314–1346(断続) ダヴィト8世の子。モンゴル支配の終焉とともに王国を再統一し「輝ける王」の名を得る。文化復興を推進。黄金時代最後の偉大な王。 18 コンスタンティネ2世(Constantine II) 1334-1346 ダヴィト8世の後を継ぐが、王国はイルハン朝の支配と内乱で弱体化。
代数 君主名 在位期間 備考 19 ダヴィト9世(David IX) 1346–1360 ギオルギ5世の息子。黒死病やトルコ系諸侯の侵入に苦しむ。 20 バグラト5世(Bagrat V) 1360–1393 ティムール(ティムール朝)との戦争に巻き込まれる。王としての威厳は維持したが被害甚大。ティムールに一時捕らえられるも帰還。 21 ギオルギ7世(George VII) 1393–1407 ティムールの繰り返される侵攻に対応。地方諸侯の自立が進む。実質的な統一王権の終焉へ。 22 コンスタンティネ1世(Constantine I) 1412–1417 ギオルギ7世の弟または近親。短期間で死亡。貴族勢力の台頭が顕著に。 23 アレクサンドレ1世(Alexander I) 1412–1442 王国再建を試みた賢王。教会支援、文化振興、中央集権回復に努めたが完全統一には至らず。晩年は自ら退位して修道士に。 24 ヴァフタング4世(Vakhtang IV) 1442–1446 アレクサンドレ1世の子。兄弟共同統治の始まり。若くして死去。 24 ダヴィト10世(David X) 1442–1465 ダヴィト10世はカヘティ王国を支配し、強力な統治を行おうとするが、王国の分裂は進んだままであり、最終的には中央集権的な支配を回復できなかった。 25 ギオルギ8世(George VIII) 1446–1465(全グルジア王) 1465–1476(カヘティ王) 統一王権最後の王。1465年に内乱で敗北 → カヘティに退き、同地で独立。以後グルジア王国は分裂(イメレティ・カルトリ・カヘティ)。
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