「だから何? それとクラリネットが壊れたことが関係あるの?」
威圧的な姉から弟は視線を逸らし、何も聞くまいと口を閉ざした。
これが彼が生まれた時から今までの時間をかけて築かれたカーストである。
「じゃあ、そもそもどこが壊れてるのか調べてみようか」
弟は蛇に睨まれた蛙のように震えながら、
そう次の話題に展開させることで精一杯だった。
「ドとレとミの音が出ないのよ」
「うん。ドとレとミね」
童謡まんまじゃん。
そんなツッコミをおくびにも出さず、
弟は腕を組み頬に手を当てて考え始めた。
クラリネットでドとレとミの音を出す時は、
クラリネットを構えた体勢で左手だけを使う。
ボディの裏側にある穴を左手の親指で、
表側の穴を一番上から人差し指、中指、薬指とみっつ塞ぐ。
するとこれがドの音になる。
そしてその状態から薬指を離すとレ、中指を離すとミの音が出る。
父に影響されてクラリネット奏者でもあった弟は考えた。
ドの音が出ないと言うことはつまり――
「……音が出ないの、ドとレとミだけじゃなくない?」
「そうね。実はドとレとミとファとソとラとシの音が出ないんだけど」
クラリネットは全部の穴を離して吹くとソの音が出る。
そのソが出ないということはつまり、
お父さんのクラリネットはもう楽器と呼べるかも怪しい状態だと言うことだ。
「うーん。じゃあお姉ちゃんが壊し――音が出なくなった時のことを聞いてもいい?」
弟は慎重に言葉を選びながら根本的なことを姉に尋ねた。
姉はさも不愉快そうに、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「部屋にGが出たのよ。機動戦士じゃないやつ」
「断らなくてもわかるよ。お姉ちゃんが嫌いなやつでしょ」
「あ、でもゴッドは嫌いじゃないのよ?
ああ言うガンダムだってひとつくらいあってもいいじゃない」
「お姉ちゃんのおじさん萌えは知ってるから続けて」
姉は東方不敗派だった。
細かく言うなら東方不敗×チャップマンで、
ヒゲカップリングが堪らないと悶えていた。
その昔、冗談交じりに『腐敗繋がりだね』と弟が口を滑らせると、
シャイニングフィンガーソード(竹刀)で面、面、面されて泣かされた。
弟はその痛みと腐った趣味に触れると地獄を見るのだと学んだ。
「あたし、Gはギリギリお父さんより嫌いっていつも言ってるでしょ? それで驚いちゃって」
「落としちゃったんだ」
「ううん、叩いたの」
姉はニヤリとしながらクラリネットをブンと振って見せた。
その素振りから察するに一発や二発ではなかったようで、
改めて見るとクラリネットはもうボロボロであった。
さっき自室で聞こえた壁が大破したような音はそれかと察し、
姉の部屋に空いている大きな穴には気付かない振りをすることにする。
「とりあえずかなり致命的な感じがするし、
素人じゃ手に負えそうにないから修理業者に電話してみようよ」
「悪くない案ね、採用よ。じゃあ早く聞いてよ。お父さんが帰ってくる前に」
このヨレヨレになったクラリネットを見て、
まだどうにかなると本気で思っていそうな姉の頭を弟は心配した。
でもこれは彼女が絶望を知るために必要な手順だと自分に言い聞かせ、
同時にお父さんのためにも一縷の望みをかけて修理業者に通話ボタンを押す。
「これなら買ったほうが安いんじゃないかって。60万円」
「使えない業者ね。修理をするのが仕事なのに修理をしないなんて。
じゃあもう直すのはもう諦めて、どうやったらごまかせるか考えましょ」
ヤレヤレと溜息を吐き出しながら姉が両手を上げて首を振る。
その言葉に幼いころの姉がオネショをごまかそうとした時のことが弟の頭を過ぎった。
なんと幼い姉はオネショ布団の上に自作のキャバクラの名刺を置いたのだ。
父は母に烈火の如く締め上げられ、我が家は家庭崩壊の危機に陥った。
でも結局お姉ちゃんのオネショはオネショで別途怒られていた。
結果、父が心身ともにボロボロになっただけで誰も幸せにならなかったのだ。
そんな思い出がフラッシュバックする中、
早くこの家を出ていこうと思いながらも、弟はとりあえずごまかす提案に同意した。
「あ。良いこと思いついた。いっそのこと、逆にお父さんを壊しちゃうのはどうかな?
クラリネットとかどうでも良くなるくらい」
「ぼく、時々お姉ちゃんって本当に血の繋がった家族なのかなって疑問に思うことがあるんだ」
お父さんとお母さんは、なぜこのような生物兵器を造りたもうたのでしょうか。
でも自分や両親にもこの狂気の血が流れている。
ぼくの中にも姉のようなモンスターが――
「そうだ、もうひとつ良い案を思いついたわ。これなら全てが丸く収まる名案」
ぱん、と隣で姉が手を叩く音に現実へと引き戻される。
どうせろくでもないことなんだろうな。
そうは思いつつも弟は満足そうな笑顔の姉の言葉の続きを待った。
「これはお父さんの元カノのクラリネットだったことにしよう」
本当にろくでもなかった。
丸く収まるどころかウニばりに棘しかない提案だったが、
でももう弟には姉に反抗する気力は残ってはいなかった。
そしてその晩、彼らの家には何度目かの家庭崩壊の危機が訪れた。
僕の大好きなクラリネットはお母さんにもフィンガーソードで面、面、面され、
もはやただの命を刈り取る形をした血染めの棍棒になっていた。
お父さんが大事なクラリネットを抱いたまま泣いて悲しんでいたけど、
それがまたお母さんにガソリンを注いで大爆発する結果になった。
元カノのものという余計な情報が吹き込まれていれば当然のことだった。
でも姉が父を庇った涙の小芝居により彼らの家族は首の皮一枚繋がった。
そして弟は家族さえも信じられない人間不信になった。
そして翌日。
ゴミ業者の車に乗って旅立っていくクラリネットをみんなで見送った。
「……ぼくも、とっても大事にしてたのにな」
不意に涙で景色が滲んだけれども。
ぼくはゴミ収集車の後ろ姿が見えなくなるまで、
ずっとずっとただ呆然と見送り続けていた。
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いかがでしたでしょうか。
このような実に下らない短編5本立てとなっておりますので、
もしクスリとでもひと笑いしてしまったらば、
負けたと思ってご注文いただければと思います。
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