インターネット社会での、ほんとうの「お別れ」。
その人が送ってきたデジタルネイティブ力で感覚が大いに異なるとは思うのだけれども、ことメタバースにおける「アカウント削除」に関しては、どうにも戸惑いが多い。
「放置ではなく「消去」を選んだのだ。これは生あるものの意思のかたちだ。ならば比喩としての死ではなく「どこかで元気でいますように」という祈りに訳し替えて見送る。」という発言にはハッとさせられるものがある。
ぶっちゃけアカウントって、放置の方が楽だ。それをあえてアカウントを消して断絶するということは、強い意思があって行うこと。尊重すべきだ。
…とは思うのだけれども、残された側としては穏やかではいられない気持ちのほうが強くなってしまう。
たとえばリアルの知り合いの連絡先がひとつ見つからなくなったとしたら、他の手段で連絡取れないかと探すのは当然だろう。SNSが膨大にある時代だから、別のアカウントを発見して再連絡できた、なんて例はまあまああると思う。
ところが「メタバースの知り合い」となると話が別になってくる。
たとえばVRChat、たとえばcluster、あるいはFortniteやRobloxや…もっと言えばオンラインゲームのFFなんかでの親しい仲間も「メタバースの知り合い」枠な気がする。もしそれらで毎晩のように会って話していたにもかかわらず、ある日説明無しにアカウントを消して、連絡が取れなくなったら? DiscordやXやなんやらで連絡取れるならそっちで取るだろうけれども、そちらのつながりがなかったら? 探して掘り起こしてもいいものだろうか、と悩む。
探せば見つかるかもしれないけれども、その探した先で見つけた相手の人生が、自分の知っているものではない場合は、正直多い。
僕はメタバースは「現実の延長線上の、もうひとつの場所」という感覚が強い。よく言うのは、「札幌、東京、大阪、名古屋、VRChat」みたいな街のひとつ、という感覚だ。お出かけにいく場所があり、そこでしか会えない友人がいる。だからメタバースに遊びに行く。
人によっては「現実」と「メタバース人生」を完全に分けている人も少なくない。VRChatやclusterでの楽しい生活の中に、リアルは一切持ち込まないタイプの人たちだ。こういうライフスタイルの人の割合は正直わからない。多分このあたりの感覚は、ぱっくりわかれることはなく、グラデーションなんだろう。
「友達」「フレンド」ではあっても、どこに住んでいるのかわからないなんてザラだ。何の仕事をしていて、何歳で…とかを明かさない方が今は多いくらいかもしれない。
ワールドで一緒におしゃべりして、遊んで、いつしか毎晩会って、音楽を聞いたりよもやま話をしたり、イベントに参加したりして思い出がたくさんあって。でも相手のリアルは知らない。つながりはメタバースのアカウントだけ。人それぞれ、相手それぞれに対して独特の距離感を尊重しているからこそ生まれる奇妙な縁。これに名前をつけて「友達」と呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。
このメタバース独自の距離感を「ライトにできる人間関係」と見るか「新しく深い人間関係」と見るかは、体験した人にしかわからない問いだ。
その人がどんな相手に出会い、どんな体験を共にしたかで感覚が変わるからだ。こんなもんかという人付き合いで楽しめる人もいれば、一生涯の友を得る人もいる。「だからメタバースの人間関係ってすごいんだよ!」と言い切れるほどの確信は僕にはない。自分で体験してほしい。
僕は寂しがりやなので、仲が良かったと思った相手がアカウントを消して疎遠になったら、すぐに祝福できるほど心が大きくもない。すごく悲しむ。どこ行ったんだろうとあたふたする。みっともなく探して、ときに別れを悲しむ。再会できたら泣く。泣いているのはリアル側だけで、いざ目の前にしたら「おう、元気か」と去勢ははる。メタバースだったら顔は見えないからね。
00年代に「ネットの友人」という独特な距離感が発生したとき。SNS時代に本名を知らない友人が増えたとき。そしてメタバースでのふわっとした親しいフレンドが増えたとき。
その感覚を個人的にどう表現すればいいか常に戸惑い続けてきた人生だけれども、しばしば思い浮かべるのは筋肉少女帯の「銀輪部隊」の歌詞だ。
「悩むな、そのヒマがあったら走れ! おい、心地いいなあ、久しぶりだなぁ、風がほほをきるぜ」
なんとなくで生まれた銀輪で一緒に走る集団。そのかたまりはとても気持ちがいい。けれどもいつしか離れていく人も出てくる。
「おお、見よ 進路を変えたヤツがいるぞ 見たか!見た!誰だ!友だ!
見つけたんだ 明るさに包まれた明日を あいつは見つけたんだ
どうする!? 追うな!ねたむな!
にくむな!心から祝福してやったらいいよ!」
そこに別れの言葉はない。「ヤツ」ってくらいだから、この集団もその人の本名は知らない程度の距離感なんだろう。ついでにこうも言う。
「もう二度ともどって来るなよ! もどってきたって入れてやんねーからな!」
ちょっとみみっちいけど、このくらいの感覚のほうが僕にはマッチしているような気がする。本当に入れてやんねーなんて思ってないけれども、せめて笑って去勢を張りたい。
心の内では、去る人の選択を祝福したい。けど、僕はいつも心に余裕がない。
だからせめて「『便りがないのは良い便り』とか言うけど、便りは欲しいんだからな!達者でやってることくらいなんかでこそっと見せろよ!心配してんだからな!」とこぼそう。ぽっかりと開いた空き地に、その人の好きだったお酒をポンと置けるようになりたい。メタバースで一緒に撮った写真を見ながら、勝手に思いを馳せてもいいよね。
そして思う。自分もいくつのネット集団から、趣味集団から、メタバース集団から、気づかないうちに意図せず疎遠になってきたんだろうか。もうひょっこり顔を出すこともできない場所はたくさんあるけれども、せめて「ここで生きてるよ」という狼煙だけ出しておきたい。
「サイコパス」とか「脳を焼かれる」とか物騒なワードをよく見かける『トラペジウム』を観ました。
いい映画だったなあ。
特にラストあたり。ヒロインの東ゆうが大人になって、テレビの取材を受けている最中に言っている言葉が嘘っぱちなところ。
だよね!痛い思いをして成長しても性格の歪みは残るよね!そのままの君でいて。
東ゆうというヒロインが好き。人間が時折心の中に浮かんで「ああこんなこと考えたらだめ」とチクッとなる思いを、そのまま出せちゃうキャラという印象。
4人そろってボランティアする姿を誰かに見せて、アイドル活動の布石にしたい、とほくそ笑むのは確かに不純。でもそういう気持ちが心にちょっとよぎって、ああいけないいけない、とブレーキ踏むことって、絶対ないと言い切れないと思う。そのブレーキがないのが東ゆう。
15歳だもんね、やりたいことに夢中すぎてボランティアに誠意を注げないのは幼さゆえ。わからんでもないよ。態度に出したのはヘイトを買うかもね。
崩壊にいたるまで、東ゆうという、中身が純粋すぎる子供のままで、知識だけ成長過程に伴って育っているちぐはぐな子のお話だと考えて観ていた。いたたまれないものの「痛い思いをして育ってよかったね」という、ぼくはちょっと距離を持った見方だったかもしれない。
だからこそ、最後に性格悪いところちゃんと残して「成長はしたけど根は変わってないよ!」と見せてくれて、いやっほう!という気持ちだったのよ。
それ、個性ですもの。失わなくていいもの。
君はプロデューサーにはなれない。アイドルになりたいという我が強すぎる。それでいい、キラキラした星じゃなくてギラギラした太陽になればいい。悪口言われも平気なタフさを持っているので、ガンガン突き進んでいただきたい。仮に何度干されても君は噛みつくでしょ。そういうのが見たかったから嬉しいの。
その割にプロデュースに夢中で自分の魅力出せていなかったんだから、セルフプロデュースに全ベットしたんだろう。いいぞー、嘘も才能だ。
問題は他の子たち、西の大河くるみ、南の華島蘭子、北の亀井美嘉。
『東西南北(仮)』という記号化された名前でデビューしちゃった。
でもこれ、東ゆうの目論見だけじゃなくて、大人が密かに仕組んでいたこと、既定路線だったことにぼくはひっくり返った。
なんだよ東!お前が大局を左右しているみたいな言い方してたけど、お前が大人の手のひらの上だったんじゃん!
この作品大人たちはいい人ぞろいだし、アイドルデビューまでのトントン拍子はご都合主義的なんだけど、そこはアイドルアニメあるあるなのであんま気にならなかった感じ。きっかけはあんまり詳しく書いてもおもろくないし。それよりトリガーが引かれてからの経過が興味深い。
東以外の3人もテレビ出演が決まってから、割と心の底から楽しそうだった。東ほどじゃなくても、アイドルデビュー前後くらいまでは間違いなく青春しているように描かれていた。
なんせこの3人、それまでまともな学生生活送れてきていない。散りばめられた伏線に込められていた、直接描かれていない部分での心の傷があまりにも大きすぎる。
蘭子は最初面白キャラみたいな立ち位置だが、実際はテニス部ではかなりバカにされている様子。友達がいない。学校でこの派手なお嬢様が孤立しているのを考えるとかなりしんどい。
美嘉は深刻。いじめにあっていて、整形手術までしている。なのに高校に戻ってきてからまた過去を掘り返されるとか地獄やんけ。東が子供の頃いなかったら、再会できなかったらどうなっていたんだろう…ああ、彼氏がいたわ。それすらも一回アイドル活動中に別れさせられたけど…。
くるみはそういう孤立はなく、逆に周囲の男子生徒にちやほやされすぎてしんどくなっているキャラ。目立ちたくないのにオタサーの姫に担ぎ上げられた、居場所が作られすぎて居場所のない子。ロボットの練習をしているプールがめちゃ汚いのが象徴的。
だいぶ淀んだ暗い気持ちの学生生活を送っていた3人。理由はどうあれ東に引っ張り込まれてつながって、東西南北(仮)としてテレビ企画をやっていたときの笑顔。あれは本物だった。高校生の青春送っていたと思う。TVアニメだったら3話までで集結、5話くらいまでテレビ企画のドタバタ奮闘、という感じ。きららっぽいやつ。4人でジャンプしたのが見える。
きっかけが東のねじれた情熱だとしても、行き着いた先が崩壊だとしても、案外この3人って「東のこと大嫌い!」ってなってない。やり方に不満はあっても、怖いと思っても、アイドルやめたいと思っても、東のことはもう見たくもない、ってなってない。過去の自分たちの孤立があったからかもしれない。
3人にとっては色んな意味で星だったと思うよ。東。
そりゃ、決裂前に宿題にしていた歌詞も、こっそり各々完成させもするよ。勝手に作詞を決めた東に文句あってもよかったけど、あの三人はそこまで反対もなかったし。
好き嫌いは別として、ちゃんと喧嘩をしたのがえらい。美嘉が「怖いよ」と言ったのは拒絶じゃなくて、信頼していたからこそなんだよなって思う。
どちらかというと、ファンの姿が文字情報以外で出てこないほうが怖い。初ライブもテレビ収録のステージで、観客がいない。ネットの意見、ファンの手紙等、人気があるのは間違いなさそうだけど、顔が見えない。全く出てこないので、多分意図的。
東ゆうが「アイドルになりたい」が強すぎて周囲が見えなくなっている表現なのかもしれない。目的と手段が云々というやつ。ファンの姿が描かれちゃったら、他の3人の追い詰められた状況も「でもファンの応援があるじゃん!」という踏ん張りに変わってしまうし。あくまでも4人の話にしたかったんだろうなって。
マクロな視線がどんどん削ぎ落とされて、ミクロな視点になっていくから見ていて息苦しい。今回別のアイドルグループが出てきていないのも視野が狭まる一要因。彼女たちは虚無に対してアピールしているように見えてしまう。そもそも彼女たちの人気ってどんな規模だったのかな。
東が主人公として描かれるため、アニメではいわゆるレッドのポジションに見えるけど、実は観客側からみたらそうではない、人気はおそらく最下位、というのはだいぶ面白い。
4人でセンターがいないというのはすごく大きい。彼女極端にファンレターが少なかったけど、ひとつひとつが重そう。どんな内容だったんだろう。
別のアイドルアニメに出てくるライバル側アイドルの裏を描くとこんな感じなのかも、とぼんやり考えた。東ゆうみたいにワンマンでエゴイスティックで、勝つこと目立つことばかり考えてチームメイトを思いやれ無くて…。そのグループの子の間でも人間関係があって努力があって失敗続きで…。
かわいいね。いい青春映画でした。
ぼくは「お前ら付き合ってるんでしょ、えっまだなの?うそ?どうみても付き合ってるだろなにやってるの!」系漫画が大好きでして。
「からかい上手の高木さん」をはじめとして「好きな子がめがねを忘れた」「今日から始める幼なじみ」「宇崎ちゃんは遊びたい!」等々。途中から付き合うのはもちろんOK!
その中でも最近ぼくの中でメガヒットなのが「放課後帰宅びより」。
簡単にいうと「帰宅部」を真剣に行う「ハイパー帰宅部」の漫画。
足を痛めてスポーツ全般ができなくなった少年・佐藤瞬。全力で帰宅をするちょっと変な先輩の女の子・佐藤直希に誘われて、「ハイパー帰宅部」に入部して一緒に全力で帰宅をする、という作品です。
…っていうふうに書くと、あまりにも地味すぎて、この作品の面白いところが伝わらないんですよ。毎回悩む。すげー面白いしときめくしワクワクするのに、「帰宅する漫画」というまっすぐな感想だと、何にも面白くなさそう。面白さを伝えるために、あがいてみるね!
すぐに帰ろうとする直希こと、ついたあだ名は「直帰ちゃん」がかわいいというのは言うまでもなし。「君は◯◯なのか」「◯◯してくれ」「◯◯なのだ」という武士みたいな言葉遣いをする、ちっちゃくて子どもみたいな見た目のボブカットの女の子。そして先輩。序盤は瞬が男子ということを全く意識しておらず、かわいい後輩という距離感でぐいぐい迫ってくる。運動神経はゼロ。でもいつも楽しいことを見つけてニコニコ。
序盤は直帰ちゃんの視点のミクロさが、この作品の面白さに直結しています。高校生ともなれば、学校生活ってこうだよな、みたいな大きな視点で、今までの知識を元にうまくやるテクニックを身に着けているものです。しかし直帰ちゃんは純粋な子ども視点であるがゆえに、落ちている石や枝を見つける度に目をキラキラさせます。彼女の想像の中ではその枝は偉大なる剣のようなもの。
道草って、想像力で新しい発見をする楽しさが根底にあったと思います。それはマクロな視点で道全体、区域全体を見下ろしているとわからなくなるもの。地面をよく見て、近所の動物と触れ合って、初めて発見できるものです。なので直帰ちゃんのミクロすぎる視点は他の人が見ている視点と全然異なります。これを人は変人と呼ぶのかもしれないけれども、切り口が人と違うだけです。
この体験を、自身の子ども時代と重ねられる人は、この漫画めちゃくちゃ面白く読めると思います。
そんな体験ないよ?という方に、この作品のラブコメぇな部分をプッシュします。
瞬としては急にかわいい先輩女子に引き連れられて毎日ハイパーな帰宅をすることになったら、そりゃ意識もしますよ。男の子だもん。
彼は最初は直帰ちゃんの行動にツッコミをいれたりもしていたんですが、次第に彼女と一緒に視点を変えることを楽しく思うようになります。そして、自分がスポーツをやりたかったのに足の怪我でできなくなったことを、彼女に打ち明け泣いてしまうほどに心を開くようになります。これがふたりの大きな転機。
なので序盤は「瞬が見た直帰ちゃんの奇行と、新しい視点探し」というのがメインになっています。
ところが最近、直帰ちゃん側が気づいちゃったんですよ! 自分の方こそが瞬と一緒にいたいと、ふたりきりでいたいと願っていたことに! 気づいちゃった瞬間の超赤面がかわいすぎるので、見て!こっちまで顔真っ赤になっちゃう!
まあ、最初に書いたように周りからみたら「え、お前ら付き合ってるんじゃないの!?」案件なのですが。ミクロ視点で物事を素敵に切り取れる人間だからこそ、客観視ができていないのよ。
そこからは漫画も「直帰ちゃんが見た瞬との日々」に視点が変化していくのが、表現としてすごいうまい。直帰ちゃん自身も、自分が瞬を見て感じる胸の高鳴りがなんなのかわかっておらず、慌てるばかり。今まで笑顔で棒を振り回していた子が、自分を制御できず無意識に赤面しまくる様子があまりにもかわいらしい。
個人的に好きなエピソードが、美術の授業の話です。4巻収録34話「絵を描こう」。高校生活の思い出、自分の青春を絵に描いてください、というお題に対し、帰り道と野良猫のボスを描こうとする直帰ちゃん。
最初は題材として「道」「ボス」だけ、少し離れた位置から描く予定でした。でもそこはやはり、ミクロ視点でよいものを見つける直帰ちゃんなだけあります。どんどん好きなものに近寄ってしまう。
描いた絵は、ボスを撫でている瞬の大きな手、画面からあふれんばかりのボス。帰宅時の夕日に照らされて、ふたりの姿はオレンジ色で塗られています。彼女が自身の視点の切り口で描くと、好きなもの(瞬とボス)はとてもとても大きくて、それによって心が満ちているのがよくわかる話です。
もう一個、2巻のカセットテープの話も「今を切り取る」「ロマンを感じる」という点で非常によくできた話なので、おすすめ。今の子はカセットテープしらないよね。
帰り道に後輩の瞬と大好きなものをいっぱい見つけていたから楽しかった。瞬も大好きなもののひとつで、それはLIKEだったはず。でも気がついたら、瞬への意識が強くなっている自分に気がついた。いいラブコメだと思います。
と同時に、瞬と直帰ちゃんが恋愛方面に目が行き過ぎると、せっかくふたりが世界を楽しく切り取ってきたのに、それが鈍るんじゃないかという余計な不安も湧いてきてしまいます。4巻はまさにその瀬戸際だったのですが、絵の話をはじめとしてちゃんと世界は何もかも楽しめるワンダーランドである視点を忘れていなかったので、期待できると強く確信できました。
とても地味な話ですが、だからこそ読んで、かつて心の中だけで遊んでいたものと重ねて欲しいですし、ふたりの淡すぎる恋模様にキュンキュンしてほしい、素敵すぎる作品です。
これは個人的に感じる蛇足なのですが、この作品は男子と女子がそこまで極端に強調されていない、むしろ一部未分化ですらあるのが魅力だと思っています。男子はバカで、女子もバカ。高校生って子どもだし、子どもだから見える大切な視点がある。それがうらやましいんだ。歩こう歩こう私は元気。
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