Foucault as Historian
キース・ウィンドシャトル (Keith Windschuttle)
(Critical Review of International Social and Political Philosophy Vol 1, No 2, Summer 1998, pp 5-35, Robert Nola (ed.)Foucault, Frank Cass Publishers, London, 1998 にも再録)
要約:フーコーの「歴史」と称するものはいい加減であり、実際の歴史とは全然対応していない。実際の歴史と並べてみると、フーコー流の「知」の考古学や系譜学はでたらめ。かつて中世にキチガイがうろついていたのは、連中が人間として権利を認められていたからではなく、人間以下の動物としか思われていなかっただけのこと。精神病院に入れたのは、別に人間以下のもの(「他者」)を排除するためじゃなく、人間として見たからこそ世話をしてやろうという発想が出たのだ。刑務所だって、受刑者を矯正し、労働倫理をにたたき込むためだった、なんてことはない。そんな発想はごく最近のもので、啓蒙主義の発想はむしろ正反対。「性の歴史」も古代ギリシャやローマに勝手にホモのユートピアを妄想しているだけのひどい代物。
注: 写真と本文は関係ありません。
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1966 年にミシェル・フーコーは、「人間の死」というフレーズを提唱したことで、かなり学会の注目を集めた。これはニーチェの有名な「神の死」というフレーズを露骨に下敷きにしたものだ。このフレーズで宗教の終わりを宣言したニーチェは大いに悪名を高め、そして当時台頭しつつあった「反人間主義」一派もかなり悪く言われることになった。『言葉と物』でのフーコーによれば、「人間の死」というのは理性に従う生物としての人間や、強力な個人の決断によって左右される歴史といった、人文主義的な概念の終焉を意味していたのだそうだ[1]。実際の歴史は主体のないプロセスであり、人は自分の歴史を築いたりしないばかりか、「人」という概念そのものがもう時代遅れなのだ、とフーコーは論じた。
フーコーはこの主張を当時の反人文主義的な思想家たちと共有していた。たとえばフランス歴史学のアナール学派などは、みんな歴史というものがどんな個人よりはるかに強力な力によって動かされていると論じていた。反人文主義の主な主張は、個人という主体の自立性などというものは幻想だということだった。人間をめぐる出来事の中心的な役割を、意識と自由意志に帰した人文主義の伝統はまちがっていた、とかれらは言う。反人文主義の一派によれば、人間の行動と思考は無意識に支配されていているので、人文主義は目的を持つ行動が意識によって導かれているという想定を捨て去らなくてはならない、という。アナール学派など別の一派は、地理と人口の力が人類の運命を左右すると主張した。
一方でフーコーは、歴史家というのは政治活動家の役割を避けられないと信じていた。すべての知識は権力を生み出すというのがフーコーのこだわりだったので、歴史家の生み出す知識も、何らかの政治的目的に奉仕するものでしかあり得ない。ほとんどの歴史家は、現体制を指示する伝統主義者たちだ、とフーコーは述べる。だが、一方では「新しい歴史家」がいて、「われわれのような社会における組織化された科学的言説の制度と機能に結びついた中央集権化の力」に対抗するような「従属知の蜂起」を育む支援を行うという[2]。1970 年代に、フーコーはこの蜂起を導くのが権威に逆らって闘争する追放された者たち、とくに精神病患者や囚人たちなのだと主張した。
こうしたアイデアを主張したのと同時期に、フーコー自身も過激な監獄解放運動に関わっていて、会合に出たり助言をしたりしていた。かれの議論では、囚人たちのような集団の「ローカルな知」は、その直接の状況に対する粗野な反応でしかないのだ、と論じた。かれらは、以前に同じ行為を繰り返していた先人たちについての歴史的知識を持っていないのだ、と。だからかれらの要求は、それに同情的な知識人――たとえば自分――による解釈で補ってやらねばならないのだという。そうした知識人は、フーコーの定義によれば「特殊領域にかかわる知識人」であり、自分の「衒学的な歴史的知識」を、社会追放者たちの「排除された知」と結びつけるのだ、と。この連帯は「隷属知」または「闘争の歴史的知識」を生みだし、それは権威の味方をする学問の力と対抗できるほどのものなのだという[3]
1971 年の「ニーチェ、系譜学、歴史」という文の中で、フーコーは「実質的な歴史」(ニーチェのことば)と伝統的な歴史を区別して考えるべきだと宣言した[4]。フーコーの説だと、伝統的な歴史のねらいは過去について何かパターンや合理的なイベントのシーケンスを見つけることだが、これは不可能なのだという。というのも、人間の性質や意識には、何一つ一定の部分や普遍的な部分がないからだそうだ。時代が違えば相互に関連づけることはできないし、新しい時代はそれ以前の時代の中に生まれ育まれるものではない。新しい時代――あるいはフーコーの昔の用語を使えば「エピステーメー」や「discursive formation」――は、説明不可能な形で突然脈絡なしに現れるのだ。歴史は発展は進化のパターンは一切持たない。というのも過去はブツ切りの無関係な展開が並んでいるだけのものでしかないからだ。
「実質的な歴史」が伝統的な歴史と違うのは、一定の部分がないということである。人間のどんな部分も――その肉体でさえも――自己認識や他人の理解の基盤となれるほどの安定性を持ってはいない。歴史の包括的な味方を構築し、過去を辛抱強い連続的な発展としてたどろうとするための伝統的な装置は、系統的に破棄しなくてはならない[5]。
フーコーによれば、歴史というのは客観的な知識の生産を目指すことはできない。むしろ、歴史家が過去に対する客観的で超然とした観察者だという思いこみをなくすことを目指すべきなのだ、という、これをやるには「知というものを視点として捉える」ことが重要だ:
歴史家達は、自分たちの研究の基盤がある特定の時代や場所にあるということを示す要素や、論争での嗜好――かれらの学究における避けがたい障害――を示すような要素を消去しようと、大いに手間をかける。ニーチェ的な歴史観は、その視点を明確にし、その不公平さを認識する。ニーチェ的な歴史の認識はゆがんでいて、意図的な評価、肯定、否定となっている。それは抜きがたく有害な痕跡にも触れて、それに対する最良の対処薬を処方しようとする[6]。
つまり、客観性は不可能なので、歴史家たちは意図的に偏向した解釈をすべきだというわけだ。でも、この見方をとるならば、過去に何が起きたかについての真実を追究するのはどうなってしまうのだろう? フーコーはこの点でかなりはっきりしている――過去に起こったことはすべて、何らかの視点から見なくてはならない。ほとんどの人が、おおむね基本的な歴史的事実と見なすようなことでさえ、独立したものとして見てはいけない。バスチーユ襲撃やウォーテルローの戦いといった事象の細部は、決して客観的に見ることはできず、政治的な解釈を通じてのみ見ることができるのだ。
つまりある事象は、決断でもなく、条約でもなく、支配でもなく、戦闘でもない。様々な力の関係の裏返しであり、権力の奪取であり、ある用語体系を使っていた者たちからそれを奪い取り、かれらに刃向かうものとして使うことなのである[7]。
そういうことなら、フーコー自身の歴史家としての主張はどういう立場に置かれるのだろう? 客観的に書こうとすることはできないと当人が認めている。この点については少なくとも、フーコーは一貫性を持っている。自分の歴史は、フィクションと呼ばれるべきだとかれは何度も認めている。1967 年に行われた観念史『言葉と物』に関するインタビューで、フーコーはこう述べている:「私の本は単純明快な「フィクション」です。小説なんです」[8]。そしてそのフィクション的な立場を発明したのは自分ではない、と付け加えている。それはかれが執筆している時代の認識論(エピステーメー)の避けがたい結果なのだそうだ。つまり、その時代の観念史家は、フィクション以外のものを書きようがないのだ、と。でも1977 年頃には、まだ自分の歴史がフィクションであることを認めつつも、フーコーは一方でその中に真実の概念を挿入しようと試みている。
私は自分がフィクションしか書いたことがないことは十分に認識しています。でも、だからといってそこに真実がないというつもりはありません。フィクションが真実として機能する可能性はあると思うし、フィクション的な言説が真実としての効果を持てると思うし、真実の言説が育むものを育む、つまり何か未だ存在していないものを「捏造」するをこともできると思うんです。人は歴史を「創作する」に際して、それを真実にする政治的現実を根拠にして創作するのだし、歴史的真実を根拠にしてまだ存在していない政治を「創作する」のです[9]。
さて、フィクションの中に真実があるという発想には賛成してもいい。一部の文学作品、たとえば小説や演劇は、人々に関する真実を捉えていたり、「真実味を持つ」ことはできるだろう。これはお馴染みの考え方だし十分に認められる。また、歴史家が客観性を保つのがとても難しいこともよく知られている。というのも歴史家だって、自分の時間、空間、文化的な立場が持つ想定や概念の中で作業を始めているからだ。でもだからといって、伝統的な歴史を否定し、その客観性の主張を排除して、かわりに「実質的な歴史」、つまりあからさまに党派的な過去の見方で置き換えるべきだろうか? この疑問には二つの方向から答えられる。一つは内部的な一貫性の面から。二番目は、フーコー自身の研究が、他の歴史家、特にかれがひどく見下す伝統主義者たちとの競合にどこまで耐えられるか、という点だ。
議論内での一貫性の問題については、フーコーのもっとも忠実な支持者たちでさえ、もはや擁護できずにいる。そうした支持者の多くはフーコーについて「力点の推移、方向性の変化、論者たちが作品中の断絶、差異、不連続性について語るのを可能にしてくれる展開や再整理」[10]などがあると語る。こうした表現は、単に矛盾と一貫性のなさを言い換えただけだ。これはフーコーの反人文主義的立場(この立場をフーコーは一度も明確に取り下げていない)と、歴史家の役割についてのフーコーの発想との比較でも見られる矛盾であり、一貫性のなさだ。歴史というのが主体を持たないプロセスであるという発想は、「新しい歴史家」の役割としてかれが挙げる、排除された集団が権威に対して闘争するための「従属知の蜂起」の育成というものと真っ向から対立してしまう。かれらに助言する「特殊領域にかかわる知識人」の台頭を呼びかけることで、フーコーは自由意志に基づいて行動できる意識を持った主体に訴えているわけだ。同じことが、フーコーの述べる抑圧された者についても言える。人々は意識を持った意志に基づいて、意味があると判断しない限り、自動的に抵抗したりするわけではない。そして意志がなければそもそも抵抗もできない。
つまりフーコーの政治は、歴史家の正しい役割に関するかれ自身の分析と完全に矛盾している。さらに、以下の『監獄の歴史』の議論で指摘するように、歴史家は過去のできごとに合理的なシーケンスやパターンを見つけることはまったく不可能であるというフーコーの主張は、刑罰という主題について自分の大発見を発表しようとするときには当のフーコー自身が無視しているものだったりする。
フーコーの歴史家としての資格を確かめるもう一つの方法は、実際にかれが書いている歴史を見ることだ。特に、フーコー自身が書いた「実質的な歴史」を検討し、同じ分野に貢献した他のもっと伝統的な歴史家の成果と比べてみるといいだろう。本稿がこれから行うのはこのアプローチである。つまり、フーコーの主要な歴史分析とその信頼度について、もっと伝統的なアプローチで見つかった証拠に照らして検証しようというわけだ。
フーコー初の主要作品『狂気の歴史』は、狂人とされた少数の人々や、それを処置しようとしてきた精神病院の職員だけに関わる状況の歴史として構想されたものではない。それは 過去300年の西洋の歴史の本質を理解するにあたり、核心となる問題なのだ: 「いずれにしても、〈理性〉ー〈非理性〉の関連は西欧文化にとって、その独自性の重大な一面を形づくっている」[11]。フーコーは特に、狂気の処置についての伝統的な説明や、もっと広くは科学としての医学の成長に関する伝統的な説明を覆そうとしている。過去二百年にわたる進歩と知識増大のかわりに、フーコーはまったくちがった説明をする。かれの著書が扱う時期、1650 年代から 1790 年代は、人文科学が広範な抑圧の新しい手口を見つけた時期なのだった。ほとんどの歴史家はこの時期を理性の時代や啓蒙時代と考え、知識の基盤がそれまでの宗教信仰や迷信にかわり、理性的で科学的な手法になった時代だと理解している。フーコーにとっては、理性の地位が上がったということは、狂気が人間の一状態だということが否定されたということになる。そしてこれは、狂人にとってのみならず、西欧社会を支配するようになった倫理的価値にとっても、深刻な影響をもたらしたのだ、とフーコーは主張する。
フーコーの主張では、中世やルネサンス期には、狂人は社会の見慣れた一員であり、狂気は人間経験の通常の一部に十分含まれるものとして受け容れられていた。狂人は村や山谷を自由にうろついた。ときには狂人は見せ物とされ、芝居や娯楽の種となった。フーコーは、こうした中世的な狂人への対応の本質は「阿呆船」に現れているという。これは本物の船で、自分の理性を探し求める狂人たちをのせてライン川をのぼったり下ったりしていたのだという。この船は「気違いという船荷をある都市から別の都市へ運んで」おり、それを見た人たちは人間にふりかかる災難の中で狂気が差し迫ったものだという怖いイメージを味わうことになったのだった。一部の中世の考え方では、狂人たちは聖なる知識への洞察を持っているとされていたが、一般には地域コミュニティの中で、かたわや不幸な人々として大目に見られていた。「文芸復興期には狂気はいたるところに現存していて、そのイマージュやその危険を介して個々の経験と混ざっていた」とフーコーは書く[12]。
でも1650年以降、ヨーロッパ社会はフーコーの言う「大いなる閉じ込め」というものを始めた。一夜にして大量の人々――フーコーによればパリ人口の 1 パーセント――がフランス、イギリス、オランダ、ドイツ、スペイン、イタリア各地に急速に設立された病院や慈善院や作業所に収容された。一部は新しい施設に入れられ、一部は何世紀も前に隔離病院や癩病院だった建物に入れられたが、この新人口はどちらの場合にも「癩者より厳重に追放された」 [13]。最初、この隔離された人々は身分の低いいくつかの集団――失業者、貧困者、犯罪者、狂人を含んでいた。これはこうした施設ができたのが経済の不況期であり、したがって「無一物で社会的な絆をもたぬ人々、新しい経済発展にともなって、一時期、不安定な状況におかれたり、見棄てられた階級の人々」を標的にしていた。だから大いなる閉じ込めは「西欧世界全体に作用した経済危機にたいして十七世紀に採られた対応策の一つを形づくっている。実際、[その経済危機とは]賃金の低下、失業、貨幣価値の低下などの事実の総体」[14]。 (訳注:邦訳はこうなっているが、英訳だと最後の部分は「貨幣の不足」となっている。) だがフーコーは、当局は自分ではこうした大いなる閉じ込めを経済的な手法とは認識していなかったと断言する。むしろ貧困の増大や怠惰さの増大は、貧困者自身の欠点、「規律のゆるみと風俗の乱れ」[15]から生じるものと見られていたという。これに対する対処法として、人々を施設に隔離して一日中働くよう強制したというわけだ。つまり労働倫理が社会の全員にとっての普遍的な処方箋となった。
フーコーは、この発展をヨーロッパの中産階級台頭と結びつける――交易と新しい産業都市が、収監施設の設立による労働倫理の確立の先鞭をつけた、というわけだ。これは中産階級の台頭に伴う道徳的価値と、自分たちの価値観を普遍的なものにしようとするこの階級の試みの根底にある裏面をあらわにするものだ、とかれは論じる。教条マルクス主義歴史家の言いそうな解釈ではある。だが、フーコーの著書の主要な原動力は、マルクスではなくニーチェからきている。ニーチェは、西洋哲学の中心的な特徴は、人間を理性的な存在、理由づけを行う生物として定義することだと言う。ニーチェは、これは伝統的な見方における大きな欠点なのだという。なぜかといえば、人間の他の側面、たとえば無意識、自発性、享楽性、自滅性などを無視してしまうから、とのこと。フーコーの著書は、狂気の歴史というのは実は、理性という概念が狂気という概念を抑圧した歴史なのだ、と論じる。
フーコーに言わせると、中世では狂気というのは自律した概念であり、人間の状態の一部として認知されていた。だが理性の時代の到来とともに、狂気は「非理性」、つまり理性の反対として定義されるようになった。「非理性との比較において、それによってのみ、狂気は理解されることができた」 [16]。そして、「理性」がいまや人類を定義づける特徴となった以上、理性的でない人物は人間としての地位を失った。そして動物でしかない存在となったのだ:
古典主義時代には、狂気は見せ物である、だが格子の向こう側から見せられるのである。そかも、狂気が姿を見せる場合、一定の距離をおいてであり、理性の視線にさらされたままであって、この理性はもはや狂気と近親関係を持たないし、あまりにも似通っているために巻き添えをくうように感じる必要ももはやない。狂気は見られるべき物となった。もはや自己自身の奥底にある怪物ではなく、奇異な機構をそないた動物、ずっと前から人間が消滅している動物性となったのである [17]。
啓蒙主義の古典時代の末期、フランス革命が現代の到来を告げたとき、あたらしい抑圧形態が席巻したのだ、とフーコーは述べる。18 世紀の収監施設では、狂人たちは労働したがらない、労働できないという性質によって、他の収監者たちとはちがった存在となっていた。現代はこれに対して三つの方法で対応した。一つは、狂人専用の癲狂院の設立。第二に、狂人たちを鎖など、これまで収監施設では一般的だった物理的拘束具から解放したこと。第三に、狂気というのを医学問題として定義づけたこと。
狂人の地位が、動物から病人へと変わったというのは、狂人の人間性を認め、その状態が一時的なものにすぎないと認識した結果のように思える。だがフーコーは、そうした見方は間違っているのだと固執する。医療従事者たちは、自分たちが精神異常だと定義づけた人物を収監する新しい力を与えられた。さらに、この収監の目的は、その人物が医学的な治療の対象となるようにすることだった。したがって、医学的な定義は法的保護を排除するもので、その人物がコミュニティの中で生きる権利を排除してしまう。狂人が法的、社会的地位を回復する唯一の方法、つまり完全な人間としての地位を回復する方法は、医学的治療に対してよい反応を示すことだけだった。精神科医や他の医師が求める適正な反応とは、社会の規範を受け容れるということなのだ、とフーコーは強調する。全体としてフーコーは、精神治療の法律や狂人の処置というのを、現代社会が自分たちの「正常」の定義を押しつけてそれを侵犯する者たちを処罰するための、現代社会の悪質な武器であると描き出すのだ。
『狂気の歴史』はフランスでフーコーの学問的評価を確立したし、1964 年にはこの本のおかげでクレルモン=フェラン大学で哲学教授の職を得ることになった。次著『臨床医学の誕生』はフランスで 1963 年に刊行され、前著ほどは評判にならなかったものの、狂気に関する本の主要テーマをさらに進めたものとなっていた。医学は進歩の歴史だと言われるが、そんなのは嘘だ、とフーコーは論じる。19 世紀の科学的アプローチは、病気の原因と治療法に関する客観的な知識の段階的な発展ではないのだ、とかれは言う。むしろ単に別の形の医学に置き換わっただけなのだ。序文でフーコーは抜け目なく、何か特定の医学に対して肯定的な立場も否定的な立場も取ろうとする本ではないのだ、と主張している。またこれは、科学としての医学や病気の観念史や起源の研究でもない。むしろそれは、病人が「知識の対象となり得るものとして構築された」方法についての研究だという。どういう意味だろう?
『臨床医学の誕生』で、フーコーは十八世紀末に西洋医学に生じた「大いなる断絶」を見つけたと主張する。これは「医学的知識の突然変異」であり、医学の研究対象と、医療の臨床手段の変化を指す[18]。18 世紀末まで、医師は個々の患者よりも病気に感心があった。初期の医学は、主に各種の病気をその類似性や相違にもとづいて分類して整理しようという試みであり、その発生パターンを理解しようとする試みだった。病人は、その病気が占める領域のごく一部でしかなかった。医学者は主に、その病気が特定個人にどう現れているかよりも、その病気のもっと広い問題に関心があった。19 世紀には、医師の「科学的な欲求」が個人の病理学的な分析に移行した。これは医療の力点を個人の身体へと移行させ、その病気の症状がどういうふうに肉体組織にあらわれるかへと関心が移った。いったんこの移行が起こると、医学訓練や分析においては死体解剖や検死解剖が中心となった。こうした出来事が行われる施設が診療所となり(これは最初は病院に限られた)、この行為は臨床医学として知られるようになった。フーコーは、フーコーは、この新しい仕組みは医師が患者に問いかける方法の変化に示されているという。18 世紀には中心的な質問は「どうしたのですか?」だった。19 世紀には医師はこう尋ねた:「どこが痛いのですか?」[19]
フーコーがこの本を書いたのは、医学史の改訂版を提示するためだけではなかった。医学が他の人文科学すべてにどう影響したかを示そうとしたのだ。かれは、自分が医学で指摘した概念的な断絶が、他の分野の追従したモデルとなったと考えている。病気の分類から個人の分類への移行は、「個人に関する初の科学的
『狂気の歴史』と『臨床医学の誕生』のどちらでも、フーコーの最終的な目的は、知識の医学モデルから導かれた人文科学すべてには、権力の側面が関わっているのだと実証することだった。個人を健常者と病人、正気人と狂人、正常と病理的人間などに区別する力を持つことで、こうした学問に基づく職業は権威を持つようになり、それは抑圧に等しい。決められた型におさまらない人物は、施設に収監されて治療をうけ、服従させられる。フーコーによれば、このシステムはマルクス理論が言うような国だの中産階級だのから生まれるのではなく、人々の思考様式、特に人文科学が形成されている方法から生じるのだ。
施設に関する第三の著作『監獄の誕生』で、フーコーはその理論を主要な対象である監獄のみならず、その他数種類の施設にまで拡張している。これは英語圏でフーコーの著作に大きな関心を引き起こしたテーマであり著作だった。かれは、18 世紀における現代の誕生が生み出した規律施設は、それまでにないほど深く社会体の中に処罰する力を導入したのだ、と論じている。どんな目的のためのものであれ、施設はきわめて似通った発想で作られ、厳しい時間割と規格化された建築、制服、収容者の階級、区分、点数が定められている。そのねらいはほとんど常に同じだ――個人の時間と空間の利用をコントロールし、収容者の人格と価値観を変え、成員たちを以前の文化から切り離して、その制度のみから生まれたアイデンティティを抱かせ、内面に規律的なエートスを育ませること。こうした手法や目的は、宗教教団の修道院などで中世に生まれたものだが、現代になって広く採用され、しかもそれは監獄だけに適用されたのではない、とフーコーは論じる。それはいまの施設すべての根底にある組織原理となったのだった――病院、学校、軍の兵舎、工場など。各種の施設が他の施設で行われていることを繰り返したり真似したりすることで、そのプロセスはゆっくりとすすみ、やがて一般的な手法の設計図となってまとめられた:
それら諸過程が活動していたのは最初は
私立学校 においてであり、のちには章恰好においてであり、それらは施療院の空間をゆっくり攻囲し、数十年のうちに軍隊組織を再構造化した。その諸過程の拡がりは時としてたちまちのうちに、ある地点から別の地点(軍隊と技術学校とのあいだ、もしくは私立高等中学校 と公立高等中学校 とのあいだ)へ及んだし、また時にはゆっくりと、しかも一段と控え目に(大規模な工場の老獪な軍隊組織化の例)及んだ [22]。
この主張は衝撃的ではあったが、必ずしも独創的というわけではない。アメリカの社会学者アーヴィング・ゴッフマンも 1961 年の著書『精神病院』で、「完全な精神病院化」について似たような批判を行っている(がフーコーはこの著作に触れていない)。だがフーコーの研究は単にこうした施設が持つ共通の性質を指摘するだけにとどまらず、今日の我々がすべて未だに従属している、規律と権力関係の根底をつきとめた、と主張している点でずっと野心的なものだった。権力の現代の処罰方式から生まれてきたのは「微細な」権力体系であり、それは中心を持たず、あらゆるところに入り込み、万人に影響する。ちなみにこの時点で、こうした歴史的な権力関係の対等をたどろうとする野心は、1971年にフーコーが行った、過去のパターンや合理的なシーケンスを見つけようという試みは無駄であるという宣言とまったく相容れないことは指摘しておこう。が、まずはお手並み拝見。
フーコーは『監獄の誕生』を、1757 年パリにおけるロベール・フランソワーズ・ダミアンのルイ十五世暗殺未遂による公開死刑執行の様子から始める。それは延々と続く、部分的には不首尾の公開八つ裂きであり、死刑執行人は結局、受刑者がまだ生きているうちに四肢を切断して、手足をむしり取る馬たちが予定通りに作業できるようにしてやらなくてはならない。続いてフーコーは、80 年ほど後にパリ少年感化院で行われる懲罰の様子を描く。その様子はまったくちがっていて、収監者の一日の時間を占有すべき厳密な活動とその時間を示した時間割で表されている[23]。 読者はこれによって、恐怖にもとづく懲罰方式から、秩序と時間遵守による懲罰方式への転換を認識するようになっている。だがフーコーは、これが改善だと考えないし、人間性への配慮のしるしだとも考えない。この80年間での苦痛と残酷さの減少は、「刑罰処理の対象そのものが置き換わる」ことで「刑罰操作の対象自体が置き換わった」ことで十分以上に埋め合わされてしまったのだ、という。
身体に猛威をふるった罪ほろぼしの後に続くべきは、心・嗜好・意志・素質などにたいして深く作用すべき懲罰なのだ。その原則を決定的に定式化したのはマブリーであり、「こう語ってよければ、懲罰は身体よりもむしろ精神に加えられんことを」と述べている[24]。
関心が「精神」へと向くと同時に、処罰実務に関わる人々の権力と権威主義も増加した、とフーコーは言う。その人たちはリベラルなふりをしていたが、実は正反対だったのだ。正義を執行するだけでなく、今やこの人々は犯罪者を「治療」したがるようになった。もはや監獄の囚人を罰するだけでは気が済まず、治療や矯正にも手を出そうとした。結果として、社会の処罰支配は縮小するどころか拡大し、社会科学の新理論や規律も広がった。最も直接的な結果として、新しい階級の人々と、満たされるべき新しい関心とが発達した――心理学者、精神科医、ソーシャルワーカー、処罰改革者――こうした人々が、犯罪行為の存在にたかって生きる人々として、裁判官や弁護士や警察などの伝統的な人々に加わることとなった。一見すると「改革」に見えたものは、フーコーに言わせると刑罰システムを人間的にしたのではなく、刑罰システムを社会生活のほうに拡大したのだった:「違法行為にたいする抑制と処罰を、社会と共通な外延をもつ、正規な機能にすること、(中略)一層多くの普遍性と必然性による処罰であること、処罰する権力を社会体のいっそう奥深くに組み込むこと」 [25]
こうした新しい価値観と人員が組み合わさることで、フーコーが言うところの「身体に対する権力の技術」が生み出された。「権力のテクノロジー」と「政治的技術」という概念は、フーコーが哲学者マルチン。ハイデッガーの哲学からそのまま拝借してきたものだ(が、『監獄の誕生』ではこれは明記されていない)。ハイデッガーは、現代社会が普遍的奴隷化に等しい技術システムを作り出してしまったと主張していた。フーコーはこの発想を拝借して、独自に「身体」と「精神」の区別を作り上げた。この「精神」は何ら宗教的な意味を持たず、むしろ現代社会が生み出した、内面化された従属性のあらわれとなっている。
精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこう言わねばならないだろう、精神は実在する、それは一つの実在性を持っていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に――より一般的には、監視され訓練され矯正される人々に、狂人・幼児・小学生・被植民者に、ある生産措置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々に行使されるのだと。この精神の歴史的実在性がある、と言うのも、この精神は、キリスト教神学によって表彰される意味での精神と異なり、生まれつき罪を犯していて罰せられるべきだというわけではなく、むしろ、処罰・監視・懲罰・束縛などの手続きから生まれ出ているからである。(中略)ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神[26]。
全体としてのフーコーのねらいは、自分が調査した施設――精神病院、病院、監獄――の歴史が、現代社会を支配する当局の持つ権力の一般形態のモデルとなっていることを示すことだった。こうした施設をコントロールする科学/学問――精神医療、臨床医学、犯罪学――は人を客体化する「視線」を確立した。それはすべてを見通す眼であり、人々を研究対象にしてしまう。これによって、当局は法を制定することから、規範の動因、あるいは道徳の押しつけへと移行するようになった。フーコーのねらいは、現代生活のほとんどの側面もあた、社会科学とそこから導かれる専門実務の圧政下にある、というものだった。学校の内部でも家庭の内部でも、工場でも第三世界の植民地でも、人々は自分が想像しているほど自由ではない。その人生は、二百年以上前に現代が誕生したときの概念によって支配されているのだ。
狂気の歴史に対するフーコーの関心は、現代の理性という概念を定義づける特徴の一つが差異や他者性の排除にあるというニーチェとハイデッガーの主張にヒントを得ている。フーコーの狂気研究では、中世においては社会に狂人の居場所があったと主張されている。だが 18 世紀啓蒙主義が当時の新しいやり方で、人間を基本的に理性的な生き物だと定義すると、狂人は他者(または人間の別側面)のあまりに明白な表象だったために、恐れと嫌悪の対象となった。フーコーに言わせると、1650 年から 1789 年にかけて、癲狂院があれほど建てられて狂人を社会から隔離しようと試みられたのは、まさにそれが理由なのだった。狂気の歴史でフーコーは、ハイデッガーの主張を支持しようとしている。つまり、理性的な人間という人文主義的な概念は、息苦しく、差異の排除という点と、アイデンティティの一意的な概念の押しつけという点で後退だったという主張だ。だが他の歴史家がフーコーの説明を細かく検討してみると、歴史的な記録はこの主張にしても、他の哲学的な論点にしても、フーコーの主張を裏付けるものはほとんどないという結論に達している。
フランスでは、最近になって精神病院の起源についてフランスの歴史家マルセル・ゴーシュとグラディス・スウェインが研究を発表したが[27]、これは「大いなる閉じこめ」が啓蒙時代と同時に起こったというフーコーの説がまったく不正確だと示すものだった。「大いなる閉じこめ」は確かに起こったのはまちがいないが、それは 1650 から 1789 年にかけてではなかった。この期間に、フランスで収監された人数の成長は、人口成長率よりわずかに大きい程度で、 2,000 人からおよそ 5,000 人になっただけだった。もっと大規模な収監は、ほとんどが 19 世紀の産物、特に 1815 から 1914 年にかけて生じている。この時期の精神病院収監者の数は、5,000 人から 100,000 人へとはねあがった。したがってゴーシュとスウェインによれば、大収監は啓蒙哲学者の時代の産物ではなく、むしろフランス革命とナポレオン失墜に続く民主主義時代の産物なのだった。
イギリスでも状況は似たようなものだ。1700 年から 1900 年にかけての狂人の扱いの歴史に関するアンドリュー・スカルの説明だと、17 世紀にも 18 世紀にも、狂人を閉じこめようという国主導のめぼしい運動は存在していない。
実はイギリス側での狂人の管理は、あいかわらず場当たり的で無秩序であり、ほとんどの狂人は家に閉じこめられたり山野をうろついたりしていて、収監されたのはごく一部だし、それも一般に小さな癲狂院にいるだけで、当時出現しつつあった「狂人取引」はそれがほとんどだった[28]。
スカルによれば、フーコーの言う「古典時代の大収監」中のイギリスでは「狂気の『追放』はなかった。貧困な狂人を管理しようという真剣な試みもなかったし(中略)、ブルジョワ的な勤労習慣を身につけさせようなどという試みはないに等しかった。(中略)18 世紀のわずかな精神病院での生活を特徴づけていたのは、怠惰さだった」
歴史家はまた、中世の考え方についてのフーコーの説明について、似たような幻想があると指摘している。中世に狂人がそこらをうろついていたのは、別に当時の人がそうした差について寛容だったからではないし、かれらが人間について多面的な概念を受け容れていたからでもない。この時代は実は、教会と国が一体となっていて、宗教の教義と政治イデオロギーが一体化していた。 こうした社会は階層化していて非博愛主義的だったから、一部の人が人間以下だとか人間でないとか決めつけるのは、現代の民主社会よりもずっと簡単だった。つまり狂人に与えられた寛容は、かれらが人間以下の存在と見なされたり、人間以上(つまり聖なる存在)とみなされたりしたためだった。どっちにしても――そしてヨーロッパでは人間以下の存在として見るのが通例だった――狂人は人間ではなく、コミュニケーション不可能だと思われていただけだったのだ。
このような環境では、完全な人間とされない連中もコミュニティで暮らせたし、面倒さえ起こさなければ収監しなくてもよかった。完全な人間ほどは理解力がなく、苦しむ能力もないとされていたので、からかってもよかったし、子供が追い回してもかまわなかったし、見せ物にしてもよかった。村の愚者の地位は家畜と大差なく、村の光景の見慣れた一部として受け容れられていた。「だが狂人が問題を引き起こしたら、ぶちのめされたし閉じこめられた。あるいは追放されてのたれ死んだだろう。いずれにしても、精神医療による抑圧と、それ以前のほとんど自由放任に近い容認という 安易な対比図式はまちがいなく幻想でしかない」[29]。そして阿呆船だが、歴史家のエリック・ミデルフォートはそれが実在したという証拠を必死で探したが無駄に終わった。それはでっちあげであり、フーコーが想像を広げすぎただけだと言う。「確かに狂人がときどき船で追放されることはあった。だが狂った巡礼たちで一杯の船が理性を求めてさまようなどという話を示したものはどこにも見つからない」[30]
狂人に対して現代社会が示す反応の説明についても、フーコーはやはり当てにならない。狂気が民主博愛的社会で公共政策上の問題になったのは、こうした社会が狂人を他者として見ることをやめ、人間ではない存在としてとらえずに、同じ人間であり他のみんなと同じ基本的な地位を持つ個人だとして受け容れたからだ。そしてかれらがひどい扱いを受けたら、その責任者はふつうは社会的に非難されて罰せられる。狂気はもう笑いものになったり好奇心の対象になったりしない。現代のほとんどの時期において、大多数の人々は、狂人が隔離されているのはいいことだと思っている。でもそれは、かれらが人間以下の存在と思われているからではなく、不穏当な行動や危険な行動をする人々だからだ。でもオーストラリアやアメリカなど多くの西側諸国では、精神病院の収容コストがあまりに増大してきたため、社会復帰政策をうちだして、多くの精神病院を閉鎖している。今日では、かつて維持されていた隔離は大幅に縮小されている。
現代が権利の平等性を訴えたなら、なぜ19世紀の民主社会は狂人を精神病院に隔離する大いなる閉じ込めを生み出し、かれらを社会に統合させようとしなかったのだろうか? 施設監禁が当初大いに支持されたのは、収監者に治療が必要な状況をもたらした外部世界の環境的な影響から収監者を切り離してやればよいという発想があったからだ。19 世紀前半には、狂気や犯罪性、アル中、貧困の原因としては外部世界の道徳的腐敗がもっぱら指摘されていた。19 世紀広範囲なると、この道徳的な説明のかわりに、狂気の医学モデルが支持されるようになり、それがフーコーの言うとおり現在に至っている。だがフーコーの主張とはうらはらに、精神病院は狂人を排除しようという社会的意志ではなく、統合しようという意志のあらわれだ。社会環境を変えることで、古い問題や習慣が治療された新しい人格が作り出され、そうすればやがてかれらを外部世界に出せるようになる――精神病院創設者たちはそう考えていた。
さてもちろん、精神病院処置の歴史を読んだ人ならだれでも[31]、精神病院に代表される社会実験はこうした目的を実現できなかったことは知っている。外部環境を排除しきるのは不可能だったし、隔離プロセスそのものが、予想もしなかった問題を引き起こした。収監者が依存症になったりへつらうようになったりして、内部の運営も権威主義的になり、さらには精神療法そのものが、精神病院の患者の多くをきちんと診断も治療もできなかった。19 世紀末には、一部の西洋諸国では大規模精神病院を閉鎖しろという市民運動が起き始めていた。1950 年代には、大いなる閉じ込めはその最後の日々に突入していた。だがこうした問題や失敗はあるにせよ、精神病院がもたらす狂気像は、それが根本的に抑圧的だったというフーコーの主張とは合致しない。その複数の側面すべてにおいて、精神病院は狂気を条件次第の一時的な状態だとして扱い、その人物の基本的人権はまだ法的に存在しているのだという立場をとっていた。狂人がその状態のために通常の人権を奪われているときも、市民として法の正当な手続きの下にあり、その権利が奪われるのも一時的であり永続的ではなかった。狂人は、中世の状況とはちがって、民主社会では決して低次の人間として定義されることはなかった。フーコーの中心的な主張――つまり狂気の歴史は、「他者」または人間の非合理な部分を排除することでおかしな人間概念を押しつけたというニーチェとハイデッガーの説を支持するものだという主張――はまったく成り立たない。
フーコーの監獄論『監獄の誕生』もまた、狂気に関する理論と同じく致命的な批判の余地がある。ここでもかれは、歴史上で起きたことを自分の理論的な枠組みに押し込めようとしているし、ここでもたくさん年代的なまちがいをしている。フーコーがある時代に起きたと称していることは、実は全然別のずっと後年に起きているのだ。フーコーの扱う範囲は広大なので、時期がどうしたとかいう指摘は重箱の隅をつつくような衒学的なものに思えてしまうが、それらを並べてみると、フーコーの論じている変化の原因には別の説明ができることがわかる。フーコーは著作の中で、実際の時期についてあいまいな書き方をすることが多いが、処罰改革についてはかなり具体的だ。フーコーによると、一八世紀末が「刑事裁判にとっての新時代」だったと主張する:
法律と犯罪にかんする新理論、道徳もしくは政治の分野での処罰権の新たな正当化。旧王令の廃止、慣行の消滅。《近代的な》法典の立案もしくは起草、すなわち、ロシアでは一七六九年、プロシアでは一七八〇年、ペンシルヴァニア州とトスカナ公国では一七八六年、オーストリアでは一七八八年、フランスでは一七九一年、革命歴第四年、一八〇八年と一八一〇年[32]。
フーコーはこうした改革の詳細についてあまり語りたがらないが、その共通の特徴は、犯罪者の身体に向けた処罰の排除だという。「多くの修正のうち一つを私はとくに記憶にとどめておきたい。つまり公開スペクタクルとしての拷問の消滅である」(訳注:ここ、邦訳では「つまり、身体刑の消滅である」となっている)。これに続いてかれは、一部のヨーロッパ諸国で死刑執行につきものだった拷問が衰退した様子を描く。これはおおむね正確で議論の余地がない。そして、落とし戸式の絞首台やギロチンのおかげで、死刑そのものもやがて効率が高まり、公開制が下がったことを述べる。だがフーコーの議論にとっては残念なことに、魂ではなく身体を的にあいた法制度が衰退したとフーコーが主張するまさにその時期に、実際にはそれが大幅に増大したという証拠があるのだ。これはかれが無視したものだが、同じく議論の余地のないものでもある。18 世紀末にヨーロッパの処罰方式に生じた大きな変化は、刑務所の時間割などではなく、死刑の拡大だったのだ。
これに関するイギリスの証拠は、フーコーの執筆時にもすでに確立されていた。イギリスで死刑となる犯罪の数は、1688 年には 50 種類だったのが、1765 年には 160 くらいとなり、1815 年にはおよそ 225 種類(正確な数はだれにもわからない)となった[33]。現代の法学者や歴史家は、保守はも左よりの人々も、その増加の理由について意見が一致している。まず、農業の商業化によって、それまでは慣習的な権利だったりささいな違反だったりしたもの(森の枯れ木を拾ったり、池の魚を釣ったり、木から葉や果物を盗む)敬意犯罪となったこと。そして第二に、商業側からのニーズ増大のために、新しい兌換紙幣や交易を守るためい、偽金づくりや偽造が死刑の対象となったこと。18 世紀には、紙幣偽造で起訴された者の三分の二は実際に死刑になってしまった。「死刑以外でこれほど無慈悲に処罰された違法行為はない」とマイケル・イグナティエフは書いている[34]。
1780 年代まで、殺人、窃盗、通貨偽造、機械の破壊といった主な犯罪のほとんどは、むち打ち、焼き印、さらし台、追放、死刑によって処罰されてきた。100 年たつとこうした処罰はほとんどの西欧・北欧諸国では懲役刑にかわっていた。だがフーコーは、この移行のタイミングについて、狂人の収監のときと同じように不正確だ。イギリスでは、各種の刑事犯罪の種類が大幅に減ったのは、1832 年の民主改革の後だった。死刑執行も、死刑の宣告も、それに続く数年で減った[35]。イギリスの司法システムは、身体刑に対する難色を示すようにはなっていたが、1861 年のむち打ち法が可決するまでは法文からは除去されなかったし、その後も強盗の罰として杖打ちは残された。イギリスは公開の死刑執行を 1868 年まで続けたが、これはオーストラリアへの犯罪者追放をやめたのと同じ年だ。これらもまた、自由と民主主義の新しい興隆に伴ってのことだった。「古い習慣が滅び」、司法による死刑や身体刑が珍しいできごととなり、刑務所が「立法府によって作り出された新しい犯罪すべての処罰のための通常の機械的処罰」となったのは、フーコーが主張する 1780 年ではなく、 1880 年代なのだった[36]。つまり、当時の処罰方式の改革につながったのは、啓蒙主義がもたらした「法と犯罪にかんする新理論」などではなく、ここでも民主主義や自由主義、博愛主義といった価値の台頭だったわけだ。
『監獄の誕生』で、フーコーの目的は単に刑罰の歴史をたどることではない。最終的な目標は、現代社会を支配するとかれが考えている規律の力の発展を示すことだ。アンシャン・レジームにおいては、王さまは社会的秩序を強制しようとして、違反者の身体に対して即座に処罰を加える力を臣下に与えた。現代は、「一般監視」レジームを導入し、これは「王権関係」を「規律関係」で置き換えたという。さらに、王権による処罰は犯罪行為に対するものだったのに対し、現代社会の規律は犯罪者の人間性に向けられるものであり、処罰するよりは矯正し、正義を執行するのではなく、違反者を変化させて社会の求める行動に適合させることなのだ、とフーコーは述べる。
フーコーは、こうした発展が歴史的な転換というべきものだと主張する: 「十七世紀と十八世紀における規律・訓練装置の漸進的な拡張であり、全社会体に及ぶその装置の多様化であり、概括して名付けうるとすれば規律・訓練社会の形成である」 [37]。 現代の規律の一部は、中世やそれ以前にまで溯る歴史を持っていることはフーコーも認める。刑務所という制度、そして独房の分割は、キリスト教修道院のモデルから導かれたものだ。学校の秩序は、これまた別の宗教教団によるモデルから生じている。公立病院は海軍・陸軍病院の例から生まれている。工房の規律は何世紀も前からある。でも 18 世紀後半には、権力の影響の効果倍増が、こうした施設内部の新しい知識蓄積を通じて実現される地点が到達されたのだった。:
そうなると規律・訓練は《技術論的な》敷居をまたぐわけである。最初に病院、ついで学校、もっと後に工場は、単に規律・訓練によって《秩序化される》にとどまらなかったのであり、規律・訓練のおかげでそれらは、客体化のあらゆる機構がそこでは服従矯正の道具という価値をもちうり、しかもそこでは権力のあらゆる増大が存在可能な知識を生み出す、そうした装置になった。この技術論上の体系に特有のこうした絆をもとにしてこそ、臨床医学・精神医学・児童心理学・心理教育学・労働合理化などが、規律訓練の構成要素として形成されることができた[38]。
フーコーは、「規律社会」の一般モデルを提示すべく登場した刑務所設計の一種類があるのだと論じる。これがイギリスの啓蒙思想家ジェレミー・ベンサムによるパノプティコンだ。パノプティコンは中央に監視塔が置かれ、その周囲に数階建ての独房が円状に配置されていて、独房のそれぞれに開放型の鉄格子入りの壁がついていて、それが監視塔のほうを向いている。ベンサムは、看守が「すべてを見通す」監視塔から自分のほうを向いている数百の独房で何が起きているか一目で見渡せるのだ、と提案した。ふーこーによれば、「一望監視方式」は社会科学が現代社会の成員たちの活動を監視する方式のモデルなのだった。それは監視による規律だ: 「つまり終期のない質問(=尋問)であり、精密でいつもいっそう分析的な観察となって際限なく延ばされる調査(=証拠調べ)であり、けっして閉じられることのない調書の作成でもあり同時に検査(=試験)の激しい好奇心とからみあう打算的な穏便さあふれる刑罰でもある判断(=判決)」(である)[39]。
フーコーは、こうして生じた変化が基本的には哲学・思想的なものだと言い続ける。どこかの時点で新しい発想が考案された。そしてその発想の力があまりにすごくて、やがてそれはフランスの王や宮廷打倒だの、イギリスの政治システム再編だのといった非常に劇的な政治的変化を引き起こしたのだ、というわけだ。
聞き手: あなたは、抑圧の歴史において中心的となる一時点を同定しましたね。刑罰の処方から、監視の矯正への推移時点です。
フーコー: その通りです。権力の経済から見て、人々を見せしめの刑にあわせるよりも監視下においたほうが効率もよく、収益性も高いという理解が生じた時点です。(中略)十八世紀は、いわば神経細胞的な権力レジームを発明したわけです。権力はそこでは、社会体の上から機能するのではなく、社会体の中で機能するわけです。政治権力の公式な形態の変化はこのプロセスと結びついていましたが、でもそれは介入や置き換えによって生じたのです。社会が宮廷や王といった要素の排除に向かったのは、この局所的で微細な権力形態の制度化に伴ってのことでした。ある種の権力が社会体の内部で行使されるようになると、王権神話はもはや不可能となりました。すると王権は空想的な人物となり、古めかしいと同時に化け物じみた存在になったのです[40]。
この手の下りを見ると、なぜフーコーが大学であんなに人気があるのか納得がいく。政治的王朝の崩壊は、実はある巨大なアイデアの結果でしかない。マルクスは、哲学者・思想家が権力を握るためにはブルーカラーのプロレタリアート革命に依存しなくてはならないと述べた。でもフーコーは、社会思想家を手前味噌で社会の最も強力な成員だということにしてしまったのだ。
これは学部向けの教本としてはなかなかに刺激的かもしれないが、いろいろ困った点がある。そもそも、フーコーがこうした動きの源泉として挙げる啓蒙思想家の著作を読んでみると、フーコーの理論とまるでそぐわないのだ。例えば、死刑や身体刑にかわって懲役刑を導入しろと唱えた最初の 18 世紀思想家であるチェザーレ・ベッカリアは、犯罪が個人の選択の結果であると信じていた合理主義者なのだった。 ベッカリアは、犯罪者の人格や出自の性質が、その刑罰において勘案されるべきだという発想に大反対であり、犯罪者は法の下に平等の扱いを受けるべきで、罰は犯罪に見合ったものにすべきだと論じていた。つまりこの思想家は、古い「王権関係」の中にがっちりはまった形で考えていたのだった。フーコーの主張とはうらはらに、ベッカリアは自分の習慣方式が犯罪者の矯正や改悛を目指すべきだという提案をはっきり拒絶している。「矯正は犯罪者といえども押しつけられるべきではない」とベッカリアは書いている。「そしてそれが強制されるという事実そのものが、その有用性や実効性を失わせるにとどまらず、それは犯罪者の権利にも反するものである。犯罪者は、法的な処罰に苦しむ以外に何も強制されるべきではない」[41]。
フーコーが現代のシステムに関する責任をずっしり負わせているジェレミー・ベンサムは、それに輪をかけた古典的自由主義者だった。ベンサムの功利主義心理学は、すべての個人は自由な計算する行為者であり、快楽の追求と苦痛の回避を追求しているのだと述べる。効用主義的な視点から見れば、処罰の意義というのは犯罪者に対し、法を遵守するかわりに犯罪を選んだ時点でおまえは計算ミスをしたんだぞ、と示すことだった。ここでも、処罰は犯罪者の性質とは関係なく、犯罪そのものの性質に対応すべきものだ。ベンサムのパノプティコンの設計は、犯罪者が自分の自由の喪失をよく考え、法を犯さなければ享受していたはずの自由と対比させるための場所を提供する以外には、矯正の試みは一切無い。犯罪者が刑務所内で行う仕事はすべて、釈放時によき市民となることを意図したものではなく、刑務所を建設した建設業者が利益を挙げる一助としてのことでしかない。というのもベンサムは、今日「民営化」刑務所と呼ばれている仕組みを最もはやく提唱した人物の一人だからだ[42]。
フーコーが大きく取り上げる人文科学――精神医療、犯罪学、児童心理学等々――は、別に啓蒙哲学の一環として 18 世紀に登場したのではない。実はそれが台頭してきたのは、その 100 年くらいあとで、ベッカリア、ベンサム、ジェームズ・ミルなど刑罰学について書いた自由論者の表明した人間の性質に関する見方への批判として生じたものだ。スコットランドの歴史家デヴィッド・ガーランドは、最近になってヴィクトリア時代後期イギリスの刑罰制度研究を刊行している。そこには、その理論的な発想のもとがはっきり示されている。 1880 年代まで、この制度はそれぞれの個人を「まったく同等に」扱えと定めており、その人物の犯罪の種類や個々の特徴はまったく考慮しなかった。犯罪者の性質というのは、単に受刑者というだけだった。一般受刑者から多少なりともちがった扱いを受けたのは、子供と狂人だけだった。だが今日の刑罰制度を特徴づける思想や実践が誕生するのは、やっと 1890 年代になってからのことだ。それは古典的な自由主義方式を三つの点で否定する。まず、それは受刑者の形式的な平等性を廃し、それぞれの個人の特性を考慮するようになる。特に、その事物がどこまで自分の行動に責任を負えるかについて考慮するようになった。第二に、法学以外の分野での研究を認識するようになり、そうした人文科学の結論を、犯罪性を軽減できる要因として採用するようになる。たとえば思春期の心理的な問題や、アル中の医学的性質、一部の違法者たちの経済的な苦労などが考慮されるようになる。結果として、受刑者は各種の社会的・心理的区分に分類されるようになり、それぞれは異なる制度的なプログラムを必要とした。たとえば未成年やアル中、精神障害者とされた人々には、はっきりちがう施設プログラムが求められるようになった。第三に、未成年向けの矯正学校や、職業訓練・体験プログラム、収監なしの保釈や監督といったものだ[43]。
この新しい刑罰制度は、イギリスには 1895 年から 1914 年にかけて導入され、その他いくつかの西洋諸国にも同時期に導入されたものだが、フーコーのいう規律レジームに最も近いのはこれだ。これは国が犯罪者たちを、平等で自由で合理的な主体としてではなく、性質や責任が様々に異なる個人として扱うようになったからだ。国と受刑者との関係はもはや処罰しろという契約上の責務としては捉えられず、改革と矯正を生み出すための積極的な試みと捉えられるようになった。この新しい国家は、保護者を自認し、公式的な平等性からはずれた状態を改善するために介入し、市民を悪徳や犯罪から救い出そうとする[44]。
この新しい介入主義的な国家は、18 世紀末刑も王主義のリベラリズムからは劇的な変化となっている。それは後に「福祉国家」と呼ばれるものにつながる、二十世紀初頭に起きた政府の役割見直しを反映したものなのだ。フーコーの理論のほとんどに対応しているのは、18 世紀後半ではなく、20 世紀初頭なのである。たとえば、イギリスの刑務所改革の最初の歴史家ビアトリスとシドニー・ウェッブは、一方で 20 世紀福祉国家の支持者でもあった。この二人はまた、各種の社会調査手法のパイオニアでもあるが、かれらの考案したものはフーコーが現代の監視装置として挙げているものだったりする [45]。
さてここまでくると、フーコーの言う「規律社会」と福祉国家の収監政策や実践との間に多少の関係はあるにしても、フーコーの議論が総崩れであることはわかる。啓蒙主義時代の刑罰改革と、二十世紀の刑罰改革の間にほとんど関係がないということは、哲学・思想の力に関するフーコーの中心的な主張は完全に崩れてしまう。規律社会のあらゆる歴史が展開された、18 世紀のある一時点に生まれた一つのアイデアなどというものは存在しなかった。さらに、これはフーコーの説明と他の歴史家の発見とが多少は関連している時期についてすら成立していない。デヴィッド・ガーランドがかなり詳しく説明したように、1895 年以降に起こった規範化と分類化は、自然なものでもなければ不可避的なものでもなく、「刑罰学の真の本質」が単純に展開するようなものでもなかった。それは競合する勢力どうしのはっきりした闘争の結果であって、監督者たちは施設の効率よい運営を求めて競合し、新しい社会科学や医学の専門家たちは、新しい領域を自分の勢力下に置こうと競争し、国民たちは正義の原則に基づいて処罰を行えと要求する一方で、犯罪率や再犯率を下げろと要求し、同時に刑務所制度の維持費用を節約しろという相反する要求を行って政治家はそれに応えようとしていた。言い換えると、刑罰理論などというのは。現実の混乱した政治的な競合の中の一要素以上のものであったことはない。そしてその結果は決して不可避なものなどではなかった。
つまり、現代を啓蒙主義哲学から導かれる思考体系に支配された時代として描こうというフーコーの試みは、あらゆる点で失敗している。だったら、かれのいうフィクション的で視点依存的な実質的歴史なるものはどうなるのだろう。歴史家が自分の時代の見方からどれだけ自由になれるかについて、どういう見解をとるにしても、フーコー自身の仕事やその批判者の仕事が実証的なデータと情報――精神病院の収監者数、刑罰制度改正の時期、医療や処罰方式の改革者たちが残した文献のことばによっていることはまちがいない。フーコー自信のデータを他の人々のデータと並べてみると、結論は二つある。一つは、これまで述べてきたような点ではフーコーの批判者たちのほうが正論であり、フーコーの結論は実質的に破壊されるということだ。二番目の、手法的に見てもっと重要な結論は、こうした問題に白黒つけるのは、そこで双方が利用し、依存している実証データなのだということだ。フーコーは証拠の利用について明らかにいい加減で無頓着だが、捏造したり歪曲したとは言っていない。証拠は歴史的な記録から導かれたものとして使っている。つまり、客観的なものとしてそれを使っているわけだ。
本稿の冒頭で述べたように、フーコーの有名な「人間の死」宣言は、個人という主体の自律性と、自由意志の比定という人文主義の伝統を否定するものだった。だが 1980 年代になると、当のフーコーがこうした発想への敵意をこっそり棚上げしてしまった。1984 年に刊行された「性の歴史」の第二巻と第三巻で、フーコーはそれまで罵倒してきた人文主義の用語や概念を著作に持ち込むようになる。倫理的に行動する個人の「主体」と「自由」が、どちらも古典ギリシャやローマの倫理の称揚の一部となっている。この新生フーコーによれば、個人は自分を「倫理的な主体」として形成しなければならない。かれは倫理の基本的な実践を「節制 (self-mastery)」と定義し、これは「自由の思慮深い実践」から導かれるものだという[46]。
だが節制、または自己統御の概念は、文化的な影響と無関係に機能したわけではない。フーコーによれば、性的な事柄で個人が採る態度はすべて、その時に支配的な文化やイデオロギーに影響される。性関係が社会でどのように表現されるかは、常にそのときに優勢なイデオロギーの「
ギリシャ人が男なり女なりを自分から自由に選んでいた点を念頭におきつつ、彼らの《男女両性愛》を話題にするのはかまわない、だが、彼らにとってその [自由な選択の] 可能性は、欲望の両面感情的で《男女両性愛的な》二重構造に準拠するものではなかった。彼らの見解では、男なり女なりにたいして欲望をいだかせるにいたるもの、ただ一様にそれは、性差はなんであれ、《美しい》者にたいする、自然本性によって人間の心に植えつけられた欲なのであった[47]。
フーコーはイギリスの歴史家 K. J. ドーヴァーの研究に依拠して、ドーヴァーの古代ギリシャ男性同性愛に関する解釈を支持する。中でも、近年のゲイ作家が広く絶賛する少年愛カルトなるものが支持されている。これによると、ギリシャ人達は同性愛関係を特殊なものとは考えず、むしろまったく自然なものと思っていた。唯一の制約としては、参加者たちはある種のプロトコルや習慣に従わなくてはならないということだ。少年愛(フーコーはこれを「ボーイ・ラブ」と呼びたがるが)の場合の習慣は、少年側は求愛され、相手をじらさなくてはならず、かれの評判は保たれねばならず、そしてお金を要求してはいけない。しかし少年の肛門を犯してはならない――年配の男は、すまたしか許されないのだった。古典ローマ文化では、「少年への愛」についての議論は少ないし、それどころか糾弾も少なからず存在する。フーコーはこれを認めつつも、少年愛が普通だったのだと主張しつづける。「この実践は依然よく行われていて、自然であるとあいかわらず見なされていた点は、すべてのテクストが明示している」とかれは書く[48]。
このドーヴァーやフーコーたちの解釈は、アメリカの古典学者ブルース・ソーントンに否定されている。ソーントンは、古代ギリシャ人がセックスにどんな意味を与えていたかを研究している。著書『エロス:古代ギリシャの性に関する神話』[49]は、フーコーと同じように、古代ギリシャから残った文献を分析して、この問題に対する古代ギリシャ人の態度を分析したものだ。だが、フーコーの読みが紀元前4世紀の医療・哲学文献に限られているのに対し、ソーントンは紀元前 8 世紀から 1 世紀までの全文化からの悲劇や喜劇、詩、口承、伝説、歴史、哲学を検討している。
ソーントンはギリシャの同性愛について二章を割いているが、これはフーコーの主張するかれらの自然な両刀遣い (バイセクシュアリティ) を否定するものとなっている。ソーントンは、ギリシャが男を性的に犯すのも女を性的に犯すのも同じだと見ていたことを示すような証拠は何もないことを示す。男同士のセックスは、傲慢の罪を犯すものであり、性的にとんでもないことだった。受け身のホモ、つまり肛門を刺し貫かれる男性は、「恥」と「怒り」をもって見られていた。プラトンとクセノフォンはどちらも男性同士のセックスについて、まともな頭の男性なら近親相姦と同じくらい嫌悪すべきものとして考えていた。アリストテレスは、同性愛は自然の乱れか習慣によってもたらされたゆがんだ状態だと見ていて、はっきり「異常」だとしている。アリストファネスの芝居の一部には同性愛者が確かに登場するが、それは腐敗と頽廃と結びついている。『騎士』でのアリストファネスの主張は、アテネの腐敗があまりに進行しすぎたために、政治家として最も重要な資質は同性愛を含むあらゆる欲望の恥知らずな追求になってしまった、ということだ[50]。
ソーントンにいわせれば、ギリシャの哲学者は同性愛を歴史上の発明物として見ており、「自然に反する」もので、人間のゆがんだ創造力の結果であり、誘惑への弱さの結果なのだと考えていた。エウリピデスのような劇作家は、逆に同性愛を「自然の産物」と見ており、それに捕らわれた人間にとっては抑えようのないものだと考えていた。だが後者のような場合でさえ、同性愛は理性と法の力をひっくり返すような破壊的力をもたらす犯罪として描かれている。たとえばエウリピデスの「クリュシッポス」では、オイディプスの父ライオスはペロポスの息子を誘拐して強姦し、それによってオイディプスの近親相姦と父親ゴロしと、人や家畜や作物の命を破壊し尽くすテーバイの崩壊を招く、エロチックな無秩序の連鎖反応を引き起こしてしまう[51]。
では、ギリシャのバイセクシュアリティという発想がなぜ広まったのだろう。ソーントンによれば、一部は残った文献の読み違えであり、一部は証拠の選択的な利用のせいだという。たとえばフーコーの読みは同性愛がはっきりと非難されている大量の古典劇や詩を無視している。プラトンの『饗宴』などの古典文献に、同性愛の魅力に関する議論が多少あるというだけで、フーコーはその断片が普遍的な文化的価値の表明だと解釈する。確かに貴族には同性愛の伝統があったようではあるが、それはいつの時代も、ごく少数のエリート的なマイノリティでしかなかった。「少年愛」という概念は、確かに老貴族が他の貴族家庭の若者にとって教育的社会的な師匠役を果たすという実在の伝統からきている。だが、その関係に同性愛的な性交が伴うなどというのは、あらゆる人にとっては考えるだにおぞましいことだったということをソーントンは示す。年配者と少年が同性愛に及んでいるのを描いたツボは確かにあるが、それが古代ギリシャの典型だと考えるべき理由はない。児童ポルノの通販雑誌があっても、それが現代の標準とはいえないのと同じことだ。
ソーントンは、かのソクラテスに同性愛傾向があったことは認めている。プラトンは、ソクラテスが美青年アルキビアデスに対する欲望と闘っていたと語っているからだ。でもプラトンは、ソクラテスがこの誘惑に屈せず、その欲望を実行には移さなかったと断言する。古代ギリシャの大思想家の一人が隠れた同性愛者だったからといって、その時代のギリシャ男性すべてについて何かが言えるわけではないし、ましてすべての男性の天性について何が言えるわけでもない。フーコーの解釈――古代ギリシャの一部の男性はホモだったから、人類の性的嗜好はすべて両性的なのだという解釈――は論理としていい加減だというだけでなく、ソクラテスが生涯をかけて維持しようとした理由づけに対する冒涜でしかない。
* * * * *
もちろん、歴史研究において問題なのは、単にフーコーの理屈だけではない。ここで示そうとしたのは、フーコーの歴史がその手法的アプローチの点でも、証拠や研究の成果を利用する方法の点でも、いやもっといえば、証拠が正確でなくてはならないとか、研究が包括的であるべきだといった必要性に対するいい加減な態度の点でも、まったく不適切なものだ。当のフーコーもとっくにこうした批判が出ることを確信していた。1969 年に『知の考古学』の冒頭で、かれはこう予想している:
歴史の不可侵な権利を攻撃し、歴史性として考えられるものすべての基盤を攻撃したことで、糾弾されることになるだろう。だがだまされてはいけない。そのように猛然と詠嘆されているのは、歴史の消滅ではない。そこで衰退しつつあるのは、主体の構築された活動とこっそり、だが確実に結びついていたあの歴史の一形態でしかないのだ[52]。
フーコーにとっては残念なことに、そんな衰退は起こらなかった。本論が示したように、フーコーと伝統的な歴史家の研究を同じ立場で比較してみると、明らかに基盤を欠いているのはフーコーの試みのほうなのだ。
© 2005 Keith Windschuttle
おもしろーい。翻訳にあたっては、引用箇所は「ニーチェ、系譜学、歴史」、『臨床医学の誕生』『知の考古学』とインタビュー以外はすべて邦訳に準拠している。やれやれ手間だったぜ。でもフーコージャーゴンとかでまちがっているものがあったらご教示いただければ幸甚。
著者の批判はときどき極論に走っていて疑問に思えることはある。この文を読むとフーコーは個人の主体とか自由意志を否定したかのように読めるけど、それはないんじゃないかな。完全に自由だと思われていた部分にも人の選択を左右する別の要因があるという意味で、それまで思われていたよりも自由の余地は狭いかも、というだけであって、完全にないと入っているわけではない(はず。いまからフーコーを全部読み直すのはメンドすぎ)。ただ、ヒューマニズムが理性的な「人間」というものをでっちあげるために、人間以外の存在を捏造し(たとえばキチガイ、犯罪者、病人、子供)、それを「他者」として排除することで、「ああいうのではないのが本当の人間なんだよ」という形で「人間を定義づけました」というフーコーのお話はかなり変だ、ということでございますな。
さらにそういう発想が啓蒙時代に生まれ、それが社会管理技術としてパノプティコン的一望監視社会の基盤となり現代に至る、というフーコー的なお話も、実際にかれが証拠としてあげる代物からはまったく裏付けられない、ということ。かれの持ち出す、物理的な規制と法的規制、規範的規制等々の相互依存関係という図式そのものは確かにとてもおもしろいし、示唆的だ。でもフーコーがそれを歴史的に実証したと思ってはいけない、ということね。
パノプティコンを持ち出してきて、「見られている(かも)」という意識がそれぞれの個人の内部に規範力を持つようになる、という創発理論的な権力の発生は、お話として楽しいし、またそれ自体は権力の一つの発現様式として実在するし、まちがってはいない。でもそれが本当に啓蒙時代に起源を持つのかはあやしい。本稿には書いていないけれど、この発想は実はずっと古い。「神様が見てるから悪いことをしないようにしよう」「閻魔さまが見てるから、地獄にいかないようによいことをしよう」という発想はまさに、「監視の可能性」→「規範の内面化」→「個人の規制」という社会統治の方法であって、これははるか昔から存在していたし、時の権力が昔から使ってきたものだ。結局、それの有無だけでは何も言っていないに等しい。あとはそれをどう使ったか――テクノロジーとの関連で話をするのかな。でもそれは本稿とは別の話だ。
フーコー批判としては、他にJ.G.メルキオール『フーコー―全体像と批判』(河出書房新社)も参照。これもおもしろそう。こうした批判に逃げをうつなら「重箱の隅だ」「フーコーにおける歴史的『事実』とはメタファーであり云々」といったような話をするんだろうなあ。さらに、「当人たちが何を主張していたかは関係ない、なぜなら微細な権力はまさにその行使者がそれを意識していないのに機能するのがポイントだから」とかね。
あと、著者のキース・ウィンドシャトルはオーストラリアの歴史研究者。最近、オーストラリア入植の各種資料を詳細に調べて、入植時に起こったとされる、アボリニジーの大虐殺なるものが実は起きていないようだという研究を発表して、歴史修正主義者だと罵倒されている(どっかで別の「大虐殺」で似たような話がございますな)。これを本稿の評価にどこまで加味するかはあなた次第だ。