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合理性と不動産不況について

(「繁栄を売り歩く人々」より拝借)

Paul Krugman
山形浩生 訳(hiyori13@alum.mit.edu)

完全合理性は不合理

 フォーク音楽の作曲家で、すごく親しみやすい曲を書くので、それを一度聞いたら昔から知っていたような気分になっちゃう、という人がいるんだってさ。経済学者の中にも、そういう人がいる。すごく基本的なのにすごくシンプルなアイデアを考えつく才能をもってて、そういうアイデアを聞くと、なんでこんなことが今までわからなかったのか、自分でも不思議になっちゃうくらい。

 ジョージ・アカロフもそういう才能を持ってる。この人のいちばん有名な思いつきは、ちょっと有名すぎるくらいで、一部の若手経済学者なんか、それがだれかの思いつきだってことすら忘れてるくらい。これは「『インチキ中古車』(レモン)の市場」という古典的な論文で発表されたもので、タイトルはふざけてるけれど、すごく深い洞察を含んだものだった。売り手と買い手が同じ情報をもってない時には、市場が機能しないことがある 、というのを理論化した論文だ。

 このレモンのアイデアは(もっとお堅い名前は、adverse selection の理論とゆーんだけれど)ミクロ経済の話だった。アカロフがマクロ経済に手を出すのは、1982年になってからのこと。でも、この年にかれが思いついたアイデアは、単純でありながら、すごく強力で、ケインズを死からよみがえらせるだけのパワーを持っていた。

 このアイデアは2つの部分にわかれる。まず最初んとこでアカロフが指摘したのは、あんまり完全に合理的になりすぎないほうが、かえって合理的な場合が多い、とゆーことだった。

 たとえばぼくが、今月の給料のうちどんだけ貯金するか決めたいとしようか。本気で本当に厳密にやりたかったら、まずは経済の現状についてあらゆる情報を集めてくるわな。長期予測とか、将来の税制の予測とか、ぼくの職種の人間の平均的な収入推移とかさ。で、その次に、今後 2、30 年ほどの支出計画をたてるでしょ。で、両者をにらんで、今月いくら貯金しようか決めることになる。

 もちろん、ぼくはそんなバカなまねはしないし、しないのが正解なのね。まあだいたいの見当でそこそこ十分な結論は出るし、その見当を改善しようとして手間暇かけても、たぶん大して差はでないだろうから、そんな手間暇はかけるだけ無駄。「完全を目指しすぎるとかえってダメになる」って言うでしょ。

 さて、ここまではいかにも当然。でも、このアイデアをもとにして、次のアイデアが出てくる。こういう「合理っぽい人々」、つまりそこそこの見当はつけられるけど、入手可能な全情報を活用したりはしない人々ってのは、いろんな経済理論に出てくるような完全に合理的な人間とはかなりちがった行動をとるの。特に、経済政策に対しての行動って面で。

 アカロフの議論をわかってもらうには、ちょっとした仮想例を考えてみるのがいいかな。どっかの政府が、なんらかの理由で支出を増やしたいとしてみて。理由はなんでもいいよ。戦争したいとか、のびのびになってた公共工事がしたいとか、戴冠式をやりたいとかさ。でも、金利をあげて民間投資をクラウディング・アウト(押し出す)するようなまねはしたくない。

 すると、選択の余地は二通りしかない。いま税金をあげて、プロジェクトの金を払い終えてからまた下げるのがいいかな? それとも、いまは債券を発行して資金を調達して、あとでちょっと税率をあげてだんだん返すのがいいのかな?

 これは実は、経済学ではおなじみの問題なの。合理的期待形成派のマクロ経済学者ロバート・バローは、この件についての 1981 年の論文で名をあげた。かれが指摘した通り、人々が完全に合理的なら、この答えはもうすごくはっきりしてる。いま買って、支払いは後回し。

 だって、なぜ政府はいま支払いをするのに増税をしたいか? 唯一の理由は、消費をおさえて、貯蓄率をあげて、民間投資を維持したままプロジェクトの金を調達したいからだよね。

 国の貯蓄は、総収入と総支出の差でしかない。だから増税すんのは、つまり人の消費をおさえるってことだ。

 でも、人が完全に合理的なら、どのみち増税によってプロジェクトに金を出さなきゃなんないことがわかるだろう――いま短期的に高い率になるか、さもなければ政府が国債を償還する長期にわたってちょっとだけ増税になるかのどっちかだ。だから、合理的で完全に情報をもった納税者は、すぐに増税したところで、政府が長期的に支払う分を相殺するだけしか消費を下げない。よって、すぐにたくさん増税してもいいことは何もない。

 さらに、大増税にはすべてデメリットがある――第二章(訳注:『経済政策を売り歩く人々』)で見たように、税金は働くインセンティブをゆがめるし、そのゆがめかたは税収金額に正比例どころじゃない。だから短期的に異様な高税率にすると、いろいろ隠されたコストが出てくる。 つまり、赤字国債を出したほうがいいわけだ。ということは、政府はいまの財政赤字なんか心配してもしょうがない、ということだ 。

 この議論はもっともらしいだろうか? 多くの経済学者はそう思った(いまでもそう思ってる人は多い)。でもアカロフが指摘したことだけど、この議論は人々が現実には絶対にやんないようなことをする、という仮定がないと、成立しないんだ。その仮定ってのは、みんなが現在の政府支出を見て、その結果として将来の税金がどうなるかを予想する、ということ。

 つまりどういうことかってーと、財政赤字はどうでもいい、という議論は、一般の家族が夕食のテーブルを囲んでこんな会話をする、ということを暗に仮定してるわけ。「なんですの、新聞で拝見いたしましたけど、クリントン大統領ったら今後5年で、インフラ整備に1,500億ドルおかけになるそうじゃありませんか。そういたしますと、ここはやはり増税ってことになるんじゃございませんこと? ええ、そりゃご本人は、増税なさらないとかおっしゃってますけど、そうはもうしましてもねえ。そうしましたら、やはりわが家といたしましても、それに対応してこれから毎月の消費予算を12.36ドル減らすことにいたしましょうよ」

 うそくさいと思わない? これは平均的な家族がバカだとか情報がないって話じゃない。はっきり言って、すごい優秀な保守派経済学者のご一家だって、こんな会話なんかしないよ。だって要するに、そんな努力したってしょうがないんだもん。家族としては、いくら使うかというそれなりに筋の通ったおおまかな見当を持ってるわけだ。政府の支出が将来どんなインパクトをもつかについて、細かい予測なんかしたって、その見当はほとんど改善されない。手間暇かけるだけ無駄なんだよね。

 つまり各世帯は、そこそこの見当で、完全合理性とほとんど変わらない成果をあげる――その差はすごく小さいので、完全合理性の達成を目指すほうが不合理ってことだ。でも、ここでアカロフのすごい洞察がやってくる。「合理っぽい」行動と完全に合理的な行動は、政策的にはすごく異なる意味を持つんだ。

 いまの例だと、合理っぽい世帯でできた人口は、たぶん政府の支出増のニュースをきいても、あんまし消費をカットしないだろうってこと。理想的には、いまの政府支出が将来の税金につながるということを理解したほうがいいのかもね。でも現実には、本気で反応する前に、実際に増税が行われるまで待つほうが多いだろう。ということは、財政赤字ってのはやっぱ問題なのよ。

 でも、それが不況と何の関係があるかって?

 不況の謎を思い出してほしい。市場経済は、経済活動を組織する非常に効率いい方式だ、とぼくらは考えたがる。でも、それが不況のような不合理な結果を生むのはなぜなんだろうか?

 ミルトン・フリードマンは、答えをみつけたと思った。かれの答えは、人間は合理的に活動するけど、ときどき頭がこんがらがるからだ、というものだった――だから政府は、よけいなことをしてさらに頭をこんがらがらせたりすんのはやめなさい、という話。でも、この議論は 1980 年代には崩壊した。

 ジョージ・アカロフたちは、こんどは別の説を持ち出してきた。不況がおこるのは、人はそれなりに賢いけれど、完全に合理的ではないからなんだ、という説。そしてこの話は、まっすぐケインズに戻ってくる道だった。

新ケインズ派のアイデア

 1980 年から 1987 年にかけて、アメリカのマサチューセッツ州の経済は絶好調だった。地域の特産品――特にミニコンとハイテク兵器――はレーガン時代に大盛況(州としては民主党よりの地域なんだけど)。1984 年以降、こういう基幹産業の成長に、ますます過熱する不動産ブームが追い打ちをかけた。このおかげで建設雇用が急増。1987 年、州の失業率は 2.7% とゆーウソみたいに低い水準(全国平均の半分)で、労働力不足のためにマクドナルドのバイト料まで時給 7 ドル以上にはねあがった。

 でもそこでバブルが破裂。マサチューセッツの奇跡はマサチューセッツの悲劇と化した。ホントは、ファンダメンタルズは何年も前からだんだん悪化してたんだ。1988 年には、マイクロコンピュータ(つまりパソコン)の能力向上によってミニコン市場の大部分がもってかれちゃうのは、痛々しいほど見えてた。そのミニコンは、もっと前にでかいメインフレームの多くにとってかわるものとして成長したんだけどね。で、マイクロコンピュータは、ボストンのルート 128 号ではなくて、カリフォルニアのシリコンバレーの特産物だった。

 同時に、レーガン時代のでかい国防予算は、冷戦後の長い削減に突入しようとしてた。もっと一般的な話では、マサチューセッツでの運営コストが高くなって、ものを作る場所としてはぜんぜん魅力がなくなってきてたわけ。だからいたるところで市場のシェアは低下。

 この悪化は、不動産ブームで何年かは隠れてたんだけど、でもどこかで崩壊するしかなかった。崖っぷちから落ちる時に、何もないところを何歩か歩いてから下を見て落ちてったりするマンガがあるでしょう。1988 年のマサチューセッツがそれ。下を見て、ファンダメンタルズを見たら、もうなくなってる! あとは真っさかさま。1989 年に、失業率は 10% 近くにまで達した。

 この不況では、みんながつらい思いをした。ちゃんと仕事のある中流階級の人たちも、家を売ろうとすると(そういう人はたくさんいた)つらい目にあわざるを得なかった。1989 年、マサチューセッツの家の半分は「売り家」の看板がかかっていて、地元新聞ボストングローブの不動産ページはいつもの3倍以上にふくれあがった。何の欠点もない立派な家が、1年以上も売れ残ってるなんてざら。

 でも 1992 年には、住宅市場はおおむね正常に戻っていた。「売り家」の看板は、ほかのところと比べてそんなに多くはなかったし、売りに出た家はそこそこの期間で買い手がついた。たしかに、価格は下がっていた――ピークの3割減くらいかな。でも、ちゃんと物件ははけるようになっていた。

 不思議なことに、住宅市場の回復は、州の経済全体が回復した結果として起こったんじゃない。ボストン地区の失業は10%近いまんまだったし、全国的に不況だったのにそれが上がっていなかったのは、労働者がよそに引っ越してったからだ。大量レイオフの発表は減ったけど、明るいニュースだって全然なかった。

 もちろん、家がまた売れるようになったのは、不思議でもなんでもない。価格がやっと現実的な水準まで下がってきたってだけの話。現実的ってのは、あたりの経済の状況を考えればってこと。

 でもここで問題なのは、なぜもっとはやく下がらなかったのか? ということだ。ボストンの住宅市場は、数年にもわたり、何千もの家が空き家になってて、それの十倍くらいの家は、引っ越したいのに家が売れないので出るにでられない人だらけになってた。これは明らかに無駄だ。なぜ価格はさっさと下がって、それを解消しなかったのか?

 ここでぼくが何をしたいかというと、このボストンの住宅市場の話が不況のなぞを小規模に再現したものだという話に納得してほしいわけ。数年にわたり、市場は一見すると不合理な売れ残り在庫の家であふれていた。これを説明しようとすると、同時にジョン・メイナード・ケインズがなぜ健在かということを説明できるんだ(訳注:オレは単に不動産の話がしたいだけなので、不況やケインズの話はちょっとわきにおいといてね)。

 なぜ不景気な住宅市場は、ミニチュア版の全国的不況といえるのか? まずはそれが、広範な「失業」で特徴づけられているから。空き家や、あるいはホントは引っ越したい家族がいやいや住んでいる家というのは、職のない労働者や稼働してない工場と同じで、無駄な資源だよね。売れない住宅だらけの都市ってのは、小規模とはいえ、ひまな労働者だらけの国というのと同じくらい資本主義にとっては脅威なわけ。

 そして全国的な不況と同じく、「売り家」の看板が乱立しだす時に不思議なのは、なぜ価格が下がらないのか、ということなわけだ。あたりの経済がドツボってるからって、家が空き家になんなきゃならない道理はない――単に、もっと安く売らなきゃなんないだけだ(だからこそ、ボストン地域の経済が 1989 年も 1992 年も大して変わっていなかったことはよく認識しといてほしい。住宅市場が「はけて」いたのは、つまり供給が需要とマッチしていたのは、需要が増えたからじゃなくて、価格が現実的な水準まで下がったからだったんだ)。

 価格がなぜ下がらないか、といえば、はやい話が売り手が値段を下げたがらないからだわな。でも、これは住宅市場に限った話じゃない。小麦の需要やGM株の需要が下がったときだって、売り手は値段を下げたかねーよ。でも、市場は価格をすぐに下げて、需要量と供給量がマッチするようにしちゃうよね。なぜ住宅市場(あるいは労働市場)だと話がちがうわけ?

 こたえは、住宅は小麦みたいな均質な財じゃないってことなんだ。現行の価格より 1 円でも高い価格を要求する農夫は、自分が収穫を売れないのがわかってる。でも家の持ち主は、少なくともロケーションや内装、設備なんかの面で、ほかのどんな家ともわずかながら異なった資産を持っているんだ。 高い値段を要求すればするほど、家が長いこと売れ残るのは覚悟しなきゃならないけど、でも絶対この値段でないと売れないってことはない。似たような家より数十万高い値段をつけても、たまたまやってきた買い手が急いでいたり、ホットピンクの壁紙に妙に惹かれて、その値段で買ってくれるかもしれない。

 つまり、早く売るか、高く売るかで、トレードオフの関係があるってこと。原理的にいえば、売り手が要求する最適な価格ってのはある。これはそのトレードオフの最適点ってことだけど、でもそれよりちょっと高く要求したからって、まったくどうにもならないってわけじゃない。

 さて、ここで合理性の限界が出てくる。市場価格の5%増しじゃなきゃ小麦を売ってやらん、という農夫は、大幅に不合理なことをしてるわけ――そして経済行動は、大幅に不合理だったりすることはあんましない。でも、売るのが遅くなってもいいからってんで、市場価格より 5% 高い値段を要求する家主は、ほんのちょっとまちがえてるだけなの。そしてジョージ・アカロフが指摘したように、極端に合理的でないほうが現実には合理的だったりするので、人はこういう小さなまちがいをできるし、したほうがいいのよ。

 だからつまり、売れない家だらけの市場ってのはすごく不合理だと思うかもしれないけれど、それは何千もの売り手の「合理っぽい」決断の結果かもしれない。かれらは、もうちょっと待てばもうちょっと高く売れるかな、と判断したわけね。情報を処理して決断をする難しさを考えれば、別にかれらはバカだってわけじゃない。でも、その集合的な結果は最悪だったということだ。

 どうも、市場には二種類あるらしい。小麦みたいな市場では、個人のかしこい行動が、市場全体のかしこい行動につながる。でも住宅みたいな市場では、個人の「合理っぽい」活動は、全体としてすごく不合理な結果を招いてしまう。その差は? 競争の相対的な不完全性。

 小麦農家は、ほかの無数の小麦農家と基本的に同じ財をつくりだす。これは「完全競争」市場をつくりだす。ここで各農家は、価格というものを市場から与えられるものとして考える。価格を決めるのは彼女ではないので、値付けをまちがえることもない。

 住宅はそれとはちがって、すごく不完全競争の市場なわけ。ぼくんち家とまったく同じ家を持った人はいないし、潜在的な買い手も、出回ってる代替案をぜんぶ調べつくすほどの暇も元気もない。だから、ぼくは値段を決めるにあたって多少の余裕があるし、そこにはぼくが完全には合理的でない場合にまちがえるゆとりも含まれてる。

 これが新ケインズ派の考え方だ。市場におけるすごく不合理な結果は、実は不完全競争の市場と、そこそこにしか合理的でない個人との相互作用で起きるんだ、という考え方。


親切な訳者による要点まとめ(不動産的に):
1. 市場が機能するとは、価格というメカニズムによって需給バランスが調整されるという状況であること。
――売れなければ値段が下がる、売れれば値段があがる、というだけのこと。

2. 不動産は、完全な合理性の貫徹する財ではないということ。
物件によって状況がちがうし、「待つ」というオプションがそれなりに合理性を持つ。

クイズ

日本のお役所が、「景気回復のために土地流動化を」ってなことを言います。

  1. 土地流動化と景気回復は関係あるんでしょうか? アメリカではそれが必ずしも関係してはいなかったようです。日本ではそれが関係していると考えるべき理由はあるんでしょうか?
  2. 日本の土地はなぜ「流動化」していないんでしょうか? うえの話を読んで、「流動化」のためには何が起きるべきか、考えてみましょう。
  3. 「地価は下がったのに土地取引は活性化しない、だから日本の土地では市場が機能していない」という説があります。これは合理的な発言でしょうか、「合理っぽい」発言でしょうか、それともただの泣き言でしょうか。どう思いますか。



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