⼀応、ぼくは公平とか利益背反ということを多少は気にするので、こうしたレビューではなるべく⾃分の関わった本は取り上げないようにするのだけれど、今回は例外。それに売上が増えてもぼくの懐に⼊るお⾦が増えるわけではないので、まあ堪忍してや。というわけで、その本はバニー・フアン『ハードウェア・ハッカー』(技術評論社)だ。
この本、解説にも書いた通り、訳をチェックしながら何度「こいつ、頭おかしい……」と思ったことか。内容は、著者がベンチャー時代に中国で量産担当となったときに⽣じた、様々なトラブルとその原因究明の話を中⼼として、ものづくりにまつわる様々なトピックを扱った本ではある。ものづくりの苦労話というと、なんだかプロジェクトX みたいな例外的なプロジェクト解説、そして結局は(⾃分では何もしない)おっさん共のくだらない頑張りだの根性だのにすり寄ったドラマ仕⽴てに堕すことも多い。でも本書は、そういうのとはまったくレベルがちがう。すべてがきわめて根本的な思想の差にまで到達するその深さは、異様としかいいようがない。
趣味の電⼦⼯作とハードウェア量産向けの設計の思想やプロセスの差、ものづくりを取り巻く知的財産権のあり⽅と、それに伴う中国の「ニセモノ天国」的な蔑視に対する疑問。⽇本は、下請けを叩けば品質そのままで費⽤は下がると思っているけど、中国企業は値段を下げたら当然品質下げるというだけ。ニセモノを作る技法の共有が、量産における優位性にもなる。
そしてそのニセモノも様々だ。納品されたSD カードの歩留まりの悪さを元に、著者はそのSD カードをこじあけ、その中⾝の制御IC までいじくって、そうしたニセモノの背景に迫る。さらには、ちょっとした製品エラーを元に、LSIのパッケージをこじ開けてその中⾝を顕微鏡で調べ……いやはや、普通の⼈はそんなことをやろうとすら思わない。
でも、著者はそれをやる。そしてそこで明かされるニセモノの中⾝は結構⼿が込んでいて、本物より⾯倒そうなことさえある。なぜそんなものがそもそも存在するのか? 著者は、その背景に⾮常に透徹した合理性と経済的な根拠を⾒つけ出すのだ。
そしてそれが、本書の記述に普遍性を与えている。ただのハードウェアマニアのタコツボな閉じた世界ではない、すべての⼈間活動につながる分析と思索が明確に述べられている。途中で出てくる遺伝⼦ハッキングの世界もその普遍性を⽰すものだし、本書に⾊濃く流れる、知的財産をめぐる変な規制への怒りと反発も、その普遍性があるからこそ説得⼒を持つ。
多少なりとも知的好奇⼼を持つ⼈すべて必読。そしてもちろん電⼦ハードウェアマニアなら、五ページに1 つは得体の知れない⼩ネタにうなること必⾄。是⾮是⾮!そしておもしろかった⼈は、⾦型加⼯から射出成形から、知財にIC概論にバイオまでかじっていたぼくみたいな便利な監訳者がいたことに感謝するように!
トランプ政権をめぐる実録本は、すでにいくつか出てきている。邦訳のあるものとしても、ウォルフ『炎と怒り』があるし、アメリカでは他にもある。その中でも、本書はかのウォーターゲート事件の立役者ウッドワードが書いたというのが何よりも売りだろう。
でも本書を読んで、ぼくは何か新しいことがわかったような気はしなかった。トランプが無知蒙昧で、気まぐれで、良識のかけらもなく、自分のメンツとかっこつけとメディア映りだけを気にして経済政策も外交政策もめちゃくちゃで、まわりの人々が疲弊して、といった話は出ている。でも、それは本書を読まなくったって、みんな知っていることだ。
最初ぼくは、ウッドワードも焼きが回ったか、と思った。だがもう一度読んで見て、ぼくはそれがジャーナリズムの限界でもあると思う。政治ジャーナリズムというものは、政治家や政権に何か目指す政治的目標があるという想定を持っている。多面的な取材と分析を通じ、その政治的目標を明らかにしつつ、対象の核心に迫るのが一応の身上だ。でも、トランプはそもそも、その核心がない。政治目標なんかないし、本人もまったく中身がないのだ。するとそのとき、ジャーナリズムは何を描けばいいのか?
本書の取材は、もちろん非常に周到だ。トランプはとりあえず目に入ったことに反応するので、側近たちはヤバい文書は彼のデスクからこっそり抜き取って、トランプが忘れるのを待つとか。特にイヴァンカがホワイトハウスを私物化し、何かと「私はファースト・ドーターよ!」とわめきたてるという話は、ネタにしてもできすぎなほど。でもたとえば、スターリンやポル・ポトの実録ものであれば、ジャーナリズムの真骨頂は気まぐれの非常識に見える各種の活動の核心に潜む、狂った論理性の片鱗を描き出すことになるだろう。ところがトランプには、そもそもその手が通用しない。
すると、ジャーナリズムにできるのは、彼の周辺で右往左往する側近たちといっしょに、小ネタの断片を拾って右往左往するだけになってしまう。本書について英『エコノミスト』誌は、トランプの側近は面従腹背のウソつきばかりで、その人々にいくら取材したところで、何が信頼できるかはわかりようがなく、「フェイクニュース!」と言われたらそれっきりでは、と苦言を述べていた。だが、たとえその人々が本当に信頼できて、ここに書いてあることがすべて本当だとして(そしてかなり事実だろう)、それでも本書は、新しい洞察を出せていない。
これは、あれほど罵倒されつつもトランプ政権があまり打撃を受けているようには見えず、またアメリカ民主党があまり有効な反撃を出しかねている理由でもある。ではどうすればいいのか? そしてジャーナリズムに何ができるのか?トランプ政権は、様々な点でみんなの盲点をついた。そしてそれは、ジャーナリズムについても然り。が、それではぼくたちはどうすればいいのだろうか?
世界史的に見れば、ぼくたち日本文化は巨大な中国文明の辺境文化でしかない。でも隔離されたニッチだったおかげで様々な独自発展が可能となり、大陸側の数百年に及ぶ爛熟と停滞と混迷もあって、両者の関係はずいぶんややこしいく、おかげで日本の中国経済論はしばしば、コンプレックスと優越感の混在する変な思いこみまみれとなる。
一方で中国からの直接情報もまた独自のプロパガンダと目先の成功に浮かれた自画自賛お手盛り情報が多くてうんざりさせられる。同時に西洋経由の中国報道も、これまた変なイデオロギーに汚染されているものが多い。さてどうしたものか。
そんな中で、廉薇他『アントフィナンシャル:一匹のアリがつくる新金融エコシステム』は、変な思いこみやスローガンに捕らわれず、きちんとした調査と分析に基づく、きわめてしっかりした本だ。
対象となっているのは、中国版GAFAと呼ばれるBATの一つ、アリババの金融部門だ。いまや有名なQRコード決済の最大手であり、同時にジーマ信用と呼ばれる個人信用スコア制度でも名高い。
こうした企業は、一方ではビジネス誌の好きな「確固たる信念と不断の努力による成功が~」みたいなお話のネタになり、一方では「ネットによる国民監視と選別が~」みたいな恫喝のネタにもなる。
でも本書は、そのどちらにもならない。各種ヒアリングを通じてしっかり事実を把握する。各種決済方式も、単独であるものではなく、中国の決済ニーズを解決するために考案されたもので、既存サービスをつなぐための手段だ。国との関係も、肝いりなどではない。その時々に応じて、中央銀行も含めた各種当局との衝突があり、お互いに相手を利用しようとする中で関係が生まれてくる。
そしてそこで貫徹されているのは、合理性だ。こうしたサービスはすべて、日本でのQRコード決済のように、それ自体を目的としたものではない。大きなサービスのネットワークの中で、個人の信用をどのように確保するか?まったく整備されていない中小企業の信用と融資をどう実現するか、そして個人の信用をどのように可視化し、活用するか? 金融という分野における最古の問題であり最後の課題でもある「信用」を、ほぼ独自に構築する様子が本書では克明に描かれている。そしてその、いわば根源的な取り組みと、それをオープンにしようという方向性が、彼らの各種活動に有機性と普遍性を与えていることも、本書からは十分にわかる。
似たような名前の(そして同じ訳者の)別の本もあるが、内容的にはこちらが圧倒的に上。本書を見ると、日本での類似の各種取り組みがいかにセコく、ガラパゴスなのかがよくわかる。いまの中国をどう評価するにしても、まずそこで行われている実態を学ぼう。その中で、われら辺境文化が再び学べることもあるんじゃないか? 本書はそれを教えてくれるのだ。
最近仕事でときどきキューバにでかけているせいもあるのだろう。キューバを主要な舞台の一つとした、キューバ作家パドゥーラ『犬を愛した男』は、ぼくにとってきわめて胸をうつ小説ではあった。もちろん、その主要登場人物のうち、一人はかのレオン・トロツキーで、もう一人はその暗殺者ラモン・メルカデールだということもある。ぼくは何の因果か、トロツキーの伝記も訳していて、この周辺の話にはかなり詳しくて、多少思い入れもあるのだ。
この小説は、小説家を志しつつ政治状況から挫折を余儀なくされた語り手が、キューバの浜辺で犬をつれた男と出会うところから始まる。犬をきっかけに親しくなった男が少しずつ明かす話は、ある使命に向けてスターリンの肝いりでまったく別の人物へと作り替えられる「友人」の物語だった。そしてその話は次第に、スターリンの仇敵レオン・トロツキーの流浪逃亡劇と交錯し……
トロツキー、ラモン・メルカデール、そして主人公は常に二面性を強制されている。本当の自分と、政治的な要請が押しつけるもう一つの自分。各人がその二面性の間で苦しみ、そして語り手は他の二者の二面性を自分の二面性に仮託しつつも、この絶好のネタを最後まで小説にできない。
そして本書に描かれた内容は、かなりの細部まで史実だ。が、それをノンフィクションにせず、小説にしなければならない必然性が本書にはある。これまた、本書の抱える二重性だ。その必然性というのは当然ながら、キューバのいまの政治環境だ。それは一部の人が考えているほど安易なものではない、社会主義に共通の、自由がきわめて制限された監視社会だ。
いま、そうした必然性を持つ小説はなかなかない。特に現在、アメリカ現代文学の重鎮ドン・デリーロの作品をまとめて読んでいて、なおさらそう思う。デリーロの作品は実に達者で、現代的なトピックを扱いつつ、それをさりげなくずらし、ぼかして余韻を作り出し、それを本全体の感触に仕立てるという、教科書的な文学になっている。
そして……まさにそれが、そのつまらなさだ。彼が扱う「現代的なトピック」は、テロや群集や金融や芸術など様々なんだけれど、どれもデリーロ自身にとって何ら切実さはない。あくまで意匠にすぎず、何やら登場人物がその意匠とはあまり関係ない高踏的なモノローグを展開する口実だ。それに比べて、『犬を愛した男』は重い。ぼくはフィクションの自律性を信じたい。完全な架空世界に憧れるし、政治メッセージもどきの小説は嫌いなんだ。本書には政治「メッセージ」——暴力はいけませんとか、植民地主義はけしからんとか——はないのだけれど、でもまちがいなく政治的な抑圧がなければありえなかった小説で、それが小説としてのストレートな強さにつながっているのは否定しがたい。そして、それがまちがいなく小説やフィクションの力の一つだということを認めざるを得ないな、という気が最近してきた。本書はそれをさらに裏付ける作品でもある。
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