政治と文学の関わりというのは、いつもずいぶんむずかしいものではある。多くの人は単純に、表現の自由を守る政治体制が文学の開花を招くような印象を持っている。確かにそういう場合はある。政治の自由化が新しい表現と解放感を作りだし、ときにはそれが新しい文学や映画などを生み出す。一時の韓国やイランがその好例かもしれない。
でもその一方で、政治的な弾圧がそれに対する反発を描く文学を生むこともある。ストレートな報道や抗議ができないために、文学的な表現と類型が大きな力を持ち、それが文学の隆盛をもたらすこともある。ノーベル文学賞を取ったボブ・ディランの歌がそうだったように、戦争や社会情勢へのコミットが文学に強いメッセージを持たせ、それが逆に社会運動の力となるといった相乗効果を発揮する場合もある。
一方でいまや多くの先進国では、文学作品で何を書こうがあれこれ言われない程度の政治的自由はある。でもそれが本当に優れた文学を生み出すわけではない。逆に多くの文学関係者は、何でも書いていい状況では何を書いていいかわからず、読者の関心も分散しているために、何を書いても大した反響はない。その中でみんな、自分の役割について自信を失い、ありもしない政治意識を捏造することで、かつて政治的な弾圧があった時代の隆盛を取り戻そうとする。
そうした文学者はクソの役にも立たない反核声明を出してみたり、必死で探してきたマイノリティの味方のような顔をすることで、自分の役割を確認しようとするけれど、でもそれはしょせんおままごと。本当の政治的な力も持てず、文学としての隆盛にもつながらない。
寺尾『ラテンアメリカ文学入門』(文春新書)は、ラテンアメリカ、つまり中南米の文学で見られたこの過程を実に明快に描き出す。文化の砂漠のような状態から、社会派的な(ヘタだけれど力強い)文学が台頭し、そのマンネリ化と社会の自由化に伴って爆発的に、テーマも表現もすさまじい力を持つ作品群が爆発的に登場し、商業的にも受け入れられて世界を驚愕させた。でも社会の安定化に伴い、先鋭的な作品の受容は限定的なものとなり、表面的な通俗作品が人気を博すにつれてかつての高水準はもはや維持できなくなり……
本書のよさは、ダメな作品、レベルの低い作品についてははっきりそれを指摘してくれることだ。類書の多くは、どんな作品もこじつけてまで褒めようとする。でも寺尾はそういうごまかしはしない。そしてそこから、作品だけでなく作家たちの(ときに見苦しい)処世術も浮き彫りになる。保身のために政府批判を控え、そのために仲間の作家たちと仲違いする者もいれば、一方で過度の政治活動で作品の質を落として凋落した作家もいる。そして、そうした悩みとは無関係に、お気楽な作家稼業で一山当てたいだけの作家たちも。本書は政治面だけでなく、文学のマーケティングに関するエピソードも実にうまく織り交ぜる。社会、政治、文学、読者、お金——その絡み合いの中でうごめく中南米作家たちの姿に、いまの日本の作家たちの姿を——そしてぼくたち自身の姿すら——重ねてみることもできる。文学だけでなく、文化の力はどこから生まれるのか? 本書は短いながら、この問題を取り巻く大きな力をきれいにまとめきっている。
ご存じの方もいるだろうけれど、ぼくはあちこちのメディアに顔を出して雑文を書いたり勝手なことを言ったり翻訳をしたりしているけれど、そうした分野のほとんどについて、それが専門というわけじゃない。学者でもないし、その分野で事業をしているわけでもない。たまたま興味を持って、あまり資料がないので自分で調べ回ったりするうちに、だいたいの見当がついてきたものばかりだ。つまり基本的には、ぼくはほぼあらゆる分野で在野のアマチュアだということだ。
さて在野のアマチュアというのは、通常は決してほめことばじゃない。かつてネットの普及で、専門家の時代は終わり、すべてネット検索とソーシャルなクラウドソーシングで片がつくのでは、という幻想があった時代もすでに終わった。むしろ実際は安易な検索と、見たいものだけ見る選択的なソーシャルネットワークで、どんなことについても一知半解の聞きかじりが増殖しただけで、地震や原発事故ではそういう連中が平然とデマと不安を広げ、事態を悪化させていた。そうした聞きかじりたちはみんな、在野のアマチュアで、大した知識もなくきちんと考え抜いてもいないくせに、本当に有益な分析と情報を提供している専門家たちに対し、きいたふうな口がきけるつもりでいた。
その一方で、専門家が失敗するときもある。学問分野が内輪に閉じ、それがドグマに冒されたとき。そして分野が細分化され、必要とされている総合的な知見を専門家たちが生み出せなくなるとき。さらに新しく登場した――または隙間的な――領域に対して従来の知見では対応できないとき。
そんなとき、本当に有益な役割を果たせる在野のアマチュアはどのように現れ、活動し、そしてどんなふうに在野のアマチュアならではの落とし穴にはまらずにすむか? これは在野のアマチュアであるぼく自身が常に抱えている問題でもある。
本書荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』は、実際の日本の在野研究者たちを事例として、在野で有意義な研究を続けるための様々な条件を整理した本だ。
やっぱり、有意義な研究をするには、ちゃんと勉強しなくてはならない。ネット検索一発で専門家と張り合えるなんていう甘い話はない。でもどう勉強する?しかも在野の定義からして、系統的に大学で教われない。ときに、どうやって偏りのなさを担保すべきか?また専門の学者と張り合うために、どんなテーマ選択をすべきか?それを成果として残すためにはどんな活動をすべきなのか?そして大学の先生みたいに、それが必ずしも飯の種にならない場合には、どうやって糊口をしのぐべきか?
そうしたレベルにとどまらず、個別の研究者の歴史は、みんなそれ自体として実におもしろい。採り上げられた人々も、著者も、それぞれが独自のやり方で、独自の分野に取り組み続けている。挙がっている人々は、南方熊楠や高群逸枝のような大物から、ぼくの興味ない分野で聞いたことない人まで様々ではある。でも、著者もまたこの人々に引かれ、そして同時に自らもまた在野の研究者として、そこに己自身の指針を見つけようとしている。その二重の関心がシンプルながら本書を非常におもしろいものとしている。専業の研究者にならなくても、己の興味を追究する道はある――決して容易ではないけれど。そしてそれが本当に大きなインパクトを与えるのも、不可能ではない。本書は、その分析を通じて、専門家でない在野のぼくたちを力づけてくれるものだ。
いま、家が引っ越し中で本を箱詰めしてしまい、最近の本が手元にあまりない。だからちょっと古い本を扱わせてもらう。マクニール『疫病と世界史』(中公文庫)だ。
開発援助の仕事で途上国にでかけることが多いのだけれど、その多くは熱帯にある。あれやこれやとインフラ作りを手伝ったり制度構築を支援したり人材育成をしたりしても、どの国もなかなか経済発展してくれず、苛立つことも多くて、そんなときに各国の援助関係者が集まるとつい、決まったグチが出てしまう。この国は、年中果物もそこらじゅうにあって、あくせく働かなくていいんだろうねー、だから頑張ろうとかいう発想がないし、我々がこんな援助しても無駄かもしれないよなー、という具合だ。
さて、もちろんこれに反論するのは簡単だし、ぼくたちだって本気でこんなことを信じているわけじゃない。でもその一方で、これは完全にウソでもない。寒いところと熱帯を比べれば、もちろん食物は熱帯のほうが豊富だ。年中作物がとれれば、計画的に農業なんかする必要もない。だったら……
なぜ人はみんな、熱帯で暮らそうとしないんだろうか。わざわざ温帯だの寒冷地だのに住みたがるのはなぜ?変わり者が一部いるにしても、人類の大半が熱帯に住んでいてもいいのでは?
この『疫病と世界史』は、まさにそれに答えてくれる。それは、かつては熱帯地域はすさまじい病気と寄生虫の巣窟でもあったからだ。人類は、食料豊富だけれど病気や寄生虫でバタバタ死ぬ熱帯にいくか、食料は少なめで寒いけど健康でいられる寒帯と、その中間くらいの温帯で選択を迫られたのだ。
そして文明が発達してからも、病気はすさまじい影響を与えた。スペイン人どもがアメリカに侵攻したときは、天然痘が現地人を一掃した。現代では、一万人に一人死ぬような病気でも天下の一大事だ。でも昔は、ペストやコレラや天然痘が広まれば、住民の半分か下手すれば全部が死ぬのも日常茶飯事だった。そして世界のあらゆる場所で、かつて原因不明だった病気は神意と同一視された。ぴんぴんしているスペイン人と、バタバタ病気で死ぬ現地人という図式になったとき、それは人々の思想にも大きな影響を与えずにはおかなかった。神はスペイン人たちを選んでおり、神意はかれらの方にある、と思うのは当然だった。西洋文明の猛威は、それがこのせいも大きかった!
同じような話を、ダイアモンド『銃、鉄、病原菌』で読んだ人も多いだろう。そしてあの本は、病原菌と家畜やその他の文化を結びつけて、さらに全体を地理的に根拠づけるというなかなかおもしろい(が、かなりいい加減との批判もある)試みをしていた。本書はダイアモンドの大きなネタ本の一つでもある。そして対象を限ることでダイアモンドよりも堅実ながら、一方で病気を単なる身体的な現象としてだけでなく、精神的な影響まで見ることでさらに大胆な部分もある。いま、医学の発達により病気が世界文明に与える影響は大きく減った……のだろうか?本書は病気が今ぼくたちの文明をも左右しかねない可能性まで示唆する、古いながら実に刺戟的な本なのだ。
たぶん、本書をお読みの多くの人は、なんだかんだ言いつつ日々中国製品を使って暮らしていることと思う。電気製品、百均ショップの各種アイテム、コンビニに並ぶ各種商品、その他どんな分野でも、メイド・イン・チャイナから逃れて暮らすのは不可能だ(確か十年ほど前にそれをやってみた苦労を面白おかしく書いた本が出た)。
そして世界の工場となった中国の人々はそれなりに豊かになり、世界各国に退去して押し寄せ、日本でも「爆買い」が話題となった。中国経済はすでに世界有数の規模だ。当然ながら、中国の企業もすでにぐんぐん伸びている。
ところが日本人のほとんどは、中国なんていまだに単なる単純労働だけの安い下請けだけだと思っていたりする。中国製といえば猿まね低品質のバッタものと思っている。そして中国の企業なんか一つも知らないのが通例だ。粉ミルクや紙おむつ買いあさりなどの話を聞いて、国内に信頼できる高水準ブランドや企業なんかないだろうと思っている。
実態はまったくちがう。中国企業は特に今世紀に入ってぐんぐん力をつけている。製品の質もあがり、オリジナリティも発揮しつつある。すでに有名な白物家電のハイアールだけでなく、IBMのパソコン部門を買ったレノボ(連想)、携帯電話の雄ファーウェイ(華為)をはじめ、あらゆる点で世界水準を実現している企業は多い。
この本は、そうした中国の有名企業の創始者列伝だ。そして、どれもめっぽうおもしろい。著者が言うように、中国はここ数十年で、明治維新と高度成長とネット革命がいっしょに来たような激変と急成長を体験した。そこでの成功者は、日本の松下幸之助やダイエーの中内功にも匹敵する激烈な工夫と改革を断行し、共産主義時代のマインドを一変させつつ国際化をも果たし、果てはインターネットとスマホ時代の新しいインフラ構築で世界最先端に踊り出る。その紆余曲折と決断力、行動力が、おもしろくないわけがない。希望と挑戦にあふれ、そしていまや成長を果たして、世界を追う立場から先頭にたつ存在になったときの課題に直面しつつ新たな方向性を模索する人々の話となる。
これを読むと、中国経済についての単純すぎる見方はかなり変わるはずだ。連想集団(レノボ)の名前の由来が、同社の起爆剤となった漢字変換ソフトにちなんだものだ、といった小ネタトリビアも満載。ついでにその歴史的背景や、戸籍制度などの阻害要因について簡潔に説明してくれるコラムも大変に勉強になる。
そうした大企業にとどまらず、本書の最後にはかつてのパチもの時代の中国を代表する存在から、新しいモノ作りの基盤を構築しようとする人物など、新旧の新しい中国経済の担い手も紹介される。新書一冊でもちろん中国の企業を網羅的に知るなんてもちろん不可能ではあるけれど、でも非常にバランスの取れた目配りで、本書はその全体像をおぼろげながらも浮かび上がらせてくれる。本書を読んだ人は、中国経済の活力について、はるかに具体的な見方ができるようになるはずだ。そしてその一方で、いまの日本の惨状についても……
日本は異様な現金社会だ。日本では平気で日常的に1万円札が飛び交うけれど、アメリカで百ドル札を出すとものすごく怪しまれる。数十ドルを超える取引は基本、クレジットカードか、あるいは小切手で支払いが行われる。現金ばかり使うのは、だいたいドラッグや武器の違法な取引に従事する連中だと相場が決まっている。それも、アメリカ国内だけでなく、世界的に。
この本は、現金が持つそうしたマイナスの面を強調する。少額の現金は必要だろうし、便利なものだ。だけれど、百ドルとか1万円とかのでかい額面の紙幣は、犯罪に使われる分が圧倒的に多い。安全性からいっても利便性からいっても、そうした高額取引は銀行口座間の取引とかクレジットカードとかでやったほうが圧倒的にいい。だから、そうした違法取引を制限する意味でも、高額紙幣は廃止しよう! それが本書の主張となる。
これに対し、現金がなくても悪い取引のための手法は何かしら出てくるはずだ、という人もいる。それに対しては、もちろん他の手段はあるけれど、いま高額紙幣による現金が違法取引に便利すぎるというのが本書の主張だ。百ドル紙幣廃止しても、それで犯罪がなくなるはずもない。でも、犯罪をやりやすくしてあげる義理はないじゃないか、と。
ちなみに、原著が出たのとほぼ前後して、インドがタンス預金の取り締まりのため、高額紙幣をかなり短期で廃止する政策をうちだしたことも話題になった。日本でも、現金は結構タンス預金に使われているらしい。それは税金逃れにもなるし、賄賂にも便利だ。そういう意味で、万札のような高額紙幣が、かなり怪しげな活動に活用されている面は大いにある。そしてこの主張自体をどう捕らえるかにしれも、本書は現金というものの役割と意味を考え直すというおもしろいヒントを与えてくれる。
また現金の地位は安泰である一方で揺れている。たとえば中国にいけば、スマホ決済が圧倒的に普及して、現金取引がかなり減っている。アフリカでは、携帯電話のプリペイド残高を現金代わりに使うような仕組みが活躍している。あるいはビットコインなど、電子通貨などのおもしろい動きもある。日本でも、交通系カードの普及で、少額現金の利用も減りつつある。本書は、現金は少額決済には便利だから額面の小さいやつは残すべきだと主張する。でも、実際にはひょっとすると、高額紙幣がだんだん廃止されるのと同時に、コインや低額の現金も姿を消すかもしれない。そうなったとき、残るのは……千円札くらい? その中くらいの部分だけ現金が残る意味というのはあるのか?
そうそう、本書の書評を見ていたら「犯罪に使われないようにしたいなら、一万円札や百ドル札をものすごくでかくして、札束を運びにくくしたら?」という提案があって、笑ってしまったけれど一理ある。さて本書を読んで、あなたはどんな「現金」の未来を思い描けるだろうか?
いったいこれが何を描いた小説なのか、それをどう評するべきなのか、そもそもこの言葉の群れについて何を言うべきなのかというのは、なかなか容易にはわからない。本書を読んで、異様な気持ちのたかぶりを感じはするのだけれど、なぜそれが感じられるのかはよくわからないのだ。そこに書かれている何か具体的な内容への反応ではない……というのも、具体的な内容などないからだ、というべきなのか、それともむしろ具体的な内容しかなく、それをつなぐ観念がないからとだというべきなのか、それもよくわからないところ。そこにあるのは、客観的に外から何かを見た(かのような)描写ではなく、むしろぼくたちが日々生きる中で次々にランダムに出てくるモノやコトやヒトにまさに入り込み、入り込まれ、それ自体になるという体験それ自体だったりする。最も卑近な話をするなら、ぼくたちはブルース・リーの映画を観ながらブルース・リーになっている。ウラジーミル・ナボコフは、感情移入は最も卑しい読み方であると言った。でも実際にはぼくたちは日々その卑しい行為を行って生きている。ぼくたちは自分という確固たる存在として常に存在しているのではなく、まわりのもの、みるもの、聞くもの、考えるもの、そのすべてを接続された、なにやらキメラのような生物都市のようなだらっとした連続の中にあってそれをなんとはなしに区切りながら何とはなしに世界と折り合いをつけているのだけれど、本書はそのさまざまなつながり、いやつながるだけでなくそれ自体を取り込み、とりこまれて、それ自体になる行為をそのまま文字化しようとする。感情移入は卑しいにしてもその卑しさをとことんつらぬき、それにとどまらず感情肉体その他を移入されるありかたまで描くことで、この小説というかなんとも形容しようのない代物は、こんどはそれを読むぼくたちをも取り込み、つながり、変え、変わろうとする。本書は、ドゥルーズ=ガタリの哲学書の一章をリライトしたもので、そんな予備知識はまったく必要ないのだけれど、でもそこでの生成変化をまさに実践してしまい、書き手はおろか読み手にもそれを実践させてしまうというわけのわからない、意味があるのかもないのかもよくわからないことをやり/やらせてしまった本書はとにかくすごいとしか言いようがなく、いやそれはうそで、うんこにさわってそれが手にこびりついて拭いても取れないどころかますます汚く付着してそこらじゅうに広がりやがて手に負えなくなるような気持ち悪い小説だとも言えるのだけれど、そう言うまもなく自分自身がそこに飲み込まれる。飲み込まれたあげく最後のページに到達した読者がどうなっているのかはまったくわからず、もちろんそこまで到達する以前にわけがわからず放棄する人も多いだろうけれどそうした読者すら取り込んで本書はすべてをそれ自身の一部として変容しつづける、そんな小説を人にすすめてよいものかどうか。そんなことにお構いなしに本書は拡大を続けるのだが
『ケトル』2016年 『ケトル』2018年 『リバティーンズ』/『ケトル』トップ山形日本語トップ