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『ケトル』書評 2013

『ケトル』2013/02 11号

藤巻秀樹『「移民列島」ニッポン』(藤原書店)

 たまにネットで、ネット右翼あるいはネトウヨと呼ばれる人々の遠吠えをあれこれ読むのは、それなりにおもしろい。彼らは韓国や中国を目の敵にしていて、やたらに拝外主義的な物言いをふりまいて見せる。そして、生活保護をはじめ、日本の公共的なリソースが日本人以外にいくことにえらく敏感で、すぐに自分の国に帰れとか日本はすばらしいとか口走る。そしてそうした物言いは、近年の尖閣諸島や竹島をめぐる紛争でずいぶん活況を呈している。

 彼らの主張の一部(領土的な主張や戦後処理をめぐるいくつかの主張)は、必ずしもまちがっていはいないとぼくは思っている。でもそこから先の排外主義的な物言いはまったく妥当性がないものだ。そもそもいまや日本のほとんどあらゆる現場は、移民なしでは成立しない状況となっている。工場の労働者でもサービス業でも、ぐうたらでこらえ性のない日本人の労働者やバイトではつかいものにならないことが多い。人口減少と高齢化に直面した日本が今後いまの生活水準を保つためにも、もはや日本人だけではやっていけない。すでに移民は不可欠だし、また今後も移民に頼る部分はますます増えてくる。

 本書は、そうした移民たちの実際の姿を取材してまとめた、たいへんおもしろい本だ。そして知らないうちに、日本各地には本当に多種多様な出身国の人々が集まる移民地区が乱立していたのだった。中華街やコリアタウンはもとより、豊田市で自動車産業を支えるブラジル人、高田馬場のミャンマー人街、西葛西のインド人街。外国人花嫁の南魚沼市。本書はそうした、あまり知られていない集積地を尋ね歩き、そこに暮らす移民たちの姿を描き出す。

 どの人の話も多種多様でありつつ、一方では実に似通っている。不安だらけの日本への到着。日本社会との軋轢の中で、がむしゃらな生活。日本のいい面、悪い面をめぐる様々な体験、安全と物質的な豊富さへの高い評価の一方で、完全には受け入れられない悲しみとあきらめ。たぶんここに書かれているのは、かなり実際よりよい話なんだろう。人は正式に取材されれば、体面をとりつくろうものだから。記述されているトラブル、たとえば池袋東口の中華街と地元商店街との軋轢などは、たぶんここに書かれたよりも厳しいものだったはず。そこらへんはもちろん、こうしたルポを読む場合には常に留意する必要はある。

 それでも、著者は通り一遍のインタビューだけでなく、一部の地区では実際に住み込んでまで実情を探ろうとしている。むろん、そうした人々を支援しようという活動も紹介。

 そして最後は、いまの日本の移民政策に関するまとめ。これまでないも同然だった移民政策だが、だんだん政府も真面目な取り組みを余儀なくされている。いままで法制度の不備のためにタコ部屋労働をさせられたり、あるいは受け入れるといいつつ誰も合格できないような資格試験を課して追い返したりと、ひどい扱いも見られたが、それが徐々に改善されつつある。そしてたぶん多くの場面で、制度面だけでなく日本の社会自体が移民たちを普通に受け入れる必要がある。本書を読むのはそのための第一歩だ。みなさんも、本書を読んでみて、ついでにここに書かれた地区に足を運んでみてはいかがだろうか。そこの料理を食うだけでも楽しいよ。


『ケトル』2013/04 12号

ホドロフスキー『リアリティのダンス』(文遊社)

 天才とキXXイは紙一重、ということばがある。何かの理論や造形でもいいけれど、本当にすごいものを作り出す人は、しばしば正気とは思えないし、実際に社会性のまったくない、一般的な生活すらできない変な人である場合も多い。それを見て、ぼくたちは「ああ天才というのはもう我々凡人とはまったくちがうんだなあ」と思ってしまう。

 最近の脳科学や教育学の世界では、そんなことはないと言いたがる。天才なんてものはない、すべては努力なのだ、と。モーツァルトも親に英才教育を受けていて、神童と呼ばれる頃にはすでに何万時間もの練習を積んでいた。ベッカムもすごい練習を積んでいる。生まれながらの天才なんてものはない。それは練習と努力を怠った人々の弁明なのだ、と。

 でも、確かにピアノを弾くとか、写実的な絵の技巧とか、将棋やチェスなどであれば練習を積むことで天才の域に行けるかもしれないけれど、天才には技巧とは無縁の、明らかに変な発想を持つ人がいる。かの「エイリアン」の造形で有名なギーガーは、絵の技巧よりはむしろその異様な病的な、性器まみれの世界観が特徴で、技巧は後からついてきたものだ。その変な世界観が、どんな練習で手に入るというのだろう? ぼくは、そこに天才というものを認めざるを得ないと思うのだ。

 それはあの異様な映画『エル・トポ』の監督、アレハンドロ・ホドロフスキーにも言える。どう異様かというと……もぐらが太陽を求めて穴を掘り……いや拘束したがりの母親が……いや、まったく説明しようがないわけのわからない、でもすごい映画だったことしか覚えていないや。その監督の自伝『リアリティのダンス』は、本当にめちゃくちゃというかなんというか。カルトな映画監督だから、美術っぽい素養があるだろうとは思っていたけれど、小説も演劇も、役者も人形つかいも、タロット研究も、心理療法家までやっているという常軌を逸したマルチぶり。そしてそのどれも異常だ。伝記も、まずは最初から延々と展開される、自分の家族に対するぎょっとするような空想、著者自身の明らかに正気でないエピソードの数々。異常な人の元に異常な人が集まり、凡人のぼくなどには思いもよらない異様な世界を作り上げていることがうかがえて、空恐ろしい気分にすらなる伝記だ。

 最後のあたりでは彼の心理療法の話がたくさん出てくるんだけれど、こんな暗く淀んだ人に他人を治療させていいのかと怖くなるくらい。でも、この全編にみなぎる異様でときに嫌悪すら催すほどの感覚と世界の見方は、まさにあの『エル・トポ』でも感じた気味の悪さそのものだ。そしてまさに、それがホドロフスキーの想像力/想像力の源なのだ、ということも、読みつつひしひしと感じられる。病んだ精神に耐性のある人は是非どうぞ。よくも悪しくも、戦慄すると思う。未見の片は、まず『エル・トポ』を見てみてほしい……かなあ。デヴィッド・リンチの映画と同じ、いやそれ以上に見る人を選ぶ映画ではあるんだけれど。


『ケトル』2013/06 13号

鈴木健『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)

 おもしろい本というのは、必ずしも自分の考えに一致している本ではない。時には、自分の考えとはかけ離れた本、むしろ嫌悪感を抱かせるような本が、自分の考えを今一度見直し、新しい視点を与えてくれる。

 ぼくにとって、鈴木健『なめらかな社会とその敵』はまさにそのような、すばらしくおもしろい本だった。

 本書は「なめらかな世界」を目指す。いまの社会は「個人」「国」という具合に、ビシッと境界を定めたがる。でも、人々の有機的なつながりがたもたれ、様々な関係性の途切れない世界が可能だ、と著者は言う。それを阻害しているのは、いまのいろんな仕組みだ。でもインターネットを使えば、お金も投票もまったくちがった形態を持ち得る。それにより、ぼくたちはなめらかな社会を実現できる。個人同士の壁はとけ、企業、コミュニティ、地方政府と国、果ては世界、いや人間と動植物の垣根さえ溶融した世界(本当に! 著者は本気でこれを主張する)。

 さて、本書はすでにえらく評判が高い。そして多くの人は、このなめらかな社会のビジョンに酔いしれている。つながり、ふれあい。冷たいデジタルな関係ではない新しい社会像。だが……

 ぼくはこれがちっともよいと思えないのだ。

 ぼくだけじゃない。みんな本当になめらかにつながりあいたいのだろうか。それなら近所づきあいをふやし、親戚づきあいをすればいいだけだ。でもみんなそれをしない。実はみんなそんなものは面倒でうっとうしいと思っているからだ。実は彼が提案しているのは、目新しい意匠をまとった閉鎖的で息苦しい農村共同体であり、全体主義なのだ。

 にもかかわらず、その世界観をもとに本書で提案される新しいお金や投票の仕組みの精緻さはそれ自体が魅力的だ。そしてその精緻さ故にそれがもたらす、不平等と抑圧すら魅力的に思える。たとえば新しいお金の仕組みでは、自分との取引の成果で相手の人が成長し価値があがれば、その価値上昇分の一部が自分に戻ってくる。その場限りだった取引が、人々や社会のつながりを生むわけだ。そしてこの仕組みを使えば、人は自分が社会全体にどれだけ貢献したかも数字でわかる! この数字を使えば平等などというのは崩壊する。合理的に差別を実現できるのだ。また著者が提案する投票システムは、「自民党に半分、民主党に半分」といったあいまいな投票を可能にする。これは人々が政治的な決断をしなくていいということだ。原発促進の人に投票し、一方で電気料金値上げ反対の政党に同時に投票できるということは、トレードオフを検討しなくていい。すると……社会のどこかに、集中的、独裁的に決断を下す主体が存在する。だが人々はそれを喜んで受け入れるだろう。

 これを可能にする仕組みは見事だ。が、それ故にぼくたちは、なぜそれが嫌なのかを改めて考えさせられる。人の平等や民主主義という仕組みがどんな想定に基づいているのかを見直さざるを得なくなる。

 ネット上の書評を見る限り、本書をほめている人の多くは単につながりとかふれあいとかなめらかといった語感に浮かれているだけだ。だがそれでは本書の真価はわからない。もう一歩読み込もう。本書が提案している世界は、実はかなりおそろしいものだが、読者はそれを本気で考えるように迫られる。そこに本書のおもしろさの真価がある。


『ケトル』2013/8 14号

溝口敦他『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム』(宝島NonfictionBooks)

この本はほかのところでも紹介したんだが、重要だと思うのでここでも紹介させてもらおう。溝口敦他『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム』 (宝島NonfictionBooks)だ。

 この本が出る背景となった事件はすでにご存じだろうと思う。まがりなりにも日本を代表するノンフィクション作家、ルポライターの一人として有名な佐野真一が、『週刊朝日』に大阪市長橋下徹の伝記の連載を始めたが、書き出しから人格攻撃を自ら公言し、さらには被差別部落の出自だということをあげつらうという、およそ信じがたい代物を掲載して一号で休載に追い込まれた。そしてそれを期に、佐野真一の昔の盗用疑惑が一気に噴出した。この本はその集大成だ。まず佐野真一の各種著作における盗用と思われる部分を対比させた部分もおもしろい。だがそれ以上に、彼を重用していた日本のメディアや「ジャーナリズム」なるものの体質が衝撃的なのだ。

 ぼくは、この話が表面化してきたとき、これは大騒動になると思ったんだが、その後まったく盛り上がらないのでずいぶん不思議に思った。だがこの本を読むと、なぜ各種メディアがまったくこの話をとりあげないかよくわかる。それは、いまの日本のジャーナリズムというものが、まさに佐野真一と共犯関係にあるからなのだ。

 もはや盗用自体については、疑惑どころかほぼ確定だろう。しかも一個二個ではなく、過去に何度も指摘されていたという。ところがこの本では評論家の福田和也と坪内祐三が、そんなことは常識だ、騒ぐヤツがバカだとうそぶく対談まで紹介されている。ふーん。「業界」の内部ではそうなのかもしれない。が、ぼくは知らなかった。一般の人も知らないだろう。

 そして収録されているジャーナリストたちによる座談会は、さらに驚かされた。売れっ子ノンフィクション作家の生産体制というのは、必ずしも本人がきちんと調べ物をしてルポを書き上げるわけじゃないんだね。データーマンという調べ物を全部やってくれる人たちがいて(それは下請けとして「作家」自身が雇うこともあるし、連載をやる雑誌社が雇うこともあるそうな)、佐野真一をはじめえらいノンフィクション作家は、その上澄みをかすめて、適当につないでお話を作るだけで、それが雑誌連載になり本になる!! ノンフィクション作家ってそういう調べ物や取材を自分でやってないのか。これはいったい、どのくらい一般的なことなのか? もちろん粗造乱造のベストセラー作家の多くが自分で書いていないことくらいは知っていた。でもそういうのはごく一部の悪質な例だと思っていたし、それなりに実績のある人は、ちゃんと調べ物をして自分で書いていると思っていたんだが……

 そしてそれがなぜ容認されていたのか? 雑誌やメディアがある政治的な誘導をしたいときに、隠れ蓑的に便利に使われていたという共犯関係も見えてくる(橋下伝はまさにその典型)。そして同時にルポ業界がある種の悪しき徒弟制みたいな世界で、下積みのデータマンからだんだん一本立ち、というキャリアパスがあるらしい。座談会出席者を含め多くの日本の業界関係者は、そのキャリアパスの当事者であるが故にそれを批判することもできず、したがって自浄作用も働かないというわけだ。

 本書の読者諸氏の中にも、「そんなの常識だよ」と思う人はいるのかもしれない。でも本書を読んで、多くの人は自分たちがいかにバカにされ、なめられていたかを悟ることだろう。いますでに、日本の新聞や雑誌、テレビなどはもはや大して信用されていない。部数も視聴率も凋落の一途だ。でも、それはインターネットのせいとかじゃない。基本的には、メディアのそうした体質のせいだとぼくは思っている。この問題をきちんと自ら検証し、その仕組みの改革を考えない限り、ぼくは既存メディアの復活はあり得ないと思うのだ。


『ケトル』2013/10 15号

ネルソン『月とゲットー:科学技術と公共政策』(慶應大学出版局)

 とっくに翻訳があるかと思っていた本。かつて(というのは1960-70年代)のアメリカで、アポロによる有人月面探査が実現されつつあった頃。その一方でアメリカ国内は、ベトナム反戦、都市内の荒廃、公害その他でボロボロ。なぜ月に人が送れるのに、国内のスラムやゲットーの貧困が解決できないのか、という問題提起がしきりに行われていた時代に、その問題に正面から答え……てはいないが、少なくとも取り組みはした本だ。

 というのも、そもそもこの問題設定自体が、必ずしもまともなものではないからだ。速い車を作る、月に人を送る――こういう一点豪華主義の目標は、その一点に向けてお金をつぎこめばいいし、それが一回実現されればおしまいだ。でも、貧困解決というのは、単にお金を貧乏な人にあげればいいというものではない。その人がそれを使ったらおしまい、というのではダメだ。継続的にその人たちが貧困から抜け出すにはどうするか? その人たちが起業したり、会社勤めをしたりして、きちんと働き、相互に信用し合い、お金がまわる仕組みができなくてはならない。そしてそれは、相当部分が外からどうにかできる問題ではない。当人たち自身の問題も大きい。

 が、本書はそういう逃げをうたない。そうした解決が起こらない原因の一部は、それに対する取り組み方の問題となる。科学的な取り組みですべて解決するか? 費用便益分析さえやればいいのか? 民営化すればいいのか? 本書はそうした解決策や提案の背後にある各種の想定や、いろいろな力関係についての考察を行う。実際の政策判断は、科学的にやっているようで、実際はそうではない。そもそも科学的な話、費用便益的な分析だけではすまない場合が多い。民営化では絶対に負担しきれない部分がある。

 本書の結論――とある意味で言えるのは、組織制度の問題ではある。既存の組織は、必ずしも社会環境変化にうまく対応しきれていない。そしてまた、現在の意志決定は、たとえば消費者より生産者、国民より役人を重視するような仕組みになってしまいがちだ。これをなんとかせねばならない。そして、それを解決するのは、自由放任の市場だけではないはず……なんだが、この非常に短い一冊はそれを具体的にどうやればいいのかについては、踏み込まない。踏み込めないと言うべきか。そこは残念、とはいえむずかしい問題なので、そうそう簡単に答が出るわけがない。

 でも、たぶん本書で論じられているような内容は、多くの分析――これはぼくが仕事でやるインフラの投資分析なんかでもそうなんだが――ではすでに前提の一部としてそもそも検討の対象にならないことではある。が、それこそがまさに重要なのだ、という指摘は、是非多くの人に読んでほしい。

 しかし……二百ページに満たないこの本が、2500円。新書くらいにして、読者層を広げるべき本だと思うんだが。まあ仕方ない。


『ケトル』2013/12 16号

鈴木孝『名作・迷作エンジン図鑑』(グランプリ出版)

 たぶん読者のみなさんの中にも宮崎駿の引退作(といまは言われている)『風立ちぬ』をごらんになった型は多いと思う。個人的にはそこそこ好きな作品だ。宮崎作品の半分くらいでは、その魅力の多くはごちゃごちゃしたメカと、そしてそこに反映された工学思想にあると思っている。彼は明らかに、大型のバロック的な工学と、軽いシンプルな(時に自然造形を反映した)工学を作品の中で常に対峙させていて、どちらも魅力的に描かれてはいるんだけれど、前者はどっちかといえば悪く、後者のほうがいい。『風立ちぬ』は、それが宮崎のインスピレーションの元になったと思われる実際の機体として登場するのがおもしろかった。ドイツのエンジニアリングは前者、堀越二郎は後者だ。ついでに別の流れでつぎはぎ式のちょっと間抜けな工学で、これはあのイタリア人の変な飛行機として、ボケ役ながら愛すべきものとして登場する。

 『風立ちぬ』を見ながら、もうちょっと踏み込んでそういう工学的な魅力を説明してほしいな、とも思ったのだった。たとえば新型機に沈頭鋲を使うと革新的だという話が出てくるけれど、なぜすごいのかは説明がない。美しいと登場人物たちに言わせたり、イメージ的な処理ですませる。

 もちろん、宮崎自身はその意義を十分理解している。『風立ちぬ』のもとになった雑誌連載では、ちゃんとそれを細かく説明していたそうだ(残念ながら未見)。そんな説明を作品の中にいれても、ほとんどの人は理解も共感もできないだろうと判断したんだろうし、それは正解なんだが……あと一歩踏み込めるんじゃないか。思想とはつまり、制約条件に対してどんな対応をするのか、という方法論だ。力でねじふせるのか、うまく受け流すのか、そのうえでどう全体をまとめあげるか。

 そうした工学思想を、各種のエンジンに見ようとするのが鈴木孝『名作・迷作エンジン図鑑』(グランプリ出版)。マニアックな本で、機械工学の先生が世界の歴史的な名作エンジン(あるいは変なエンジン)について、そのエンジンがどういう問題やどういうニーズに応えて生まれたのか、その苦心のあとがどこに出ているかを、自分の見学体験記を中心に、放談を交えつつ説明した本だ。ニューコメンやワットの蒸気機関から、ごく最近のものまで自動車、鉄道はもとより戦車、航空機、産業用までありとあらゆるエンジンを扱っている。教科書ではないので書き方はとても気楽。自筆のスケッチやイラストも相まって、この人が専門家としてどこに注目しているか、何をおもしろがっているかが、素人にも非常によくわかって楽しい……と思うのは、ぼくがすでにエンジニアくずれとしてその視点を持っているせいなのかもしれないけれど。でも、こんな本でエンジンのちょっとした部分にこめられた工夫や努力を少し理解するだけで、宮崎アニメの見方すら変わってくるとは思うのだ。そしてもちろん、世の実際の動力機関への見方も。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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