いまは地震から三日目。まだあまり冷静にものが考えられる状況ではない。おそらく読者諸賢が本稿をお読みになる時点でも、まだ混乱は続いているだろう。
そんな中で賢しらなことを書くのもいささか虚しくはあるが、やはり今回の一件で思い出したのがこの本だった。
これは、9.11テロやカトリーナ台風、スマトラ沖地震など、各種の災害のときに生死を分けた判断や行動を描き出し、その際の人々の考え方について心理学的な分析を加えた本だ。描き方もリアルで真に迫っている。そしてそこから得られる教訓も、きわめて重要なものだ。
人は、特に根拠もなく「自分だけは大丈夫だ」と思っている。また何かが起きていても「そんなことはない」と否認してしまう。これにより、多くの人は行動すべきときに行動できず、そして死を迎えてしまうのだという。
ではそれに対してどうすればいいのか? 一つには、あらかじめ準備をしておくこと。避難訓練は役にたつ。また飛行機に乗ったときにも、非常用設備の説明を聞き流さずにきちんと聞いて、自分で逃げ方を頭の中でもシミュレーションしておこう。そうすればいざというときに、動けるようになるし、冷静な判断が下せるようになる、と本書は告げる。そして、そうした訓練を通じた自信を持つ人々は、災害後の回復もはやいのだ、と。
今回の地震の報道でも、揺れて外壁が落下している建物から駆け出してきて、間一髪で命拾いしている人々の映像がたくさん流れていた。揺れがおさまってから、落下物に気をつけて避難すること、という小学校でも教わる基本的なことが、多くの人はできていない。でも、それが時には、生死を分けてしまうのだ。
とはいえ、改めて本書を読み返してみて、その記述に納得しつつも、ぼくは今いささかむなしさを感じずにはいられない。今回の地震や津波等の被害を見ると、ほとんどの人は準備も何もあればこそ、有無を言わさずに押しつぶされ、濁流に呑み込まれてしまった。そうした映像を無数に見せられた現在では、本書に描かれたような行動が取れる状況にいることさえ、僥倖に思えてしまう。何をしようとダメなときはダメなのだ、準備なんかするだけ無駄かもしれない、とすら思えてしまう。
が……むろんこれは、大きな災害直後に必ずくるという無力感なのだろう。今回の地震や津波においても、ここに描かれたような判断や行動を取れたが故に命拾いをした人もたくさんいたはずなのだ。そしてわずかかもしれないが機会を与えられたとき、それを活かすだけの準備ができているかどうか——それがいずれどこかで、あなたの命を救うかもしれない。
本書を読んで、多くの人は避難訓練をいまよりまじめに行い、そして会社や家の避難経路を一度くらいは実際にたどってみるだろう。それがいつ何時役にたつかもしれない。今回の災害は、それを如実に教えてくれた。一人でも多くの人が本書を読み、その知見を活用してくれることを祈る。
今回、少し古い本だけれどレヴィット&ダブナー『ヤバい経済学』を採り上げるのは、映画公開記念だ。もちろん世の中に、映画化される本なんていっぱいある。でも、これはなんと言っても経済学の本だ。この世に、映画化された経済学の本がいくつあるね? めぼしいものといったら、同時期に公開される『ブラックスワン』くらいだろう(←いやそれ、ぜんぜん別もの)。
むろん映画化されるだけあって、この本は圧倒的におもしろい。続編の『超ヤバい経済学』もあわせておすすめ。そして経済学とはいっても、お金の話はあんまり出てこない。扱われるのは変なネタばかり。名前は経済的な待遇にどう影響するのか? 勝ち組/負け組の名前はあるのか? 犯罪率と中絶合法化の関係は? 日本の大相撲の八百長はどうやって見抜く? 多少お金がからんでくる話でも、たとえばギャングや売春婦たちの所得構造はどうなっている、とか。
ちなみに映画でも採りあげられていたけれど、日本と同じくアメリカでもいま、子供にユニークな名前をつけようとする頭痛ものの動きがあって、このためまさに「ユニーク」という名前をつけられてしまう子もたくさんいるとか。また、ギャングたちの中で羽振りがいいのは上層部のごく一部、下っ端はあまり儲からず、ドラッグやぽん引きといった立派な悪い商売では生計がたたないので、堅気の商売(コンビニバイトとか)をして糊口をしのいでいるとか。
さて、そういう話はネタとしておもしろいが、そんなのまともな経済学といえるのか? これはよく聞く意見だ。日本のえらい経済学者たちは、かつて一部の経済学者が、浮気の経済学やドラッグの経済学を研究しはじめたとき、邪道だと嘆いて見せた。だがその連中が老いぼれると、経済学は拝金主義になっている云々と言い始める。
でも、お金ばかり扱うようになった理由の一部はまさに、そうした人々のくだらない潔癖主義だ。お金から離れるためには、それ以外のこともやらなくては。たぶん経済学の現状では、それがますます重要になってきている。
生真面目な日本の学者たちは、「それ以外のこと」というと、他の学問分野を無理にくっつけるようなことを考える。心理学とか社会学とか。そして通常それは、大風呂敷を広げる以上のことはできない。むしろ、具体的な現象に即して、興味深い現象を個別に解明することを目指すべきじゃないか? あるいは理論でいろいろ遊んでみて、その可能性をもう少し広げてみたら? レヴィットのやっているのは、まさにそれだ。そしてそこに、新しい方向性の本当に示唆がある。ちなみにクルーグマンもその手の冗談みたいな研究ばかりで、宇宙貿易の経済学なんていう論文をまじめに書いたりしている。でも、それがまさに、既存理論の囚われている暗黙の想定をあらわにしてくれるのだ。
経済学の広がりと未来を知りたい人、そして大学生のバカ話みたいなネタを求めるだけの人にも大推薦。そして本を読むのが面倒なら、まずは映画でもご覧になってはいかが? 各種統計の話もビジュアルにわかりやすく表現されていて吉ですぜ。
ぼくはこの『ケトル』という雑誌を、ある種のカウンターカルチャー的な立ち位置を目指す雑誌だと考えている。でも世界で筋金入りのカウンターカルチャー雑誌といえば、本書著者スチュワート・ブランドが作った「全地球カタログ」だ。ヒッピー文化発の新しいライフスタイルを提案するアイテムを満載したこの雑誌は、アップル社のスティーブ・ジョブスにも影響を与えた。
その「全地球カタログ」の著者が、地球温暖化問題を本気で懸念してまとめたのが、本書『地球の論点』となる。
そしてかれのたどりついた結論は、たぶんいまの日本人には衝撃的だろう。遺伝子工学を使って食料増産をせよ。気候工学を使って、地球の温度を人工的に無理矢理下げろ。そして、温暖化防止のために、原子力をもっと推進せよ!
むろん今日本で原子力推進をうたうと業界の走狗扱いされる。でも、このブランドに関する限り、そういう批判はなかなかできない。多くのカウンターカルチャー論者が変なサヨクイデオロギーにからめとられる中で、かれだけはきわめて自由な思考と正確な議論を繰り広げてきた。本書でも、ちゃんと数字をよく検討し、各種のオプションを比較した上でこの結論に到達している。ここ数ヶ月ほどの付け焼き刃で、バカなNGOのインチキな数字を受け売りし、自然エネルギーで日本の電力ニーズがすべてまかなえる、なんて口走るおめでたい日本の知識人どもとはわけがちがう。
むろん反発する人は多いだろう。そして今回の日本の事故で、著者も本書の結論を多少は見直さざるを得ないとは思う。でも原発支持が別に利権に媚びた結果では必ずしもないことは理解できるだろう。ちなみに、かれが考えている原子炉はいま稼働しているものよりも、第四世代や核電池と呼ばれる、使用済み燃料棒くらいのものを密閉プールにつっこんでお湯をわかすようなタイプなどだ。
もう一つおもしろいこと。本書の中で、地球温暖化否定論者として、ビヨルン・ロンボルグというデンマークの学者が名指しで批判されている。
さて、ぼくは実はこのロンボルグを邦訳しているし、その議論にはほぼ全面的に賛成しているので、これを読んで少しムッとした。ロンボルグは、温暖化が問題であることは認めている。ただ、いまの京都議定書みたいな排出削減だけの議論が無意味だ、と言っているだけなのだ。
だがおもしろいことに、このロンボルグの主張とブランドの主張とは、実はまったく同じところに落ち着く。遺伝子組み換え、原子力発電(特に第四世代)、ジオエンジニアリングによる気候制御!
まったくちがう立場の人が、全然ちがう方向からまったく同じ結論に到達する——経験的に、こういうときには何か重要なポイントがあるのだ。経済理論とソフトウェア工学とが交差したフリーソフトの論理もそうだった。文化における過度の自由をめぐる、インターネット法学のレッシグの議論と文化の創造性をめぐるレヴィ=ストロースの議論もそうだった。この温暖化対策についてのブランド(そしてロンボルグ)の議論も、ぼくは傾聴すべきだと思う。
むろん、ぼくを信用する必要もない。でもカウンターカルチャーの指導的な立場にあった人物に免じて、一読くらいはしてみてはいかが? 賛成はできなくても、何か得るものは必ずあるはずだから。朝起きてすることは毎日ちがいますが、顔を洗うことですか。テレビは、これというほどのものは思い出せません。
いま書店にいくと、原発関連の本は山ほど出ているが、正直いってどれも似たり寄ったり。原発はいかに危険か、福島の現状がいかにおっかないか、だからあのとき言っただろう、原発はやめろ、原発村は腐っている、うだうだうだ。
それはみんなその通りかもしれない。でも、こうした本を読んだところで何の役にもたたないのだ。現在の原発の状況がダメで、それを認めてしまった連中にまったく弁明の余地がないのは言うまでもない。でも、この先はどうすべきなのか? いまある原発(それも一つは絶賛ぶっ壊れ中)をどうすんの? やめる、と言っただけで消えてなくなってはくれないんだよ?
そんな中で、山本義隆が原発関連の本を出すというので、ぼくは結構期待していた。彼は一流の知見を持った物理学者で科学史家だし、まともな考察をしてくれると思っていたのだが……
出てきたのは、一番ありきたりでピント外れなシロモノでしかなかったのはがっかり。
著者は、原子力が過去の経験の積み重ねがなく、理論だけから「できるはずだ」と導き出されてきたもので、ゴーマンだと言う。それが原爆開発以来、政治と産業の結びつきで推進されてきたという。補助金づけで地方自治体を黙らせるやりかたはよくないという。これはまあその通りだ。みんなとっくに言われてることだけど。
で、著者はそこから、原発事故は、いまの日本人の経済成長優先の発想が生み出したもので、これを期に現代文明のあり方をみなおさなくてはならないというのだ。
はあ?
別に原発なくても経済成長はできるし、原発はいまの文明の不可分な一部じゃない。たまたまエネルギー源として有利そうな面もあったから使われたというだけの話だ。なんで原発事故でそれが変わるの? ちなみに経済成長とか高度消費文明批判というのは、本誌の読者がお好きなエコロだのスローライフだのという話ではない。そんなのは経済力があって初めて可能になった、ぜいたくでありお遊びでしかない。
さらにもう一つ。いまの原発をなくすだけでも数十年かけて冷却が必要だ。その間ずっと、それを管理しなきゃいけない。そのためにも、研究は必要だし、そしてそこに人材がくるためには、産業としての未来が多少は必要だ。ぼくたちは、もう原発いらないと言えばすむ状況にはない。今ある事故ってない原発だって、もっと安全なものに切り替える必要がある。外部電源が切れても、冷却水がなくなっても何も起きず、自然に止まる設計の原子力エネルギーはすでにできている。そういう研究は必須じゃない? ついでに、設計寿命が尽きたらそれをだましだまし使うようなことはしちゃダメ、という工学の常識をちゃんと言えて、ブレーキをかけられる人が必須じゃない?
ぼくはそういう(いやもっとマシな)見通しを誰かが出してくれることを期待してるし、山本義隆ならそれができると思った。それが、文明批判の懺悔気分に安住してしまうとは。むろん、その手の本としては決して悪いできではない。でもいま必要なのは「その手の本」ではないのだ。
(原稿欠落)
『リバティーンズ』 『ケトル』2012年 『リバティーンズ』/『ケトル』トップ山形日本語トップ