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重農主義者たち (The Physiocrats)

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Madame de Pompadour (by Boucher, 1759) - the Physiocrats' benefactress

 重農主義者たちは、フランスの宮廷医師、フランソワ・ケネー (François Quesnay) を中心とする 1760 年代のフランス啓蒙思想家の一団だった。重農主義ドクトリンの発端となった文書はケネーの『経済表』Tableau Économique (1759) だ。グループの中核はミラボー侯爵、メルシエ・ド・ラ・リヴィエール (Mercier de la Rivière)、デュポン・ド・ヌムール (Dupont de Nemours)、ラ・トロズネ (La Trosne),ボードー神父 (Abbé Baudeau)、その他数名だった。同時代人たちには、単にéconomistes と呼ばれていた。

 重農主義ドクトリンの要石は、フランソワ・ケネー (1759, 1766) の命題である、剰余――かれが呼ぶところのproduit net (純生産)を生み出すのは農業だけだ、という考え方だった。重農主義の議論によれば、製造業は産出を製造するときに、同じだけの価値を生産の投入として使うので、結果として純生産はまったく生み出さない。重商主義者とは反対に、重農主義者たちは国の富はその金銀のストックにあるのではなく、その純生産の規模によるのだ、と考えた。

 重農主義者たちは、古いコルベール主義(フランス重商主義)政策のように商業や産業企業を奨励するのはまちがっていると考えた。別に商業や製造業を辞めさせろと言うのではないけれど、でも政府が独占特許や規制や保護関税なんかで、純生産を生み出さない(つまり国の富に貢献しない)押し上げて、経済全体をゆがめたりするのは無駄だよ、というのが理屈だ。政府政策は、もしやるのであれば、農業セクターの価値と産出を最大化するようにすべきだ、とかれらは述べた。

 でもどうやって? フランス農業は、当時まだ中世的な規制にとらわれていて、事業性に富む農民の足を引っ張っていた。昔からの封建主義的役務――たとえばcorvée (賦役)、国に対して農民が無料提供すべき労務――がまだ有効だった。町の商人ギルドの独占力のため、農民たちは産物を一番高値をつけた買い手に売ることができず、投入を一番安いところから買うのもできなかった。もっと大きな障壁は、地域間での穀物移動にかかる国内関税だった。これは農業取引を深刻な形で妨害していた。農業セクターにとって大事な公共事業、たとえば道路や排水は、悲惨な状況になっていた。農業労働者の移住に関する規制のおかげで、全国的な労働市場も形成されなかった。国の生産的な地域にいる農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰したので生産量を下げざるを得ず、生産性の低い地域では、それに対して失業労働者の大群が極貧の中でうろうろしていて、賃金をあまりに低く抑えたために、農民たちはもっと生産性の高い農業技術の導入をしようという気が起きなかった。

 この時点で、重農主義者たちはその「自由放任 (laissez-faire)」的態度にとびついた。かれらは国内取引と労働移動に関する規制廃止、corvée (賦役) 廃止、国営独占企業や交易特権の廃止、ギルド方式の解体などを訴えた。

 財政面では、重農主義者たちは土地に対する「単一税」(単一地租、l'impôt unique)を推進したことで有名だ。その理屈は、ミラボー (1760) を見る限り納得のいくものだ。経済すべてに対して課せられる税金はすべて、セクターからセクターに移転して、やがて純生産にかかるだけだ。富の唯一の源は土地だから、すべての税金の負担は最終的には地主にかかる。だからややこしい分散した徴税システムを課するよりも(これは監督がむずかしいし、一時的な歪みも引き起こす)、あっさり根本にいって、地代に直接税金をかけるのが最も効率がいい。

 でも、重農主義者の多くの政策がどんなに現実的なものであっても、その議論は形而上学的なもやもやに包まれていた。かれらはordre naturel (自然秩序、つまり自然法則から導かれる社会秩序) とordre positif (望ましい秩序、人間の理想から導かれる社会秩序) を区別した。そして社会哲学者たちはこの二つをごっちゃにした、と糾弾。ordre positif は完全に人工的な因習にすぎない。それは何やら人間が作った理想に適応するように、社会がどう組織されるべきか、という話でしかない。ロックルソーみたいな「自然法」や「社会契約」哲学者があれこれ言っているのはそういう話だ、と重農主義者は論じた。でも、そこには何ら「自然」なものはない――だからそんな理論は捨てちゃえ、とかれらは論じる。一方、自然秩序(ordre naturel)は自然の法則で、神が与えたもうもので、人間の小細工では変えられない。重農主義者たちは、人間に与えられた唯一の選択は、政治、経済、社会をこの「自然秩序」にしたがう形で構成するか、それともそれに逆らうかということだ、と信じていた。

 重農主義者たちは、その「自然秩序」が何なのかを解明したつもりでいた。かれらは、自分たちの主張する政策がその自然秩序をもたらすと信じていた。重農主義の原語 "Physiocracy" 自体が (これを導入したのはデュポン・ド・ヌムール (1767)だ) 文字通りに訳せば「自然の法則」になる。

 で、その「自然秩序」ってなあに? その経済面はとっても簡単。重農主義者たちは、経済を三つのクラスに分けた。「生産的」クラス(農業労働者と農民)「sterile」クラス (工業労働者、職人や商人)、「所有者」(純生産を賃料として取得)。所得はセクターからセクターへ、そしてクラスからクラスへと流れる。経済の自然状態は、これらの所得フローが「バランス」状態にある、つまりどのセクターも拡大したり収縮したりしない時に生じる。いったんこの「自然状態」が実現されれば、経済はいつまでも再生産してそのままずっと動き続ける。重農主義者は自分たちのシステムを有名な、フランソワ・ケネーの『経済表』Tableau Économique (1758)で説明した((ケネーの『経済表』分析はこちら)。

 ケネーがこの発想に達したのは、医者だったケネーが血の巡りと身体の「ホメオスタシス」からアナロジーを見いだしたからだ、と言われることが多い。でも実は、所得フローの自然バランスという発想は、すでにピエール・ド・ボワギルベールやリチャード・カンティリョンの経済理論で展開されていた。それどころか、「土地価値説」もカンティリョンが作ったものだ(カンティリョンの考え方についてのレビューを参照)。

 おもしろいことに、重農主義者たちは自分たちの「自由放任」政策という結論を擁護するのに、農業生産を改善するという実利的な議論を使うよりも、むしろかれらの「自然秩序」における政府の役割に関する神秘主義的な観点から擁護していた。重農主義者たちは、多くの同時代人たちとちがって、相変わらず国を寄生虫的な存在として見続けていた。国は経済と社会に「たかる」存在だが、その「一部」ではない、というわけ。政府は「自然秩序」の中に定められた場所を持っていない。その唯一の役割は、神の与えたもう自然法則が、自然秩序をもたらせるような形で人間の法律を定めることだった。こうした自然の力に逆らって経済を動かそうという試みはすべて、バランスの崩壊をもたらし、それは自然秩序の到来を遅らせて、純生産も本来あるべき水準を下回るものになってしまうだろう。自然状態に到達するための最速で最も歪曲の少ない方法は、「単一税」と「自由放任」政策だ、とかれらは主張した。

 重農主義者は、自然状態の純生産こそが長期的に維持可能な最大純生産だと信じていた。重商主義者とちがって、重農主義者たちは純生産を最大化するのが「いい」ことかどうかなんて、あまり考えなかった(たとえば、それが国家の力を高めるだろうか? 一般の幸福をもたらすだろうか? 一般の道徳水準を高めるだろうか? といったことは意に介さなかった)。カンティリョンに追従する形で、「人類の友」ミラボー (1756)は、国の真の富とはその国民である、よって、純生産が大きければ、維持できる人口も多くなるのだ、といったような話を不明確にはしている。でもほとんどの重農主義者たちは、それが「自然な」ことなんだから、という点しか見なかった。そして「自然」なものはすべて、当時の時代精神からすれば「よい」ことなのだった。

 重農主義者が支持した政策は、貴族や土地所有階級の利害と真っ向から対立した (重農主義者は一生懸命、これはあなたたちの利益を考えてのことなんですよ、と主張したけれど)。でもケネーはルイ十五世の愛人マダム・ド・ポンパドールの私的医師だったので、重農主義一派はフランス宮廷でそれなりの保護を得ていた。

 1764 年にポンパドールが死んでも、重農主義の影響は減らなかった。1765-7 年には、かれらはJournald'agricultures, du commerce et des finances にものすごい勢いで文章を発表していた。これは当時デュポン・ド・ヌムールが編集していた。1767 年にデュポンが首になると、かれらはボードー神父のEphéméridesdu Citoyenに乗り換えた。ミラボーはその年、独自の会員式「火曜晩餐会」を催すようになった。そしてデュポン・ド・ヌムールは、この学派の見解表明である著書Physiocratie を刊行。重農主義者とその発想は、ヨーロッパ中でもてはやされた――バーデンからロシアまで、トスカナからオーストリアまで。

 かれらの著述の多くは、同時代の雑誌に刊行された。特にJournald'agricultures, du commerce et des finances (1765 年創刊、1783 年廃刊),Ephéméridesdu Citoyen (1765年創刊、1772年廃刊)、Nouvelles Ephémérides Economiques (1774-1776, 1788?)など。

 当の重農主義者たちのスタイルのおかげで、味方はあまりいなかった。かれらの気取り屋ぶり、「自然秩序」についての神秘主義、論文を書くときの大仰で華美な書き方、チンケな党派性、まるで抑制のないケネーへの崇拝とおべんちゃらぶり――かれらはケネーを「ヨーロッパの孔子」「現代のソクラテス」なんて呼んでいた――は、周辺のあらゆる人物を苛立たせた。本来なら当然味方になってしかるべきだった人々、たとえばヴォルテールディドロルソード・マブリなんかですら、重農主義者たちを心底嫌っていた。近刊のDictionnaireに関するモレレへの手紙の中で、いつもはとてもいい人のデビッド・ヒュームでさえ、こんなふうに重農主義者への嫌悪をむき出しにしている:

「あなたの著書の中で、連中に雷を落として叩きつぶし、塵と灰にしてしまってくれることを祈ります! あの連中はまったく、ソルボンヌの壊滅以来、現存する最も得たいの知れない傲慢な連中の集団なのだから。」 (ヒューム、モレレへの手紙、1769 年 7 月 10 日)

 アダム・スミスは、ちょこっとばかりかれらを持ち上げてそのまま黙殺。重農主義システムは「世界のどこでも害にはならなかったし、この先も有害ではなかろう」 (Smith, 1776)とのこと。

 フェルディナンド・ガリアーニは、重農主義はとにかく有害と見ていた。かれにとって、重農主義はまちがった考えを持った非現実的な連中の危険な集団だった。1768 年に、フランスが飢餓寸前状態で崩壊しても、重農主義者は相変わらず「何もしない」ことを呼びかけ、「自然秩序」がどうしたこうしたとか、ケネーのすばらしい知恵が云々とぶつぶつ言い続けていた。ガリアーニやその支持者はこれに怒って、反重農主義に独自のすばらしい貢献を行うこととなった。

 反重農主義はまた、新コルベール主義も活気づけた。フランソワ・ヴァロン・ド・フォルボネーとジャン・グラスラン重商主義ドクトリンを先鋭化して現代化し、それを啓蒙主義精神とも通じるものにしたけれど、それは一部には重農主義の魅力に対抗するためのものだった。

 重農主義システムは、「科学の皮をかぶった神秘主義」として糾弾されたけれど、実際はまさにその正反対だった。重農主義はむしろ「神秘主義の皮をかぶった科学」だった。このため、重農主義者は経済学の発展にかなりの影響を及ぼし続けた。特に興味深いのは、ジャック・テュルゴーが導入し、テュルゴー派(これは一段離れているとはいえ、アダム・スミスも含まれる)が引き継いだ変更点だ。かれらは始めて、農業だけでなく他の産業も純生産を生み出せると論じた。アダム・スミスの手で変更されたシステムは、「労働価値説」につながって、これは後に古典派に採用されることになる。

 何はともあれ、重農主義者がフランス経済政策に与えた影響はわずかなものだった。その頂点は、テュルゴーが一時的に、1774-76 年に財務総監として任命された時期に、多くの重農主義的な政策提言――たとえば国内関税撤廃、corvée(賦役)廃止、単一地租――が導入されたことだろう(その後撤回されたけれど)。オーストリアの皇帝ヨセフ二世も、重農主義的な政策提案を実施する実験をしている。

[啓蒙主義経済学者のページも見てね。]

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