山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 112回
月刊『アルコムワールド』 2017/04号
山形浩生
要約:翻訳にとどまらず、人工知能と自動化で人間の役割は急激に変わる。人間は高度な仕事が得意とされてきたが、実はお掃除とかメンテとか、低度な仕事のほうが人間には圧倒的に優位性があるのだ。
前回、機械翻訳の発達でもはや職業翻訳家というものは成立しなくなるんじゃないか、という話をした。似たような話は、多くの職業について昔から行われてきたけれど、それがここ数年で急速に現実味を帯びてきた。そしてそこから、人間の行く末なんてことを今更考え始める人もたくさん出てきた。結局のところ、機械がいろんなことをできてしまうなら、人間は何をすればいいんだろうか、ということだ。
これは単純に、どうやって稼いて食っていけばいいの、という意味で言われることもある。駒沢大学の井上智洋は、人工知能がどんどん自律的に発展して生産性が激増するようになったら、みんな失業するから、人間だというだけでとにかくお金をあげる、ベーシックインカムの仕組みを導入しろと主張している。ぼくはこれは極論だと思う一方で、そういう仕組みを考えておくことは有益だとも思う。
でも多くの人はそういうレベルよりはむしろ、人間の存在意義のほうを心配している。肉体労働は機械が行い、知的な仕事は人工知能が行うようになったら、人間に残された価値とは、人間は何の役にたつのか、というわけだ。
ぼくはぐうたらな人間なので、仕事がなくなるのは万々歳、あとは好きなことをして遊べばいいじゃん、あれもやりたい、これもやりたいと思う。役たたず上等。が、多くの人は自分が「役立たず」になるというのには抵抗があるらしい。
ぼくが思うに、普通の意味で人間が「役に立つ」存在であり続けられる可能性はいくつかある。ただし、それは必ずしもみんなが望んでいるようなものではないかもしれない。人は、自分が機械やコンピュータよりえらい、というのを当然だと思っている。単純労働は機械に奪われても、知的な仕事、高度な判断を要求される仕事は人間のもので、人間が機械をこき使う、という構図は代わらないと思っている。でもたぶん、実際はちがうだろう。
実は人間が最も得意とする仕事は、機械様のお仕事の手助けであり、奉仕なのだ。工場でも、人間に残された仕事は機械のメンテ、掃除、設置やトラブル除去、ついでになんかあったときの責任をなすりつけるお飾り役だ。そして知的作業の面でも、実は高度な分析とかはコンピュータやAIのほうがずっと得意なんだけれど、そこに食わせるデータを整形したり、異常値をぬいたり、ラベルつけたりといった、データクレンジングなどコンピュータ様にお仕事をしていただく前の段取り部分だったりする。
たぶん人間に残る優位性というのは、そういったチマチマしたドタ作業の部分になるんじゃないか。
これはある意味で、機械やコンピュータの作りあげる巨大なインフラの中で、人間はその隙間に生息する生き物になるということだ。人間は、ある意味でゴキブリやネズミたちのような存在となる。いや、そのインフラに少しは役にたつという意味で、人間自身にとっての大腸菌のような存在になるんじゃないか。
それを惨めと思う人もいるだろう。でも機械やAIが、一部の人の夢想するほど賢くなるなら、ぼくは人がそれを惨めに感じる必要もないと思う。ぼくたちの胃腸の中で、大腸菌は独自の価値観で精一杯生きていて、自分たちの活動がその外にいる人間に貢献しているなどとは思っていないだろう。そしてぼくたちがヨーグルトを食べたり整腸剤を飲んだりして、大腸菌を自分の望み通りに動かそうとしても、大腸菌は別にそれが意図的なものとは思うまい。同様に、ぼくたちは人間がえらいつもりで、あれやこれやと自分たちの利益を求めて日々の雑事にかまけているけれど、それは単に機械やコンピュータが、ヨーグルトに相当するようなものを飲んだりして、自分の都合のいいように人間を働かせているだけかもしれない。人間のほうは、知らぬが仏で知らないうちに機械に奉仕していながら、なにやら機械のほうが自分に奉仕しているつもりでいる——
それ以外に、ぼくはさっきの遊ぶというのがもっと重要性を持ってくるとおもうんだけど、それについてはまた次の機会にしよう。