『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 70 回
月刊『アルコムワールド』 2011/10号
要約:車のお祓いとか、古靴供養とかは、現実的な意味はないようで、実はものに対する態度をあらためて、特に古いモノを処分する勇気を与えてくれるのが重要ではないか。
ラオスで先日地方部にでたときに当たった運転手は、とても運転の荒い人で、乗っている方としては生きた心地がしなかった。
たまりかねて、少しは安全に気を遣ってくれ、と命令したらそいつが「いや大丈夫、この車はえらいお坊さんにお祈りしてもらっているので事故は起こさない」とのたまった。
むろん、自分には神様仏様がついてるから事故は起きない、というのは結構いろんなところで見かける。どこでもバスやタクシー車内には、お札や神様や仏様の絵姿が貼ってある。ついでに、それがあるから安心とばかり無茶をするのも、世界共通の現象だ。
でも、車本体に何かする、というのは、日本くらいしかやらないのかと思っていた……と酒の席で知り合いに話をしたら、「え、日本にそんなのあるの?」と驚かれたんだけれど、大きな神社に行けばどこでもやっている。うちの近くの湯島天神や神田明神さんにもある。で、そこから話は発展して、そういえばなぜ日本人だけがそういう儀式を好むのかという議論になったんだが、もちろんあまり答は出なかった。
モノに何かが宿る、という発想自体はも世界共通だ。西洋魔術でも、人に呪いをかけるときには、その人の髪の毛や着た服を使う。それは、その人のなにかエッセンスがそのモノに宿っているという発想だ。映画やテレビを見ていても、家や車が悪魔にとりつかれたり、本に呪いがかかったり、という発想はあるし、それに対する悪魔払いはある。でも、そういうのが出てしまうと、それはもはや単なるモノだ。日本人の、すべてに常時神様が宿るという発想は、ちょっと目先が変わっているのかもしれない。それがある意味で顕著に出るのは、日本でやるナントカ供養だ。
針供養や筆供養、包丁供養、岡山の鼻ぐり塚。使い終わったものに、一応何らかの儀式しないと捨てにくい、というような気分が、こうした風習には反映されているようだ。また世の霊能者やイタコなんかはよく、古靴がたたるという。靴箱の奥の古靴を供養して処分すれば、悪運が去るというような話もある。
むろんこうしたものには、実用的な意味があったのかもしれない。以前、この針供養をドイツ人に説明しようとしたんだが、いまいちよく理解してもらえなくて、そのあげくに、「それは要するにリサイクリング促進みたいなものか」と言われたっけ。そのときは「いや全然ちがうよ」と笑ったんだが、実は根底に、それにちょっと近い発想もあったんじゃないか、という気が最近ちょっとしているんだけど。少なくとも、何か要らないものをきっぱり処分するための、気持ちの区切りみたいな意味はあったんじゃないか。そのままだと、「何かいずれ使うこともあるかも」「いずれ別の用途があるかも」と思ってなかなか捨てられない。そうして、未練がたまり、無駄なスペースが占有されてしまう。それを「供養してあげるから」といって家から出すよううながし、それでもダメなら「持っているとたたるぞ」と言って捨てさせる――そんな意味があったんじゃないか。ちなみにそれで言うと、ぼくの家には元々何についていたのかもよくわからない、各種の黒いACアダプタがたくさん転がっている。でも、「いずれ何の電源だったか思い出すかも」と思って捨てられずにいる。そろそろACアダプタ供養とか、そういうサービスをだれかが始めてくれるといいんだけど……
が、閑話休題。車のお祓いは、それとはちょっと性質がちがうものではある。その運転手と話をしていると、別に物自体の精神といった話を信じているわけではなくて、やはり悪い霊なり呪いなりがくっつくのを防ぐという感じで、いわばスピリチュアルなワックスがけみたいな感じで理解されているみたいんだったんだけれど。発想としては呪われた家とかと同じような感じか。とはいえ、だんだんこんなものの考え方も日本から輸出できたりはしないんだろうか。たまたま、成田山のお守りを持っていたので「日本ではこれが交通安全の元なのだ」と見せたら、ほしがったのであげた。仏さんと共存していいのかね、とも思ったが、それはまあ日本人があれこれとがめ立てできる義理でもない。成田山の御利益はラオスまで届くだろうか。あいつは事故らずに今もやっているだろうか……とはいえ、ぼくは命が惜しかったので、その日限りでクビにしたのだけれど。