車内に男女7人の遺体、集団自殺か? 埼玉・皆野(クリック) ネットで知り合った人達の集団自殺ではないか、というニュースです。
ネット社会の闇という片付け方がされがちな気がしますが、やはり「功」「罪」両方の検討が必要なのだろう、と。
集団自殺を可能ならしめている条件は、
ネットが「レアな仲間を発見できる」という特徴を有しているということです。
レアな仲間を得ることができる、というのは、話の通じる友人を探すのが困難な現代では、かなり重要な機能だ。先日、ゲイ雑誌「薔薇族」が廃刊になったが、その背景にネット社会になって雑誌を通じなくても、ゲイ同士の情報交換などが容易になったという現象が挙げられていた。
音楽にしろ映画にしろ、消費社会の恩恵で人々が様々なモノに接触することができるようになって、その分、接触しないモノが増えていく。
結果、音楽が趣味と言っても、同じようなものを聴く人を見つけるのは容易くない。紅白歌合戦で、皆が知ってるような歌が無いのは、(ノスタルジーな人がよく言うように)歌にチカラがなくなったわけではなく、流通する歌が増えすぎただけだ。それは、自分の好きなものをたくさん摂取することができるという良い時代でもあるが、好きなものだけしか見なくなるという傾向も生みやすい・・・・ちょっとネットから離れてしまったので話を戻す。
こういう時代では、実は「話が通じる」というのは難しく貴重なことだ。もともと同質性を基準にしたコミュニケーションしか僕ら日本人は鍛えていないせいか、どうしてもそういう仲間を求める傾向があるし、だからこそ、仲間を見つけることができるネットは交友関係の希薄さを埋めてくれるであろう大きなメリットがあるのだ。
そして、そこには、今回のような「自殺仲間」を見つけるというマイナスの側面もあるのが事実だ。
「ネットが悪い」という片付け方をされると、全く問題が解決しないという感覚があるので、あえて、そういう問題を採り上げている。もう少し精密な問題把握が必要だろう。
今回の事件で言えば、
仮に「ネットが悪い」なら、「『仲間』をつくることが悪い」と言ってもイイはずだ。だが、よっぽど単純な考え方をする人でも「仲間をつくることが悪い」とは言わないだろう。そういう仲間の作り方が悪いという過程・関係性を問題視するに違いない。ネット社会になっても、その辺りは同じこと。「仲間を作る上で問題のある仲間作りになってはいけない」し、「ネットを問題のある利用のしかたで利用してはいけない」ということだ。
ただ、もちろん、単なる仲間作りとは異なるネット交友の特徴のようなものもある。
ネット上で作られた「レアな仲間」は、外部からの「検証」にさらされにくいということだ。外の意見や話から完全に孤立したところで仲間関係が維持されやすい。外の人間の目に触れないところで交友が進むからだ。
だからこそ、アングラ化しやすい。(自殺などをネタに)表社会では仲間を作ってはいけない(気がする)からこそ、仲間が見つかることの感激や結びつきは強化される。普段の生活で連帯がしにくいからこそ、強固な結束になりやすい。
そして、外部の人達に、意見を批判されたり、いさめられたりすることもない。基本的にはコミュニケーションの「島宇宙」同士は交流をしないからだ。
それは、自分達の意思を強める方向に働く。仲間の意思が強化されていく。誰も諭す人間がいないから。
そして、今回のように「死にたい」という意思を持って、「死にたい」人達が集まれば、死にやすくなるのは当然のことだろう。
レアな集団が作りやすく、かつ、集団の意思が先鋭化しやすい(どのような場合でも同質性の高い密室的な集団には、「先鋭化」という特徴が存在する)。この特徴を把握してネットを「監視」していかないといけないことは事実だ。
他方で密室性・同質性の高い集団で濃密な時間を過ごすことの利益は、どうしても交友関係が希薄になりがちな現代では重要である。だからこそ、「功」「罪」両面を、できれば多くの人が自覚しているべきな気がする。