自分が本を書く側に回ったからか、あるいは研究費で本を買えるようになったからか、はたまた帰国してから簡単に本屋に行けるようになったからか、この1-2年ほどは読書熱、特に小説以外のノンフィクション、人文書の読書熱が圧倒的に上がっている。今年からはそれが高じて、同年代の色んな分野の研究者と編集者を誘って2ヶ月に1回ほど、人文書の読書会(とその後の飲み会、あるいはこっちがメイン)を開催している。これがまた楽しい。
とはいっても依然として小説もわりと読んではいるので、今年読んで面白かった本をノンフィクションと小説に分けて紹介したい。なお、自分の専門分野の本は除外している。
今年読んだ本で一番心に残ったのは、これかもしれない。タイトルの通り、筆者の周りで亡くなった人について、その前後の話とか回想を書いたエッセイ本なのだが、人の死ぬまでにも、死んでからにも色んなストーリーがあって、それを湿っぽくならずに、時にユーモアを交えながら、お涙頂戴に流れずにでも感情を揺さぶるような書きぶりで綴っている。筆者のことは全然知らなかったし、ただ書店でたまたま手に取っただけなのだが、予想外に忘れられない一冊になった。
私は一人の時間が絶対に必要なタイプで圧倒的にintrovertなのだが、同時に寂しくなるのはすごく嫌いで、孤独についてはひどく恐れている。5年間をイギリスで過ごして親しい友達もできた後に帰国すると、かつては話が合った日本の友達と合いにくくなっていたり、あるいはライフステージが進んでなかなか会えなくなったりしていて、ソーシャルな繋がりの形成や維持に難しさを感じていた。
そんな中で出会ったのがこの『男はなぜ孤独死するのか』という、なかなか衝撃的なタイトルの本なのだが、これはよくある危機感を煽るだけのくだらない本とか、何の根拠もない説教垂れ流し本とかとは違って、心理学者による、実際の研究成果に基づいた確かな本である。男性の自殺率や孤独の確率が高いのは、生育過程で対人スキルが発達しないまま大人になったり、仕事の成功を追求するあまり人間関係を疎かにしてしまうからといった、まあ当然といえば当然な説明なのだが、エビデンスを与えられると対策も考えやすい。
これを読んでから会う人会う人に「最近孤独死しないためにソーシャルな繋がりを頑張って作ってるんだよね」ということを言っていたら苦笑されたが、年寄りになってから始めても遅いのである。上記の読書会なんかもその一環と言えなくはない。
しかしこうして並べてみるとなぜか「死」についての本が多くて、今も中公新書の黒木登志夫『死ぬということ』を読んでいるのだが、別にまだ50-60年以上死ぬつもりはなくて、むしろ生きるために読んでいる。ただ、今年父方の祖母が亡くなって祖父母が全滅したので、自然と死について考えることが多くなったのかもしれない。
日本社会における多様性に学問的というよりは一般的な意味での関心があり、難民支援協会がやっている「ニッポン複雑紀行」の記事に注目していたのだが、そこから出た本がこちら。ファミリーヒストリーであり、政策とか歴史をマクロに記述するのではなく、1つの家族にフォーカスして、そのストーリーを語る中で政策や法律の話が出てくる、という形式になっていて、単に勉強になるだけではなく読み物として純粋に面白い。小説のPachinkoと一緒に読むとより面白いかもしれない。前述の読書会でも取り上げた。
本筋ではないが、本書で取り上げられている尹紫遠は、朝鮮人初の歌集を刊行した人物らしいが、本書に出てくる彼の短歌も素晴らしいものだった。
大女優の回想録を書くことになった記者を主人公として、過去と現在が徐々に交わりつつ愛というものを真正面から扱った小説。今年はあまり小説を新規開拓しなかったのだが、その中で印象に残ったのはこれだろうか。
今年の前半は、小説は北方謙三の『水滸伝』と、その続編にあたる『楊令伝』『岳飛伝』シリーズばかり読んでいた。それだけでも19+15+17=51冊もあるので、読破するのにさすがに時間はかかった。もともと私は小説に関しては、これと決めた人を片っ端から読んでいく「焼畑読書」をやるタイプなので、水滸伝シリーズを読んでいる間は次に何を読むか悩まなくていいし、またある程度面白いことが分かっているので当たり外れに一喜一憂しなくてもよくてたいへん楽であった。
私はずっと時代小説が好きなのだが、藤沢周平、池波正太郎、山本周五郎といった最上の書き手はあらかた読み通してしまって、最近の書き手は確かに面白いものはあるのだが、やはり今風のエンタメ小説の一環として書かれている感じがあって、藤沢や池波の小説と同じようには楽しめない。同じノリで楽しめるものを探していて、たまたま今頃になって水滸伝と出会ったというわけである。
まあこれだけ長くなると、さすがに惰性になってくる部分はあるし、時代設定もあって登場人物がほぼ男ばっかりとか、言い出すとあまりよろしくないような側面もあるのだが、やっぱりこのジャンルは好きで身体が求めている。
北方版『水滸伝』は、もちろん設定や人物に本家と共通点はあるのだが、基本的にオリジナルバージョンであって、『楊令伝』とか『岳飛伝』はほぼまったくのオリジナルである。今年イギリスに滞在していたときに中国人の友達に水滸伝(英語ではWater Margin)を読んでいる、という話をしたが、ああそうなんだ、という程度の反応だった。
上記と同様に時代小説の(主観的)枯渇を受けて、ついに手を出したのが司馬遼太郎だった。私が好きなのは、時代設定は歴史的だが登場人物等はまったくのフィクションという「時代小説」であって、実在の歴史上の人物を扱う「歴史小説」は守備範囲外だったのだが、そうも言えなくなった。
司馬遼太郎はずっと私の出身地(中学の時に引っ越したが)である大阪の東大阪市に住んでいたことから、最寄り駅の近くには司馬遼太郎記念館というものがあり、縁があったのだが、筆者が「筆者」として突如語り出す独特の文体に抵抗もあって読んでこなかった。しかしなんでわざわざ好き好んで出身地でもない東大阪のようなごみごみしたガラの悪い町に住んでいたのかと思っていたら、司馬は猥雑な町に住むのが好きだったかららしい。蓼食う虫も好き好きというやつだ。
依然として文体には違和感もあり、ドハマリするというほどぴったりとは来ていないのだが、長くてまずまず面白いので、読むものを考えなくてよい安心感があってぼちぼち読み進めている。
そんなわけで今年も終わりである。2025年も楽しみ。
2024年も終わりに近づいている。記事のカテゴリを選んでいて、去年の同趣旨の記事と同様「帰国後の日常」というカテゴリを選択したのだが、自分はまだ帰国後の日常を生きているのだろうか、と少し考えてしまった。日本での教員生活も慣れたのだが、やはりイギリス時代というのは自分の人生にとってインパクトが大きく、今でもその余韻の中に生きているような気もする。「もはや帰国後ではない」と宣言するときはいつになるだろうか。まあそれは置いておいて、今年の仕事を振り返ってみたい。
今年はなんといっても、初めての単著を出した年であり、それに尽きるといってもよい。長年の夢であったケンブリッジ大学出版局から本を出せたというのは、自分のキャリアにとっても大きいし、感情的にも今年一番の嬉しさだった。
学術書を出しても、悲しいほどに経済的な見返りというのは少ないのだが、1冊目の段階では何よりも学術的な評価こそが問題なので、それは構わない。「反響」というものが分かるにはまだ早すぎるのだが、とりあえずいくつか引用は付いたし、書評もInternational Affairs誌に出た。Cambridge Review of International Affairsにもいずれ書いてもらえるようだ。
今年は本のプロモーションもあって、スケジュール的にもかなりこれに規定された年だった。5-7月のオックスフォード滞在中もブックトークの開催に奔走していたし、10月にもイギリスでブックトークをして、日本でも東京外大・慶應・神戸大・東大法学部・東大先端研でトークをさせていただいた。
日本語版が1月末に慶應義塾大学出版会から出る予定で、既に私の手は離れている。これが出たら所属先でブックローンチをやりたいと思っている。
今年は本のために捧げると決めていたので、その他の研究においては成果が少なく、今年出たのはブック・チャプターが1つだけということになった。『世界の岐路をよみとく基礎概念』という書籍に入っている「第12章 政治学における質的分析」というのがそれである。タイトルの通り政治学における質的方法論の発展というのが、これまでどのように進んできて、どういった課題があって、質的研究の強みはどこにあるのか、といったことを議論している。オリジナルな研究というよりはレビュー論文に近いものだが、これから研究を始めようとする院生や学部生が、周りに流されるのではなく自分のやりたい研究を選択できるために、それが質的研究である場合に方法論についてどのようなことを踏まえておけばよいか、ということを念頭にかなり力を入れて書いたつもりである。
ブック・チャプターというのはなかなか微妙なもので、手はかかる割に、編者でない限り(あるいは編者であっても)業績としての見返りは少ない。尊敬するイギリスの研究者は、割に合わないから自分はブック・チャプターは書かないと宣言していて、それは1つのやり方だろうなと思う。ただ、この論集は恩師の藤原帰一先生のご退職記念と絡めたものであるので、自分も参加したいという思いがあり、また上記のような内容は、オリジナルな研究成果というわけではないので、独立した論文としては出版しにくい。結果的には、ちょうどいい落ち着き先だったといえる。
実は他にも英語で3件ブック・チャプターを抱えていて、1つは既に手を離れたもの、あと2つはこれから書かないといけないものだが、これらが出た後は、ブック・チャプターについてはかなり慎重に参加するか否かを検討しなければと思う。軽々に引き受けると、本来やりたい研究ができなくなってしまう。
今年は海外長期滞在があったこともあって、授業は担当していなかったのだが、公共政策大学院の院生の修士論文の指導を2人ほどやっていた。1人は新入社員として働きながらの修士2年目で、イレギュラーな事例+初めての経験ということもあり、論文が仕上がるのかと心配だったが、頑張りを見せてくれて無事に書き上がった。もう1人は今年から担当の留学生で、今テーマ選びの最中。
その他に諸々の委員やら、部門コーディネーターなる役割やら、シンポジウムの企画やら、総長と学生の対話の調整役やら、色々と学務があった。今いるセンターは学生がいないので教育義務はないのだが、その代わりに私の想像していた大学教員の業務とはかなり性質の違う学務がけっこうある。
去年書いた日本近世の「国境」についての論文で、アメリカ政治学会(APSA)のInternationalHistory and Politics分科会から、Outstanding Article Award in InternationalHistory and Politicsという論文賞を頂いた。ただ、残念ながらAPSAは行く予定ではなかったので、賞金と賞状だけを後日送ってもらうことにした。賞金はわりとすぐに振り込まれたのだが、賞状は今に至るまで送られて来ていない。テキトーである。やはり海外で何かを受賞した際には、実際に行って受け取らないと、せっかくの賞状をもらい損ねる場合が多いようだ。
最後に、著書に関連するブログ記事を2件ほど書いた。1つはオックスフォードの友人が運営に関係しているブログ。
もう1件は依頼を受けて今書いているところだが、驚くことに、私が著書の印税でこれまでに受け取った額よりかなり多い原稿料をくれるらしい。大きな財団がバックに付いているようなので、お金があるのだろうか。しかし、私の経験がたまたまそうだったのかもしれないが、どちらのブログも編集担当がめちゃくちゃ原稿に手を入れようとしてきたので、少しうんざりしている。
そんなこんなで、今年もあと1週間。良いお年を!
バタバタしたイスタンブール・イギリス出張から1週間空けて、今度は台湾へと出張することになった。自分は何かと予定を詰めたがるタイプで、特に海外出張などは機会があるととりあえずサインアップしてしまうのだが、前週の出張で風邪を引いたので、今回は詰め込んだことを少し後悔していた。だが結果としては、今回の台湾出張は体調も問題なく、非常にスムーズな出張となった。
なぜ台湾に行ったかというと、今年の前半に台湾の嘉義にある国立中正大学の先生方が東大の我々の研究ユニットを訪問され、私は当日祖母の葬儀などで行けなかったのだが、今度は私たちを台湾へと招待してくださったのである。ちょうどこの時期に台湾では国際関係の学会である中華民國國際關係學會の年次大会が開かれるということで、中正大学訪問と学会参加をセットとして出張することになった。参加したのは、ユニット長の先生と台湾出身の研究員と私の3名だった。
諸々の歴史的経緯があるから、無邪気に言うべきことではないのだが、やはり台湾というのは日本出身者にとって非常に快適で身近な、「ほどよい異国」なのだと思う。危険を感じることもなく、漢字で何となく意味がわかって、食事も美味しく、(少なくとも旅行者としては)諸々の手続きにもストレスが少ない。ヨーロッパも好きだが、やはり歩いていて感じる「自分がここでは異物である」という緊張感が少ないのは、アジアを旅することの大きな魅力だと思う。今度は研究と結びつけて月単位で滞在してみたいものだ。
同時に今回の出張のなかで、日台の興味深い相違点もいくつか見つけることができて面白かった。まずは、今回会った先生方の驚くほどのホスピタリティである。とりわけお土産文化がすごい。私たちも一応ちょっとしたお土産(東大グッズ)を持っていったのだが、中正大学の先生に会うとまず烏龍茶やらパイナップルケーキやらを持たせてくれ、大学の総長に表敬訪問すると、今度は大学の35周年記念のお酒を頂き、もっとこちらも色々持ってくるんだったと後悔した。
そして学会に行っても参加者それぞれに何やら大きな包みが渡され、何だろうと思って包装を開けると、なんと弁当箱だった。え、弁当箱?いまだかつて学会に行って弁当箱をもらったことがなかった私はかなり当惑したのだが、学会企画の過程で誰かが「参加者へのお土産は弁当箱がいい」と発言したのだと思うとちょっと面白い。
同行していた台湾出身の同僚によると、台湾(中華圏?)では「お土産は大きければ大きいほどいい」という価値観があるらしく、極端な話、小さくて高価なものよりも、大きくて安価なものの方が喜ばれるとのことである。どこまで一般に当てはまるのかわからないが、確かにパイナップルケーキもお酒も弁当箱も、包みとしてはかなり大きく、機内サイズのスーツケースとリュックだけで来た私は荷物を入れるスペースに苦労した。中正大学の先生方、ならびに中華民國國際關係學會の先生方は非常に歓待してくださり、頭が上がらない気持ちである。
最終日には学会で討論者をやったのだが、そこでも日本とは違う(学会によっても異なるのだろうが)運営方式を見つけて興味深かった。まずパネルが始まる前に、パネリスト全員で記念撮影をするのである。日本や欧米では、終わった後に誰かが言い出して写真を撮ることはあるが、今回の学会では運営側が最初にパネリストを集めて写真を撮っていた。
もう1つ面白いのは、各部屋には2人の運営要員(たぶん学生)がいて、1人がスライド係、もう1人がタイムキーパーとして、何分前かになると、机に置いたベルを機械的に鳴らす。日本や欧米でよくあるのは、司会者が何分前という紙を掲げて合図をするとかだが、これもやるかやらないかは司会者次第である。だが今回の学会では、運営側が全員に対して機械的にベルを鳴らすのである。これを失礼と感じる人もいるのだろうが、学会というのは時間超過して喋り続ける人の展覧会みたいなもので、個人的にはこれに辟易しているところがあったから、この仕組みは気に入った。ただ、ベルを聞いたからといって話すのをやめるかというとそうではなく、依然として喋り続ける人もいたので、効果のほどは分からない。
個人的に、一番日本とは違うなと思った点は、諸々の精算をすべて現金でやるということだった。今回は招待していただいたのだが、航空券や電車賃など、立て替えておいて現地で精算する、という手続きがあった。日本であれば後日振込み、というのが普通だと思うが、台湾では今でも全部現金で手渡しなのである。なので10万円以上の札束を日本に持って帰って、両替屋で両替して、銀行に預け入れるという、少しリスキーな行動をすることになったが、振込を何週間も待たなくていいという意味ではありがたい仕組みでもある。これとは対照的に、ケンブリッジの研究費から出るはずのイスタンブール出張の経費は、1ヶ月以上経つのに未だに支払われていない。イギリスの大学事務のひどさにはつくづく嫌気が差す。
そんなわけで楽しい出張を終えて帰国後に、事務の人と雑談していて「台湾では経費精算が全部現金でびっくりしました」という話をしたら、「向山さんが若いから知らないだけで、ちょっと前までは日本もそうでしたよ」と言われてまたびっくりした。海外だけではなく、自国の過去にも「異国」はあるのだ。
夏の終わり、というか近年の場合いつが夏の終わりだかさっぱりわからなくなっているのだが、8月末に引っ越しをしてから、1ヶ月半ほどはわりあい落ち着いて過ごしていたのだが、10月半ばからまた忙しく出張をしていた。
今回はまずイスタンブールでワークショップがあり、そのついでに、と言うとどういう地理的観念を持っているんだと言われそうだが、まあ西方に行ったついでにロンドンに寄って、前回滞在時にあまりできなかったブックトークと資料収集をちょっくらやってこようということで2週間弱ほど行ってきた。これが思いの外タフな出張になった。
イスタンブールのワークショップは、ケンブリッジのポスドク以来散々お世話になっているAyşe Zarakol先生がPIになってBritish Academyから得たグラントを使って開催されているもので、orderとdisorderというのをテーマにしているらしい。これまでフィレンツェとかケンブリッジでワークショップを開催してきて、前回は19世紀、今回は17世紀、次は20世紀という感じで毎回メンバーを入れ替えつつ別の時代を扱うのだそうな。私は今近世日本のことを少しやっているのと、次のワークショップを東京でやることになり、そのホストを務めることになっているので、呼んでもらったというわけである。
行く前からビビっていたのは、Ayşe自体もビッグネームなのだが、参加者にはその指導教員だったMichael Barnettとか、Christian Reus-Smitとかの、まあ国際関係をやっている人なら誰でも知っているような研究者がいて、全体的に最低でも私+10歳くらいのかなりadvancedな面々だったことである。私みたいな駆け出しヒラ教員がいてもいいのだろうか、という感じだった。
自分の研究内容を発表するのはまあさすがにどんなシニアな研究者がいてもそんなにビビることはないのだが、テーマがあって自由に討議しろ、みたいなワークショップはなかなか難しい。特にヨーロッパ系のIRの人たちは、かなり抽象的な議論を好むので、disorderとcrisisの違いは何かとか、international systemとは何かみたいな話が延々と展開され、付いていくのがけっこう大変だった。面白いのは面白いのだが、empiricalな政治学からの「転向組」には、なかなかこの手の抽象的な議論は厳しい。イギリス後期から比較政治学→IRへとシフトしていたつもりだったのだが、バランスをまた若干戻してもいいのかな、という考えが浮かび、自分でも少し驚いた。
そういう意味でもまあ「タフ」な出張ではあったのだけど、どちらかというと本当にタフだったのは体調面で、ワークショップの1日目の途中から、どうもお腹の調子が悪くなって、腹痛が起きた。ディナーはボスフォラス海峡のクルーズだったのだが、イスタンブールの美しい夜景もあまり目に入らず、早くホテルに帰って寝たいとずっと思っていた。2日目も一応ワークショップは完走したものの、倦怠感があったり相変わらず腹痛がしたりということがあって、ディナーやらをキャンセルし、症状が去年少々大事になった時のものに似ていたので、夜に思い立って現地の病院に行くことにした。
東京海上の旅行保険を契約していたので連絡をすると、夜でもやっている病院をすぐ紹介してくれ、キャッシュレス受診やトルコ語通訳も手配してくれて非常にありがたかった。やはり持つべきものは海外旅行保険。旅行保険なしで海外に行くのは命をリターンのない賭けに出すようなものである。私はだいたい東京海上のMarine Passportというやつをいつも契約している。
かつてカタールで1ヶ月ほど入院を余儀なくされたこともあったので、その再来を恐れつつ病院に行ったのだが、結局胃腸から来る風邪だろうというような結果で安心した。Acıbadem Hospitalというところに行ったのだが、めちゃくちゃ豪華で高級感のある病院で、事務員も看護師も医師も非常に親切で英語での会話にも問題がなかった。ドーハの時も思ったが、平均水準はどうあれ、やはり駐在外国人が行くような高級病院のレベルは非常に高いのだろう。
受診前はもしかするとイギリスへ行くのをやめて帰国すべきかな、などと心配していたのだが、無事医者のお墨付きが得られたので翌日ロンドンへと渡航した。イギリスへ行くのは7月以来だからたった3ヶ月ほどしか経っておらず、正直懐かしいとかいう気持ちは皆無であった。なので特に色んなところに行ってとか色んな人に会ってというような予定は入れずに、わりとゆったりした旅程を組んでいた。相変わらず本調子ではなかったので、緩めの旅程が功を奏した。
今回はロンドンの中心部ではなく、郊外のEalingに滞在していたのだが、これがなかなか悪くなかった。西ロンドンで、日本人がたくさん住んでいるActonなどとも近いエリアだが、ちょうどよい都会と自然のミックスで、落ち着いている。ロンドンに住んでいたときはIslingtonという、King's Crossからほど近いエリアに住んでいて、良いエリアで気に入ってはいたのだが、別にロンドン観光を今さらするわけでもないので、ストレスの少ない場所に滞在したいと思っていた。地下鉄のエリザベス・ラインができたおかげで、Ealingはヒースローから20分以内、Paddingtonからも10分以内と、移動が多い場合には非常に便利である。エリザベス・ラインを使えば中心部にもすぐ行ける。仲の良い友達がこのあたりにフラットを買ったということもあって、今後もロンドン滞在時はEalingに宿を取ろうかと思っている。
資料収集ということで、久しぶりにKew GardensにあるTheNational Archives(TNA)に行ってきたのだが、やはりここは居心地がいい。まずいる人々が研究者か学生かリタイアした老人がほとんどで静かであり、落ち着いていて不快になることがない。そしてここの1階にあるカフェテリアは、意外にもけっこう美味しいランチを提供しているのだ。TNAの近くには、有名な王立植物園があるわけだが、TNAを使う研究者あるあるとして、植物園には行ったことがないというものがある。TNAが開いている時間は文書館にこもりきりになるので植物園の開館時間に間に合わず、TNAが休みの日はわざわざ遠いKew Gardensまで来たくない、ということで、実際私も1度しか植物園には行ったことがない。今回も行かなかった。
ロンドン滞在の一番の目的は、ロンドン大学のクイーン・メアリー校でブックトークを行うことだった。同校でポスドク時代の同僚が上級講師になっていて、トークを企画してくれたのだ。今回は討論者を彼も含めて3人も呼んでくれて、突っ込んだ議論ができてすごくありがたかった。リップサービスもあるだろうが、3人ともかなりポジティブな評価をくれて嬉しかった。内容もさることながら、文章がよく書けているとか、分かりやすいということを言ってもらえると、非ネイティブとしては特に嬉しく感じる。こちらに留学している日本人の友達や、ケンブリッジで在外研究中の知り合いの研究者なども来てくれて、まずまずの客足でもあった。学部生で質問をしてくれた子がいて、終わった後で話を聞いてみると、ソマリランド出身、一緒に来ていた友達は(イラク)クルディスタン出身ということで、国家形成などをやっている身としては面白い(と言ってはいけないのかもしれないが)場所の出身者に会えて非常に新鮮だった。目をキラキラさせて色々と聞いてくれるので、嬉しくなって2人に著書を1冊ずつプレゼントした。
しかし今回の出張、波乱なくしては終わらないもので、滞在中の夜、友人と食事をするために中心部の大通りを歩いていたら、後ろから音もなく近づいてきた自転車の男に、いきなり手に持っていたiPhoneをひったくられた。驚いて声を出した後、とっさに追いかけ始めると、私のiPhoneを一瞥した男が、ポイッとそれを道に捨てるではないか。すぐに拾い上げ、事なきを得たが、この間わずか3秒ほどで、その後何が起きたのか実感が湧くまでに時間がかかった。男は私のiPhoneを誤って落としてしまったわけではなく、明らかに一度見た上で自分の意思で落としたようだったから、古いモデル(12 mini)であったことが奏功したのだろうと思う。こうした自転車によるスマホのひったくり事案は最近ロンドンで多発しているらしく、その直後に会った友達も、同じようにして最近iPhoneを盗まれたらしかった。私はイギリスに住んでいた間犯罪に遭ったことは一度もなかったのだが、こんな形で思わぬところで出くわすことになった。
いやしかし、持つべきものは古いiPhoneである。
帰国してからなんだかんだと忙しくしているうちに更新が2ヶ月も滞ってしまった。7月半ばにイギリスから帰ってきたわけだが、数日後にオーストラリアでシンポジウムがあって、そこから戻ってきてまた1週間ほどで弘前の研究会に出て、7月はそれで終わってしまった。
8月は著書の日本語版の原稿を修正していたのに加えて、引っ越しをした。それまでの部屋はイギリスから就職に伴って本帰国した2年前に、1週間ほどの間に下調べから内見、契約まで済ませた部屋で、わりと気に入ってはいたが、難もあったので更新日が来るのを機に退去することにしたのである。
それまでいた界隈を気に入っていたのでその近くでと思っていたのだが、なかなか希望を満たす物件がその近くでは見つからず、結局そこから歩いて20分ほどの場所に住むことになった。前のところほど周りに色んな店があるわけではないが、そちらに行こうと思えば行ける程度の近さではある、という感じ。落ち着いた環境ではある。自然がもう少し欲しいとは思うけど。
新しい家は同じ路線のA駅とB駅のちょうど中間ぐらいに位置しており、どちらに歩いても10分ほどかかる。不動産屋のチラシには7分と書いてあったが、担当者はよほど早足なのであろう。そうだ、不動産屋は駅からの距離を過少申告するのだった、と何やら懐かしいような実感を覚えた。
何だか忙しかったので髪を切るのを忘れていて少し鬱陶しくなってきたので、引越しが一段落した先週、散髪に行った。職場の近くのところに以前から行っているので、引越しをしても行く床屋は変わらない。イギリスに留学する前からそこに行っていて、今切ってくれている人はちょうど私が通い始めて少し経った頃に学校を出て入ってきたのだが、その時はまだ高校生に毛の生えたような感じで、といっても大方の高校生にも毛は生えているのだが、いずれにしても彼はもっぱらアシスタントをしており、まだ客の髪を切らせてもらえていなかった。ははあ、徒弟制度はまだこんなところに残っていたのかと思った。私自身も当時は「学者見習い」であったわけだけど。
それが2年前に帰国して再び通い始めると、彼はすっかり一人前になっていて、自分より若いアシスタントに指示を出しながら、すっかり店の番頭格になって店主を支えていた。まあ私より4つ5つ下ぐらいなだけなのだが、何か若者の成長を見守る爺さんの気分である。
まあ散髪中というのは、阪神が優勝しそうだとかイギリスの飯は不味いのかどうかとか、毒にも薬にもならないような話をするものだが、最近どうですかと聞かれて、私にとっての大きなニュースは引越しだったので、引越したんですよ、という話をした。すると当然どこに引越したんですか、という質問になるので、A駅とB駅の間くらいです、と答えた。
すると数秒置いて理容師さんも、「実は僕も最近A駅とB駅の間に引越したんですよ」と言うではないか。あまりテンションの変わらない人なので、何気なさすぎて一瞬何を言っているのか分からなかった。詳しく聞いていくと、住所は◯丁目まで一緒で、一本横の通り沿い、しかも同じ週に引越していた。
いやーこんなことあるんですね、などと言いながら会計をして、次に年上の同僚と近くのカフェにコーヒーを飲みに行った。会うのは数ヶ月ぶりだったので、お互いの近況などを話していて、向こうも私の1週間後くらいにオーストラリアに行っていたので、冬のキャンベラはちょっともう行きたくないですねえ、などという話で盛り上がった後、そうそう、最近引っ越しましてね、という話をした。
当然どの辺に?という話になるので、A駅とB駅の間です、と言うと、「俺もA駅とB駅の間だよ」と言うではないか。詳しく聞いていくと、なんと同じスーパーで買い物をしていることが分かった。A駅とB駅の間には、何らかの磁場が働いているに違いない。もしかしたら私の知り合いはみんなA駅とB駅の間に住んでいるのではないか。引越しの話をするのがすっかり怖くなってしまった。
まあ職場からそれほど遠くないところに住んでいるので、同じ職場や近くで働く人が近いエリアに住んでいるということは特段驚くべきことでもないのだが、それにしても近すぎる。そういえばセンター長と事務の人、そして先日退職した元同僚の先生もA駅の近くに住んでいるらしいので、もしやという予感がしている。近所で迂闊な行動はできないようだ。
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