エリフ・アナトリア(そして、砂漠を歩き始める。道は無い、標も無い、灯も) 「はぁああああああ……」
テルミベック・ジェーンベコワは、大きなため息を漏らしていた。
(全く、樹木騎士団の連中め! ねちっこいたらありゃしない)
蒼の学園にとっての問題児である『研究所<ラボ>』は、蒼の学園の学園内警察『樹木騎士団』の天敵である。研究所はしょっちゅう倫理的・実害的な問題を引き起こしており、そのケツを拭くのはいつだって樹木騎士団なのだ。
「……はああ」
そして研究所の有名人であるテルは、特に樹木騎士団に目をつけられていた。しかしその大きな実績により、法的な措置を取れないのもまた確かだった。故に樹木騎士団としては強く口頭で注意するしかなく……こうして、長いお説教の時間が取られるのだ。
「はあ。もう良い。さっさと寝るか」
テルはボサボサの頭をかきながら、蒼の学園のエレベーターを降りる。
「……って、兄さん。やっと帰ってきたのね」
「メフ?」
テルが自分の研究室に帰った時、そこには見慣れた少女が立っていた。メフリーザ・ジェーンベコワ。テルの愛する妹である。長身で褐色の彼女はテルを見ると、ため息を吐いた。
「隊長リーデルから頼まれた書類を持ってきたから」
「おお、ありがとう。しかし書類ぐらい、置いといてくれたら良かっただろう?」
「それだけじゃなくて。兄さんの様子を見に来たの」
「……おお」
テルは普段メフに邪険に扱われているので、ストレートに言われると嬉しいのだ。
「くくく、流石だな妹。この偉大なる兄の体調を案じて――」
「また兄さんが悪い研究をしていないか、定期的に確認しなければ。兄さん、人様に迷惑をかけてばかりではいけません」
「…………」
普通にお説教されただけだった。テルは結構がっかりした。
「……ふん。まあ良いがね。用事が済んだなら帰ると良い」
「? 兄さんは帰らないの? もう遅い時間だけど」
「? 帰ってきたよ? この研究室に」
メフは一瞬考えて、すぐに思い当たって、ジト目になった。
「……まさか兄さん。ここで暮らしているんじゃないでしょうね」
「……暮らすって程じゃない。仮眠をしてるだけさ」
「最後に、アパートに帰ったのはいつ」
「………………3ヶ月前ぐらい?」
本当4ヶ月前だったが、テルは怖かったのでちょっと嘘をついた。
「兄さん!!」
「ぎゃあ! 大きな声出すな!」
「いっっっっつも言ってる! ちゃんとお家に帰ること! お掃除とお洗濯はすること!! コンビニのご飯ばっかり食べないこと!!!!」
「………………面倒くさい」
「兄さん!!!!!!!」
妹の叫びに、テルは耳を塞いだ。彼は、人間的活動というものが苦手なのである。社交性もなければ常識もなく、あるのは天才的な反現実への理解だけであった。
「……こうなったら仕方がありませんね。――八脚馬<チャルクイルク>!」
『ふははは!! 拙者参上!!』
「な、何するつもりだ、メフ」
テルはぶるぶると震えた。メフは容赦なく、自らの銃に命じる。
「正義、執行――」
「ぎゃあああああああああ!!」
テルの体は、否応なく八脚馬の粘液に捕らわれるのだった。
■
「ああもう、最悪最悪最悪! 兄さん、掃除も出来ないとか何歳なんですか!?」
正義執行されたテルは八脚馬の粘液に囚われながら、真っ暗な自室に連れ帰られいた。ゴミや書類が散乱している上に埃まで積もっており、もはや廃墟のようである。
「なあメフ。これは仕方がないことなんだ。人には向き不向きがあるんだよ」
「うるさい」
メフは、兄の頭にチョップを落としてから。
「こうなったら仕方がありませんね。――掃除、執行」
『了解でござる!!』
八脚馬の粘液が、テルの部屋を覆っていく。それは器用にゴミを飲むと、ぽいぽいとゴミ袋の中に放っていく。
「ぎゃあ! やめろメフ! それは期間限定なんだ!」
「ただのお菓子の外箱でしょ!?」
「そ、それはまだ使うかもしれないからっ」
「使いません! 切れた電池なんて!! ほら、捨てて捨てて!!」
こうしてメフによる、兄の部屋の大掃除が始まった。これがラブコメであり例えば掃除されている主が心葉だったら、エッチな本の一つでも見つかってちょっと盛り上がったことだろう。
「……ああ、俺様の城が浄化されていく――」
しかし相手は泣く子も小首を傾げるテルミベック・ジェーンベコワである。そんな気の利いた物があるわけがない。彼にとっては研究がすべてなのだから。
「ゴミもコンビニ弁当ばっかだし……! うわ、誕生日にあげた電子ケトル、箱を開けてすらない! これ、結構高かったのに!」
「でもその箱は便利に使ってるぞ。ちゃぶ台代わりにしてカップ麺食べてるし……」
「…………この人は!!」
こうして、テルはまたお説教されることになったのだ。しかし樹木騎士団にされたときと比べると、全然辛くもなんともなかった。
「はあー……仕方がないですね。ご飯も作ってあげますから、待っててください」
「おー助かる。じゃあ俺様は論文でも読んで――」
「だまれ。かたづけろ」
「……はい」
『がはは! 2人でやれば、早いでござるよ!』
テルは八脚馬と片付けを始めた。それを横目に、メフは料理を始める。
(……相手は兄さんだし。いつものアレで、いっか)
どうせ食材が何も無いのはわかっていた。メフはあらかじめ購入していた、冷蔵うどんのパックを開く。寮だと恋兎がうるさいし心葉を太らせたいので肉が多めだが、この不摂生兄貴に作るためなら、メインは野菜だ。
「兄さん」
「んー。なんだー?」
片付けているテルに、料理しながら、努めてなんともなさそうに、メフが尋ねる。
「危ない研究。……してないよね?」
「がはは。何を今更。相手はこの俺様だぞ? 危険など、むしろ好都合」
「――無限の図書館」
メフが呟くと、テルの肩がびくりと揺れた。メフは、やっぱり、と思った。この不器用な兄は、隠し事が得意ではないのだ。
「……やめなさいって、樹木騎士団の人に、怒られてたよね?」
「……」
テルは、少し考えてから。
「ああ。『無限の図書館』は多くの反現実組織が調べては、誰もがその力を十全に扱えていないからな。図書館の本場『書架曼荼羅』ですら、その殆どが未知だという」
「兄さん……! それって、触れたら駄目な知識でしょう?」
「ああ。だが、これ以上に面白い研究テーマがあるか? 『すべての知識が集う無限の図書館』。それを操る事ができれば――」
「……どうなるの?」
「理論上、すべての終末が解決される」
それが無限であるということだからだ。どんなに最強の終末であっても、無限の知識の中に、必ず『その終末を破壊する』知識が見つかる。それが無限の性質なのだ。
「無限は人間が扱うには巨大過ぎる存在だ。だがな。かつてただ1人――1人だけ、無限の図書館を踏破した人間が居たのだと言う。それは『探偵』と呼ばれる人種の1人と聞く。『探偵協会』と『書架曼荼羅』の仲が良いのは、どうやらその辺りが理由らしい」
「たった1人だけ? きっと何千、何万もの人が知識を求めて……1人だけ?」
「何千何万では効かないよ。けれど、そうさ。たった1人」
兄の笑顔を、メフは理解出来なかった。彼女の銃痕『八脚馬』は『仲間と共にどこにでも行って、帰ってくる』銃痕だ。どんな機体にもなれる彼女の相棒は、友と共に行く力を持つ。それはかつて自分の母が果たせなかった事をするための力だ。
「――最高に、唆るだろ?」
テルの銃痕『涙する巨鳥アルプ・カラ・クシ』もまた、『どこにでも行き、帰ってくる』銃痕ではあるが、たった独りで歩く力だ。その道程には、誰も付き合えない。彼らの母よりも、むしろ、その父に近い。どこか独りよがりで、狂気の気配を帯びている。
(どうか、無理はしないでね。あなたは最後の家族なんだから)
メフはそう思ったが、素直じゃない彼女は口にする事が出来なかった。かつて草原で暮らしていた頃は、大家族だった。けれど今となっては、2人だけ。
■
「はいどうぞ、めしあがれ」
掃除したばかりのちゃぶ台に、大皿に盛り付けられた焼きうどん<ラグマン>が並んだ。
「……量が多くないか?」
「残した分は冷蔵して、明日にでも食べて」
うどんの麺を箸で掴むと、テルはずるずると食べ始める。一口呑み込んだ所で、彼は思う。
(……母さんが作ってたのと、全く同じ味)
羊肉と香草と唐辛子。トマトが溶けた汁気がたっぷり。違うとすれば、麺だろう。かつて母親は小麦粉から手打ちしていた。今日はスーパーで買った冷蔵の物なので、当然コシが違う。だけどこれは間違いなく、ジェーンベコワ家の味だった。
「ふん、腕を上げたな」
「どうして素直に、『美味しいよ』が言えないの?」
素直でないのもまた、ジェーンベコワ家の血筋なのだった。
「……兄さんは卒業したらどうするつもり?」
「今までと変わらんさ。終末の研究を続ける」
「そう。……残るんだ、蒼の学園に」
蒼の学園に所属する生徒の多くが、金銭的な事情から、或いは市民権を得る為に参加している。世界を護るために所属している者なんて、一握りだ。
「ま、銃痕が使える間に、色々無茶しないとな。俺さまには未だその兆候はないが」
「……そ」
銃痕を十全に用いる事が出来る年齢は、一般的に20歳までとされている。しかしその渇望や能力によって起きる例外も少なくはない。
樹木騎士団の元副団長――グエン・バオラン などがその良い例だろう。
「メフ。お前はどうするつもりだ」
「普通に就活しますよ。任期が終わり次第」
ぎょっとした目で、テルはメフを見つめた。
「な、なんですか」
「いや……意外だったと言うか、なんというか。そうだったのか」
「まあ、でも、その前に……」
メフは、ぼんやりと考えた。
「旅してみたいとは思うかな、色んなところ」
「……」
「そうですね。私も、やろうかな。八脚馬が居なくなっちゃう前に」
草原の騎手にとって、馬こそが風なのだ。共にどこにでも行ける相棒だ。旅したい、なんてメフは初めて思ったが、口にしてみれば、妙にすとんと納得した。
「ふん、凡人め」
「うるさいばか」
兄妹は悪態をつきながら、一緒に大皿の焼きうどんラグマンを食べ続ける。
夜の天空都市で、良い風が吹いていた。明日は、きっと天気になるだろう。