十三歳の登は自室の抽斗(ひきだし)奥に小さな穴を発見した。穴から覗く隣室の母の姿は艶めかしい。晩夏には、母が航海士の竜二とまぐわう姿を目撃する。竜二の、死すら厭わぬ船乗り精神と屈強な肉体に憧れる登にとって、彼が海を捨て母を選び、登の父となる生ぬるい未来は屈辱だった。彼を英雄に戻すため、登は仲間と悪魔的計画を立てる。
大人社会の綻びを突く衝撃の長編。解説・田中美代子/久間十義。
【本文冒頭より】
おやすみ、を言うと、母は登(のぼる)の部屋のドアに外側から鍵をかけた。火事でも起ったらどうするつもりだろう。もちろんそのときは一等先にこのドアをあけると母は誓っているけれど。もしそのとき木材が火でふやけ、塗料が鍵穴をふさいだら、どうするつもりだろう。窓から逃げるか。しかし窓の下は石のたたきで、この妙にノッポの家の二階は絶望的に高かった。
すべては登の自業自得なのだ。彼が一度、「首領」に誘われて夜中に抜け出してからのことだ。……(第一部「夏」第一章)
三島由紀夫(1925-1970)
東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。49年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、54年『潮騒』(新潮社文学賞)、56年『金閣寺』(読売文学賞)、65年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。70年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
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