October 28, 2006 バイキンマンは何故ジャムおじさんとバタ子を攻撃しないか。 (51) カテゴリ:カテゴリ未分類 バイキンマンはいつもアンパンマンにやられる。パターン的に。 1:水に濡れて力が出ないアンパンマン=ピンチ。 2:「アンパンマン、新しい顔だぞ!」 3:形勢逆転アンパンチ 4:やられる。 バイキンマンが着目するべきは、 新しい顔によっていつも不利になる点であり、 そこをうまく対処していけば バイキンマンはアンパンマンに勝てるのである。 アンパンマンは新しい顔が無ければ生きていけない。 将を射んとすれば先ず馬を射よ。 アンパンマンを倒すには ジャムおじさん(以下ジャム)とバタ子をやっつければいい。 誰もが一度は考えた事があるかもしれない。 しかし。 バイキンマンはそんな事をしない。 バイキンマンは頭が悪いのか? いや、よく考えてほしい。 バイキンマンは様々な兵器を生み
台風9号が首都圏を直撃したが、被害が予想以下だったことは良かった。刻々と情報が流されたことが効果的だったのだろう。戦争の勝敗も情報が制する! 昨日は都心で2件会合があったのだが、台風情報で繰り上げたり、切り上げたりして、かろうじて“ずぶぬれ”になるのを回避できた。転居したばかりの我が家は、滝のように流れる雨水が玄関前を流れたが被害もなく、近代家屋構造の効果を思い知った。被害にあわれた方にはお見舞い申し上げたい。 ところで、文芸春秋9月特別号に『証言・父と母の戦争』特集が組まれている。 「巨大な運命の渦に際した父母の世代は如何に生きたか。子供達が語る歴史の一こま、鮮明な人生のドラマ」とリードにあるが、短文ながら読んでいて胸に迫る。防大時代の我同期生・落合蔲君の「『沖縄決戦』父・太田実中将の覚悟」は、戦後防大に入って海上自衛官になり、湾岸戦争後のペルシャ湾に機雷掃海隊を率いて“参戦”し戦果を上
ジャカルタの墓地で献花した安倍首相の隣に元皇軍兵士の姿があった。祖国敗戦後、インドネシア独立に人生を捧げた日本人。参戦した兵士達こそ大東亜戦争の誇り高き体現者だ。 アジア3ヵ国を歴訪中の安倍首相は、最初の訪問国インドネシアで意外な場所に足を運んだ。知られざる英霊の眠る場所… 8月21日午前、安倍首相は昭恵夫人を伴ってジャカルタ市内にあるカリバタ英雄墓地を訪ね、花輪を捧げた。掌を合わせたのは元日本軍兵士の墓前だった。 ▽カリバタ英雄墓地を訪れた安倍首相夫妻(ロイター) カリバタ英雄墓地は、大東亜戦争終結後のインドネシア独立戦争を戦った軍人や国家に多大な功績を残した政治家など特別に埋葬される国立墓地だ。7,000柱以上の英雄の中には、27柱の皇軍兵士も含まれている。 5年前、小泉首相(当時)もインドネシア訪問でカリバタ英雄墓地で訪れたが、墓地中央にある英霊碑での献花だった。個人の墓前を日本国総
平和は未来を奪う。希望は戦争−。そんな過激な論文が若者の心をとらえ、共感を広げているといわれます。戦後六十二年、ちょっと悲しいものがあります。
大日本帝国最後の戦闘に参加した俺が何でも答えるよ。 シベリア抑留についてもおk ちなみにこの書き込みは祖父(86)と孫のコラボレーションでお送りします。
米下院外交委員会で「慰安婦決議案」が可決された。来月には下院本会議でも採択される見込みだという。 これに対して憂国派の懸念する声が喧しい。 気持は分かるが嘆くには及ばない。 そもそも「慰安婦物語」は、反日左翼と中・韓のデッチ上げである。デッチ上げに乗せられた「決議案」を採択するのはアメリカが後世に「恥」を残すことである。しかも、決議案には何の拘束力もない。嘆く必要もなければ喚く必要もない。 それにつけて思い出すのは故・山本夏彦氏が指摘する「ハル・ノート」のことだ。日本には何とまじめ人間が多いことか!! 以下は山本氏の「見て見ぬふりをするのも一案」と題するコラムの中の一節である。 「まじめ人間はまじにめに考えすぎる。だしぬけだが私は『ハル・ノート』を思い出す。日米開戦の直前にアメリカ国務長官コーデル・ハルが、わが野村吉三郎日本駐米大使につきつけた最後通牒である。 それには中国及び
専門とは関係のない慰安婦問題に首を突っ込むのは気が進まなかったが、膨大なコメント(しかも驚いたことにノイズがほとんどない)をいただいて感じたのは、「慰安婦問題」なんて最初からなくて、これは無から有を作り出した朝日新聞問題なのだということだ。これは私の専門(メディア)とも関係があるので、簡単に事実経過を書いておく。 前にも書いたように、私も朝日と同時に強制連行問題を取材していたから、朝日が吉田証言を派手に取り上げて1面トップでキャンペーンを張ったときは、「やられた」という感じだった(*)。しかしよく調べてみると、吉田の本は1983年に出ていて、当時はだれも相手にしなかった。しかも、それを追跡取材した韓国の済州新聞の記者が、そんな事実はなかったという記事を、すでに1989年に書いていた。しかし朝日が騒ぎ始めた1991年が「慰安婦元年」になったのである。 金学順が最初に慰安婦として名乗り出た
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く