131.外国から見た大東亜戦争(太平洋戦争)の評価 (2003.12.8) [トップページ] [前のページ] [コラム目次] [歴史用語解説集] [歴史関連書籍案内] 今から遡る事62年。昭和16(1941)年12月8日、日本は、「皇国の興廃」(国家の存亡)と、アジア諸地域(「アジア諸国」では無い点に注意)の欧米植民地支配からの解放を賭して「大東亜戦争」に突入。そして、開戦から3年8ヶ月後の昭和20(1945)年8月15日、日本は、昭和天皇の御聖断により連合国に対する軍事的敗北を受け入れ、広大なアジア・太平洋地域を戦場とした史上最大の戦争は終結しました。その後、日本は米国に国土を占領され、国体(国家体制)・憲法・歴史観・文化習俗等多岐に渡る大変革を強要され、そして・・・「生まれ変わり」ました。その結果、戦前の日本は「悪」の一言で括られ、日本がアジア解放を賭して戦った大戦争「大東亜戦争」も
ビルマの英雄アウンサン将軍の誕生には皇軍の特務機関が深く関わっていた。秘密基地で軍事訓練を受けた「三十人志士」…そして独立義勇軍の創設。独立への茨の道を共に歩んだ日本人がいた。 昭和17年2月。ラングーンの東70キロに位置するペグーの町は、突然の恐怖に見舞われた。列をなして行進して来る兵団を一人の農民が郊外で見かけ、不穏な噂が急速に広まったのだ。 「ついに日本軍が来た…」 駐留していた英軍兵は色を失い、直ぐさま荷物をまとめて町を立ち去り、市民は無防備のまま放置された。英国植民地政府の悪宣伝によって当時の皇軍は恐れられ、家々は固く門戸を閉ざした。 夜が開けた頃、町に入ってきた兵団の叫ぶ声が町中に響き渡った。 「ドバマ(われらビルマ)、ドマバ、戦いは勝利だ」 ビルマ語だった。行進してきたのは日本軍ではなく、ビルマ人の軍隊であるBIA(ビルマ独立義勇軍)の小隊だった。隊列の先頭で旗を掲げた隊長ら
台風9号が首都圏を直撃したが、被害が予想以下だったことは良かった。刻々と情報が流されたことが効果的だったのだろう。戦争の勝敗も情報が制する! 昨日は都心で2件会合があったのだが、台風情報で繰り上げたり、切り上げたりして、かろうじて“ずぶぬれ”になるのを回避できた。転居したばかりの我が家は、滝のように流れる雨水が玄関前を流れたが被害もなく、近代家屋構造の効果を思い知った。被害にあわれた方にはお見舞い申し上げたい。 ところで、文芸春秋9月特別号に『証言・父と母の戦争』特集が組まれている。 「巨大な運命の渦に際した父母の世代は如何に生きたか。子供達が語る歴史の一こま、鮮明な人生のドラマ」とリードにあるが、短文ながら読んでいて胸に迫る。防大時代の我同期生・落合蔲君の「『沖縄決戦』父・太田実中将の覚悟」は、戦後防大に入って海上自衛官になり、湾岸戦争後のペルシャ湾に機雷掃海隊を率いて“参戦”し戦果を上
大日本帝国最後の戦闘に参加した俺が何でも答えるよ。 シベリア抑留についてもおk ちなみにこの書き込みは祖父(86)と孫のコラボレーションでお送りします。
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