10代だった時の男の夢は、幹部自衛官になることだった。 50年前の1972年2月、長野県軽井沢町にある「あさま山荘」に人質を取って立てこもった連合赤軍メンバー、当時25歳の坂東国男容疑者だ。3年後、日本赤軍がマレーシアの米大使館を占拠したクアラルンプール事件で人質交換による超法規的措置で出国。山荘に籠城した5人の中でただ1人、今も逃亡している。 京都大在学中に、武装闘争による革命を目指して赤軍派に入り、その後連合赤軍を結成。日本を離れた後は日本赤軍に合流してパレスチナ闘争に加わった。武闘派として知られ、連合赤軍時代には「同志粛清」に手を染めた。そんな「革命戦士」の意外な一面を私が知ったのは、警視庁公安部の担当記者だった19年前、坂東容疑者の母との出会いが契機だった。(共同通信=三井潔) ▽そっくりな両目 小雪が舞う冷え込む冬の夜だった。大津市にある坂東容疑者の実家に、当時80歳で1人暮らし

約半世紀にわたる潜伏生活から昨年9月に姿を現した過激派「中核派」最高指導者の清水丈夫議長(83)が27日、東京都内で会見した。公の場で活動する方針に転じた理由を「資本主義をぶっ倒すために闘わなければならない。全労働者階級人民に訴えようと思った」と述べた。警察は活動の活発化を警戒する。中核派は1963年、「革マル派」と分裂して発足し、安保闘争や成田空港反対運動を展開。多くのテロ、ゲリラを実行し、71年に警察官が殺害された「渋谷暴動事件」を起こした。清水氏は会見で、渋谷暴動事件を「安保・沖縄闘争の発展の中でどうしても必要な闘争だった」と振り返り、人命が失われたことは「階級闘争だから仕方ない」と述べた。

3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか? 彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。 それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。 この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。 1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある) 都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。 そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置

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