(産業図書・3990円) ◇視覚と知性の近代史 一貫性の再確認 人の心は外へ開かれた窓であり、その窓枠が現象を切り取り、窓の外側に自然界、内側に自己が生まれたときに認識が成立する、というのは広く認められた常識だろう。著者はほぼこの常識に沿いながら、しかし関心の的を自然界でも自己でもなく、中間に立つ窓そのものに絞りこみ、彼女が「ヴァーチャル」と呼ぶその性質を徹底的に分析する。 「ヴァーチャル」はとかくコンピュータ技術との関連で、電子的に造られた映像だけをさすように思われがちだが、著者はそうした現代を特別視する歴史観を厳しく退ける。この語のラテン語の語源に戻り、十七世紀以後の光学の術語も参照しながら、独特の定義を提唱する。それは純粋に観念的なイメージでもなく、かといって混沌(こんとん)たるなまの現実でもなく、ある物質的な基盤のうえで整理され形成された認識像にほかならない。 十五世紀のアルベルテ
男性のセックスがつまらないと言われてしまう理由はいくつかあると思うのだが、とりわけ「感じさせること」にこだわる男のセックスはつまらない場合が多いように思う。テクニックのことを言っているのではない。テクニックは磨けば上達する。身も心も溶け合うようなセックスをして満足できるような男が少ないということだ。「感じさせること」にこだわっていては解け合うようなセックスにはならないということなのだ。 多くの男はセックスで自分が感じることよりも女を感じさせることにこだわる。そのことが男としての存在価値の問題であるとさえ思っている人もいるだろう。自分はこだわっていないと思う人もいるが、相手も同じように思っているとは限らない。実際はほとんどの男性が「感じさせること」にこだわっている。そしてそのことに気づいていない人が多い。 「感じさせること」にこだわる男は、自分が身も心も溶けて満足するのではない。 女があられ
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