(註:記事の中に、第一話のネタバレを含みます) 作品の感想 まずナタリーから引用します ゆうきまさみ10年ぶりの新シリーズを月スピで始動 http://natalie.mu/comic/news/89651 ゆうきまさみのシリーズ作品「でぃす×こみ」が、本日4月27日に発売された月刊!スピリッツ6月号(小学館)にてスタート・・・(略)マンガ家を目指す少女と、その兄を描いたコメディ。少女の作品が新人賞で大賞に選ばれ、その授賞式から物語は始まる。喜ばしいはずの席で、少女はなぜか浮かない顔。第1話では、受賞の裏に隠された秘密が 一読、30年選手のゆうきまさみが、ほいっと引き出しを開くと、まだ見ていなかった新しい才能、新しい魅力を持っていたことにただただ驚嘆するばかりだった。なんと言っても、コメディとしてのリズムがいい。上質の落語やコメディのように、大きな筋書きと、小さな場面のくすぐりが共同して、
「承認」の話が自分の観測範囲内でちょくちょく見られるので後出しじゃんけんをしてみる。「ロスジェネ」のシンポでも色々話が出たようだが、パフォーマンスと言えどナイーヴな議論も出たようで、またいくつかの議論はその焦点がぼやけているものもある、と思ったので書いてみた。彼女が出来れば、セックスできれば、コミュニティに所属すれば、作品を認めてもらえれば、「承認」にまとわり付く諸問題は解決する、というわけではない。問題はその深層にある。 自己の連続性としてのアイデンティティ 「承認」と一口に言ってもそれは様々なコンテクストの中で語られ、また意味を持つ。だからこそはてな村で延々と議論されまた車輪の再発見をもたらしうるのだが、それではちょっとノイズが大きすぎるので、社会学者のアンソニー・ギデンズに拠って(彼の)「アイデンティティ」論に置き換えてみる。 まずは引用から。 自己アイデンティティは、生活史という観
1.本質主義批判と異種混淆性論 ポストモダン人類学と呼ばれる人類学の潮流は、文化の本質主義批判から始まったと言えるでしょう。本質主義とは、文化によって規定された人間分節(人種や日本人やマサイ族といった民族、あるいは女性やゲイなど、ジェンダーやセクシュアリティに結びつく分節)をそこに帰属する人々の変わらぬ本質と捉えるとか、先住民族のエコロジカルな文化などというときの文化のカテゴリーを土地や民族と本質的に結びついたものと見なす思考を言います。そのような本質主義への批判は、文化の「異種混淆性(ハイブリディティ)」と「脱領土化( deterritorialization )」(ガルシア=カンクリーニの定義によれば、「文化と、地理的・社会的領土[テリトリー]の『自然』な絆の喪失」)への肯定的評価という論点を伴っていました。つまり、「あらゆる文化は構築されたものであり、異種混淆的であり、土地を離れて移
以下の文章は先頃刊行された伊藤剛の著作『テヅカ・イズ・デッド』を読んでの感想であります。とはいえ書き始めたらとまらなくなり、内容紹介を含めて相当な分量になってしまいました(しかも、まだ書き終わっていない)。マンガ論としては久しぶりに出た本格的な理論的著作であり、2年半に及ぶ本書の「産みの苦しみ」のプロセスを友人として端から見ていただけに、個人的にも感慨深いものがあるのは確かであります。 マンガ表現やマンガ史における新見解をいくつも含んだ野心作で、かなり専門的な内容(価格も専門書的)ですが、難解な用語をことさらに駆使しているわけではなく(むしろそれは最小限に抑えている感じ)、マンガ表現に関心のある人なら、一度は目を通して損はない出来だと断言できます。この感想はまだ執筆途中ですが、なかなか終わらないので「短期連載」にしました。本書における伊藤くんの論旨には私自身のマンガ観にも反省を迫る部分があ
タイトルにあるし、かねてから戦後民主主義者と自称していた氏だけあって、当時アメリカに追従しイラクに自衛隊を派遣した日本政府を、そしてそれに明確な反論をできないでいる言論人を、さらに空気的には支持していた(と思われる?)日本国民を批判する内容になっている。 ぼくが大塚英志の文章に受けるイメージはいつも同じで、一言で言えばそれは「泥臭さ」だ。とうとうと、愚直に、同じ主張を何度も何度も続ける。もうわかったしつこいよ、と思ってしまう時もあるし、その独善的な主張が不快になるときもあるが、反面、その泥臭さにカッコよさを感じているところも、否定できない。 しかし、今回この本を読んで、単に独善的なだけなんじゃないか?と感じてしまった。 今回もその主張はいたってシンプルだ。「戦争はよくない(反戦)」であり、「声を挙げろ」だ。くだんから、大塚氏は「言葉」の重要性を説いてきた。今回もその延長線上に問題は設定され
ヒトラー独裁下のジャーナリストたち (朝日選書) 作者: ノルベルトフライ,ヨハネスシュミッツ,Norbert Frei,Johannes Schmitz,五十嵐智友出版社/メーカー: 朝日新聞社発売日: 1996/08メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 12回この商品を含むブログ (2件) を見るヒトラー独裁下になると左翼系やユダヤ系のジャーナリストは早々に追放されたが、主流派ジャーナリストの多くはナチの検閲の下で活動を続けた。ナチ政権下という状況でジャーナリズムがどうなっていったかをジャンル毎に概説したのがこの本。現在の日本のジャーナリズムにおいても起こっているだろうと想像されるような出来事がキッチュな形で先鋭化して現れていた時代だったのだな、というのが読後の印象。異常な状況にはちがいないのだが今の日常と地続きな世界でしかないのはたしかだ。本編はヒトラー独裁下での事象が主な対象
これはいろんなテーマがやや雑多に詰め込まれた感のある本ですが、本ブログの関心からすると、何よりもまず第3章、第4章のあたりで論じられている「マイノリティ憑依」の現象が、例の赤木智弘氏を悩ませた日本的「リベサヨ」の歴史的原点を見事にえぐり出しているという点において、大変興味深い本です。 http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334036720 佐々木氏によると、その出発点は1965年、『ドキュメント朝鮮人 日本現代史の暗い影』という本にあります。それまでもっぱら被害者としてのみ自分たちを見ていた日本人に加害者意識を初めて提起したのです。それに続くのはベ平連の小田実。そして出入国管理法案をめぐる華僑青年の自殺から引火した華青闘の7・7告発。それらを総括するような形で著された津村喬の『われらの内なる差別』。 こういう流れを佐々木氏は「マイノリティ
これまでご愛顧いただきました「五十嵐仁の転成仁語」を、こちらに引っ越しました。今後とも、よろしくお願いいたします。 吉本隆明が死んだそうです。最大級の評価と追悼の言葉が、テレビや新聞で報じられています。 昨日の朝7時のNHKニュースのトップが、吉本の訃報でした。夕刊各紙も、多くの紙面を割いて業績を紹介したり、その死を惜しむ言葉を掲載しています。 「戦後思想の巨人」とか、「戦後の思想界を代表する評論家・詩人」だなどという賛辞が溢れていました。あの石原慎太郎知事までが、「権威に反抗するオピニオンリーダー。1つの世代の象徴的な存在だった。残念です」と悼んだというのですから、呆れてしまいます。 慎太郎に評価されるようになったらお終いです。吉本もその程度の「思想家」だったということでしょうか。 しかし、忘れてならないのは、吉本の思想と言説が全共闘運動や新左翼の学生達に多くの影響を与えたということです
残念なことに日本社会では理知的でフラットな議論は相手を選ばないとできない。そしてブログは公開する相手を選べない。Webがそういう同調圧力を飛び越えて個を確立するツールとなることを期待してはいるが、今のところ日本語圏ではネット上に別の世間をつくって新たな同調圧力を増幅させているかにみえる。 例えば日本語のブログで或る予算の使い途について課題を整理しつつ建設的な提案をしても「このエントリーを財務省が読んだら仕込んでいる政策玉に予算が下りない」とか勝手に慌てて国会議員に報告がいき、取引先のお偉方から勤務先の役員に「こんなことを書く社員を放置していると、御社はこの案件から外されますよ」とか丁寧にご注進して下さる。それが日本的ムラ社会の現実だ。 たまたま話の分かる役員なら「ちゃんと個人的な意見と断っているし、正しい当たり前のことしか書いてないじゃん」で済むとして、普通の日本企業じゃ「正しいか否かの問
上の図は、今年春(3月)の段階での女性ファッション誌のポジショニングマップです。 4年前にも、私は『日経エンタテインメント!』2004年9月号、三浦展著『かまやつ女の時代』、同『下流社会』のための調査で、女性ファッション誌のマップを創りました。それはここでも発表しましたが↓、その続編ということです。http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20041224/p2 今回の図は、先日発売された南田勝也・辻泉編『文化社会学の視座』(ミネルヴァ書房)に私が寄せた論文「差異化コミュニケーションはどこへ向かうのか」のために創ったものです。 4年前と違い、今回は網羅している世代の中心に雑誌のタイトル名を置きました。たとえば『CanCam』は「コンサバ→専業主婦」の23歳あたりに置かれていますが、実際の読者は10代後半から20代後半まで幅広いです。・追記:「『装苑』や『SPUR』や『
とはいっても授賞式そのものには都合で行けず、『PLUTO』組のパーティです。 手塚治虫文化賞では、授賞式のあと各受賞者ごとにパーティを開くのが通例になっているようですが、選考委員を含めた「マンガ評論家」スジは、その各パーティに分かれて流れるのだそうです。夏目房之介さん(ブログに授賞式に行って来ました、という記述がありますね。http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/003488.html)によると、呉智英さんや村上知彦さんらは、こうの史代さんのほうに流れたんじゃないかということでした。 『PLUTO』組のパーティに来ていたのは、夏目さんをはじめ、藤本由香里さん、ヤマダトモコさん、マット・ソーンさん。ぼくは「評論家」ですが、「元アシスタント」でもあるので、立場が二重です(笑)。マンガ家の星野泰視さんほか元アシ仲間と久しぶりに会えたのはとても
最近、シノドスが「障害者」に言及した記事をよく掲載している。これまで「論壇」的なものの中であまり扱われなかったものに注目が寄せられる背景には、きっとこの記事のような時代診断があるのだろう。 生き延びるための「障害」――「できないこと」を許さない社会 荒井裕樹 http://synodos.livedoor.biz/archives/1902249.html これは「発達障害者」の現況や支援のあり方を示そうとして書かれたものではない。「障害」にまつわる言説が「発達障害」のような白黒のはっきりさせにくい「障害」の存在によって拡張されて、たとえば精神医学的には必ずしも正確ではない「俺は『コミュ障』だから」のような使われ方が日常的な場面でも広まりつつある事態に、社会の側にある「非寛容」からわが身を救おうとする人々の生存戦略を見出そうとするものだ。 障害の「社会モデル」的理解というのは何らかの意味で
最近、外国人への生活保護支給は違法であるという意見をよく見かけるのですが、これについて根拠を問うと2010年10月18日大分地裁の判決を持ってくる、というパターンが増えています。 何故判を押したようにみんな同じ事を言うのか気になっていたのですが、これ、wikipedia-生活保護のページに記載されていたんですね。 外国籍者への保護支給裁判 2008年12月に永住権を持つ大分市内の中国籍の女性が市に生活保護を申請したが却下され、女性は不服として訴訟を起した。 2010年10月18日大分地方裁判所(一志泰滋裁判長)は「外国人には生活保護法の適用はない。永住外国人も同様」「外国人の生存権保障の責任は第1次的にはその者の属する国家が負うべきだ。永住外国人でも、本国に資産があるかどうかなどの調査が難しく無条件に保護を認めることになる」とし、生活保護法の適用は日本国籍を持つ者に限られるとして請求を棄却
最近、都市部の消費者の農民バッシング的な言説を聞くと無性に腹が立つ。 腹が立つのは、農民の味方をしたいというより、余りにも無知・無理解が甚だしいく、無責任だからだ。 消費者と生産者をまるで対立構造にあるように煽る言説は80年代後半から目立つようになった。なぜか政治評論家やマスコミが急に「日本の消費者は高いものを買わされている。」「消費者は主張すべきだ。」的な消費者利益を持ち出し、補助金で農民が濡れ手で粟の如く利しているようなバッシングが増えたのである。 背後にアメリカと日本の財界・マスコミがあった。アメリカの外交戦略は巧妙で、「パブリック・ディプロマシー」という相手国の世論を直接喚起する手法も多用される。アメリカは日本に牛肉・オレンジ輸入自由化を迫る際、政治的な圧力と同時にこの手法により日本の財界・マスコミを利用して「消費者利益」「消費者と生産者の利害対立」を宣伝したのだ。それまで財界は社
明確な根拠や裏付けはないが、パクリ騒ぎに見られるヒステリックな態度は、オリジナリティを得ることができずそれゆえにオリジナリティという概念を過度に美化するレプリカントたちが、オリジナルを標榜する者たちへの二律背反の憧憬と嫉妬の感情を爆発させた結果であるように見える。ここではオリジナリティを有するとみなされた存在は崇められ、そして、オリジナリティを標榜しながらそれが偽りであったとみなされた存在は許し難いペテン師として攻撃される。 先日、サイコドクターぶらり旅の風野氏の文章が「ブラックジャックによろしく」に一部改変された形で無断利用されるという出来事があったとき少しだけ触れたが、最初に風野氏が類似に気づいて記事にしたとき、2chから殺到してきたと思しきコメントの大半が風野氏を非難する内容だった。そして、そこには「素人の一ブロガーごときがちょっと内容が似ていたくらいでオリジナリティを標榜するなどと
ひところフリーターは「怠けている」「責任感がない」「身勝手だ」「自由気まま」と大人たちに批判された。いまはそれがひっくり返って、「貧困だ」「転落だ」「哀れ」「格差」「一生はいあがれない」と悲愴な目で見られるようになった。 「怠け」や「責任感がない」と罵られている最中に進行していたことは、若者たちの雇用の排斥や切り下げであったことが、さいきんの認識としては一般的になってきた。ということは、フリーター怠け言説は、若者を大人たちの「正社員共和国」から放り出すさいの煙幕や、若者を切り捨てる際の良心の痛みを緩和してきたということができると思う。 一方では「怠けている」「やる気がない」と叱っておきながら、一方では若者から雇用を奪い、年金や健康保険の折半を廃棄し、月給から上らない時間給へと切り下げ、解雇が容易で短期の雇用に切り替えていたのである。「怠けている」「怠けている」と個人や本人の資質の問題に帰し
さて、伊藤剛の「つまらなくなった言説批判」であるが、伊藤がどこまで意識したかは知らないが、かなりの部分私(竹熊)にも当てはまる耳の痛い批判にもなっている。というのは、そもそも私が相原コージと『サルでも描けるまんが教室』(復刊計画が進行中。続報は後日!)を始めた最大の動機が、まさに「最近のマンガはつまらなくなった」という実感にもとづいているからなのだ。 そこでマンガの「様式」をパロディ化することで、この際一度、徹底的にマンガを解体してしまおう、というのが私と相原の共通認識であった。当時進行しつつあった商業主義的マンガ状況に対し、相当の悪意を持って始めた連載だったのである(しかもそれをスピリッツという「100万部の商業雑誌」で描いたところがミソ。よくあんな不届きな連載をさせてくれたものだと、編集部には感謝している)。ちょうど手塚治虫が死した8ヶ月後に『サルまん』の連載を開始したという事実も、偶
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