俳人小林一茶(上水内郡信濃町出身)の作品を評する正岡子規の自筆原稿が25日までに、長野市戸隠の民家で見つかった。原稿の1枚目(写真)には「一茶の特色は主として滑稽、諷刺(風刺)、慈愛」などとつづり、訂正した様子も残っている。 明治時代を代表する俳人・歌人正岡子規(1867~1902年)が、上水内郡信濃町出身で江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827年)の作品などを収めて1897(明治30)年に刊行された「俳人一茶」に寄稿した自筆原稿が25日までに、長野市戸隠の民家で見つかった。一茶の俳句を高く評価した内容がつづられている。子規記念博物館(松山市)によると、子規の自筆原稿は散逸するなどして現存数が少なく、全国的にも非常に珍しい。 同館によると、子規自筆の書簡や短冊は多数確認されているが、原稿は、同館が把握する限り20点に満たないという。 一茶研究家で子規にも詳しい矢羽(やば)勝幸・二松学舎
岡谷市川岸東の宮沢紀子さん(71)の自宅の土蔵から、三省堂(東京)が1911(明治44)年に発行した国語辞典「辞林」と、15(大正4)年発行の漢和辞典「漢和大字典」が見つかった。同社によると当時、辞書は高価で、一般家庭に良好な状態で保存されているケースは珍しいという。古びたページから、約100年間の言葉の移ろいを知ることができる。 宮沢さんがことし1月、土蔵を整理していたところ、戸棚から見つかった。宮沢さんの夫の曽祖父は地主だったというが、購入の経緯ははっきりしないという。 2冊とも、表紙や中身に破れはなく、字もはっきり読める。このうち辞林は1661ページ。「総理大臣」を引いてみると「内閣総理大臣の略言」のほか「何も彼(か)もの世話を焼く人をあざけりていふ語」との表記も。「自動車」は「形は殆(ほとん)ど馬車のごとく、瓦斯又(ガスまた)は電気発動機を装備し…」。カタカナ語は「タイヤ」(ゴ
作家夏目漱石(一八六七~一九一六)が一九〇九(明治四十二)年、旧満州(中国東北部)の新聞に寄稿した文章が見つかった。全集未収録で、初代韓国統監伊藤博文が独立運動家安重根(アンジュングン)に暗殺された事件への驚きや、満州を旅行した見聞などが記されている。 (大日方公男) 寄稿文は「韓満所感」と題し、日本語の「満洲日日新聞」に同年十一月、上下二回に分けて掲載された。作家の黒川創さん(51)が二〇一〇年、韓国で購入した安重根に関する資料集に、この寄稿文が切り張りされて載っていたのを見つけた。 漱石は十月半ばまでの一カ月半ほど、南満州鉄道総裁だった旧友・中村是公の招きで朝鮮半島や満州を旅した。ハルビン駅で伊藤博文を狙撃した暗殺事件は、帰国後の十月二十六日に起き、満州で漱石の世話をした知人らも巻き込まれて負傷した。
■響き合う母子の思い見いだす 評者が幼い頃、ピアノ初学者にはバイエル教則本と決まっていた。長じて子を得、ピアノ教室に通わせたところバイエルは消えていた。90年代「古くさいだけで特に優れているわけでもない(バイエル)教則本を、後生大事に使っているのは日本だけ」と指摘されたのが原因のようだ。 ではバイエル教則本とは何だったのか。本当に「古くさい」だけだったのか。なぜ100年以上も日本で使われ続けたのか。といった疑問が湧く。 作者フェルディナント・バイエル自身、謎の人物だ。分かっているのは生没年月日や、芳しくない音楽的評価くらい。実在の人物かという水準で疑わざるを得ないほど情報が少ない。初版を出版したドイツのショット社にも人物像につながる情報はない。 著者はアメリカのニューイングランド音楽院経由で、明治時代に日本にバイエル教則本が入り、戦後、ピアノの普及と、音感教育など日本独特の教授法の進化に際
鹿島商店街を“博物館”に 2012年3月16日 00:42 カテゴリー:九州 > 佐賀 明治時代に矢野酒造で使われていた磁器製の酒だる。容量は約180リットル。現在、特注で製造すると200万円以上かかるという 鹿島市中心部を博物館に見立て、地域のお宝を商店や事務所に展示した「まちなか博物館」が、同市のスカイロード商店街一帯で開催されている。まちににぎわいを創出しようと鹿島商工会議所が初めて企画した。江戸時代に発行された「重訂解体新書」や昭和のカメラなどの貴重な品々も並んでいる。31日まで。無料。 会場はJR肥前鹿島駅から南西方向に伸びている商店街。酒蔵、薬局、料亭、呉服店など26の店舗・事業所にそれぞれの“お宝”が展示されている。 江戸時代の藩医で、織田信長の実弟・織田有楽斎長益の三男・俊長の子孫が経営する織田病院では、別館の資料室に文政9年(1826)に発行された「重訂解体新書」や江
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