茅野市蓼科を仕事場にした日本映画界の巨匠、小津安二郎監督と脚本家の野田高梧さんが蓼科でつづった日記をまとめた「蓼科日記抄」が完成し、編さんを担当した刊行会(山内静夫発起人代表)は28日、小津監督ゆかりの蓼科の山荘「無藝荘」で出版会見を開いた。小津映画の誕生秘話を知る「最後の未公開一次資料」で、山内代表は「映画文化、日本文化のプラスにしてほしい」と願った。 刊行事業は刊行会事務局長の北原克彦さん(65)=原村=が18年前、茅野市で「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」を始めるために野田家を訪れ、蓼科日記を見たのがきっかけ。2007年の映画祭で野田さんの長女山内玲子さん(故人)が承諾したのを契機に、小津家からの了解も得て、編集を進めてきた。 小津組プロデューサーの山内代表と、小説家の故小津ハマさん、野田陽子さん(野田家)、松竹会長の大谷信義さん、茅野市の柳平千代一市長、矢崎和広前市長らが発起人
■我々はどんな場所にいるのか 読み終えた時に、描き手の気迫や覚悟というものが、静かに伝わる作品に出会うことがある。このまんががそうだ。 内容は戦場もの。廃墟(はいきょ)のような都市を舞台に、政府側の兵士である子どもたちが反政府勢力と戦う姿が描かれる。昔から長く続く戦いの理由は、もはや風化してよくわからない。街の中心にある塔を守るため厳しい戦闘が繰り広げられるが、その塔が何なのか、なぜ守るのか、いまや戦場では誰も知らない。ただ、命をかけたギリギリの戦いの日々が虚(むな)しく続いていく。 軽々しく人が死ぬ戦場で日常を送りながら、実直に戦う子どもたちは、決して鈍感なのではない。むしろ敏感で繊細すぎる者たちが、受け入れる以外にないこの現実に、自分なりに向き合おうとする姿が、さまざまなエピソードで描かれる。 世界の成り立ちに不条理さを感じたとしても、決して揺るがない圧倒的な現実を前にして、選びようも
■何げない日常、繊細に美しく 学園ギャグ風のタイトルとは裏腹に、ガラス細工のような美しさと危うさを秘めた物語だ。 舞台はとある田舎町。小学4年生の少女・きらは、書店員で水泳の臨時教員である“赤パン先生”こと鮎川に幼い恋心を抱いている。一方、彼女の年の離れた異母姉で中学の国語教師である庸子もまた鮎川の明朗な人柄に惹(ひ)かれていて……。 そんな一種の三角関係を縦糸に、何げない(でも小学生にとっては波瀾〈はらん〉万丈な)日常を繊細かつ瑞々(みずみず)しい筆致で紡ぐ。きらめく世界、高鳴る鼓動、友達とのすれ違い。それらに一喜一憂する純真無垢(むく)な妹と、子供時代の体験から自己肯定感を欠く姉のコントラストが胸を刺す。もやもやした感情でいっぱいに膨らんだ風船を抱えているかのような緊張感が背中を這(は)う。 ここで見逃せないのは、作品全体の根底に脈打つ作者特有の生々しい身体感覚だ。自分が泳いでいるかの
ここに一枚のスケッチがある。のどもとのつまった貧しい服装をした中年の女がドアの前に佇み、永年の力仕事で節の大きく高くなった手で、そのドアをノックしている。貧しさの中でも慎しみぶかく小ざっぱりとかき上げられて、かたく巻きつけられている髪。うつむいている顔は、やっと決心して来た医者のドアの前で、自分の静かに重いノックにこたえられる内からの声に耳を傾けているばかりでなく、その横顔全体に何と深い生活の愁いが漲っていることだろう。彼女は妊娠している。うつむきながら、決心と期待と不安とをこめて一つ二つと左手でノックする。右の手は、重い腹をすべって垂れ下っている粗いスカートを掴むように握っている。 「医者のもとで」という題のこのスケッチには不思議に心に迫る力がこもっている。名もない、一人の貧しい、身重の女が全身から滲み出しているものは、生活に苦しんでいる人間の無限の訴えと、その苦悩の偽りなさと、そのよう
まぁ見出しは演出ですが。政治的な左右を問わず、相変わらず汚い言葉で自分の感じている正義を主張する大小の声にちょっとうんざりして。 単なるウツ状態がひどいだけでしょうか。毎日毎日、風が強くて寒いので、何もかもが嫌になる。ブログはじめた人が最初に思うことは何なんだろう。単なる自分の日常の覚書メモ? だったら自分だけに見える日記でも自分のパソコンの中に書いておけばいい。ぼくもそういうの書いてます。この「はてなダイアリー」はじめる以前から。なんかブログ者(ブロガー)には、自分の発言(テキスト)で、世界が変わるかもしれない、という幻想は絶対にあると思う。ないとは思えない。でもそんなに簡単に世界(ネット界)は変わらないのだった。ただ、自分は変わるね。少なくとも汚い言葉は使わないようになった(使わないように、意識しているんだけど、まだ多いかな)。それによって人を煽る効果よりも、静かな言葉で人を沈静させ
先日の砂丘地帯での調査中の出来事です。 ティジャニ「隊長! 向こうに何か見えるでやんす」 隊長「なぬ? 前進あるのみ!」 隊長「な、なんやコレは? とりあえず発掘や」 隊長「こ、これは・・・。ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞小説家の朱野帰子さんの「海に降る」ではないか!!!」 と、茶番はここまでにしといて、実は昨年の頭に朱野さんが御著書をわざわざモーリタニアに送ってくださったのです。 6か月かかって無事に届いたので、とりあえず埋めてみた次第です。 (人様の著書を地面に還してしまい申し訳ございません) この本は、深海に思いを馳せる男女の夢を「しんかい6500」という潜水艦を通して描いたドラマチックな物語です。 海の底に潜るための潜水艦の定員は決まっている。 パイロットのイス。研究者のイス。 そのイスを巡るドラマ。そして、男の人生をも惑わした深海に潜む謎の生物とは一体。 簡単に読書感想文しますが、
0 翻訳について 1 知識社会学、科学社会学の既存の立場に対するリンチの評価 (1) マンハイムについて、(2) マートンとその仲間たちについて、(3) 科学知識社会学におけるストロングプログラムについて、(4) 経験的相対主義(コリンズ)、(5) 構築主義的なラボラトリースタディーズ(ラトゥール、ウールガー、クノール=セティナほか)、(6) ポスト構築主義 2 リンチ自身の対案 3 リンチの評価 3-1 実験室の占める位置、3-2 科学的合理性との距離をめぐって、3-3 なぜ「通常科学」なのか 4 まとめ 付録 翻訳に疑問をもったところ エスノメソドロジーそのものに関する議論は今回は荷が重いので、主に科学社会学をめぐるリンチの分析、批判と、それに対するリンチの対案というあたり(つまり第二章、第三章プラス第七章の一部)を中心に検討したい。 0 翻訳について 原文もなかなかの難物だが、翻訳も
理数系ネタ、パソコン、フランス語の話が中心。 量子テレポーテーションや超弦理論の理解を目指して勉強を続けています! 先日、このブログの理数系書籍の紹介記事が200冊に達した。4分の3ほどが大学、大学院の教科書レベルの物理学書や数学書、残りがブルーバックスに代表されるような一般向けの本だ。 記事で紹介した物理学と数学の本は「書名一覧」でご覧いただけるほか、ブログの「記事一覧(分野別)」にまとめてある。また、最近読み始めた電子工学系の本の記事は「電子工学」のカテゴリーで検索できる。 物理や数学の教科書や専門書を読んだことがない人は次のように思っているかもしれないから、この膨大な読書体験で何が得られたか、僕がどう感じたかなど感想を書いておくのもいいかもしれない。 - これだけたくさんの本を読むと、どのようなことがどれくらいの深さで理解できるようになるのか? - いろいろな疑問が解決することで、自
問われているのは、私たちの 集団的な 《技法》 です。 そして、 主観性や関係でつまずく以上、「病人だけ考えればよい」というわけには、いきません。 たとえば「臨床」といっても、文字通り「床に臨む」ではなくて、職場や学校、家庭等の《日常》そのものがテーマになる。何かを意識すること、言葉づかい、社会的行為そのものが、「臨床上の」現場になる。つねにすでに、苦痛緩和や技法が問われています。*1 「めんどくさい」というなら、それが積もり積もって、環境は悪化するでしょう、むしろ少しずつ意識したほうが、お互いにラクになれる――それは間違いないのですが、それがなかなか出来ない。 これは、「飛びぬけた人だけが出来ても、うまくいかない」問題でもあります。 以下、作品づくりとその環境についての、竹熊健太郎氏のツイートより(参照): [承前]その代わり、作品を産み出す側に身を寄せようと。あえていうなら「状況」に加
ちょっと前にTwitterのマイタイムラインで、品川駅の港南口がすごいという話題が出た。港南口は改札から外に出るまでがけっこう距離があり、幅が広い回廊型になっている。屋根がガラス張りで外光を取り込む作り。まあそれは別に珍しくないのだが、この回廊の両側の柱にデジタルサイネージ用大型液晶モニタがずらっと設置されていて、天気予報やらドリンク剤やらITソリューション関係の広告を流しているのだ(無音で)。朝の出勤ラッシュの時間帯にはこの回廊を一方向へ向けて黙々と早足で歩くスーツ姿のサラリーマンが埋め尽くし、まるでSF映画のディストピア的超管理社会のワンシーンのようだ、という話だった。天井から差す朝の光も合わさって、漂白された「清潔な」光景の中、ソフィスティケートされたプロパガンダが街中のいたるところから我々を無言で監視し、無個性な服を着て毎朝粛々と出勤する……的なね。そういうすごい「俺たちの好きなデ
むしろ、私たちの日常が曝露されている。 あのとき、大川小学校で何が起きたのか 作者: 池上正樹,加藤順子出版社/メーカー: 青志社発売日: 2012/10/24メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 18人 クリック: 2,098回この商品を含むブログ (8件) を見る 行きなれた目の前の山に逃げれば、*1 亡くなった子どもたち74人が全員助かっていたのに、 地震発生から50分間も校庭に待機させた。 「山に逃げよう」と声をあげた子どもたちもいたのに、 わざわざ連れ戻してまで校庭にいさせた。 その事実を市長や教育関係者が徹底的に揉み消し、 時間のつじつまをごまかし、聞き取りのメモを捨て、 「頑張って逃げようとしていたが、間に合わなかった」 ことにした。 制度の前提がおかしい 「学校管理下で死亡事故が起きた場合の対応として、報告しなければならないという法律の根拠がないのです」(文部科学省の「
医療や介護の世界では、栄養補給の手段として流動食がよく用いられる。普通の食事が摂れない人も何も食べなければ飢えて衰弱してしまうから、そういう人にとって、流動食は命綱になる。食べる機能が回復不可能な場合は、いつまでも流動食を使い続けなければならないかもしれない。 メンタルヘルスの世界でも、あたかも似たようなことが起りがちだ。“承認欲求の流動食”“自己愛の流動食”で心の飢えをしのいでいる人をあちこちで見かける。それどころか、すっかり依存してしまって、並みの心理的充足が難しくなってしまっている人もいるようだ。 人間は、心理的に充たされる体験無しでは心が飢える 人間のメンタルは、心理的に充たされたと感じられない状態が続くと衰弱してしまいやすい。ストレスを回避するのも大切だが、そこそこの頻度で心理的に充たされたと体験できなくてもキツくなる。もし、心理的に充たされたと感じない状態が長引くと、ストレスや
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