今から90年前の関東大震災の復興住宅として建てられた「同潤会アパート」と呼ばれる集合住宅のうち、唯一残っていた東京・上野の建物の本格的な解体工事が17日から始まりました。 同潤会アパートは大正12年の関東大震災のあと、復興住宅として建てられた当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの集合住宅で、日本の集合住宅の草分けと言われています。 このうち唯一残っていた東京・台東区の「上野下アパート」の解体工事が17日から始まり、関係者やかつて住んでいた人が見守るなか、作業員が大型の機械で建物の壁を壊していました。 このアパートは、昭和4年に建てられた4階建ての建物で、当時、都市に集まってきたさまざまな住民のため家族用と独身用の部屋、それに集会所や店舗がありました。 3階で暮らして1階で理髪店を営んでいた角田守男さん(50)は「生まれたときからここに住んできたので、無くなってしまうのかと寂しく感じますが
トップ > 愛知 > 6月11日の記事一覧 > 記事 【愛知】 瑞陵高旧講堂 保存検討へ 知事表明、河村市長と13日視察 Tweet mixiチェック 2013年6月11日 大正時代に建てられた瑞陵高の旧講堂「感喜堂」=名古屋市瑞穂区で 大村秀章知事は十日の定例会見で、一九二四(大正十三)年築の県立瑞陵高校(名古屋市瑞穂区)の旧講堂「感喜堂」を保存できないか検討すると表明した。旧講堂は名古屋市内の県立高校で最も古い歴史的な建物。大村知事と河村たかし名古屋市長が十三日、現地で老朽化の状況などを視察して判断する。 旧講堂は鉄筋コンクリート一部木造の平屋建てで、四百二十平方メートル。講堂や図書館などとして使われた後、一九七九(昭和五十四)年から定時制の生徒の食堂として活用されている。県教委は「特別な建築様式ではない」としているが「歴史があり、文化財的な価値はある」と評価する。 県内の県立高校に
マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905−1995 著者:ヴォルフガング・シュヴェントカー 出版社:みすず書房 ジャンル:社会・時事・政治・行政 マックス・ウェーバーの日本 [著]ヴォルフガング・シュヴェントカー本書は、日本のウェーバー研究の内容を、大正時代から現在にいたるまで詳細に検討するものである。実は、ウェーバーは日本で、ドイツで以上によく読まれてきた。にもかかわらず、日本人のウェーバー研究はドイツでほとんど知られていなかった。したがって、本書がドイツの読者にとって役立つことは当然であるが、日本人にとっても、いろいろと考えさせる事柄を含んでいる。 日本は、非西洋圏で唯一、近代資本主義国家となった。その理由を問うために、日本人は特に、ウェーバーの理論を必要としたといえる。しかし、ウェーバーが広く読まれるようになったのは、1930年代、天皇制ファシズムが席巻し、マルクス主義運動
岡谷市川岸東の宮沢紀子さん(71)の自宅の土蔵から、三省堂(東京)が1911(明治44)年に発行した国語辞典「辞林」と、15(大正4)年発行の漢和辞典「漢和大字典」が見つかった。同社によると当時、辞書は高価で、一般家庭に良好な状態で保存されているケースは珍しいという。古びたページから、約100年間の言葉の移ろいを知ることができる。 宮沢さんがことし1月、土蔵を整理していたところ、戸棚から見つかった。宮沢さんの夫の曽祖父は地主だったというが、購入の経緯ははっきりしないという。 2冊とも、表紙や中身に破れはなく、字もはっきり読める。このうち辞林は1661ページ。「総理大臣」を引いてみると「内閣総理大臣の略言」のほか「何も彼(か)もの世話を焼く人をあざけりていふ語」との表記も。「自動車」は「形は殆(ほとん)ど馬車のごとく、瓦斯又(ガスまた)は電気発動機を装備し…」。カタカナ語は「タイヤ」(ゴ
【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況 作者: 金川英雄出版社/メーカー: 医学書院発売日: 2012/09/14メディア: 単行本購入: 36人 クリック: 943回この商品を含むブログ (7件) を見る 90年前の大正時代にはすでに精神病者に対応するための法制度もある程度はあったし、精神病院なんてものもあったわけだが、むろんみんながそこに入れたわけではなく、相当部分の精神病者――ボケ老人もかなりいるが、25-40歳くらいが大半――は家族が座敷牢を作ってそこにぶちこむしかなかった。その実態を調査したもの。著者の呉秀三は東京帝国大学の医学部の先生。精神病で呉というと、どうしてもドグラマグラを連想してしまうんだけれど、そういう関係はどうもないみたい。 あちこち農村に分け入ってはその実態を淡々と書いており、その収容されている座敷牢の平面図、患者の状況その他がひたすら記録されている
約100年ぶりの修理が進む奈良市の正倉院正倉(国宝、8世紀)の屋根瓦の下地について、宮内庁は11日、天平時代の瓦が多い東側と比較して、大正時代に瓦を新調した西側で腐食が進んでいたと発表した。宮内庁は「大正時代の瓦の焼きが甘く、湿気がこもりやすいふき方をしていた」と分析しており、西側の瓦を再び新調するという。 宮内庁によると、瓦は約3万5400枚あり、このうち天平時代のものは865枚で、ほとんどが東側で使用されていた。西側は1913(大正2)年の解体修理で全面的に新調された。 今回の修理で、屋根瓦を全て取り外したところ、下地の木材の腐食が西側で進んでいた。西側は瓦と瓦の隙間(すきま)がほとんどなく、瓦自体も焼きが不十分なため、水気を逃がしにくい「蒸れ腐れ」の状態になっていたとみられる。 正倉院正倉の修理方針を決める懇談会の座長、鈴木嘉吉・元奈良文化財研究所所長は「大正時代は(修理の)業(わざ
日本の近代建築に貢献した建築家A・レーモンド建築の東京女子大学(杉並区)の9棟のうち大正時代に造られた東寮・体育館の解体計画が卒業生たちに知らされたのは2006年のことだった。この本は東京女子大学OGたちが「世界的な文化遺産」を守ろうとして大学側と闘った記録である。OGで発起人の一人である作家の永井路子は理事長に会議や文書で何回も撤回を求めた。 冷静な永井の物言いは迫力がある。さまざまな文化財の保存運動に参加している永井は「ホンモノは『残さないでよかった』ことは一度もなく、『残してよかった』か『残せばよかった』しかない」の名言を残している。 しかし、大学側に押し切られ、保存の願いは叶わなかった。 百年近い歴史を持つ東京女子大学の、21世紀の歴史に大きな意味を持つ2棟の存続問題について『大日本史料』のように、個々の意見を交えず、できるかぎり多くの客観的史料を残したかったという。沈着冷静な筆致
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