店頭に並ぶのは25日からの予定ですが、見本が届きました! というわけで今日は宣伝記事 こちらの本に、瀬名秀明「希望」論を書かせていただきましたので、是非皆さん読んでみて、よければお買い上げお願いしますw 概要 現代日本SFをめぐる評論集 タイトルにある伊藤計劃だけでなく、宮内悠介や長谷敏司、飛浩隆、円城塔などを論じた、いわゆるSF小説の作品論を中心にしつつ、アニメや映画について論じたものや、SFミステリ、ネット小説といった近隣ジャンルの小説について論じたものもあり、SFど真ん中じゃない人にも興味を持って読んでもらえるものが何かしらあるかと 個人的にお薦めなのは、冒頭の岡和田晃「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」と末尾の飯田一史「ネット小説論――あたらしいファンタジーとしての、あたらしメディアとしての」の2編。 岡和田論は、現在のいわゆる「伊藤計劃バブル」に対して疑義を呈して、伊藤計劃の問題
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細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』が、2012年を代表するアニメ映画のひとつであることに疑問の余地はないだろう。この作品は「おおかみおとこ」である夫を事故で失った未亡人の花が、二人の「おおかみこども」(雨と雪)の子育てに悪戦苦闘する物語である。洗練された映像と音楽、それに感動的なストーリーが多くの観客を魅了し、公開直後から大きな反響を呼び起こすことになった。 しかしその一方で、『おおかみこども』に対する否定的な意見も少なくない。評論系のブログや同人誌では、実際の子育てと大きく異なっていることや、母親をある種のヒーローとして描くことについて、かなり手厳しい批判がなされている。なかでも注目したいのは、「そもそも主人公の花に共感できない」*1というものだ。たしかに母子家庭の子育て(しかも狼男と人間の子供)という大変な状況にもかかわらず、何があってもニコニコしている彼女は──作中でその理由は一
"61 essential postmodern reads: an annoteated list" というリストがLos Angels Timesのブログに掲載されていました。作成はCarolyn Kelloggさん。 あぁ……ポストモダン文学なんて言葉、久しぶりに聞いた気がするなぁ。20年前とは隔世の感があります。本当は、おいらこんな小説だけ読んで余生を過ごしたいんだけど…… このリストが面白いのは、各作品の「ポストモダン小説」属性まで掲載されていること。 ・作者が登場人物として登場する ・現実とフィクションの境界が曖昧 ・自己矛盾するプロット ・偽の歴史を扱っている ・形式との戯れ ・言語との戯れ ・他の文学作品へ過剰な参照 ・作品自身が書物であることへのコメント ・1000ページ以上ある ・200ページ以下 ・作中に別のフィクション(短編や手紙など)を含む ・ポストモダンの草分け
先日の砂丘地帯での調査中の出来事です。 ティジャニ「隊長! 向こうに何か見えるでやんす」 隊長「なぬ? 前進あるのみ!」 隊長「な、なんやコレは? とりあえず発掘や」 隊長「こ、これは・・・。ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞小説家の朱野帰子さんの「海に降る」ではないか!!!」 と、茶番はここまでにしといて、実は昨年の頭に朱野さんが御著書をわざわざモーリタニアに送ってくださったのです。 6か月かかって無事に届いたので、とりあえず埋めてみた次第です。 (人様の著書を地面に還してしまい申し訳ございません) この本は、深海に思いを馳せる男女の夢を「しんかい6500」という潜水艦を通して描いたドラマチックな物語です。 海の底に潜るための潜水艦の定員は決まっている。 パイロットのイス。研究者のイス。 そのイスを巡るドラマ。そして、男の人生をも惑わした深海に潜む謎の生物とは一体。 簡単に読書感想文しますが、
RuneFest, a convention run by thecreators of RuneScape, is supposed to be an annual celebration of the fantasyMMO that came out in 2001 and has stayed improbably relevant in 2018 due to updates,iterations, and an active streaming community. This year, some attendees raised concerns about one streamer in particular,…
電車の釣り広告じゃなくて吊り広告が映画&テレビ版の「電車男」の宣伝で埋め尽くされていた。いよいよ映画版も公開である。 フィクション「電車男」が、なぜここまで売れたのか。それは、念入りな仕掛けがあったからだ。そして、「電車男」が売れたからということで安易にネットのコピペを本にしたり、「ブログの書籍化」ブームが始まりかけたものの、それらがことごとくコケているという現実。それは、「電車男」が売れた背景にある仕掛けをしなかったからだ。 今回のエントリーは、「読者を突き放す書籍『電車男』には「編集」がない――「電車男」は読者参加型恋愛シミュレーションゲームのリプレイ [絵文録ことのは]2004/12/17」の続編に当たるが、論じてみたいポイントは少し違っている。それは、フィクション「電車男」に見るマーケティング戦略である。 ■前回のあらすじ 前回は、「電車男」という書籍には、「書籍のための編集(書籍
Facebookはバカばかり 朗報!はてブネガコメ問題がついに解決 ↓ これは先日のゲーセン女話騒動と同じ。目を血走らせながら物語が実話である事を切望している連中こそ危険人物。善悪と虚実の区別も付けられなくなった輩はやがてサリンを撒き散らすであろう。Thu Feb 02 13:02:02 via webAntiSeptic AntiSeptic 心が震度7レベルで感動しようが、社会正義に目覚めようが、自分を深く反省するきっかけになろうが、元になったエピソードが「嘘」だったら、それは意味がない。 愚劣陋劣無知蒙昧下劣低劣浅学菲才にも程がある。「意味がない」なんてことあるわけがない。件のエピソードの要諦はWitに富んだ差別撃退にあり、それは決して「嘘」などではない。これを「嘘」だと言うなら己がRacistであることを認めねばならない。この禿は説話の内容と虚実とを混同している。「嘘」があるとした
90年代を通じて、いくつもの紛争が継続した「ユーゴスラビア紛争」。その中でも、特に泥沼の様相を呈したことで有名な「ボスニア紛争」を少年時代に体験したという日本人による、2ちゃんねるのニュース速報(VIP)板への書き込みが話題になっている。 ■ 「ボスニア内戦」真っただ中での逃避行 ▽ http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-1351.html ▽ http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-1352.html ▽ http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-1353.html (語り手による文章のみを抜粋したエントリーを読みたい方は、「http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100601/p1」を参照のこと)
久々に恋愛についてのお話です。 今回は宮台真司氏のこちらの記事について。 生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが本来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。 宮台氏の議論は非モテ界隈ではよくある「脱オタのすすめ」の一種であり、「萌えに逃避せずに現実(の恋愛)と向き合え」という論調です。「萌えに逃避している」と言われた側は当然反発するわけで、kagami氏のこの記事はこうした「反発」の分かりやすい例でしょう。
「読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ」http://d.hatena.ne.jp/bluebarbe/20110819/1313767215 http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682に触発されたエントリー*1。 曰く、 私も読書は反社会的な行為だと思う。読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。 故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。 誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。 「人間」も「社会」も「世界」
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