手塚治虫の医師免許証の日付についてはずっと気になっていましたが、先日放送されたNHKBS「週刊手塚治虫」で見ることができました。6月21日まで江戸東京博物館で開催されていた「手塚治虫展」に展示されていたものです。 医師免許証 兵庫県 手塚 治 昭和三年十一月三日生 昭和二十七年施行第十二回医師国家 試験に合格したことを認証し 医師法(昭和二十三年法律第二百一号)に より医師の免許をあたえる よってこの証を交付する 昭和二十八年九月十八日 厚生大臣 山縣勝見本免許は第一五〇四七六号をもって医籍に登録した 厚生省医務局長 曽田長宗 手塚治虫は大阪の名門、北野中学を卒業しています。北野中学は本来五年制でしたが、戦争激化のため、手塚の学年は四年で卒業となってしまいました。これが昭和20年春のこと。 手塚は大阪府立浪速高校を受験しますが不合格。大阪帝国大学附属医学専門部を受験して合格します。このと

(前回からの続きです。最終回) 中野晴行「そうだったのか手塚治虫 天才が見抜いていた日本人の本質」(2005年祥伝社新書)が最近刊行されました。著者は手塚治虫に関しては専門家と言っていい人物ですが、彼が手塚治虫に関するデータの根拠にしてるのが、「手塚治虫展図録」(東京国立近代美術館・朝日新聞社)です。 わたし持ってません。おそらく詳しい手塚年譜も掲載されてるのでしょうが、今、簡単に読める手塚治虫の年譜は、以下の2種。 ・asahi.comの「飛べ!鉄腕アトム」のコーナーの年譜 ・手塚治虫@ワールドの年譜 後者は、「手塚治虫全史 その素顔と業績」(1998年秋田書店)に掲載されている年譜と同じもののようです。この2種の年譜とも、大阪大学附属医学専門部入学が1945年、卒業が1951年で、一致してます。6年かけての卒業ですが、この時期、阪大医専部は5年制。1年留年してることは年譜には書いてあり

(前回からの続きになります) 手塚治虫はデビュー時から年令を2歳上に自称していました。それでは、学歴を大阪大学医学部卒と自称し始めたのはいつからでしょうか。さすがに旧制中学から帝大に直接入学できないことは衆知のことでしたから、中学卒業から医学部入学までの経歴について、どのようにツジツマをあわせていたか。 桜井哲夫「手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者」(1990年講談社現代新書)には以下のようにまとめられています。 ・「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会):旧制浪華高校から1945年に大阪大学予科(第二医学部)へ転入学。1947年、医学部入学。 ・ユリイカの手塚治虫特集号(1983年2月号):1944年、浪華高校理乙入学。1945年、大阪大学医学部予科入学。1946年、大阪大学医学部入学。 ・早野泰造による年譜(「手塚治虫ファンクラブ・東北『蟲の森』創刊準備号」1988年8月、「一

手塚治虫の経歴のうち、微妙な問題が3点あります。 ひとつは、年令の問題。 手塚自身は1926年(大正15年)11月3日生と自称していましたが、没後に、実際は1928年(昭和3年)生まれであることがわかりました。終戦時に18歳だったのか16歳だったのかは、手塚治虫の人格形成を考えるとき、微妙かつ重要な問題と思われます。 ふたつめは、手塚治虫は大阪大学医学部卒を自称していましたが、ホントに通ってたのは大阪大学附属医学専門部であったこと。でも、これはまあ、帝大医専部卒の多くの医者が、帝大医学部卒を自称するみたいですから、その世界じゃ珍しくないみたい。 みっつめは、医師国家試験合格、医師免許取得がいつだったか。1952年説と1953年説があるようです。 戦前の医学専門学校は、通常「医専」と略されますが、歴史的にはいろんなタイプがあったようです。ただし、現在の「専門学校」とはまるで別物ですので、誤解

中村区中村町の中村 沢田研二とラグビーとドラゴンズに魅せられた男。 名古屋市中村区に生まれ名古屋市中村区中村町に育った中村区大好きの中村の描く波乱と笑いに満ちた思い切り派手で気障な人生の数々を。 勘違いも甚だしい! いったい何を言っているのか? 暴言にもほどがある。 腹が立ってしょうがないです。久々の沢田研二論です。 (文中はすべて敬称略ですすみません※一部指摘をうけ漢字修正しております。) JAPAN48の記事の次にコメントが多いYahoo!ニュース、今回のこと。 だいたいは読んだけど、まあちょっとひどい。 「ネットの怖さ」とか言うけど、ちょっと違う。「愚かさ」「危うさ」と表現したい。 コメントしている人の多くは、いやほぼ全員今回のLIVE会場に行っていないどころか、最近の沢田研二のコンサートに行ったことない。賛同者も。これは読んでて間違いない。 情報源はこの数行の記事のみ、沢田研二像に

「事件前に戻ることはできない。ならば死刑囚らを恨み続けるような人生の無駄はせず、残された者として平穏に生きる」。一九九四年の松本サリン事件の被害者でありながら当初、警察の家宅捜索を受けるなど二重三重の苦しみを味わった河野義行さん(61)は、十七年の思いをかみしめた。日本を恐怖に陥れたオウム真理教の一連の事件の公判は終結したが、真相はいまだ見えないままだ。 「私にとってのオウム事件は、妻が亡くなった二〇〇八年八月に終わっています」。河野さんの妻澄子さんは、サリンの後遺症で寝たきりになり、六十歳で亡くなった。河野さんにとって、事件が起きた最初の一年は、犯人視する警察の捜査とマスコミの報道被害との戦いだった。「冤罪(えんざい)」が晴れてからは、三人の子どもへの親としての責任を果たし、妻の回復を願い続けて生きてきた。 ただ、首謀者とされる麻原彰晃死刑囚(56)=本名・松本智津夫=の二審で実質審理
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