「(AはBと)部分的に同類であることによって(Bの)喩例である、とこういうことになるであろう」と言うとしても、そうではない。どうしてかというと、この世間では山と髪の毛でさえも、存在性、単一性、有形性(など)の点で部分的に同類であるから(すべてのものは他のすべてのものの喩例となってしまうから)である。 ナーガールジュナ作(とされる)『ヴァイダルヤ論』、梶山雄一・瓜生津隆真『大乗仏典14 龍樹論集』中公文庫、2004年、p.213 はじめに さて、前回の最後のあたりで、浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷という人物が登場しました。今回は、この人がどういう人物で、どういうことを主張したのかという問題にかなりの字数を割くことになるかと思います。まずは、一見すると回り道になるようですが、こんな話から始めてみましょう。 周知のように、岩倉具視や木戸孝允や伊藤博文や大久保利通などの新政府の中心人物たちは、明治

はじめに さて、前回の最後に私はこう申し上げました。 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。 そういうわけで、己の仏教観をどのように訂正したのかを、へっぽこ勉強を

私はクリスチャンです。といってもカトリックのような懺悔だとかミサがあるわけではなく、割と自由な感じのプロテスタントの教会のクリスチャンです。日曜礼拝とかあるけど、サボってもそんなに怒られないし、私自身日曜礼拝サボりまくりのダメダメクリスチャンなんですが。だいたい神様を信じたら、だいたいの「やってしまった!でも悔い改めるわ!」で神様は許してくれるのでな?ゆるいぜキリスト教プロテスタント。 こういう感じで、ゆるふわに神様を信仰しています。教会や宗派によっては厳しいとこもあるみたいですが。 で、なんとなく、増田にでも書いて、すっきりしようと思って書くのです。それは、日本人の宗教観についてです。日本人は無宗教だといわれますが、私にとっては違和感しかありません。 というのも日本人って、なんとなく神を信じていてなんとなく信じていいないだけなんじゃないかって思っていて、それは無宗教でもないよねというか。


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