「新宿区新宿」という地名を耳にすると、大抵は新宿駅東口あたりであると認識するものだが、駅東口の繁華街の大部分を占める三丁目、ゲイタウンの二丁目、殆ど四谷寄りにあたる、丸ノ内線新宿御苑前駅最寄りで“例のプール”があることで有名な一丁目、そして旧旭町ドヤ街の四丁目、さらに花園神社があり、町域の西側は歌舞伎町と一体化している五丁目が思いつくくらいである。 しかし「新宿区新宿」には六丁目と七丁目があり、明治通りから東側にあたる、旧町名「東大久保一・二丁目」と呼ばれていた、ちょっとマイナー感漂う地域になっている。同じ「新宿」なのに、そんな場所あったんですか?的な驚きを覚えたわけだが、その最寄りとなるのが都営大江戸線と副都心線の二線が交わる東新宿駅。 知られざる「新宿区新宿」の最果てエリアも外国人タウンになってました 何気に今まで意識して足を運ぶ機会のなかった土地なので、「新宿区新宿」の最果てエリアと

山手線のガードにいちいち名称がついているのをご存知でしょうか? しかも、ガード名には聞いたことがない地名が使われていることが多く、かなり気になったので、山手線の内のガード名、ぜんぶ調べました。 ガードの名称が気になってしまった 鉄道の「ガード」ですが。こちらです。 鉄道のガードです ガードとは、線路が道路をまたぐように架けられた鉄橋のことです。 すくなくとも、東京の山手線のガードには、ほぼ名称がついているようで、その名称がガードのどこかに書いてあります。 まず、ガードに車がぶつかったのを見た場合に連絡をするようにお願いする「お願い看板」、ガードのことを架道橋と表記している「架道橋看板」、橋桁に表記してある「橋桁表示」にそのガードの名称が書いてあります。 なお、本当は東海道線や京浜東北線といった区分けがあるようですが、本題とあまり関係ないので、今回は山手線の下にあるガードはまとめて「山手線の
貴重な「鉄道遺構」はどのくらい残すべきか? 鉄道開業150年で大直面、ライターが感じたJR東の「冷淡さ」とは 2019年4月、JR東日本が東京都港区教育委員会に対して「掘削工事中に石垣のような遺構を発見した」との連絡を入れた。JR東日本は山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」駅を開業させるべく、駅予定地および周辺で工事を実施。その過程で、鉄道遺構の高輪築堤が出土した。 高輪築堤は、1872(明治5)年にわが国初となる新橋~横浜間の鉄道が開業する際に造成された土木構造物で、それらは当時に描かれた錦絵や後に撮られた写真などでも存在は確認されていた。 しかし、歳月とともに周辺地域は都市化。これにより、都市整備が進み、高輪築堤は人の目に触れることはなくなった。きちんとした記録が残されていなかったこともあり、高輪築堤は消失したと思われていた。JR東日本が2020年に開業させた高輪ゲートウェイ駅とそれに伴う

相模鉄道本線の鶴ヶ峰駅付近を中心に西谷~二俣川駅間約2.1キロを地下化し、10カ所の踏切を除却する連続立体交差事業が都市計画決定した(写真は鶴ヶ峰駅前の踏切) Photo:PIXTA横浜市は1月25日、相鉄本線の一部区間を地下化し、10カ所の踏切を減らす計画を明らかにした。東京や大阪などでも大規模な高架化の計画があるが、予定より大幅に遅れるなど難航している。そもそも日本の主要都市における踏切の数は、海外と比べて多い。その理由はどこにあるのか。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也) 用地確保の難しさなどで 進まぬ線路の立体交差化横浜市道路局建設課は1月25日、相模鉄道本線の鶴ヶ峰駅付近を中心に西谷~二俣川駅間約2.1キロを地下化し、10カ所の踏切を除却する連続立体交差事業の都市計画決定を行ったと発表した。概算事業費は約784億円で、2022年度上期に事業認可を得て、下期に着工する計画だ。完成

道が激しくカーブする独特の地形はなぜ? 東北・北陸新幹線に乗るときはE席がお気に入りである。北に向かうときは左端の窓際、東京に戻るときはその逆。上野ー赤羽間の車窓が楽しいのだ。切り立った崖がしばらく続くさまがいいのである。新幹線は高架を走るのでより分かりやすいのだ。 どんな地形なのかは標高別に色分けした地形図を見ると一目瞭然だ。ゆるやかにカーブした崖下に沿って線路が敷かれているのである。 飛鳥山周辺の地形図。薄青(5mくらい)、緑、(20mくらい)の順で標高が高くなる。石神井川は飛鳥山下のトンネルを抜けて低地に注いでいる。『スーパー地形』より。 実はこれ、縄文時代の中期ごろ(約7000年前)、海水面が高かったころに海が削った崖だ。上野から北に向かって崖を追っていくと、一カ所、めちゃめちゃ不自然なところがある。それが王子神社と飛鳥山の間の分断だ。江戸時代は『音無渓谷』として有名だった。 ここ

あの有名な吉原はどこにあった? 以前、超有名だけど、どこにあるかといわれるとちょっと考えちゃう、あるいは意外に具体的な場所が知られてない場所の代表として『日本橋』を取り上げた。しかし、考えてみたらそれ以上の場所があったのである。 それは遊廓のあった『吉原』(よしわら)。 わたしも上京してしばらくは、東京のどこかにあるのだろうけど、どこでもない場所に概念としてのみ存在するのかと思っていた。つまり、想像上の存在が吉原なんじゃないかと。そんな圧倒的な知名度を誇る『吉原』は、実際にはどこにあるのか? 『スーパー地形』より。吉原があったのは赤い点線で囲ったエリア。標高2mを基準に色を付けてあり、吉原は周囲より少し高くなっているのがわかる。その地面に歴史アリ。 『吉原』という名前はなくなり『千束四丁目』に 実は、今『吉原』という地名はないのである。昭和40年代の住居表示適用で千束四丁目になったからだ。

東急田園都市線は渋谷駅から東京メトロ半蔵門線に乗り入れていますが、かつては別のルートから都心アクセスが計画されていました。もしかすると、「大きな丸ノ内線」のような線形になっていたかもしれません。 「半蔵門線乗り入れ」が決まるまでの道のり 渋谷と中央林間をむすぶ東急田園都市線は、東京メトロ半蔵門線に乗り入れて東武線方面にも足を延ばす、広大な鉄道ネットワークの一部となっています。このネットワークの原点となったのは1977(昭和52)年、渋谷~二子玉川間の地下新線「新玉川線」の開業でした。 東急田園都市線の8500系電車(恵 知仁撮影)。 それまで渋谷~二子玉川は「東急玉川線」という路線で、路面電車がトコトコと東京の街を走っていました。いっぽう田園都市線は二子玉川を起点に長津田方面へ伸びる路線でしたが、大井町線とはほぼ一本の路線のような扱いでつながっており、そもそも1966(昭和41)年から19

大手町と丸の内、その違いはどこにある? マピオンの境界線マップを使えば、町の境界がくっきりみえる。白字注釈は筆者。『地図マピオン』より。 学生の頃、大手町ってややこしくて苦手だった。 何しろ地下鉄の『大手町駅』って5つもあるのだ。しかもそれぞれが微妙に離れているのである。大手町駅に降りても何線のどの出口に出るかで話が全然違う。しかもご存じの通りこのあたりは道路に沿ってびしっとビルが並んでるので、地上に出てもどれも同じように見えてわけがわからない。 さらに、丸の内ってのがある。大手町は江戸城大手門の前に広がるから大手町というらしい。丸の内は江戸城の内堀と外堀の間にあって江戸城の内なので丸の内というらしい。どっちも江戸城の外堀の内側であり、両者の違いがよくわからない。かくして、江戸城と東京駅に挟まれたさほど広くはないエリアなのに苦手だったのである。 マピオンの境界線マップで見てみよう そういえ

みなさんは、どこに日本橋があるかご存知? 誰もが名前を知ってるけど、どこにあるかと言われるとなかなか答えられない日本橋。はじめて『日本橋』へ行ったとき、東京という塊のどのあたりに存在するのか、全然わからなかったもの。地下鉄で行ったのがいけなかったのかもしれない。地下鉄って目的地まで直行しちゃうと、地上に出たとき全体の位置関係がわやくちゃになっちゃう。 逆にJRの駅から歩くとわかりやすい。JRの路線って地図上でもはっきり描かれてるから位置関係を理解しやすい。 で、『日本橋』のJRの最寄り駅はどこか、というと『東京駅』である。東京駅の北西側が『大手町』で、北東側が『日本橋』なのだ。 東京駅と日本橋。こうしてみると東京駅を挟んで大手町・丸の内側が官庁・ビジネス街、日本橋側が商業地帯というのがなんとなくわかる。 官庁、ビジネス街と商業エリアの境 日本橋は江戸時代の江戸の中心地であり、江戸城から大手

江戸城大手門のすぐ前に広がる町 現在の大手町。大手門のすぐ近くに将門塚がある。意外な場所だ。『スーパー地形』より。 今回のお題は『大手町』。なぜ大手町なのかというと、江戸城大手門のすぐ前に広がる町だから。明治初期に付けられた町名だ。 大手門というのは、城の表玄関。基本的に大名が登城するときはそこから入っていた。大手門から中に入り、さらにクネクネと歩いて(防御上いろいろと回り道することになってるのだ)江戸城本丸に至る。一度行ってみるとよい。 かつての江戸城は今の皇居だが、本丸一帯は『皇居東御苑』として一般開放されているのだ、無料で。しかも皇居の御苑であるから芝生もきれいで広々としててめちゃ気持ちいい。特に大手門の内側から見る大手町なんか、江戸と現代が重なって不思議な感じがするのでおすすめだ。 大手門の中から見た大手町。江戸時代の門と高層ビルが同時に存在するタイムスリップ感がたまらない。201

お寺の吉祥寺は文京区駒込にある 吉祥寺村の中心だった五日市街道と江戸の水源だった井の頭池のちょうど真ん中に吉祥寺駅が設けられている。 20代の頃、中央線沿線のアパートに住み、中央線沿線の大学に通っていた身としては、遊びに行く、飲みに行く、買い物に行く、合コンに行くといえば、まず吉祥寺だった。たまに訪れると当時通った喫茶店がまだ生き延びてたりしてなかなか感慨深い。 だからかなりなじんでたはずなのだけど「吉祥寺に吉祥寺がない」と知ったときは衝撃だったのである。え、そういうお寺があったから地名になったんじゃないの? あ、昔あった吉祥寺というお寺が無くなったけど地名だけ残ったパターン? いや、そもそもそこに吉祥寺という寺はなかったのだ。じゃあどっから吉祥寺って地名が出てきたのだ? たしかに吉祥寺という寺はあった。今でもある。ただし、その場所は文京区本駒込なのだ。全然違う場所じゃないか。つまり、東京

銀座中央通りは東海道だった 銀座といえば中央通り。銀座松屋に三越に松坂屋(は今はGINZA SIX)といったデパート。和光の時計塔。木村屋に資生堂パーラーに鳩居堂。宝石のミキモトに文具の伊東屋。現存する最古のビヤホール『ビヤホールライオン銀座七丁目店』。 昔からそこで商売してる店を並べるだけでも格が違うエリアだなって思わざるを得ないのだけど、この通りが江戸時代からの大街道だって意識してる人は少ない。実はこの通り、『東海道』なのである。日本橋を起点に江戸と京を結んだ大動脈にして『東海道五十三次』で有名なあの東海道だ。銀座の中央通りをまっすぐ北上すると、京橋を越え、日本橋に至る。南へ伸ばすと新橋を越え、品川を越え、川崎に至る。 銀座の位置を把握しよう。京橋と新橋の間が銀座一丁目から八丁目だ。和光と三越の交差点が『銀座』と書いてあるあたり。『スーパー地形』より。 銀座はかつての江戸前島だった な

なんとも渋谷は剣呑である。剣呑で面妖で混沌だ まず地形が剣呑だ。今渋谷の中心といえば渋谷駅だが、その場所は渋谷川と宇田川の2つの川が合流する地点。水が溜まる場所で冠水しやすい。 地形図をみると、渋谷駅を中心にすごく複雑なのが分かる。渋谷川に対していくつもの小さな支流が流れ込み、細かな高低差が非常に多い。 地形がややこしいので道路網も剣呑だ。歴史的に北関東や江戸と鎌倉や小田原を結ぶ街道が通る交通の要衝のひとつであり、人の行き来は多かった。 明治以降は東に青山練兵場、北に代々木練兵場、西に駒沢練兵場と関連の施設に囲まれて歓楽街が無秩序に発展。街を計画的に作るヒマも何もあったもんじゃなかったんだろうと思う。 『ス−パー地形』で見た渋谷駅周辺。高低差が分かるよう、谷地が緑、台地は黄色になるようカラーを調整した。 だから上から見ると大変面白い。どの道路も碁盤目ではなく、東西南北も無視され、ほとんどの

2001年12月1日に運転を開始した湘南新宿ラインが明日、20周年を迎えます。 関東を都心主要駅を経由して南北に縦貫するこの系統の登場は画期的で、現在まで他社線を含めた首都圏の鉄道輸送に大きな影響を与えました。 細々と走っていた各線の列車 湘南新宿ライン開業前から運行されていたスーパービュー踊り子号の池袋発着。現在もE257系で同様の運転が見られる。 現在「湘南新宿ライン」の愛称で運転される線路は、北から東北貨物線(大宮〜田端)・山手貨物線(田端〜大崎・品川)・品鶴線(ひんかくせん;品川・大崎〜鶴見)といった路線名称が存在します。 これらの路線の歴史はいずれも非常に古く、いずれの路線も貨物列車と旅客列車を別の線路で運転する「貨客分離」を背景に建設されています。山手貨物線は1918年から1925年にかけて・東北貨物線は1927年から1932年・品鶴線は1929年に開業と、いずれも戦前に建設さ

JR中央線 東中野~立川間の長い直線はよく知られていますが、首都圏でもう1か所、そのような鉄道路線があります。それはJR横浜線の橋本~町田間。なぜここでも長い直線区間が生まれたのでしょうか。 巨人の足跡 ディラボッチ伝説とは リニア中央新幹線の神奈川県駅(仮称)の工事が駅前で進む、神奈川県相模原市の橋本駅。JR横浜線は、この橋本駅の北西から町田駅(東京都町田市)の南東まで、6つの駅を串刺しにするようにして、直線区間が約13km続きます。 直線区間といえば、JR中央線の東中野駅(東京都中野区)付近から立川駅(同・立川市)までの約25kmが有名ですが、それには及ばないものの、横浜線の直線区間は本州のJR路線の中でも屈指の長さとなっています。もちろん直線の線形は鉄道にとって理想ではあるものの、そうはいかなかった事例の方が多数です。長い直線区間はなぜ実現したのでしょうか。JR横浜線の町田~古淵間

「高輪築堤」の主要部分である「第七築堤」が現地で保存される方向になりました。JR東日本の深沢祐二社長が、再開発計画の変更などを明らかにしました。将来的に世界遺産登録の可能性もあるのでしょうか。 高輪ゲートウェイ駅周辺で出土 「高輪築堤」は、JR山手線・京浜東北線の高輪ゲートウェイ駅周辺で出土した鉄道遺構です。1872(明治5)年に開業した日本初の鉄道を建設した際、現在の田町駅付近~品川駅付近に作られました。長さ約2.7kmにわたって、海に盛り土をして石垣で固め堤とし、その上に線路を敷設したものです。 その際、海岸と沖合の水路の確保のため橋梁が設けられました。起点の新橋駅から数えて七つめに作られたのが「第七橋梁」です。 高輪築堤は、2019年に品川駅改良工事の現場から石積みの一部が見つかり、2020年7月に高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発現場から、第七橋梁を含めた大規模な遺構が発見されました。

日本初の鉄道の遺構である「高輪築堤」が、高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発工事現場で発見されました。JR東日本は保存の意向を示していますが、どこまで保存できるかが気がかりです。 日本初の鉄道 日本初の鉄道は、1872年(明治5年)に開業した新橋~横浜間の約29km。このうち薩摩藩邸があった高輪付近に関しては、西郷隆盛らの反対で兵部省が用地の提供を拒んだため、鉄道を推進していた大隈重信が海上に建設することを指示。田町~品川間2.7kmの沖合に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通しました。 これが高輪築堤で、歌川広重(三代)筆による浮世絵「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」には、その風景が鮮やかに描かれています。国家初の鉄道が海の上を走っていた、というのは、世界的に見ても特筆すべきことでしょう。 東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図。画像:東京都立博物館 線路の下に眠っていた 高輪築堤は、明治から昭和

JR東日本は2日、品川開発プロジェクトの計画エリア内で出土した「高輪築堤」の一部とみられる構造物の調査・保存・公開に関する方針について発表した。「高輪築堤」は、明治初期に鉄道を敷設するため、海上に構築された構造物だという。 出土した「高輪築堤」の一部(提供 :JR東日本)。下の地図の「写真1」にあたる場所 出土した「高輪築堤」の一部(提供 :JR東日本)。下の地図の「写真2」にあたる場所JR東日本は今後、まちづくりの中で約150年前(明治初期)に構築された「高輪築堤」を継承し、地域の歴史価値向上と地域社会への貢献をめざすとしている。現在、港区教育委員会など関係者と連携を図りつつ、「高輪築堤」の調査を進めるとともに、保存や公開展示などを検討している。 「高輪築堤」が出土した経緯について、2019年4月、品川駅改良工事において石積みの一部を発見。その後、2019年11月に実施した山手線・

JR東日本は12月2日、1872年10月に開業した新橋(後の汐留)~横浜(現・桜木町)間の鉄道建設時に、海上に構築された築堤が一部出土したことを明らかにした。 これは「高輪築堤」と呼ばれるもので、新橋~横浜間の鉄道建設の際、当時の明治政府において軍政を行なう官庁であった兵部(ひょうぶ)省が、軍用地を鉄道建設の敷地に提供することに抵抗したため、当時「芝金杉」と呼ばれた現在の東京都港区芝1・2丁目付近から品川駅(東京都港区)付近まで約2.7kmの海上を埋め立てて建設された。1870年10月に着手され、開業目前の1872年9月に完成した。 鉄道創業期の土木技術を今に伝えるとされるこの遺構は、2019年4月、品川駅の改良工事において石積みの一部が発見。さらに同年11月に実施された品川駅付近の山手線・京浜東北線線路切換工事後に行なわれたレール撤去に伴ない、2020年7月には築堤の一部と見られる構造物

リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く