江戸でも降灰 1707年(旧暦:宝永4年11月23日) 富士山が南東山腹から噴火し、江戸にも大量の火山灰が降った。宝永噴火と呼ばれ、火口の大きさが噴火の激しさを物語る。 富士山は宝永以降は現在まで大きな噴火活動がないが、仮に同規模の噴火が起これば、約100キロ離れた東京都新宿区付近が降灰により視界が悪くなるなど広範囲で都市機能・市民生活のへの影響が予想される。内閣府では2025年8月に被害を想定したイメージCGを公開している。 【資料】 内閣府「富士山の大規模噴火と広域降灰の影響(イメージCG)」 富士市「富士山の噴火史について」 内閣府防災情報のページ「報告書(1707富士山宝永噴火)」 バナー写真 : 富士山の山頂より下のえぐれた部分が1707年の噴火の際にできた宝永火口(PIXTA)

かつて千葉県成田市で盛んだった牧羊文化を復活させようと、同市出身で飲食店を営む佐藤達也さん(47)が、食肉用羊の飼育を始めた。自前で飼料も栽培する循環型の経営で、地元の障害者らをスタッフとして雇用する「農福連携」の取り組みでもある。将来的に、ジンギスカンを新たな成田の名産として売り出していきたい考えだ。 羊の飼育を始めた佐藤達也さん=12月10日、成田市(松崎翼撮影)牧場の名前は「未来の羊ファーム」。地元企業に借りた土地約1800平方メートルを活用している。北海道の牧場から買い取った、黒い顔が特徴のサフォーク種15頭を含め、計17頭の羊が暮らしている。 明治から昭和にかけて、成田市三里塚には下総御料牧場があり、多くの羊が飼育され、地元住民にとってジンギスカンは身近な食べ物だった。ただ、御料牧場が移転したことで、牧羊文化は一気に衰退した。 国産の羊肉は希少で、ほとんどはオーストラリアやニュー

戦後に在日朝鮮人やその家族らが北朝鮮へ渡った「帰還事業」の開始から66年となる14日、日本に戻れず亡くなった人を悼む集会が、出発地となった新潟市の新潟港で開かれた。約30人が参加し、今も北朝鮮での生活を余儀なくされる人や拉致被害者の救済を訴えた。 帰還事業は昭和34(1959)年に始まり、一時中断を挟んで59年まで続いた。北朝鮮を「地上の楽園」と信じて約9万3千人が新潟港から船で渡ったが、実際には多くが貧困や差別によって過酷な生活を強いられたとされる。 17歳で北朝鮮に渡り、2003年に脱北した川崎栄子さん(83)は「北朝鮮問題を解決して、平和で安定した地球を次世代に残したい」と語った。日本海に向かって白い菊をささげ、涙を流した。

「赤穂義士祭」で四十七士に扮した市民らと練り歩く、大石内蔵助役を務めた俳優の内藤剛志さん(手前)=14日午後、兵庫県赤穂市 赤穂浪士が藩主・浅野内匠頭の敵討ちのため吉良上野介邸に討ち入った日に当たる14日、兵庫県赤穂市で恒例の「赤穂義士祭」が開かれた。義士行列では、俳優の内藤剛志さん(70)が大石内蔵助役を2年連続で務め、笑顔で声援に応えながら、四十七士に扮した市民らを率いて堂々と練り歩いた。 黒い羽織の討ち入り装束に身を包んだ一行は、内藤さんが打つ陣太鼓の音に合わせ、赤穂城跡の大手門前から約600メートルのコースをゆっくり一歩ずつ進んだ。内藤さんは「偉業が今も語り継がれていることを実感した」と語った。 内蔵助の長男・大石主税役の県立赤穂高2年、栗原涼介さん(17)は「緻密な計画で主君のために忠誠を誓い、討ち入りをしたのはかっこいい。緊張したが、沿道の応援をもらい勇気が湧いた」と満足げに話

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年4月) 第一次遣独潜水艦作戦に使用された伊号第三十潜水艦第二次遣独潜水艦作戦に使用された伊号第八潜水艦 遣独潜水艦作戦(けんどくせんすいかんさくせん)とは、第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器やその部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等日独両国の人材の輸送を行った日本海軍艦艇による数次にわたる作戦を指す。 なお、本項ではこれに対応するドイツと、同じく日本と日独伊三国同盟で同盟関係にあったイタリアからの遣日潜水艦作戦についても述べる。 日本とドイツは1936年(昭和11年)に日独防共協定、その後も日独伊三国同盟を結んで以来同盟関係にあったが、1941年
この画像を大きなサイズで見るImagecredit:Parco Archeologico e Paesaggisticodella Valle deiTempli 日本でも漫画や映画で人気となった『テルマエ・ロマエ』の世界。古代ローマ人にとって、風呂は単なる保養の場を超えた文明の象徴だった。彼らの入浴への情熱と驚くべき技術力を証明する新たな発見があった。 イタリアのシチリア島、アグリジェント県にあるローマ帝国時代の別荘遺跡で、これまで存在が知られていなかった巨大な入浴施設が発掘された。 この遺跡自体は以前から知られていたがごく一般的な別荘と思われていた。ところが、丘の上から所有者の圧倒的な富と権力を示す豪華な入浴施設が見つかったことで、その認識は改められることになった。 約1900年前の地層から現れた古代ローマの驚くべき入浴文化に迫ってみよう。 各分野の専門家チームによる徹底的な調査

当初の1,197cc65馬力の標準型に加え、1968年には排気量を1,438ccに拡大して70馬力とした「スペシャル」が追加された。外観も丸型4灯式ヘッドライトが与えられ、標準型とは大きくイメージを変えた。同時にトップモデルとして、スポルト系に使われていたDOHCエンジンを装備した「スペシャルT」も登場した。 1970年にマイナーチェンジを受け、標準型はフロントグリルのパターン変更、スペシャル系は黒い樹脂製のフロントグリルに変更されて印象を改めた後、1972年にスペシャルTのエンジンが同年生産中止となった125で用いられていた1,592cc95馬力に変更された。その後は変更なく1974年まで生産された。 日本へは登場直後から西欧自動車によって輸入されたが、余りにシンプルな標準型は「外車=高級車」という日本的価値観と相容れず、販売台数はごく少なく、むしろ1967年に誕生したDOHCエンジン搭
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【読売新聞】 埼玉県深谷市出身の実業家渋沢栄一の新たな銅像が11日、深谷市役所でお披露目された。約30年前に造られ、青森県の公園に置かれていたもので、トラックで長距離を運ばれてきた。台座を含めて高さ約7・3メートルの大きな立像は、日

ASEANへの加盟文書に署名後、演説する東ティモールのグスマン首相=26日、マレーシア・クアラルンプール(共同) インドネシアから2002年に独立した東ティモールが26日、東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟した。マレーシアでこの日開幕したASEAN首脳会議で東ティモールのグスマン首相が、加盟の宣言文書に署名した。ASEANは11カ国体制となった。 マレーシアのベルナマ通信によると、グスマン氏は加盟について演説で「東ティモール国民にとって、夢の実現だけでなく、回復力と決意と希望に印づけられた私たちの旅路を力強く確認するものだ」と述べた。 東ティモールはポルトガルの植民地支配を受けた後、インドネシアに併合された末に独立を果たした。グスマン氏らが主導した独立運動はインドネシアの武力弾圧を受け、多くの犠牲者を出した。第二次世界大戦中には日本軍も占領した。(岩田智雄)

アメリカ太平洋軍は2025年10月1日、サイパンのテニアン島にある第二次世界大戦時代の滑走路を修復している様子を公開しました。 かつては日本軍の飛行場だった場所アメリカ太平洋軍は2025年10月1日、サイパンのテニアン島にある第二次世界大戦時代の滑走路を修復している様子を公開しました。 拡大画像 B-29の発着基地だった頃のテニアン島(画像:アメリカ空軍) 同地は戦前、日本によって「ハゴイ飛行場」として整備され、1944年7月に日本がサイパンを喪失した後は、アメリカ軍によってB-29の発着基地として使用されました。広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」や、長崎に投下した「ボックスカー」の発進基地としても知られています。 当時、この地域には「ノースフィールド飛行場」と「ウエストフィールド飛行場」という2つの飛行場が整備され、計6本の滑走路を有し、多数のB-29が駐機していました。 しかし、第

京浜工業地帯は戦前に造成されましたが、実は海外には“元ネタ”とも言いたくなるような工業地帯が存在します。その背景には、同じ「生みの親」がいました。 京浜工業地帯や鶴見線の原型を作った“セメント王” 日本の三大工業地帯のひとつとして知られる「京浜工業地帯」は、東京から横浜市の沿岸部にかけて広がる、日本有数の工業地帯です。東京側は主に明治期に、川崎・横浜エリアは大正から昭和にかけて埋め立てられ、大規模な工業地帯が成立しましたが、実は海外にはその“元ネタ”とも言いたくなるような工業地帯が存在します。 拡大画像 京浜工業地帯の埋め立て地をゆく鶴見線の終点の一つ、海芝浦駅(画像:写真AC) 京浜工業地帯といえば、一般にはやはり川崎・横浜エリアを指すことが多く、日本における大規模な埋め立て事業の先駆けとしても知られています。この地を切り開いたのは、日本最大のセメントメーカーである「太平洋セメント」の前

石破茂首相は10日、記者会見し、戦後80年にあたって先の大戦に関する首相個人の見解をまとめた「首相所感」を公表した。戦前の政府が軍部を統制できなくなった経緯を踏まえ、政府が自衛隊を統制する文民統制の重要性を強調した。「国民一人一人が先の大戦や平和を能動的に考え、平和国家の礎が一層強化されていくと信じる」と訴えた。 所感は閣議決定しない形式で出した。冒頭で、戦後50年、60年、70年の首相談話を踏まえ、「歴史認識に関する歴代内閣の立場を引き継いでいる」と表明した。 ただ、過去の談話は戦争を回避できなかった理由にあまり触れていないとして、「どうして無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となったのか。戦後80年の節目に国民とともに考えたい」と所感公表の理由を説明した。 大日本帝国憲法下で戦争を回避できなかった制度上の問題点を指摘。統帥権が拡大解釈され、政府も議会も「

10月10日、石破茂首相は、「戦後80年に寄せて」と題する総理大臣所感を発表した。都内で5月21日撮影(2025年 ロイター/Issei Kato) [東京 10日 ロイター] - 石破茂首相は10日、「戦後80年に寄せて」と題する総理大臣所感を発表した。過去の談話ではなぜ戦争を回避できなかったのかという点にあまり触れてこなかったとし、当時の政党内の権力争いや議会の軍統制機能の欠如など国内の政治システムに問題があったと指摘した。民主主義はときに「過ちを犯すもの」であり、歴史に学び「教訓を胸に刻まなければならない」との認識を示した。 石破首相は、これまで戦後50年、60年、70年の節目に際して歴代の内閣が出した談話の歴史認識に関する立場は引き継いでいるとする一方、「過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられていない」と指摘した。 70年談話

南米コスタリカの奥地で、完全に近い球体の石が最初に発見されたのは1930年代のこと。以来、次々と見つかり、現在その数は300個を超えるという。 「コスタリカの石球」(Stone spheres of Costa Rica)と呼ばれるこれらの遺物は、一番古いもので2000年以上前に作られたとされている。中には彫刻が施されたものもあるが、「誰が、なぜ、どのように作ったのか」といった謎はいまだ完全には解明されていない。 長年自然に晒された状態だったり、人為的に壊されたため、損傷した石球も多い。 そんな中、いま国際的な修復プロジェクトが進行しており、古代文明の残した謎に迫ろうとしている。 コスタリカの石球とは? 石球の発見された場所と材質、作り方 コスタリカの石球は、主に中央アメリカのコスタリカ南部、ディキス・デルタやカーニョ島で発見された謎めいた球体の石造物である。 2025年現在までに確認され

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