これは、私(わたし)が小さいときに、村の茂平(もへい)というおじいさんからきいたお話です。 むかしは、私たちの村のちかくの、中山(なかやま)というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。 その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐(ぎつね)」という狐がいました。ごんは、一人(ひとり)ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。 或(ある)秋(あき)のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間(あいだ)、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。 雨があがると、ごんは

岩波文庫をはじめ、今日弘く行われて居る数々の「文庫もの」に対して、我々古い人間の包みきれない不満は、あまりにも外国の著作が多過ぎるという一点である。西洋は国の境がもとはそうはっきりとして居らず、学者も書物もよく旅行をして居て、最初から国際共有のものが多かったが、それでさえ文庫の目録には国々各自の片よりがある。タウフニッツのような特殊の目的をもって、原文のまま出して居るものは別として、私たちの見て居るものはレクラムでもゲッシェンでもペイヨオでもキャッセルでも、又は此頃の幾つかの英米の叢書類でも、日本のように外国ものばかりを六割七割までも出して居るものは一つも無いようだ。出て来る翻訳を抑えるように、もっと少しく出すようにと、言うのなら無理かも知れぬが、是ほど外国物を出すことが出来る位ならば、せめては其同量くらいは日本の本を、並べて出すことにしてはどうかと、思わずには居られないのである。この現象

かくれんぼで、倉の隅(すみ)にもぐりこんだ東一(とういち)君がランプを持って出て来た。 それは珍らしい形のランプであった。八十糎(センチ)ぐらいの太い竹の筒(つつ)が台になっていて、その上にちょっぴり火のともる部分がくっついている、そしてほやは、細いガラスの筒であった。はじめて見るものにはランプとは思えないほどだった。 そこでみんなは、昔の鉄砲とまちがえてしまった。 「何だア、鉄砲かア」と鬼の宗八(そうはち)君はいった。 東一君のおじいさんも、しばらくそれが何だかわからなかった。眼鏡(めがね)越(ご)しにじっと見ていてから、はじめてわかったのである。 ランプであることがわかると、東一君のおじいさんはこういって子供たちを叱(しか)りはじめた。 「こらこら、お前たちは何を持出すか。まことに子供というものは、黙って遊ばせておけば何を持出すやらわけのわからん、油断もすきもない、ぬすっと猫(ねこ)の

始めに告白せざるを得ません。あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。かように、あなた方はそれと知らぬうちに世界の連盟と同胞愛とを妨げているのであり、そのような連盟や同胞愛なしには人類の希望はあり得ぬからです。 五十年以上の昔、十八の若造としてロンドンで学んでいた頃から、私は故サー・エドウィン・アーノルドの著作を通じて、あなた方の国が持つ数多くの優れた資質を賞賛するようになりました。南アフリカ滞在中に、あなた方がロシア軍に対して見事な勝利を収めたと知った時はわくわくしたものです。一九一五年に南アフリカからインドに帰国してからは、私どものアシュラム(修行場)に折々属していた
旧の正月が近くなると、竹藪(たけやぶ)の多いこの小さな村で、毎晩鼓(つづみ)の音(おと)と胡弓(こきゅう)のすすりなくような声が聞えた。百姓の中で鼓と胡弓のうまい者が稽古(けいこ)をするのであった。 そしていよいよ旧正月がやって来ると、その人たちは二人ずつ組になり、一人は鼓を、も一人は胡弓を持って旅に出ていった。上手(じょうず)な人たちは東京や大阪までいって一月(ひとつき)も帰らなかった。また信州(しんしゅう)の寒い山国へ出かけるものもあった。あまり上手でない人や、遠くへいけない人は村からあまり遠くない町へいった。それでも三里はあった。 町の門(かど)ごとに立って胡弓弾(ひ)きがひく胡弓にあわせ、鼓を持った太夫(たゆう)さんがぽんぽんと鼓を掌(て)のひらで打ちながら、声はりあげて歌うのである。それは何を謡(うた)っているのやら、わけのわからないような歌で、おしまいに「や、お芽出(めで)とう
お握りには、いろいろな思い出がある。 北陸の片田舎で育った私たちは、中学へ行くまで、洋服を着た小学生というものは、誰(だれ)も見たことがなかった。紺絣(こんがすり)の筒っぽに、ちびた下駄。雨の降る日は、藺草(いぐさ)でつくったみのぼうしをかぶって、学校へ通う。外套(がいとう)やレインコートはもちろんのこと、傘をもつことすら、小学生には非常な贅沢(ぜいたく)と考えられていた。 そういう土地であるから、お握りは、日常生活に、かなり直結したものであった。遠足や運動会の時はもちろんのこと、お弁当にも、ときどきお握りをもたされた。梅干のはいった大きいお握りで、とろろ昆布でくるむか、紫蘇(しそ)の粉をふりかけるかしてあった。浅草海苔(あさくさのり)をまくというような贅沢なことは、滅多にしなかった。 しかしそういうお握りの思い出は、あまり残っていない。それよりも、今でも鮮(あざや)かに印象に残っているの
千七百七十年正月七日越後の国塩沢に生れた鈴木牧之(ぼくし)が天保年間に著(あらわ)した『北越雪譜』は、雪に関する考察と雪国の生活とを書いた書物として有名であり、かつ日本ではこの種の文献が殆どない点で珍重されているものであるが、暖国の人には想像もつかぬ事柄が描かれている。 「左伝(さでん)に平地尺に盈(みつる)を大雪と為(す)と見えたるは其(その)国暖地なればなり。唐の韓愈(かんゆ)が雪を豊年の嘉瑞(かずい)といひしも暖国の論なり。されど唐土(もろこし)にも寒国は八月雪降(ふる)事五雑俎(ござっそ)に見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地(たちどころ)に銀世界をなし、雪の飄々(ひょうひょう)翩々(へんぺん)たるを観て花に諭(たと)へ玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画(え)に写し詞(ことば)につらねて、称翫(しょうがん)するは和漢古今の通例なれども、是(これ)雪の浅き国の楽
1 出来ることなら、綺麗に抹殺してしまいたい僕の人生だ。それを決行させては呉(く)れない「彼奴(きゃつ)」を呪(のろ)う。「彼奴」は何処(どこ)から飛んできて僕にたかったものなんだか、又はもともと僕の身体のうちに隠れていたものが、或る拍子に殻(から)を破ってあらわれ出でたものなんだか判然しないのであるが、兎(と)も角(かく)も「彼奴」にひきずられ、その淫猥(いや)らしい興奮を乗せて、命の続くかぎりは吾(われ)と吾(わ)が醜骸(しゅうがい)に鞭をふるわねばならないということは、なんと浅間(あさま)しいことなのであろう。 嗚呼(ああ)、いま思い出しても、いまいましいのは、「彼奴」が乗りうつったときの其(そ)のキッカケだ。あの時、あんなことに乗り出さなかったなら、今ごろは「キャナール線の量子論的研究」も纏(まと)めることができて、年歯(ねんし)僅(わず)か二十八歳の新理学博士になり、新聞や雑誌に
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