根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年4月17日(グレゴリオ暦1587年5月24日)に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。 九州制覇を目指す島津義久は、天正14年(1586年)に入ると豊後侵攻を開始し、12月には戸次川の戦いで豊臣・大友連合軍を撃破し、大友義統は豊前に一時的に退去し、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。 一方、徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)1月に九州征伐の動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による軍を九州に送り出した。3月には秀吉の弟・豊臣秀長の軍勢が豊前小倉において先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国の軍勢と合流し、豊臣軍の総勢は10万になった。これにより先の豊後侵略で島津軍の侵略でも陥落しなかった岡城の志賀親次や栂牟礼城の佐伯惟定、鶴崎城の妙林尼などが勢いづき、豊前・豊後の土豪

マカニダスは両翼の前衛に傭兵を、その後ろに輜重隊を配置し、自身は右翼に陣取り、軽装歩兵を指揮した[2][3]。一方、フィロポイメンはマンティネイア市の前の丘に左翼として軽装歩兵を、その南に胸当て兵、イリュリア兵、そして右翼にアカイアの騎兵を、それらの後ろにファランクスを配置し、マカニダスに対する左翼をフィロポイメン、右翼をアリスタイネトスが指揮した[4]。 スパルタ軍の戦列はアカイア同盟軍より短かったため、(恐らく包囲されるのを恐れた)マカニダスは右翼を伸ばして同じ長さにし、石弓隊を全戦列の前に出した[5]。これに対し、フィロポイメンは敵の意図は石弓の正射によって自軍を混乱に陥れることだと考え、それをさせじとタラス人騎兵に即座の攻撃を命じた。マカニダスもまた配下のタラス人騎兵にそれに応戦させた[6]。次いで双方傭兵部隊を繰り出し、マカニダスの傭兵部隊がその数と訓練の積み重ねのために優勢に立
イプソスの戦い(英語:Battle of Ipsus)は、紀元前301年にフリュギア地方のイプソス(現在のトルコ中西部の地域)で起こった会戦である。このディアドコイ戦争最大の会戦はアンティゴノス1世によるアレクサンドロス帝国再統一を不可能とし、その分裂を決定づけた。 アレクサンドロス3世(大王)の死後、有力な武将たちによる勢力争いが起こった。いわゆるディアドコイ戦争である。紀元前311年、カッサンドロス・アンティゴノス1世・プトレマイオス・リュシマコスの四者で一旦は講和が成立したが、紀元前308年頃までにアレクサンドロスの血統がほぼ断絶したことで、彼らが王を名乗るようになり抗争は激化した。 当時最有力だったのはアンティゴノスであり、エーゲ海の制海権も確保して勢力を固めた。これに対しカッサンドロス・プトレマイオス・リュシマコス達はセレウコスを加え、反アンティゴノス同盟を結んだ。アンティゴノス

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