ウェルキンゲトリクス アレシアの戦い(アレシアのたたかい、ラテン語: Alesiae pugna)あるいはアレシア包囲戦(アレシアほういせん、仏: Siège d'Alésia)は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では最も大規模なものの1つであった。 この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。 紀元前53年の戦いでカエサルに敗北を喫して、指導者であったアッコ(Acco)を処刑されたカルヌテス族を中心として、依然ローマへ敵対する動きは燻っていたが、紀元前52年にカルヌテス族の軍はケナブム(現:オルレアン)を攻撃し、ローマ人を虐殺し、財産

アグリゲントゥムの戦い(アグリゲントゥムのたたかい、紀元前262年-紀元前261年)は、シチリア島においておこなわれた第一次ポエニ戦争における最初の会戦であり、共和政ローマとカルタゴ間の最初の大規模戦闘である。長期にわたる攻城戦に続いて野戦が行われ、双方ともローマの勝利に終わり、ローマによるシチリア島支配が始まった。 アグリゲントゥム(現アグリジェント、当時の呼称はギリシア名のアクラガスで、ラテン名のアグリゲントゥムと改称されるのは紀元前210年)はシチリア島南岸の都市で、海岸からは4キロメートルほど離れている。都市自体は高台にあり、西側以外は急峻な斜面に囲まれている[1]。街の西側はヒプサス川(現在のサンタアナ川(en))で、東側はアクラガス川で守られていた。これらの自然条件のため、攻略は西側からしか行えず、防御は容易であった。シチリア南岸の主要道路および北方と東方の都市への道路の結節点
第二次ヘルドニアの戦い(ヘルドニアのたたかい)は、第二次ポエニ戦争中の紀元前210年にハンニバル率いるカルタゴ軍が、南イタリアのアプリア(現在のプッリャ州)でローマ軍を包囲殲滅した戦い。この大敗により、ローマと既に疲弊していた同盟都市の関係は悪化した。ハンニバルにとっては戦術的な勝利であったが、ローマ軍の勢いを長期間押しとどめることはできなかった。その後3年の間に、ローマはこの戦闘で失った領土・都市を回復し、ハンニバルをイタリア半島の南西に押し込んだ。この戦闘はカルタゴ軍最後の勝利であり、その後は引き分けもしくはローマ軍の勝利に終わっている。 現代の歴史家の間には、紀元前212年と紀元前210年にヘルドニアで2度の戦いがあったとするティトゥス・リウィウスの記述に対して論争がある。ローマ軍指揮官の名前は紀元前212年の戦いがグナエウス・フルウィウス・フラックス、紀元前210年の戦いがグナエウ


シラルスの戦い(シラルスのたたかい)は第二次ポエニ戦争中の紀元前212年に発生した戦闘である。カプアから撤退する執政官アッピウス・クラウディウス・プルケルを逃がすため、マルクス・センテニウス・ペヌラが兵力8,000でローマ軍の殿軍を務めた。それを追撃するハンニバルのカルタゴ軍の兵力は25,000-30,000であり、カルタゴ軍兵力がローマ軍を上回っていた数少ない戦闘の一つである[1]。カルタゴ軍は大勝したが、戦争の帰趨に対する影響はほとんどなかった。 紀元前216年のカンナエの戦いの勝利の後[4]、ハンニバルはイタリア半島のローマ同盟都市にカルタゴとの同盟を結ぶように働きかけた。紀元前212年頃までにいくつかの都市国家や部族はローマから離れたが[5]、それにはカンパニアのアテラ(en)、カラティア(en)、アプリアの一部、サムニウム人(ペントリ族を除く)、ブルッティ族(rn)、ルカニ族(e

デルトサの戦い(デルトサのたたかい)またはイベラの戦い(イベラのたたかい)は第二次ポエニ戦争中の紀元前215年春に、エブロ川の南岸のデルトサ(現在のトゥルトーザ)近くで行われたカルタゴと共和政ローマ間の戦闘である。グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオが指揮するローマ軍が、ハスドルバル・バルカが指揮するほぼ同規模のカルタゴ軍を打ち破った。紀元前218年のキッサの戦いの勝利の後、グナエウスはヒスパニアでの地位を固めつつあった。これを阻止しようとしてハスドルバルは遠征軍を送るが、紀元前217年のエブロ川河口の海戦で敗北してしまう。紀元前215年にハスドルバルは再度遠征軍を送るが、デルトサで再度ローマ軍に敗北した。この敗北の結果、イベリア半島のカルタゴ軍を強化する必要が生じ、その分イタリアにいるハンニバル軍に対する支援が不足することとなった。 カンナエの


フランス軍は一部の部隊指揮官が社交のためにパリへ出向いており招集に間に合わないなど、指揮官の足並みが乱れており[5]、総指揮官のアンギャン公も弱冠22歳と経験不足だった。しかしJean de GassionやBaron de Sirotなどの経験豊富な指揮官も擁していた[6]。 しばしばフランス軍は軽量で機動性の高い野戦砲を装備していたと言われるが、裏付けとなる明確な史料は残されていない。スペイン軍の状況はフランス軍よりも深刻であった。部隊指揮官には総指揮官であるメルロの弟が軍務未経験にもかかわらず抜擢されるなどしており、経験豊富な指揮官の数はフランス軍よりも少なかった。総指揮官であるメルロも、キャリアの大半を外交官として過ごしており、軍務経験は1年半ほどであった。またポルトガルやカタルーニャでの反乱を鎮圧するため、ベテランの兵士たちをスペイン本土へ送還していたため、兵士の質でも劣ってい


ポルタヴァの戦い(ポルタヴァのたたかい、ウクライナ語: Полта́вська би́тва, ラテン文字転写: Poltavska bitva; スウェーデン語: Slaget vid Poltava;ロシア語: Полта́вская би́тва, ラテン文字転写: Poltavskaya bitva)は、1709年6月27日(新暦7月8日)、東ウクライナ(ウクライナ語版)のポルタヴァで行われたロシアとスウェーデンの大北方戦争における最大の戦い。カール・グスタフ・レーンスケルド(スウェーデン語版)率いるスウェーデン軍と、ピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。 この戦闘の後、スウェーデンは軍事的優位を喪失した。大戦争の行方を決した会戦といえる。なお、カール12世は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったとされる。また、スウェーデン軍にはウクライ

ナルヴァの戦い(ナルヴァのたたかい。典: Slaget vid Narva、露: Битва при Нарве)は、1700年から1721年にかけてロシア・ツァーリ国とスウェーデン(バルト帝国)を中心に戦われた大北方戦争における一戦闘。1700年11月30日(ユリウス暦11月19日、スウェーデン暦11月20日)、現在のエストニアの都市ナルヴァでロシア軍とスウェーデン軍が戦った。ロシアのツァーリ・ピョートル1世は海への出口をバルト海に求め、沿岸を領土としているスウェーデンと戦うためポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世とデンマーク=ノルウェー王フレデリク4世と反スウェーデン同盟を締結した。1700年2月にポーランドがスウェーデンの大陸領であるリヴォニアの都市リガを、3月にデンマークがスウェーデンの同盟国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を攻撃して大北方戦争を開始した。ロシアは交戦し

ドレスデンの戦い(ドレスデンのたたかい、独:Schlacht von Dresden、1813年8月26日 - 8月27日)は、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘の一つである。ドイツ東部のドレスデン近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世麾下のフランス軍は、オーストリア帝国・ロシア帝国・プロイセン王国による第六次対仏大同盟軍を破り、フランス軍の勝利に終わった。しかし、ナポレオンの勝利は完全なものではなかった。この戦いではフランス軍は追撃に失敗し、数日後に行われたクルムの戦いにおいてヴァンダムの軍団が包囲され降伏した。 ナポレオンが1812年のロシア遠征に失敗した後、プロイセンがフランスとの同盟を破棄し、第六次対仏大同盟に加わった。一方、徴兵の前倒しなどにより兵力を補充したナポレオンは5月にリュッツェンの戦い、バウツェンの戦いで勝利したが、騎兵の不足により効果的な追撃を行うことができず、勝利は限


河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城(現・埼玉県川越市)の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いである。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、天文4年(1535年)から北条氏綱・氏康と扇谷上杉朝定・山内上杉憲政との間で複数回にわたる争奪戦が展開された。 天文4年(1535年)10月13日 - 北条氏綱、河越城を包囲するも17日に撤退[1]。 天文6年(1537年)7月 - 北条氏綱、扇谷上杉朝定を破り河越城攻略。 天文7年(1538年)1月 - 扇谷上杉朝定、河越城奪還のため出陣するも北条氏に敗退[2]。 天文10年(1541年)10月 - 扇谷上杉朝定、河越城を攻撃[2][3]。 天文14年から15年(1545年から1546年) - 山内上杉憲政・鎌倉公方足
昆陽の戦い(こんようのたたかい、中国語:昆陽之戰)は、中国新代の地皇4年(西暦23年、または更始元年)豫州潁川郡の昆陽(現在の河南省平頂山市葉県)における新軍と緑林軍との間の戦いである。 西暦8年、前漢から禅譲を受けて、新を建国し、年号を始建国元年とした王莽であったが、王莽の採った理想主義・懐古主義的な政策は当時の実情に合わず、次第に各地で反乱が勃発する。中でも赤眉軍及び緑林軍が有力な反乱勢力であった。 ここで南陽豪族の劉玄も緑林軍に加わり、地皇3年(22年)、同族の劉縯・劉秀兄弟も王莽による禅譲を「簒奪」として旗揚げし、やがて緑林軍は農民・豪族連合軍となる。劉縯は、納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂が率いる新軍を撃破して、荊州は宛(南陽郡)を脅かした。この城攻めの間に皇帝として劉玄が立てられ(すなわち更始帝)、劉縯は大司徒に劉秀は太常偏将軍に拝される。 それに対して新は、地皇4年(23年
鉅鹿の戦いにおける戦局図 陳勝・呉広の乱を鎮圧するために秦の首都咸陽から大軍を率いて出撃した将軍章邯は首尾良く反乱軍を撃破し、陳勝・呉広や項梁といった反乱軍の指揮官を殺害することに成功した。 その後、趙が起こした反乱の鎮圧のために章邯は趙へ侵攻、首都邯鄲を破壊し、更に趙王と張耳が籠城する鉅鹿城を部下の王離・蘇角・渉間に包囲させた。 秦軍に包囲された鉅鹿城に、楚は将軍宋義を主将、将軍項羽を副将とする援軍を派遣した。 しかし宋義は途中の安陽で46日間も逗留した。宋義としては、勢いに乗っている上に圧倒的な大軍である秦軍と趙軍をなるべく長期間戦わせることで秦軍を疲弊させ、その後で攻撃を開始すべきだと考えていた。また彼は、秦に対抗するために斉との同盟の話も進めており、息子の宋襄を斉の宰相として送ることとなった。 一方秦との速戦を望む項羽は調略を重視して中々戦おうとしない宋義に業を煮やして首を刎ね、「
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