(結果的に)武田信玄に挑んだ男、小栗信濃守の本拠地とされる本陣山(ホンジヤマ)城(御嵩(みたけ)城)。開発と公園化の工事で、激しい破壊を受けてしまっており旧状をほとんど留めていないと言われています。 「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集(以下、基本的には調査報告書と略します)」の縄張図を片手に残された痕跡とされているものを確認して回りました。以下の曲輪や堀切の番号や記号は調査報告書に従っています。 まず曲輪③の南にある大きな駐車場に車を停めました。登る道が二つありますが立っていた看板に近い東側の狭い道から登りました。 現状の本陣山城は北と南の二つの曲輪で構成されているように見えますが、本来は手前(南)の曲輪は二つに分かれていて、三つの曲輪が残っていました。 とりあえず展望台がある曲輪①と曲輪②を区切るAの堀切は繋ぎ目の両側に痕跡を観ることが出来ます。本来は幅七メートル、深さ一メートルも

矢作川の南にある小渡(おど)城に行ってきました。昔の行政区分では矢作川の北側は美濃国だったそうで、国境の城になります。同じく矢作川南岸にある東広瀬城と選地の似たところがありますが、独立した丘だった東広瀬城とは異なり、小渡城は東側に山地が続いていています。 訪問前に注目していたポイントは南東部の畝状空堀群です。縄張図によれば竪堀間の上部に「土饅頭」と「愛知の山城ベスト50を歩く」で表現される高まりがあり、自分がとても気になっている恵那市明知城の大きな土塁を挟んだ畝状空堀群に似ているのではないかと思って見学に行きました。 ちなみに明知城と小渡城の位置関係はGoogleマップの距離測定で、明知城から南南西に8.3kmです。 車は「おど夢かけ風鈴駅」の広い駐車場に停めました。もっと近い増福寺(風鈴寺)の駐車場は狭い道に入っていくので、やや分かりにくいです。スペースは全部空いていましたが。 増福寺へ

土塁が消滅の危機に瀕している各務原市の野口館(各務原市の正式呼称は「野口町中世館跡」のようです)で、発掘調査の現地説明会が開かれるとのことで、見学しに行ってきました。普通の時に行こうとすると駐車場所に困る遺跡ですが、説明会のために近くにあるJAの駐車場を臨時で解放してくれていました。 そこから東に歩いて広い道路まで出て北に歩くと説明会会場の入口があり、西に少し戻る形で野口館の南門跡に出ました。 わずかに雪が残り、発掘されて土が剥き出しになった館の敷地内は一部で泥がこねられた状態でした。植生に覆われた顔戸城なども緑を剥ぎ取られると、こういう感じになるのだろうと想像できました。 説明会はまず偉い人が挨拶。地権者との話し合いを重ねて、土塁を記録保存する形になったこと、地下の遺構は残ることを強調していました。要するに「市は悪くないよ」という主張ですが、自分は細かい事情を知っているわけでもないので保


末泥城(まつでいじょう)の東にある山塊の中、昼なお暗い薄暗い森ではザトウムシが歩き回り、湿った落ち葉を食すトビムシを狩っていた。湿気が高く虫も多い不快な環境の中で、ある土盛(つちも)りの周囲だけがひらけて日が射し込み、ある程度は乾燥していた。 「古墳か?こりゃあ」 鬼岩番が誰ともなしに問いかけると、側近の丹羽修理(にわしゅうり)が「これは炭焼きの跡です」と教えてくれた。炭にしたい木材を山と積み上げて外側を粘土で覆う。余分な空気が入らないようにしてから火をつけることで木材を蒸し焼きにして炭をえる。 そうした作業をした即席の窯が風雨でボロボロになって崩れたあとが、彼らが集まったマウンドであった。炭焼き職人が周囲を切り払ったおかげもあって、多少は居心地のいい環境になっている。 「もし、陵(みささぎ)だったとしても、円形では大した豪族の墓ではありますまい。一番地位が低いですからな」 と流石に博識な

以前から位置を確認していた太平本城。近くを通りかかったので思い切って寄ってみました。まずは中腹の神社(八王子社)までガシガシ登ります。 そこから北に行く道があったけれど下り坂になっていたので、東側の登れそうなところから山の中に入りました。神社への登り道の途中で山に入っていく道が別れていて――神社への道は舗装されているけど、こちらは土の道――ここを進んでも良かったことが帰り道で分かりました。 軽く調べたときの前提知識を失っていたので、曲輪と切岸らしい法面が現れるたびに、(これか!?)とリアクションする状態になりました。だんだんと出くわす切岸が高くなっていって、最後の切岸の規模には魂消ました。がらがらどんの兄弟みたいです。 主郭についてからスマホで縄張図を確認しました。最初の方に見た法面は城には直接関係ないものの可能性が高いです。 主郭部は面積的にも巨大で、北東から東側は削り残しの土塁と思われ

木曽川沿いで、金山城から少し上流の対岸にある八百津町の和知城(稲葉城)に行ってきました。 和知城は木曽川と支流の石川の間に挟まれた三角形の土地に築かれた平城です。初めてこの城の縄張りを認識した私の感想は「長篠城に似ている!」でした。長篠城の場合は豊川と宇連川(うれがわ)に挟まれた土地に築かれています。 和知城には木曽川におりる船着き場まであったそうです。石川は宇連川に比べると細い渓流ですが、大地を深く刻み込んでいるので天然の水堀というよりも深い空堀みたいになっています。 発掘調査報告書によれば、築城以前はもっと西側を流れていた石川の流路を変更して、現在の位置を流れるようにしたとのことです。現在の石川は築城時より下刻が進んでいるのかもしれません。 古い縄張図ではもう少し遺構が残っているのですが、今の和知城は大きな空堀(縄張図の表記だと堀切)で北側を守られた本丸と二の丸からなる主郭部が大部分で


安祥城の西にある安城古城に行きました。安祥古城とも言い、安城森城とも言う(一般的には安城古城と安城森城は同じ城と理解されている)ので、一番珍しい言い方では安祥森城と表記しても間違いではないはずです。以下では安城古城で通します。安祥呼称については安城城の回もお読みください。 安城古城は残っている部分が非常に小さい(もしくは、ない)城です。自動車を停められるところがないので西の秋葉公園の駐車場を利用しました。安城古城に近い東側の小さな駐車場は一杯で、西側の大きな駐車場も一台しか空きがありませんでした。 けっきょく安城城の駐車場から歩くのと、あまり変わりなさそうな距離を歩いて、安城古城へ向かいました。安祥閣の前の道をまっすぐ東に歩いたら着くと思っていたのですが、実際は少し北に入る必要がありました。 その時の道は登り坂になっていました。 現地に着いてみると南に小さな公園があり、北には安城古城の看板


織田と松平、今川の攻防が繰り返された安城城。さらに昔には松平信光が策略で奪い取り(相手は安城古城から移ってきた和田氏?)、小牧・長久手の戦いでは徳川家により北側に改修を受けていると言われています。 昔は安祥城と表記されることが多かったのが、安祥の呼び方は江戸時代の三河物語など比較的新しく、安城の方が古い資料に書かれているため、安城表記の方が「正確」と考えられて現在は「安城城」呼びが優勢になっているようです。「愛知の山城ベスト50を歩く」でも安城城と書かれています。 説明の載っていた発掘調査報告書は1993年の発行なので世間に広まるまでは時間が掛かったような……自称「門外不出」の三河物語の宣伝力おそるべし! 名称の曖昧さも問題ですが、縄張りの曖昧さは個人的にはもっと困ります。現在、大乗寺が建っている高台が主郭ということは確かですが、南にあるもう一つの高台「八幡宮」のあつかいを含めて、諸国古城


可児市で開催された「山城に行こう!2025」の一日目(土曜日)に参加してきました。ほぼ午前中のみになりましたが気づいたことなどを書いていきます。 ・久々利城 イベントのために用意された模擬戦陣地を見学しました。おそらく安全に配慮して、防衛側の陣地は枡形虎口として図示されている部分より一つ奥に入ったところに構築されていました。下に柵の場所を示す幕が張られると、ここも枡形に見えるので、二重の枡形虎口と評価できるのでしょうか。 三の丸と二の丸の切岸東側は傾斜がゆるくなっていて、登り降りする人がいました。縄張図では崩落地形とされているようです。反対側の角には伐採した笹が放り込まれていました。このあたりがサツマイモ栽培時の登り口なのでしょうか。 天空の見張り台から本丸から奥之院に向かって歩いてくる人を観察したところ、ここからの飛び道具は正面攻撃になり横矢にはならないことに気づきました。奥之院や二重堀


平成合併後の豊田市が巨大すぎて他の愛知県自治体の山城になかなか辿り着けそうにありません。……青春18きっぷで静岡県を征く気分です。豊田市を南に抜けた平地の城は遺構の残りもいまいちです。 中世にこだわらずに、近世城郭なら犬山城・岡崎城などがありますね。もっと尾張北部でも探してみようかな。 東広瀬城は伝説では児島高徳が築いたとされる矢作川南のお城でした。中国春秋時代の故事をひいて後醍醐天皇を励ましている人です。武士の教養史を語るうえで重要そうなのに、逃げ上手の若君では南北朝時代以降に地方に教養が拡散していくという作品の史観に合わないからか存在を無視されている気がします。木の皮を剥いで文字を書くところは孫臏が龐涓を倒した馬陵の戦いのエピソードにも関係があるのでしょうか。 なお、実際には城主の三宅氏が先祖とする児島高徳の名前を後から出したのではないかと「愛知の山城ベスト50を歩く」に書かれています

荒野(あらや)家によって貝腰(かいごし)領侵攻の先頭に立たされた隼楚(はやそ)傭兵への領民の恨みは非常に深い。本城から援軍を出す代わりに、情報を得るためであっても生かしておくことはならないと通告してきた。 「と、言うわけじゃ……」 何度も長時間言葉を交わしてきた相手をいまさら処刑するのは忍びない。しかし、背に腹は代えられないので、釉姫(ゆうひめ)はせめてもの情けと自ら通告しに来た。桃堂(とうどう)の裏切りが発覚して、さすがの彼女も意気消沈気味である。 「……しょうがあんめぇ」 年嵩の隼楚傭兵――破愚痴(はぐち)と言った――は殊勝にも諦めの言葉を口にした、と思わせていきなり牢屋の格子を破壊した。 ベキィッ!! 「は?」 「長居しちまったが、ここらで逃げるとすっか」 姫は子猫のように首根っこを掴まれ人質にされた。頻繁に話を聞く利便性を優先して、監禁場所を固定したことが祟った。何らかの方法で格子

最近読んだ「ウリッコ」というコミックDAYSのWeb漫画で漫画家を志す主人公が映画を観ることを勧められて、「ローマの休日」を観て、その面白さを考えた結果「嘘とか秘密って面白いんだ…」と解釈するシーンがある(第9話)。 なかなか印象的なシーンだったのだが、主人公は成長途上だから更に深い解釈ができるようになるかもしれない。 「ワンパンマン」ではサイタマの異常な強さは本人にとっては別に嘘でも秘密ではないが、なかなか周囲に理解してもらえず、一部の登場人物だけが知っている秘密のようになっている。それも物語が進むと、サイタマの強さを知っていることが合格ラインみたいになってくる。 そして、キングの弱さが「知る人ぞ知る」秘密である二番底が待っている。 それも読者は最初から知っている。 読者だけは全てを知っている。嘘をついてしまったキングに関してはバレるかバレないかのスリルもあるけれど、秘密がもたらしている

【思考実験】AI作品が跋扈するweb小説投稿サイトから撤退した。レビュアーとして戻ってこいと言われても、もう遅い。 【思考実験】AI作品が跋扈するweb小説投稿サイトから撤退した。レビュアーとして戻ってこいと言われても、もう遅い。 *著者のAI利用に対するスタンスは「この話を書くネタになってくれてありがとう」です。 *「これもAIが書いたのならオチがついたのに」と使い古されたコメントを今更することは「私の創造力はAI以下です」と表明することと同じだと思いますので、表明したい方はどうぞ。 *全て架空のものです。 20XX年、web小説投稿サイト「幽黄泉(カクリヨミ)」にAI作品があふれかえるようになって、自作品が完全に埋没したと感じた私はついに幽黄泉での作品投稿をやめた。代わりに投稿頻度制限やAI使用禁止をうたう新興の「井戸車(イドグルマ)」を利用するようになったが、古巣である幽黄泉の動向は

AIによる大量投稿による文章投稿サイトの環境破壊について(増田、カクヨム)https://orangestar2.hatenadiary.com/entry/2025/11/04/111727 が、はてなの狭い世間で話題になっている。 そもそも、まともじゃない方の仕事をするな。AIの粗製乱造で作品が見つけられる薄まっているなら歓迎はできないが、個人的にはずっと前から鳴かず飛ばずだったので、実感はない。どうせこういう話になると、AIを粗製乱造と言えるほど立派な作品を書けているのかと言ってくるやつもいるし――作者としては空元気みたいなものでも自信をもって書いたほうが良い気がするけど。 なんかもう、ひたすら諦めだけがある。 しかし、YouTubeダッシュボードというチャンネル登録者数という減るトレンドが強い数字を一番に突きつけてくる場所よりは、カクヨムワークスペースという少しずつしか増えなくて


以前、南側から登ったことのあった明智城に大手とされる北側から登ってみました。南側からの方が圧倒的に楽でした。暗くなりそうで急いでいたこともあり、谷に作られた道を一気に登ることになって息が切れてしまいました。 この明智城(別名長山城)は実在自体が疑問視されており(詳しくは「創出されたヘリティジ - - 岐阜県可児市明智城跡を事例に」https://tokaigakuin-u.repo.nii.ac.jp/records/2565などを参照)その知識を既に持っているために疑り深い目で見てしまいます。 しかし、もしも何も知らずに自分が見ていたら「ほえー」と鼻水垂らして感心していた気がして仕方がありません。そして、守りの構造について分かったようなことをここに書くと……想像だけでも顔から火が出そうです。 すでにやらかしていないとも限らないですね。非常に自戒させられます。 さて、看板オススメの大手・本


可児市の山城月間にするつもりで明智城(別名長山城)について調べていたら、本当に城址なのか怪しいという情報が浮上してきて、いろいろ悩んだ末に県内にあるもう一つの明知城に向かっていました。……解決になっていません。 記事に書かないとしても実際に可児市の明智城へ行ってみなければ判断のしようもない気はしています。 恵那市の明知城については信長公記にも載っていて、知られているだけで四回の攻防が行われたという明智光秀に関係があろうがなかろうが由緒正しき城郭です。私がここを訪れたのはおそらく三回目で、一回目は大正ロマン館の方から登りました(地図で確認すると天神神社を通るルート)。二回目と今回は陣屋跡地の脇から登りました。 実際の大手道は陣屋の土塁が切れたところで合流する道とのことで、合流部分で折れ曲がるので上から通行の様子が監視できます。 次の分岐路では「本丸」と「畝状空堀群」の看板が立っていて、思わず

築城者が不明、正式名称も不明(城山と呼ばれていたとの口伝はあるようです)な近年発見された仮称笠原城に行ってきました。ギリギリ多治見市内ですが、場所は美濃と尾張の国境にあたります。 公園「かさはら潮見の森」に入る道は最初は単線で、分かれ道ですぐに複線になり、途中でまた単線になって(ここからはずっと単線ですれ違いが大変だろう)と覚悟していたら、また複線に戻って第一駐車場まで行けました。公園にしか通じていない山奥の道を複線にする気合に助けられました。この道は鉄塔のメンテナンスにも利用されているようです。 道中と展望台でバードウォッチャーに遭遇しました。休憩所にはクマが出るとの写真付きの注意がありました。展望台からは名古屋の高層ビルが見えて、猿啄城からの眺めを思い出しました。 美濃の山から尾張の平地を日々遠望していたら攻め取りたくなりそうですが、現実には尾張の織田氏が美濃を征服することになったのは


可児市の山城祭り「山城に行こう!2025」に合わせて可児市の山城強化月間ということにします。本音を言うと近くの城をまとめて調べた方が資料が関連していて、資料集めがしやすいです。でも、森長可の暴虐を追うのは辛い……。 大森城は久々利氏の家臣だった奥村元信の子、奥村元広が造った城で、久々利城からそれなりに近い距離にあります。敵対した森氏の金山城からも、それほど遠くありません。細い大森川を挟んですぐ近くに吹ヶ洞砦跡も存在していますが、こちらの築城者は謎に包まれているようです。戦国時代に生きた武将なら距離感や地形から一目で大森城との関係を見抜いたのでしょうか。 他人が造った城を再利用することも多いから、そう簡単ではないかな。敵対関係だと二つの城はちょっと近すぎる気がしたけれど――川もそんなに大きくないし――逆に味方だった場合、尾根が繋がっているわけでもなく連携しにくそうなのは疑問に感じてしまいます

夏を迎え、荒野(あらや)領に遠征した貝腰(かいごし)軍は進退極まっていた。麦城(ばっき)領を経由する輸送路がどんどん細くなっていることが根本的な原因である。本来は川梅(かわめ)領を通る西山道(さいさんどう)を打通する予定だったのが、敵に阻止され――それどころか貝腰領に逆進撃され――条件の悪い脇道をずっと使っているのだ。 しかも、荷駄隊を襲撃する自称山賊の活動が日に日に活発化していた。貝腰氏に騙され脅されて通行を許可した麦城氏には警備に責任をもつ動機がなく、貝腰氏の本国が敵の侵攻を受けている以上、遠征隊から護衛部隊を出して物資輸送を助けるしかなかった。 それならいっそ護衛部隊を本国に返して、侵入している敵の別働隊を倒すべきという意見も出てくる。このような戦況では里心が出てくるのもやむを得ない。 対する荒野勢は本国に戻って戦っているので貝腰勢にくらべて補給は潤沢であった。その様子を察して貝腰側

久々利(くくり)か……ポエミィな名前だね!(それはニケの方)。 第1回の今城以来の可児市の城。可児市内では飛び地にある金山城に次いで二番目に大きいという久々利城に行ってきました。規模は土岐市の高山城と同じくらいのイメージでしたが、さらに大きいかもしれません。曲輪の配列に高低差があって立体的なことで空間が大きく感じられる面もありそうです。 こちらも高山城と同じく二つの尾根上に展開していて、間に谷を挟んでいます。香川元太郎先生の復元図では谷の中に建物などは想定されていない様子。間の谷は北東―南西方向に伸びていて日当たりも関係しているのかもしれません。 小雨の中に訪れたので最初の木橋から滑って、登城道の粘土が出ているところでも滑って、大変でした。トレッキングシューズを履いていても、そんな状態なので、草鞋(わらじ)だったらもっと大変そうです。 最初の枡形虎口は相当守りが堅く、城内の複数の地点から立


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