レヴィ=ストロースが10月30日に亡くなったというニュースが今朝はいってきました。コメントでもそのことを書かれた人もいましたね。去年11月に100歳の誕生日を迎えたときも寝たきりになっていたので、ああやっぱりそうなのかという感想でした。「祝 レヴィ=ストロース100歳の誕生日」を書いてから1年もたたないうちでしたね。共同通信社から追悼文の寄稿を依頼されましたが、短時間で(もちろん予定原稿なんか作っていませんからね)、しかも原稿用紙3枚ぐらいだと何も書けない感じで、いちおう寄稿しましたが、新聞向けとは思えないものとなりました(依頼した方も、時間がないので、しょうがねえなあという思いで配信するのではないかな)。 いま、その改訂増補版を書いているところです(まあ、代打で三振したあとにベンチ裏で素振りしているようなものですが)。これくらいの枚数だとすこしはましなものを書けたのになという思いで、加
小田亮氏がレヴィ=ストロースの「真正性の水準 niveaux d’authenticité」という言葉を巡って、「「ほんものだ」といった手に触れることの出来るような確実性や直接的な手ごたえといった感覚的なものが、このauthenticity/authenticitéという語にはあり、他の語ではレヴィ=ストロースのいう「媒介されることによる(あるいは代表=表象されることによる)真正性の欠如(「まがいもの」らしさ)」と区別された、触感的な「ほんものらしさ」を表わすのに適切と考えたのでしょう」と述べている*1。これを巡って私に思いつくのは、想像に対立する知覚(直観)ということか。 ところで、そのコメント欄でmacbethさんという方が ところで、小田さんが言及された「本質主義批判の文脈で、authenticityやauthentic という語は、本質主義が用いる語として評判が悪かった」で気付いた

タイトルについての説明からしておこう。「社会の二層性」ないしは「二重社会」という視点は、最近、湖中真哉さんが、『牧畜二重経済の研究』[湖中 2006]によって見事によみがえらせた、J・H・ブーケの「二重経済」論の前提となっている「二重社会(dual societies)」という用語を、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準(niveaux d'authenticite)」の議論の帰結を表すのに援用したものである。この講演では、この視点を、グローバル化に直面して絶望的な困難さを抱えながら生きている「小さなもの」たちが、その生をまっとうするための実践を理解するのに必要かつ重要となる視点として、提示したいと思う。そして、副題として付けている「小さなものの敗北の場所から」というのは、思想史家の市村弘正さんの「小さなものの諸形態」というエッセイから取ったものである。
蛇儀礼 (岩波文庫) 作者: ヴァールブルク,Aby M. Warburg,三島憲一出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/11/14メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 11回この商品を含むブログ (18件) を見るワールブルク文庫であまりにも有名な、アビ・ワールブルクの人類学の書である。実見したプロブロ・インディアンの儀礼を、未開人の蒙昧がもたらしたものなどという見方をせずに、独自の高い精神文化を土台にしたものとしてリスペクトしながら語っているところがさすがだ。とりわけ雨乞いの儀礼に蛇が関係していることを記述しながら、ギリシアのアスクレピオスの杖に絡みつく蛇や、ラオコーンの蛇、また新旧約聖書における蛇(有名なエヴァを誑かしたそれなど)に接続し、古代からの想像力における蛇の重要性を説いている。 それでちょっと思い出されたのが、目を日本に転じると、吉野裕子の『蛇』なる名著である

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