第16代当主・前田利為の長男で、母は渼子(前田利嗣長女)[1]。父の戦死に伴い1943年(昭和18年)1月15日、家督を継承し侯爵を襲爵[1]。同日、貴族院侯爵議員に就任し[3]、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。 1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業した[2]。1936年(昭和11年)宮内省に入省し式部官兼主猟官に就任[2]。以後、兼内大臣秘書官、帝室博物館嘱託、臨時内大臣府御用掛なども務めた[2]。 1947年(昭和22年)10月29日、金沢市に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、前田家の成巽閣が宿泊所となった。翌朝、昭和天皇に拝謁[4]。 式部官時代、1960年(昭和35年)2月29日の浩宮徳仁親王(現・第126代天皇)および1965年(昭和40年)12月6日の礼宮文仁親王(現・皇嗣)の「浴湯の儀」において、浅野長武(東京国立博

前田 利祐(まえだ としやす、1935年〈昭和10年〉11月6日 - )は、旧加賀藩前田家第18代当主。宮内庁委嘱掌典。全国石川県人会連合会会長。関東東京石川県人会会長。四高記念文化交流館初代館長[1]。 学習院大学政経学部を卒業後、日本郵船に入社し、のちに同社のグループ会社である八馬汽船の常務取締役を務めた。徳川宗家第18代当主である徳川恒孝は、学習院大学政経学部・日本郵船の双方で5年後輩である[2]。前田と徳川は日本郵船で同じ部に勤務したことがあり[2]、徳川は当時のことを下記のように回想している。 2001年(平成13年)12月7日、敬宮愛子内親王の「浴湯の儀」において、徳川(徳川宗家当主)と前田(加賀前田家当主)の2人は、「読書役(とくしょやく)」の児玉幸多(学習院大学名誉教授)と共に、読書鳴弦の儀を執り行った。父・利建も1960年(昭和35年)2月29日の浩宮徳仁親王(現・第12
鎌倉市では、低未利用となっているものなど、主要な公的不動産(鎌倉市役所(現在地)、梶原四丁目用地(野村総合研究所跡地)、深沢地域整備事業用地(行政施設用地)、扇湖山荘)を中心に、利活用推進の方針を定める取組を進めました。 この取組は、公的不動産を資産と捉えた利活用を進めるなど、これまでにない視点から検討を行うことで、全市的なまちづくりを実現させるための推進力とし、更には鎌倉のまちに「住みたい・住み続けたい」という思いをもってもらうための新しい価値を創造することで、次代に引き継ぐ鎌倉のまちづくりを実現させる引き金としようとするものです。 最新のお知らせ 令和7年(2025年)3月19日に、令和6~7年度旧諸戸邸装飾等修繕計画及び耐震改修工事実施設計業務委託の企画提案の選考について、選定結果を公表しました。 令和6年(2024年)12月24日に、扇湖山荘の利活用事業の優先交渉権者と基本協定を締

きっかけは 「コロナ断捨離」中に出てきた1冊のノート。 上京前、21歳のときに書いた人生の設計図。 その日は苦笑いしながら「捨てるモノ」箱に放り投げたけれど、ずっと心に引っかかっていた。 “鎌倉ぐらし” あれから4年。 全然、20代の頃に思い描いた自分ではなかったけれど、ふと思いついた。 (今じゃないか?) これまで、どうしても迷ったときは「やらぬ後悔より、やって後悔」で「やる」ことを心がけてきた。 (迷ったときは一歩前へ) “思いつきと思いきり” 令和6年(2024)7月、東京から鎌倉へ引っ越した。 “鎌倉ぐらし”の記録として、いずれ仕事として原稿にまとめるための “備忘録”として、SNSに投稿した日々の【雑感】をnoteに残していく。 鎌倉雑感「鎌倉文学館改修計画&旧前田邸見学説明会」鎌倉文学館改修計画&旧前田邸見学説明会へ。 「鎌倉文学館」は大規模改修のため、令和5年(2023)4月

鎌倉文学館は、令和11年(2029年)再開館に向け改修準備を行っており、敷地内に建つ洋館(旧前田邸)を解体し、一部活用等を検討します。 鎌倉文学館の改修・洋館解体の概要 鎌倉文学館は、昭和11年(1936年)に建てられた加賀百万石の藩主として知られる前田利家公の系譜である旧前田侯爵家の別邸を活用した文化施設として、開館以来、約40年にわたり多くの方々に親しまれてきました。築89年を迎える建物の老朽化にともない、このたび、初めての休館を伴う大規模改修工事に着手いたします。本改修では、国登録有形文化財でもある本館の歴史的価値を損なうことなく、安全性の向上やバリアフリー化、展示機能の強化を図り、「見る・憩う(いこう)・過ごす場所」となることを目指します。敷地内にはカフェや券売所などの利便施設も整備し、より滞在を充実させる文化施設とします。 改修にあたり、敷地南側にある洋館(旧前田邸)については

「あれ?文学館って最近やってなくない?」という声を、ちらほら耳にします。 そうなんです! 今、鎌倉文学館は休館中で、2029年の再オープンに向けて大規模な改修に向けた準備を進めているところなんです。 そんななか、ちょっと特別な機会があります。 2025年7月30日(水)と8月3日(日)に、文学館の見学説明会を開催します。そこでは、文学館の改修に向けた説明や、解体を予定している敷地内にある洋館(旧前田邸)の“いま”を見ることができます。(そして、お申込みは不要です)本記事では、そのご案内もかねて、「B面ノート」としてお届けします。 「B面」らしく、本題の合間に、ちょっと気になる寄り道となる情報も交えながら展開してまいります。案内人は、鎌倉市広報課の林正嗣(はやしまさつぐ)です。どうぞお付き合いください。 そもそも、鎌倉文学館はどのように生まれたか?今でこそ「鎌倉文学館」として知られているこ

かつて前田家当主らが居住し、神奈川県鎌倉市に寄付した洋館が取り壊されることになった。市が取得して15年が経過したものの、室内に階段が多く公共施設として利用しにくいことや、敷地の一部が土砂災害特別警戒区域に入ったことで活用を断念。隣接する鎌倉文学館(旧前田家別邸)の大規模改修に合わせ、来年度に解体工事に着手する見通しだ。跡地近くに洋館の趣を残した新たな建物を造る計画だという。 【写真】取り壊しが決まった前田家当主らが住んだ洋館=神奈川県鎌倉市 洋館は1971(昭和46)年建築で、鉄筋コンクリート造の2階建て。鎌倉市によると、前田家17代当主の利建(としたつ)氏らが住んでいた。2009年に1人で暮らしていた利建氏の妻が亡くなり、10年に18代当主の利祐(としやす)氏が前田家との関連を示す看板設置などを条件に、建物と土地約4500平方メートルを寄付した。 かつて前田家別邸として使われた鎌倉文学館

鎌倉文学館(鎌倉市長谷)の改修計画の一環で敷地内にある旧加賀藩主の前田家邸宅だった洋館を取り壊す問題を巡り、同市は3日、現地見学会を同所で開いた。洋館は2010年に前田家から寄付を受けたが、市が未活用のまま解体方針を決定したことに一部の市民が保存を求めている。15年間放置され荒廃した現状を見た市民からは「寄付した前田家にあまりに失礼」との声も上がった。 文学館一帯は前田家が明治時代に別荘地として購入。現在の文学館本館に佐藤栄作元首相も一時間借りして過ごしていた。深夜まで演説を練習する佐藤元首相に配慮し、前田家は1971年、敷地内に洋館を建てて移り住んだという。 洋館は南欧風のたたずまいで、鉄筋コンクリート造2階建て(延べ床面積264平方メートル)だが、中間層を設けて実質的に4階に分かれる特殊な造りになっている。文学館が開館した85年以降も前田家が暮らしていたが、2010年に18代当主が同市

記者発表資料発表日:2025年7月1日 鎌倉文学館改修計画及び解体予定の洋館(旧前田邸)見学説明会の開催について ~鎌倉文学館の魅力向上「見る・憩う・過ごす」場所へ~ 鎌倉文学館は、加賀百万石の藩主として知られる前田利家公の系譜である旧前田侯爵家の別邸として竣工してから89年、鎌倉文学館として開館してから40年が経過しており、老朽化が進む建物の適切な保存及び施設の魅力向上と利用者の利便性向上を目指して大規模改修を進めており、令和5年(2023年)4月から休館しています。 現在進めている改修では、「訪れる場所」から「見る・憩う・過ごす場所」へ、という新たな視点を込めており、別荘文化華やかなりし頃の面影を残し、鎌倉の三大洋館のひとつとも称される鎌倉文学館を、いまの時代にふさわしい価値を重ね、次の世代へと引き継いでいくこととしています。 この改修に当たり、鎌倉文学館の敷地全体の有効活用とがけ地の

津波警報を受けて大半の店が臨時休業となり閑散とするJR鎌倉駅東口の小町通り=30日午前11時10分ごろ、鎌倉市小町ロシア・カムチャツカ半島付近で起きた地震による津波警報を受けて、鎌倉市内でも沿岸地域の住民や観光客が避難した。 「お客様へ 地震による津波到達予定時刻が11時のため、一時閉店させていただきます」。JR鎌倉駅東口の小町通りの日本料理店では張り紙をして臨時休業。夏休み期間に入りいつもは観光客でにぎわう通りも大半の店がシャッターを閉めており、観光客から「どこも閉店ばかり」とため息が漏れた。 トランクを持ってぐったり 津波警報を受けて大半の店が臨時休業となり閑散とするJR鎌倉駅東口の小町通り=30日午前11時10分ごろ、鎌倉市小町 [写真番号:1360552] この写真に関するお問い合わせ 津波警報を受けて取り壊し予定の旧前田邸見学会の中止を告げる鎌倉市職員(手前)=30日午前10時

【神奈川】鎌倉文学館(鎌倉市長谷1丁目)の隣接地にある洋館が解体、撤去されることになった。市が旧大名家の加賀前田家当主から寄付を受けたが、15年間、活用されなかった。市民団体は「歴史と物語がある建物…

加賀百万石といわれる大大名、 前田家第16代当主にして侯爵であった前田利為によって、 1920年代後半に建設された旧前田家本邸。 東京都目黒区の駒場公園内に、洋館・和館ともに、 非常に良好な状態で保存されています。 当時、「東洋一の大邸宅」と言われたこの建物は、 電気設備や暖房など、当時の最新技術を駆使して作られており、 使用人が130人以上もいたそうです。 洋館1階は外交団や皇族などを招き、 晩餐会を行う重要な社交の場として、 2階は家族の生活の場として実際に使われていました。 現在は無料で一部が一般公開されており、 実際に訪れたインフルエンサーの方の動画には、 特に洋館に対して外国人から驚きの声が殺到していました。 その一部をご紹介しますので、ご覧ください。 「完全に日本の風景じゃん…」 南米にそびえる本格的な日本のお城に驚きの声 ■ もしかして加賀のあの前田家? 将軍に次ぐ富豪だった

戦国時代の武将・前田利家の18代当主である前田利祐(としやす)氏は、戦後に過ごした鎌倉の別荘での希有な体験を語る。 * * * 戦後すぐ、疎開先の金沢から鎌倉の別荘へ逃げ込むようにして引っ越しました。 戦前には、東京・駒場の屋敷だけでも、運転手や庭師や馬丁(ばてい)まで含めて50人くらい。別荘までいれたらかなりの方が、わが家で働いていました。しかし、戦後はほとんどの屋敷を失ったので、彼らの多くをリストラせざるを得ませんでした。 最終的に残ってもらったのは4人だけ。彼らは、ご飯を作ったり、お正月などの行事の準備をしたりと、家のことは全部やってくれました。ほぼ一生奉公でしたが、5年前におふくろが亡くなったのを機に、最後の一人もやめられました。 戦後しばらくは、うちでも食べ物を手に入れるのが大変でした。鎌倉の浜から海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったり、庭にカボチャやサツマイモを植えたりと、ほ

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