表現規制の話で。 表現規制において踏みにじられる個人の表現の自由と表現の自由において流通するヘイトスピーチ*1に踏みにじられる個人の尊厳に関わる自由とで、どちらかを優先すべきとするアプリオリな序列づけはできない。まず、このことは大前提。このことを踏まえない議論は全部ダメ。 両方の自由に等しい重みを与えようとするなら、目指されるべきは両方の自由であり、そのためには表現の自由だけでは絶対に足りない。仮に、表現の自由自体には制限を加えないのであれば、両立のために「表現の自由」を使うこと、すなわち「ヘイトスピーチに実際に反対すること」が必要である。それも、そのターゲットになる人たちが十分な安心感と尊重が感じられる程度に大きな規模で。 つまり、(誤解したがる人が誤解するだろう表現を使うならば)、表現の自由はある種の義務を伴わざるをえない。ただし、この義務は、果たされなくても罰せられることのない義務で
……なんかあまり上手く考えがまとまらないのですが、ちょっと思考のメモを。 日本ハンセン病学会が『戦国BASARA3』の大谷吉継の設定について「偏見・差別を招く」と要望書を出す : はちま起稿 ……なんというか、気になったのは「“ゲームなんだから”目くじらたてなくてもいいのに」というタイプのコメントでして。昨年のレイプレイ騒動の時もちょっと気になっていたのですが。もちろん、ゲームや漫画、アニメの表現に対する問題点の指摘の中には、「それはちょっとうがち過ぎでは……」と思うものもあるのですが。 「ゲーム/漫画/アニメなんだから」「フィクションなんだから」「現実ではないんだから」という言い方は、なんとなく、「現実には全く影響を及ぼさない、ただの空想、ニセモノ、お遊びなんだから」と、その作品をくだらないものとして捉えている印象があるのです。これを、全く興味の無い人が発言するならとにかく、ゲーム/漫画
前回エントリを補足。 自由の敵としての差別 自由の敵はなにも公権力ばかりではにゃーよな。 喩えるのなら、公権力による自由の抑圧がまるでハンマーのように自由を外側から破壊するものといえるのなら、酸が機械をおかすように毒が生体をむしばむように自由を侵食し腐敗させるものがあるのですにゃ。 それを差別という。 BE FREE! - 地を這う難破船においては、上記のような認識が語られていましたにゃ。何箇所か抜粋すると 「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。そして、当然のことながら、この社会では達成されていないどころか「遠い夜明け」でしかない。 すなわち、このような性差別ある限り、女性にとって「自由」などない。 そして、男性にとっても「自由」などないことに気が付いた多くの男性がいる。 「自由」は、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性を「私の勝手」「
Apemanさんのこのエントリーを読むと、なんだか、「ヘイトスピーチにも言論の自由を!」とか言い出す人がいるようなのだけど、それは無理ってものだ。何が悪いか分からないと言いながらその口で言論の自由とか言っちゃうのが信じられん。 ヘイトスピーチにはおよそすべてについてと言って良いくらい共通して持っているメッセージがある。それは「お前たちは黙れ!」というものだ。性犯罪の被害を訴える人に対して押し寄せるセカンドレイパーも、歴史の証言者を嘘つき呼ばわりする歴史修正主義者も、外国人を排斥しようとするレイシストたちも、彼らはその相手から言葉を奪い、発言できなくするように仕向ける。それは単に言葉だけで行われるものではない。彼らが投げかける言葉の裏には、社会の差別構造や、匿名性に隠れての攻撃、場合によっては具体的な暴力さえ使って相手を黙らせようとする意図がある。ヘイトスピーチとはそれ自身が言論の自由の敵な
public という概念について(2007/12/11)英語の単語で日本語に訳しにくいものに、public という言葉がある。一般には 「公」 とか 「公共」とか訳されるのだが、どうもしっくりしない。辞書をひくと、「社会」 とか 「世間」といった訳語ものっていて、たぶんこっちのほうが本来の語感に近いのだろう。 たとえば、publicdomain という言葉がある。例をあげれば、著作権や特許権で保護されていない、誰もが自由に利用できる技術や情報などを、publicdomain に属するという。また public knowledge は、普通 「公知」などと訳されているが、これも同じように、特定の個人や団体が独占しているのではない、広く一般に知られた知識のことを意味する。 「表現の自由」とは、たんなる内心の自由や思想・心情の自由とは違う。他人には見せない秘密のノートに「○○のバカ!」とか
まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し

昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場
シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学 | 19:05 | とんでもない話です。ユユしき事態です。批判されてしかるべきです。 吉野家テラ豚丼 まとめ http://d.hatena.ne.jp/ruushu/20071201/yoshinoya 許されないことです。 もちろん電凸とかしてる奴らのことです。 ちっとも悪くないことが悪いことにされてしまうとしたら それは恐ろしく悪いことです。 労働者が、職場で ほんのちょっと ごくささやかな息抜きしてるだけです。それをカメラに撮って万国の労働者と分かち合おうとしたのです。 労働者は奴隷じゃないです。時給を払ってるから時間いっぱい思い通りに動くと思ったら大間違いです。意思を持った人間です。というか、奴隷だとしたとしても本当は自由です。 そもそも、労働者が遊べるような明るい職場の方が生産性は高いです。資本家にとっても その方が得です。 なんて
人間社会において個人の自由と社会の秩序は反比例*1するのだろうか、と考えてみると、そうじゃないだろうな、と私はなんとなく思う。下の図でいえば、青のカーブが自由と秩序が反比例の関係だ*2。社会の秩序がなくなればなくなるほど、人間が自由になるというモデル。クラッシックな無政府主義はこんなモデルを想定しているのかもしれない。でも実際の社会を考えてみると、無秩序な社会では人間はあまり自由ではない。適切な例ではないかもしれないが、米軍が侵略した結果秩序が低下したイラクを思えば、そこに住む市民は好かれ悪かれ秩序があった侵略前よりも移動の自由、思考の自由はそれを保障する最低限のシステムが劣化したために自由度は低下しているだろう。山賊夜盗の跋扈する世の中では普通の人間は家でじっと息をひそめる、というような状況である。 そんなわけで、自由と秩序の関係はおそらく上の赤のカーブがより現実に近い。秩序がなさすぎれ

タクシー全面禁煙巡るコラム、中日新聞に抗議40件(読売新聞) 名古屋地区で今月1日から始まったタクシーの全面禁煙について、中日新聞社(本社・名古屋市)の常務・編集担当の小出宣昭氏(62)が4月29日の朝刊で否定的な意見を掲載したところ、「たばこの害を、どう考えているのか」などの抗議が同社に相次いでいることが9日、わかった。 愛煙家である小出氏は、コラムの中で、全面禁煙について「決め方にいささかの薄っぺらさを感じる」とし、タクシーは「個別選択的な乗り物」であり、「全車禁煙という一律主義に本能的な危険を感じる」と書いた。 右派と左派に分けた場合、左派の方が喫煙率は高いような気がします。右派に「健全さ」への統一志向がある一方で、左派には「不健全」への寛容さがある、これが喫煙という明白に害のある習慣への態度にも差を付けるのかもしれません。これが転じて禁煙に対して積極的な右派、禁煙を権利の侵害とみな
木の家をつくる建築家。国産材と自然素材で平和な家を作ります。戦争と放射能は人間と共存できません。地上から無くすためにはどうしたらいいのか、毎日考えています。 捏造防ぐ「法改正」 放送の独立を侵す恐れ '07/2/15 中日新聞 ほんとうに,マスゴミが大騒ぎするネタにはろくなことがない。 あるある大辞典の捏造報道や,不二家のケーキで,バタバタと死人が出たのならばともかく,報道の異常さは目に余るものがあった。 結局,あるある異常報道の狙いはこれだったわけだ。 政府に都合の悪い,例えば従軍慰安婦問題を報道しようとしたりすると,業務改善命令や課徴金が乱発されるわけだ。 そして,拉致問題やら政権礼賛の報道命令が下され,拒否しようものならば,またしても行政処分の対象となる。 安倍晋三や中川昭一が,こっそり呼びつけて恫喝しなくても,正面切って放送禁止にできるのである。 これって,どこかの国みたいだとは,
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