三沢光晴逝去のニュースに触れて以来というもの、精神に重りをつけられたようになって気持ちがまったく前に進まず、思考も停滞しています。 プロレスラーの死亡やそれに準じる重大事故は、以前にもありました。 1990年6月12日:新日本プロレスの福岡大会において、後藤達俊のバックドロップを受け損なった馳浩が、試合後にシャワーを浴び、次の試合でセコンドにつこうと花道を歩いている途中に昏倒。一時は心肺停止に陥るも奇跡的に回復した。 1997年8月15日:JWP女子プロレス広島大会において、尾崎魔弓のライガーボムを受けたプラム麻里子が意識不明に陥り、開頭手術を受けるも硬膜下血腫と脳挫傷により翌日に死亡した。日本プロレス史上初の死亡事故とされる。 1999年3月31日:アルシオン女子プロレス福岡大会において、デビュー間もない新人の門恵美子が、吉田万里子に腕ひしぎ逆十字を仕掛けて潰された際に、後頭部を強打して

ま、こんなもんでしょ……。 土曜日にやっていた「テレビ朝日が伝えた伝説のスポーツ名勝負」は基本的にはとてもおもしろかった。近鉄対ロッテにおけるジョークすれすれの神がかった大試合。リーグ優勝がかかった7時間を超えるダブルヘッダー。まるでマンガ「アストロ球団」のよう。これは泣けた。 しかしアリ対猪木のあのスタンスはどうか。いわゆるがんじがらめのルールのなかで懸命に真剣勝負をやった猪木。この猪木ベビーフェイス説に乗っ取った物語が大いに不満だった。そのあたりは大傑作「1976年のアントニオ猪木」が詳しい。 アリという超スーパースターに無理難題をつきつけられる猪木という物語。それがのちに猪木側がこしらえたストーリーなのは格闘ファンの間で有名だ。猪木は超エゴイストの人でなしであり、しかし過去のあらゆるカリスマ政治家や宗教家と同じくらいの天才アジテーターで、偉大な肉体表現者でもあった。そして関わった人間

1リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く