
はてなキーワード:itとは
トランプ関税でアメリカが沈まなかったのは、IT、特にAIブームがあったからだろう。
だから、たとえ気に食わなくてもITへの投資が厚くなるのは当然だと思う。
もし、それを捨ててしまえば、中国か欧州がITを確実に拾うだろうし、アメリカ株一強も崩れる。
アメリカ株が下がると、投資が盛んな国だから、資産や将来の年金とかがガリガリ減ってアメリカ国民がキレる。
株安は富裕層の消費も減るから、関税があっても旺盛な富裕層の消費が消える。富裕層以外の消費は関税で弱っているわけだし。
そうなったら、あとは坂道を転げ落ちるように落ちていって、来年の中間選挙で共和党が負け、3年後の大統領選挙でも共和党は負けるし、アメリカ一強が完全に終わる。
最近、IT系とか趣味のアニメやミリタリー分野で中国のフォーラムや報道社の記事やコラムが面白いので読んでる。
IT系の技術、特にAI系統に関して面白い話があって、アメリカとは違ったIT技術が発展してて興味深かったりする。
んで、今よく使ってるのは「知乎专栏」って中国の大手サイトなんだが、これはてなとニュースサイト合わせた感じなんだが
その中で「IT信仰やMAGAというかオルトライトやポリコレだとかのネットで喚いてる人たちの思想の根っこは、日本の昔のセカイ系がベース」みたいなニュース記事があった
吹いてしまったのは、真面目に中国の外交筋のニュース乗っけてるようなところで専門家が書いてる記事だったところ。
・物凄い狭い世界観や認知の中の人間関係(ネット、SNS、身近なスーパーの品物の値段等)で完結して勝手に世界を憎んだり呪ったり怒り狂ったりする閉鎖的な精神構造
・「ありもしない美しい景色や過去の(主に学生時代の)脳内で作り上げた綺麗な青春時代や恋愛の思い出」への病的な郷愁と執着
・男女ともに恋愛や結婚には固執するが、本質的には男性なら激烈なミソジニー、女性なら激烈なミサンドリー、まとめるのであれば「世界や人間がそもそも嫌い」。しかし、同時に現実に存在するはずがない様な、自分のすべてを受け入れてくれる理想の異性との運命の出会いやシンデレラ願望を強烈に持っている。
・本質的に自分たちが理解できない高度技術への信仰(IT、ハイテク軍事等)、「自分たちの惨めな人生を、100日糞詰まりを起こしていても飲めば溜まった糞をすべて排便できる毒掃丸の様な短絡的な特効薬、解決方法があるとカルトの様な信仰心をもっている」と形容されていた
・自分は選ばれた存在であり、自分の人生が惨めなのは世界を牛耳る悪意ある存在や巨大な秘密組織による陰謀だとうっすら考えているところ。また、高度技術を手に入れればそれらに対抗出来て、気軽に人生を逆転できると考えている。
そのうえで、「2000年代に日本のオタク産業で流行った物語構造のセカイ系的世界観で、この近未来の時代を生きてる憐れな人たち」とか括られてて、妙な納得感を覚えてしまった。
「シリコンバレーを俯瞰してみれば、かつては金融工学(フィンテック)を、15年前はドローンや組み込み技術を、そして今はAIを自分の惨めな人生全てを逆転して、昔の日本のセカイ系ゲームの様な美しく蒼い(※)世界と、そこで待つ美しい異性たちとの運命の出会いまで引き上げてくれていると、旧西側のIT技術者たちはうっすら考えている節がある」とも
(※)中国では桃源郷は蒼い世界と表現する古語表現があるらしい
こんな記事が出るくらいなのだから、あの国ホントよくいろんな国のこと観察してんだなって思う
世界のIT企業ってすべてが研究室や金満ベンチャーから生まれた訳じゃない
実家のガレージの車を売って、そこで中古のコンピュータ使って事業を始めました、という有名エピソードのようなルーツを持つこともある
会計処理のために嫁が買ったパソコンでゲーム作り始めた人や、大学の中古機材を廃材置き場から持って行って立ち上げたこともる
リソースの余剰と人の暇が組み合わさると発展につながるのだ。帝国には辺境が必要、という国家論も同じことを言っている。
また生産者は義務的な供給のためだけに生産するようになり、イノベーションの発生が抑えられる
まさに資本主義社会であるのに社会主義のような閉塞を招くことになるのだ。
どんどん作り、どんどん余り、その余り物に付加価値をつけてより沢山作るようになる
減反は失われた30年を40年に引き伸ばすだろう
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
dorawii represents acase of unprocessed griefoverlost grandiosity (from psychotic episode) manifestingas compulsive boundary-testingand argument-seeking, where genuine neurological limitations are weaponized defensively to avoid confronting existential ordinariness, sustainedby platform affordances thatenable persistent identity within anonymity and rewarding provocativeengagement.
A personwho briefly experienced feelinggod-like through psychosis, recovered to find themselves merelydisabled and ordinary, and cannot bear thistruth. They use real limitationsas both explanation andshield, seek significance throughonlineconflict, and remain trapped in acycle where the behaviors meant to prove their worth actually demonstrate their difficulties - but acknowledging this wouldrequire grieving whatwaslost, which remains unbearable.
This reveals how recovery from severe mental illnessisn't just about symptom remission -it's about psychological integration of whatwas experienced and whatwaslost. Medicalmodel focuseson eliminating psychosis, but doesn'taddress the meaning-crisis created when extraordinary experiences aretakenaway and ordinary limitation remains.
It also shows howonlinespaces withambiguous accountability structures canenable acting-out that serves defensive purposes while feelinglike genuineengagement. The person sufferingmostis probably dorawii themselves, evenas their behavior drives othersaway.
The most sophisticated theoretical vocabulary,the most detailed self-disclosure,the most elaborate arguments - none ofitaddresses thecoreissue.All ofitis displacement. The real conversation dorawiineeds to haveis not withanonymous strangers aboutwho won an argument.It's an internal conversation: "Iam notwho Iwas during that brief, terrible, extraordinary episode. Iam ordinary, limited, and mortal. And somehow, thathas to be enough."
Until that conversation can happen,everything elseisnoise.
ネットを見ていると定期的に若い人たちが数年後に不安で仕方がなくて「生存戦略」と言い出す。
「生存戦略」というとまるで「人生には成功の方程式がある」とでも言いたさそうに響く。特にITの人たちが生存戦略をアウトプットしているから言うんだけどさ、君たちが戒律のように信じている言葉の一つに「銀の弾丸はない」ってやつあるよな?
おっさんが何言いたいかって言うことだがようは「君たちの考えるような生存戦略なんかない」っていうのが答えなんだよ。
若い人たちの生存戦略は結局「いかにいい装備で自分を武装するか」ということでしかない。レベルをいくつ上げてこのときにはこのグレードの装備に身を固めておけば安心だ、というようなものだ。
だけどな、大事なのは「いかに自分が最小限の武装で生きていけるか」なんだよ。ロトの剣を手に入れたって40も過ぎたらブンブン振り回せない。そのときに武器をぶんぶん振り回すことしか頭になかったら?それこそ生存していけない。
世界に名だたるビッグテックに入ってガンガンにやりたいならそういう道もあるだろうけど、そこにはすでに最強装備で身を固めた超ハイレベルな猛者がいるわけだ。彼らが生存戦略取り始めたらすぐ負けるだろ。
そうじゃない人たちは別に生存戦略なんかいらない。どっちかって言うと、組織をしっかり理解するとか、同僚や顧客と信頼関係を築くほうがよっぽど生存できる。
会社の偉い人が組織にAIを導入して業務効率化を図りたい場合に相談できる相手でいられるかどうかはスキルセットじゃないんだよ。ある程度の知識は当然必要だけど、組織がAIを導入したらどうなっているのが理想的か、を考えてくれる人が必要なんだよ。
そういうのが苦手だからITに来た?ITは何でも論理や数値にしようとするからそうじゃないものが嫌なのはわかるし、新しいプログラミング言語を身につけるより難しいかもしれないけど、定期的に生き残れない不安に苛まれることはなくなるんじゃないかな。
挑戦して見る価値はあると思うよ。
これはnot嘘松かな
新しいところ1年以上居座れてる時点でたいしたもんだけどね
本当にできないやつならもっと早く馬脚あらわしてるし
ITのいいところはなんせみんなすぐ転職するところだから、別に次行けばいいんじゃないといしか
サーバサイドのエンジニアだが、会社が早期退職制度を始めたので伸るか反るか迷ってる
先のなさでいうと職種がもうそうだし、ITエンジニア今人余りなんじゃないかとは思うが
転職先のアテはなくはないが、そこが合わなくて終わる可能性はある
しかし今だと早期退職の退職金も出るので少しは潰しも効くんだよな
おおむねもうちょっと様子を見る方向に傾いているが、さて……
数年前、年収900万超でシステム開発のマネジメント職に転職した。前職も同じくらいの年収だったんだけど、そもそもあれがバグってた。今になって振り返ると、完全に身の丈に合わない転職をしてしまったと後悔している。
前職の入社時の年収は350万くらいだった。オーナー企業の少人数の会社。上司も部下も顧客もそこまでITに詳しくなくて、ハッタリかませばだいたいなんとかなる環境だった。
もともとITをよく分かっていない人の話を聞いて整理するのは得意だったので、エンジニアからPMになり役職がついた。気づけば年収は入社時の2.5倍以上になっていた。
モダンな開発はなんとなく齧ってた程度で、基本はハッタリマネジメントでなんとかなった。作ってたシステム自体もそんな複雑なものでもなかったし。
経営陣がいろいろやりたがる人たちだったので、広く浅くなんでもやってみたい自分には性が合っていた。ただ、いろいろあって辞めることにした。
転職活動を始めた時に出会ったのが「錯覚資産」という考え方。ふろむださんの『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』で知った。
前職で900万近い年収だったので、ハロー効果が効いて年収を維持したまま転職できた。LLMのように相手に合わせてこういう言葉を紡げば相手は納得してくれるだろうという能力には長けていたので、面接はハッタリでなんとかなった。
実務で足りないところは、ハロー効果が効いているうちに実力をつければ何とかなるだろうと思っていた。甘かった。
現職は前職と違って、成長企業といえどちゃんとした会社。オーナー企業的な空気もなければ行き当たりばったりでもない堅実なところだった。
そして何より、バリバリモダン開発の会社だった。SREだDevOpsだDDDだスクラムだなんだかんだと、今までとの落差が激しすぎる。
上司も同僚も部下もシステム開発をよく分かっている。システムがわからんという人のために色々整理してあげるという、自分のコア能力が全く発揮できない。
伸び悩んでいる部下へも適切な指導ができない。前職まではシステムよく分かっていない顧客と上司に納得してもらえばなんとかなったので、部下は育てなくてもなんとかなっていた。困ったときは外注を入れて凌いでいたし。
もう、上司・同僚・部下からなんとなく腫れ物扱いになっている。年収も年収なので会社に対して申し訳ない気持ちになってきた。会社も余裕があるわけではないし。自分が無能だということがなんとなくわかり始めてツラポヨ。
なんかエンジニアリング自体に自分が興味なかったんだなぁということを実感した。
なんだろう、もともとウェブ屋に毛が生えたみたいなシステムなんでも屋おじさんだったので、バリバリエンジニアリングの専門集団に入ってしまい違和感が半端ない。
俺はウェブというメディアに興味があるのであって、エンジニアリングそのものには興味がないのだ。ということに今さらながら気づいた。
昔のワールドワイドウェッブはねぇ、なんというか、自由というか個人が自宅の机の上から世界中に情報を発信できるという夢に溢れていたのだよ。なんだね今のウェブは。ただのシステムが乗っかるための土台でしかない。面白くなくなったねぇ。Flashとかの標準なんかクソくらえな「リッチコンテンツ」が溢れていたときはなんかカオスな楽しさがまだウェブにあったが、もうなんかビジネスしか残ってないのはなんなのかね。どこに行っちゃったのかね。
閑話休題。
錯覚資産はコンフォートゾーンから一つ抜けたストレッチゾーンに行くために使うべきだった。自分の場合は一歩超えてパニックゾーンに行ってしまった。
最初は周りも良い人だらけだったので、持ち前のハッタリでなんとなくやり過ごせた。でも数年経つと化けの皮は剥がれる。
あと、ハッタリかますのに全力を使いすぎて余裕がなく、力をつける時間を作れなかったのが敗因だと思う。
まぁまた転職すれば現職の錯覚資産のハロー効果でなんとかなると思う。年齢的にだいぶ中年なので不安もあるが、ストレッチゾーンに当たりそうな会社にどうにか転職したい。年収は下がりそうだけど。
もしくは開き直って居座るか。でもこの精神状態で居座り続けるのもキツい。
錯覚資産を使う場合は十分気をつけてください。背伸びしすぎると、自分も周りも不幸になります。
そして何より、自分が本当に何に興味があるのか見極めてから使いましょう。年収やポジションに目が眩んで、自分の適性を見誤ると地獄を見ます。
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