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はてなキーワード:1987年とは

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2025-07-13

anond:20250713211751

氷河期明けの第一世代1984年度生まれ)でも、今年でもう41歳なんやけど……

リーマン世代1987年度生まれ)も今年で38歳だし、みんなもう年を取ってるんだよ

今年、30歳になるやつがDS世代のど真ん中になるレベルから

Permalink |記事への反応(1) | 21:27

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2025-06-30

3人の子を抱え飢えた「シングルマザー」が“生活保護”を申請せず「餓死」を選んだ理由…「報道」が伝えなかった“国ぐるみ”の「適正化政策」の“弊害”とは?

2025年6月29日 8時48分弁護士JPニュース

 

から38年前の1987年1月23日北海道札幌市白石区で、シングルマザーとして小学生から中学生までの3人の子どもを育てていたコトミさん(仮名・当時39歳)が、遺体発見されました。死因は「栄養失調による衰弱死」、平たく言えば「餓死」でした。



ま た こ れ か

Permalink |記事への反応(0) | 11:04

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2025-06-21

anond:20250621081947

スカートSkirt)は、日本シンガーソングライター[1]である澤部 渡(さわべ わたる、1987年12月6日 - )によるソロプロジェクト

Permalink |記事への反応(0) | 08:22

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2025-06-18

anond:20250618132202

Z世代1990年代後半から2010年代前半に生まれ世代

ゆとり世代1987年から2004年頃に生まれ世代

全然違くね?

Permalink |記事への反応(0) | 13:23

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2025-06-05

[今日知った言葉]ドナルドソン理論

ドナルドソン理論は、反自己双対ヤンミルズ方程式(ASDYM方程式)のモジュライ空間を用いて、4次元多様体を扱う理論方程式には、4次元多様体上のコンパクトなゲージ群 G を持つ主束が必要

手法ドナルドソンにちなんで名付けられたもので、最初1983年(単連結な G を仮定)および1987年(その仮定なし)に用いられ、ドナルドソンの定理証明に使われた。

その後、ドナルドソン理論セイバーグ=ウィッテン理論によって発展的に置き換えられた。ドナルドソン不変量はセイバーグ=ウィッテン不変量と比べてしばしば弱い結果しか与えず、モジュライ空間に対して追加のコンパクト化を必要とすることも多いため。それでも、ウィッテン予想やアティヤ=フルーア予想を含む、ドナルドソン理論における未解決問題存在している。

ドナルドソン理論位相的FQFT(有限次元量子場理論形式は、シンプレクティック多様体とそれらの間のラグランジアン対応からなる適切なシンプレクティック圏から関手として定式化されると考えられている。この関手は、シンプレクティック多様体をそのフカヤ圏へと対応させる。

Permalink |記事への反応(0) | 13:51

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2025-06-01

anond:20250601112936

ハチ公物語』(1987年) → 『HACHI約束の犬』(2009年

リチャード・ギア

Shall we ダンス?』(1996年) → 『Shall We Dance?』(2004年

リチャード・ギアジェニファー・ロペス

そして

幸福の黄色いハンカチ』(1977年) → 『イエローハンカチーフ』(2008年

元ネタアメリカからポロロッカというかUターンブーメランものじゃないか・・・

https://www.imdb.com/title/tt0954990/

エディレッドメイン、クリステンスチュワート桃井かおり

Permalink |記事への反応(0) | 11:40

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2025-05-28

anond:20250528232311

X68000エックス ろくまんはっせん[1])は、1987年昭和62年3月28日シャープが発売したパーソナルコンピュータである

Permalink |記事への反応(0) | 23:26

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2025-05-18

anond:20250518102542

1stガンダム1979年放送

氷河期世代1975年から1987年あたりのバブル崩壊ちょい前なので、見てても幼稚園児以下か産まれてすらいない

君の思惑と違い1stガンダムのメイン層はアラ還世代だよ、残念だったな

Permalink |記事への反応(1) | 10:29

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2025-05-11

anond:20250510143902

"レリックアーマーLEGACIAM』(レリックアーマー レガシアム)は、1987年11月28日に発売されたOVA作品。"

ありがとうwikipedia

Permalink |記事への反応(1) | 18:32

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2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『BlackBox Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 00:00

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2025-04-12

アニメリメイクまで何年?

フルーツバスケット

2001年2019年 原作1998年

 

ダイの大冒険

1991年2020年 原作1989年

 

シャーマンキング

2001年2020年 原作1998年

 

うる星やつら

1981年2022年 原作1978年

 

るろうに剣心

1996年2023年 原作1994年

 

らんま1/2

1989年2024年 原作1987年

 

YAIBA

1993年2025年 原作1988年

 

思ったより法則がないな

さすがに30年開くとしんどくなるかな?

 

3×3EYES 1987年

GS美神 1991年

そろそろ来るよな!?

 

逆に、あと5年くらいしたら原作1990年代リメイクが増えるんだろうか、何があったっけな

Permalink |記事への反応(0) | 19:31

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2025-04-10

anond:20250410105549

ああ、なるほど!

まり松井優征の記録は

「連載作品対象打ち切りにあったことがない」

というニュアンスがあるのね

 

でも本宮ひろ志ウィキ見たら

 

>創刊初期の『週刊少年ジャンプ』を支えた功労者であり、創刊年(1968年)より連載を開始した『男一匹ガキ大将から40歳を迎える年(1987年)まで連載された『赤龍王』まで、週刊連載作品11という少年ジャンプ歴代最多記録を持つ。

 

とも書いてあったわ

これはこれですごい記録だな

自分は大昔の「サラリーマン金太郎」を2,3回読んだことがあって

そこに載ってた女の描き方がえらく不愉快だった印象しかなかった

やっぱ売れてる漫画家は違うんだなー

Permalink |記事への反応(2) | 11:03

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2025-04-09

平成初期のアニメ時間軸を確認する

YAIBA描写見てるとノリが古くて「これいつだっけ?」ってなるんだよね

YAIBAはらんま1/2の2年後くらい

 

うる星やつら 1978年1987年

ドラゴンボール 1984年1995年

YAWARA! 1986年1993年

らんま 1987年1996年

YAIBA 1988年1993年

ーー1989年 平成ーー

幽遊白書 1990年1994年

GS美神  1991年1999年

コナン 1994年

るろ剣 1994年

封神演義 1996年

ONE PIECE 1997年

HUNTER×HUNTER 1998年

 

やっぱこう見ると「昭和のノリ」って明確に存在するよな

いやむしろ平成のノリ」か

ホワイト化したよね、セクハラとか減った

あとお笑いダウンタウン化した気がする、前は70年代からお笑いのノリだった

Permalink |記事への反応(2) | 06:24

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2025-04-05

YAIBA昭和を感じられる最後作品な気がする

コナン 1994年平成6年

YAIBA 1988年昭和63年1993年平成5年

 

昭和後期の漫画アニメの特徴として

ギャグのノリがテレビお笑い?のノリを強く受けてるんだよね

自分がその時期に生きてないからだと思うんだけど、今から見るとすごく独特で昭和臭く見える

例えば

Drスランプアラレちゃん 1980年昭和55年〜1984年昭和59年

うる星やつら 1978年昭和53年〜1987年昭和62年

でもこのノリは感じられる

ドラゴンボール 1984年昭和59年〜1995年平成7年では途中でこのノリが消えていたか

平成突入であの独特なノリは消えたんだと思う

(読んでないけどハイスクール!奇面組あたりがその最たる例だと思う)

 

わかりやすい特徴

オーバーリアクション、ずっこけ

・指を立ててツッコミ

顔面だけ濃くなる、2頭身

・ニヤケ面、変な顔

タレントネタ

・歯が飛ぶ

これらがどこから来てるかわからないけど、今見ると奇妙で狼狽してしま

たぶん若い人には逆に違和感ないんだろうけど

Permalink |記事への反応(0) | 18:18

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2025-03-22

世界いちばん熱い夏

平成初期の曲だと思ってたけどリリース昭和1987年)だったのか

Permalink |記事への反応(0) | 02:42

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2025-03-21

「当時をよく知る存命者の証言」←これも当てにはならんぞ

都心に生まれ育ち、都心青春をしていた1965~1970年まれの同僚や上司が私の職場にたくさんいる

あるとき私が

1985年プラザ合意1987年地価じわじわと高騰、1989年バブル真っ只中、1990年バブル崩壊」

といった歴史観を踏まえた発言をしたところ、

1987年なんてバブルとっくに終わって不況だった。お祭り騒ぎが嘘のように世間は暗くなってた」

と当時をよく知る都心組の皆から一斉に訂正が入って驚かされた

Permalink |記事への反応(0) | 14:02

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2025-03-18

anond:20250318221704

ゆとり世代って1987年-2004年まれだぞ

それを叩くのって高齢者キッズだろ

Permalink |記事への反応(0) | 22:18

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2025-02-02

自分

箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男

1979年 両親が結婚 父親母親お見合い結構だが反対

1980年 長男誕生

1982年 長女誕生

1983年 父親リストラ転職青森から群馬

1884年 母親宗教入信し毎朝家にいない。

1985年 母親宗教脱退。病気により義眼となる

1987年 父親ほのぼのレイクアイク武富士ワイドから数百万の借金祖父が返済

1989年 父親武富士ワイドから数百万借金母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた

1990年 祖父が家に乗り込んで来て、借金母親

父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親長男正座させ祖父父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す

1991年 長男オナニーを覚える。1日3回ほど実施

テレフォンセックス利用し数万円び請求

1992年 長女が学校いじめを受け父親が泣いた

1995年 父親アコム武富士から数十万の借金長男学資保険を解約し支払い

1997年 長女 睡眠薬を大量に飲み自殺未遂

1998年 長男、両親の性行為を目撃

2000年 正月帰省時、出前の寿司お金が支払えず地元寿司から催促。2ヶ月分割

2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜葬式時のお礼なし食事なし

2001年 長女の妊娠結婚することに

2002年 長女離婚

2003年 父親スナック熟女から訴訟を受けたと後にわかる。寿司代数万円を払わなかったとか

2006年 長女駆け落ち

Permalink |記事への反応(0) | 15:43

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自分

箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男

1979年 両親が結婚 父親母親お見合い結構だが反対

1980年 長男誕生

1982年 長女誕生

1983年 父親リストラ転職青森から群馬

1884年 母親宗教入信し毎朝家にいない。

1985年 母親宗教脱退。病気により義眼となる

1987年 父親ほのぼのレイクアイク武富士ワイドから数百万の借金祖父が返済

1989年 父親武富士ワイドから数百万借金母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた

1990年 祖父が家に乗り込んで来て、借金母親

父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親長男正座させ祖父父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す

1991年 長男オナニーを覚える。1日3回ほど実施

テレフォンセックス利用し数万円び請求

1992年 長女が学校いじめを受け父親が泣いた

1995年 父親アコム武富士から数十万の借金長男学資保険を解約し支払い

1997年 長女 睡眠薬を大量に飲み自殺未遂

1998年 長男、両親の性行為を目撃

2000年 正月帰省時、出前の寿司お金が支払えず地元寿司から催促。2ヶ月分割

2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜葬式時のお礼なし食事なし

2001年 長女の妊娠結婚することに

2002年 長女離婚

2003年 父親スナック熟女から訴訟を受けたと後にわかる。寿司代数万円を払わなかったとか

2006年 長女駆け落ち

Permalink |記事への反応(0) | 15:43

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2025-01-15

anond:20250115201810

前期ならフツーに増田世代だぞ

ゆとり世代氷河期世代カウントの仕方おかしいヤツおるよな

 

氷河期世代1975年4月2日まれから1985年ごろ生まれ

ゆとり世代1987年4月2日まれから2004年4月1日まれ

Permalink |記事への反応(0) | 20:21

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anond:20250115160814

すぎのこ村(すぎのこむら)は、明治製菓1987年昭和62年から1988年昭和63年)にかけて製造して販売した、チョコレートスナック菓子である

Permalink |記事への反応(0) | 16:10

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2024-12-23

鳩野ちひろが歌っている曲は「ちょっと古い」どころではない

ふつう軽音部を読んでいて思った。

主人公の鳩野ちひろは作中で16歳であり、おそらく2008年まれであると思われる。

彼女父親の影響で少し昔のロック精通しているという。

 

そこで表題考察に至るのである

作中では、ELLEGARDENのジターバグという曲が紹介されていたが、この曲は2003年発売である

彼女が生まれる5年も前である

 

これは、例えるならば、1984年まれ40歳の人が16歳だった頃(2000年)に、

高校ライブ1975年バンドの曲を演奏するようなものである

wikipediaで調べたら、1975年の売り上げ第一位の曲は、さくらと一郎:「昭和枯れすゝき」である

2000年高校軽音部で昭和枯れすゝきを流すようなジェネレーションギャップがあると考えるべきである

 

なお作中で、彼女が歌っている最も古い曲は、ミスチル名もなき詩である

この曲は1996年に発売されており、彼女が生まれ12年も前である

先程の例に当てはめると、1968年となる。まだ日本語ロック夜明け前である

wikipediaによると、この年の売り上げ第二位は、ザ・フォーク・クルセダーズ:「帰って来たヨッパライである

 

そんなことを考えている。

 

以下追記

 

そういえば、彼女はザ・ブルーハーツリンダリンダを歌っていた。この曲は1987年発売なので生まれる21年前の曲である

 

追記2

 

サブスクが当たり前になった時代だし、ミュージックの変化も直線的ではないので、一昔前の「古さ」と今の「古さ」の感覚全然違うという実感はある。

Permalink |記事への反応(19) | 22:57

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2024-12-17

2024年に読んで良かった10冊の本

anond:20241214160546

便乗して5冊挙げようとしたけど絞りきれなかったので倍プッシュした。2024年は1/1から今日までのあいだに315冊読みました。ちなみに、いま読んでる途中なのは上橋菜穂子香君』(2022年)と飛浩隆鹽津城』(2024年)、それに教養系の新書数冊。

ウィリアム・シェイクスピア十二夜』(1600年)

今年はアプリリリース3周年を迎えたウマ娘に突如シーザリオ実装されるというサプライズが起きて、仮にウマ娘化されるとしたら絶対男装の麗人キャラだろうなと思っていたら本当に男装の麗人だったので全俺が歓喜したし、オフザリオの声が可愛すぎませんか……? 俺はああいう透き通ったというか透明感があるというか鈴を転がすようなというか、とにかくそんな感じの声に弱いのだ。身体きもいいしなグヘヘ。シナリオではずっとイチャイチャしてて最高すぎる。俺の嫁Tier最上位です。引けてよかった……! ちゃんと「シーザリオ英雄譚」の称号もゲットしました。チャンミは優勝できなかったけどな! ところで俺は『ハムレットしかシェイクスピア作品を読んだことがなかったので、良い機会だということでシーザリオ名前元ネタになった『十二夜』を読んでみることにした。男装の麗人、すれちがう恋心、よく似た兄妹の人違い、と来てお前女だったのかからハッピーエンドで終わる、まあテンプレ通りのラブコメだったんだけどひょっとしてこれがラブコメテンプレになったやつだったりします? 偉大すぎでは。っていうか「十二夜」って、古代ローマのサートゥルナーリア祭をもとにした公現祭エピファネイア)のことだったんだ……。ほかにも『リア王』『マクベス』『リチャード三世』『お気に召すまま』『ジュリアス・シーザー』『夏の夜の夢』を読んだんだけど、いちばん好きなのは十二夜』です、はい。「僕は僕が演じているものではありません」っていう台詞すき(小並感)。

ところでシェイクスピアといえば、古河絶水『かくて謀反の冬は去り』(2023年)というラノベシェイクスピアパロディなのね。『リチャード三世』をパロった1巻を読んだときにはまったく気づいてなくて、あとがきを読んで「これシェイクスピアだったんだ」となり、元ネタを読んだらめっちゃからさまだったし、今年出た2巻はもう露骨に『マクベスオマージュで、さら二・二六事件三島由紀夫割腹自殺などのネタも盛り込まれていて非常に楽しく読めた。古代日本風ファンタジィ(e.g.沢村凜黄金の王白銀の王』)とか、近代日本モチーフミリタリもの(e.g.佐藤大輔皇国の守護者』)とかはよく見かけるけど、人名とか文化とかが古代日本風なのにテクノロジが近代風な政治劇というのはなかなかなかったように思うので新鮮というか、「その手があったか!」という感じだ。笑いとシリアスバランスが良く、裏の裏をかくサスペンスが繰り広げられて、続きが非常に楽しみな作品なのですごくすごいオススメです(語彙力トプロ)。そういえば春先にはちょうど前年に文庫落ちしたホルヘ・ルイス・ボルヘスの『シェイクスピア記憶』(1980年)も読んだんだった。俺の中で今年はシェイクスピア元年ということで。

ジョン・ステュアート・ミル自由論』(1859年)

自分ではリベラル派のつもりなんだけど、実はちゃん原典を読んだことがなかったので読んでみた。日本でいうと幕末に書かれた本なのに「そうだよ~~~それだよ~~~!!!1!」と同意するところが非常に多かったので、自分は根っから自由主義者なんだと再確認。みんなも(本来意味での)リベラリストになろうぜ。リベラリズム関連だと、ほかに井上達夫リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(2015年)を読んだ。ラディカルだが筋が通っている。ところで著者がアメリカ留学してたときに「なんで日本人がリベラリズム研究を?」って言われたというエピソードがちっともリベラルではなくてドン引きしたというか、あいつらひょっとして自由主義人類普遍原理ではなく西洋文化かなにかだとでも思ってんの? 人類普遍原理じゃないならなんでヨソの文化圏に押し付けてもいいと思えるんだ。非西洋自由主義者としては不愉快

ノーラエレングロース『みんなが手話で話した島』(1985年

もんのすごい面白い。話には聞いていたマーサズ・ヴィンヤード島の手話についての本。この島ではかつては高確率で聾の子供が生まれたため、島のほぼ全員が手話を身に着けていて、ときには聴者どうしが手話で話すこともあった。したがって耳の聞こえない人たちも完全に社会統合されていて、社会的な不利益を受けることはなかった。この島では聾であることはただの様々な個人の特徴のうちのひとつであって、それが重大な意味を持っているとはみなされていなかった。たとえば以下の会話のように。

「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」

「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」

「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」

「そうそう、いわれてみればその通りでした。二人とも聾だったのです。何ということでしょう。すっかり忘れてしまうなんて」

島の出身者にとって、彼らはまずもって漁師であり、聾であることは、そういえば耳が聞こえなかったね、という程度のものしかなかったということだ。この本を読むと、なるほど障害社会モデルは正しいのだなぁと納得してしまう。手話共通語として存在した共同体のあり方をインタヴューと文献調査によって復元していく社会史的な面白さに加えて、途中では島民の聾の起源近世イングランドにまで遡って明らかにしていくという謎解きの面白さも味わえる。まさか手話の本読んでてジョージダウニングダウニング街の由来)とかサミュエル・ピープス日記を遺したことで有名)とかの名前が出てくるとは思わないじゃん。そしてこの「手話楽園」が徐々に崩壊し、終焉へと向かう過程寂寥感にあふれている。今年読んだノンフィクションでは一番ですわ。超オススメ

綾辻行人十角館の殺人』(1987年

まだ読んでませんでしたテヘペロ最初読んだときは「衝撃の一文」の意味がわからず、ああ、あれって襲名制でこいつは先代なんだ、って一瞬勘違いしちゃったんだけど、独白が始まるにつれて鳥肌立った。お、お前~~~~~~!!!1!! 小説としての出来は正直言って荒削りで、お世辞にも上手いとは言いがたいのだけれど、謎解きとしての衝撃は絶大ですわ。なるほどこれが新本格の先駆けか……。そういうことでちょぼちょぼと館シリーズを読み始めてます。いま人形館の途中。

うそう、本作がきっかけで○○○○○○の『○○殺人事件』(1929年)も読みました。タイトルだけ読んで中世ヨーロッパ舞台にした歴史ミステリなのかと思ってたら全然違ったわ。あなたの「○○」はどこから? 僕は、『電脳山荘殺人事件から! っていうか本作を読んで学生時代に読んだ米澤穂信インシテミル』(2007年)のなかで意味がよくわからなかった一節の意味をようやく理解した(岩井読書マウント取るシーン)。『○○殺人事件』のあとがきとか「読者への挑戦」とかそういうコーナーで作者が自己紹介する文があるものだとばかり思ってたけど、本作を指してたのかよ!

サイモン・ホロビンスペリング英語史』(2013年

英語への解像度が上がった1冊。英語スペリングに悩まされ、「俺は日本から出ないか英語は要らない!」と高校時代放言しておきながらいまは英語をそれなりに使う仕事をしている者からすると、かつて味わった理不尽の謎解きという意味ですごく面白かったし、何というか、あの理不尽の背後にはこんな歴史があったのか……と知ることで、英語への愛情のようなものが増した気がする。「世界共通語」とか呼ばれて出羽守から持て囃される帝国主義的な覇権言語としての英語は相変わらず好きになれそうもないが、しかし、ヨーロッパの片隅にある島で数奇な歴史を辿ってきた言語としての英語のことは割と好きになれる、そんな本だった。

菅浩江放課後のプレアデス みなとの星宙』(2015年

アニメを見た直後に読んでおけばよかったシリーズ。名作ジュヴナイルSFアニメ放課後のプレアデス』のノベライズなんだけど、キャラクタの掘り下げが完璧すぎる。みなとという謎めいた存在に丁寧に肉付けして、彼がプレアデス星人出会って闇堕ちしすばるに救われるまでの過程説得力をもって再構成していてすごくすごい(語彙力)。主題歌引用タイミング完璧すぎるだろ(「Stella-rium」は名曲からみんな聴こうな)。そして、あおい、ひかる、いつき、ななこといったキャラクタの名前漢字が当てられていくところは本当にゾクゾクした。これオリジナル設定ってマ? 佐伯昭志リリカルアニメを『永遠の森』『そばかすフィギュア』の菅浩江ノベライズするなら、そんなのもう心が洗われるような名作にしかならんわけで。読み終えたあとにまたアニメを見たくなる、そんな素敵なノベライズだった。大好き。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』(2018年

数値の測定は大事なことだが、それが濫用された結果どうなるのかという事例が色々と挙げられていて、この本末転倒感は日本でよくあるやつだ……! と思ったらだいたいアメリカの事例なので人類を滅ぼすしかない。この問題で難しいのは適度な測定には意味や意義があることで(たとえば、論文の本数が重視されるようになった結果薄っぺら論文が量産されるようになるのはよくないが、ちっとも論文を書いていないひとに多額の研究費が配分されるのはおかしい、というお気持ち)、測定なんて意味がないとは言い切れないことだが、本書の著者は最後に「測定のまっとうな使い方」のための指針を提示していて、この増田で挙げた本のなかでは一番実用性が高い。「測定は判断の代わりにはならない。測定は、判断要するものだ」という金言政策決定にあたるひとたちには噛み締めてほしいなと。

白鳥士郎りゅうおうのおしごと!18』(2023年

こっちはJ. S.ミルじゃなくてJS見る。5巻くらいで読むのやめてたシリーズなんだけど読むの再開したらすごく面白くてハマってしまった。人工知能によって将棋が終わってしまったという夜叉神天衣と九頭竜八一の抱く絶望と諦念を、雛鶴あいと神鍋歩夢というそれぞれのライバルねじ伏せていく、めっちゃ骨太将棋小説じゃん……。ただのロリ小説と思わせておいて、いや実際にロリ小説でもあるんだけど(ロリホームって何だよ)、AIという最新のテーマに向き合って「解」を提示してみせる胸熱将棋小説でもあるというギャップが俺を狂わせる。すげー面白いっすわ。

ところで、さんざ褒めておきながら将棋の定跡とか全然わからんのは秘密だ。ひ、『ヒカルの碁』も盤面わかんなくても読めてたし……(震え声)

米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(2024年

小市民シリーズの完結編。ずっと追いかけてきたシリーズの終わりが見れて感無量すぎる。読み始めたの高校の頃とかだからマジで20年越しなんだよな。『春期限定いちごタルト事件』の序盤で示唆された、小鳩くんが出しゃばって不興を買ってしまった過去事件が描かれていて、20年越しの伏線回収が嬉しすぎる。

「なあ。おまえ、鬱陶しいよ」

これってこういう文脈でのことだったのか~~~~~とか、互恵関係! 互恵関係きた! これで勝つる! とか、〈小市民シリーズ過去が明かされていく展開を味わって読んでいたらそれが小鳩くんの遭った事故と徐々に繋がっていく過程は流石のよねぽだった。本作で〈小市民シリーズは綺麗に完結したわけだけど、これ短編集もう1冊くらいいけるんじゃないですか? という気持ちになってしまう。読みたいよ~~~~小鳩くんと小佐内さんの物語もっと読みたいよ~~~~~~~~!!!1!!

かまど&みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(2024年

オモコロ話題になってたみくのしんの読書録。一文一文を噛みしめるように丁寧に読んでいてすごい。国語の授業が苦手だったみたいなこと言ってるけど、マジで正統的な国語の授業みたいな読み方してるのすごすぎるでしょ。そしてこの本を読んで「一文一文を噛みしめることなくただ数だけを積み上げてきた俺の読書とは空虚ものではないのか……」という敗北感に囚われていたところに次の文がすっと差しまれてくるのです。

本が読めないと尻込みしていた男を「正しい読み方なんてないから」と、訳知り顔で励ましておいて、いざ自分のこととなると、ちっぽけ呼ばわりなんて本末転倒じゃないか

本書はみくのしんの読書追体験であると同時に、本好きへのエールでもあると感じた。本には色んな読み方の可能性があって、すごく自由ものなんだということ。それを思い出させてくれる、とても良い本だった。ありがとう

Permalink |記事への反応(5) | 08:51

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2024-12-16

anond:20241214005544

1987年8月14日の天気を調べてみました。

日中は雲が多くて小雨が降っていたようですね。

https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/hourly_s1.php?prec_no=44&block_no=47662&year=1987&month=08&day=14&view=p1

Permalink |記事への反応(1) | 19:37

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2024-12-13

anond:20241213225700

1987年8月14日 巨人vsヤクルト

可能性が高い

1987年ジャイアンツ試合結果をまとめてるサイト

https://www.my-favorite-giants.net/giants_data/result_year/1987.htm

  • 桑田が先発してる
  • ヨナラ勝ちしてる
  • 対戦相手が青いチーム(ヤク横中)

の条件に当てはまるのが8/14 vsヤクルトくらいしかない

で、ジャイアンツファン向け有料CS放送日テレG+ジャイアンツタイムマシーン(過去の名シーンの総集編番組)の放送予定を見ると

1/7のvsヤクルト編Part.1のところに

1987年8月14日

岡崎高野からヨナラヒット

記載がある

https://www.gtasu.com/sp/subscription/

中畑清スタメンはわからないけどこの試合可能性が高いのではないか

Permalink |記事への反応(1) | 23:15

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