はてなキーワード:1977年とは
ヘッケラー&コッホMP5は、現代軍事史において最も影響力があり成功したサブマシンガンの一つとして、優れた工学技術を通じて近接戦闘に革命をもたらし、精度、信頼性、戦術的汎用性の新たな基準を確立しました。1964年の開発から現在まで継続的に製造され、40カ国以上で採用されており、近年より新しい代替品が登場しているにも関わらず、世界中のエリート部隊で現在も活発に運用されています。
MP5の卓越した性能は、クローズドボルトから作動する革新的なローラー遅延式ブローバックシステムに由来し、同時代のオープンボルト設計と比較して優れた精度を実現しています。標準的な9×19mmパラベラム弾薬を使用した際の銃口初速は1,200-1,400fps、連射速度は毎分800発で、25-100メートルの交戦距離で最適な性能を発揮し、最大有効射程は150-200メートルまで延びます。
武器の8.85インチのコールドハンマー鍛造銃身は、6条の右旋ライフリングを持ち、フリーフローティング設計と16溝チャンバーシステムにより卓越した精度を提供します。標準型の重量は無装弾時6.66ポンド、全長は27.9インチ(MP5A2固定ストック構成)です。精密製造されたローラー機構は最適な機能のために特定の弾薬パラメータを要求し、このシステムは多様な環境条件下で驚くべき信頼性を実証しています。
技術仕様には、9mm弾薬用に最適化された1:10インチのツイストレート、クロームフォロワー付きカーブドスチールマガジン(1977年以降の改良)、セミオート、フルオート、3点バーストオプションを含む複数のトリガーグループ構成が含まれます。サプレッサー付きMP5SD型は、通気孔付き5.7インチバレルシステムにより銃口初速を1,115fps以下に意図的に低下させ、信頼性を損なうことなく効果的な消音を可能にしています。
開発は1964年にHK54の社内名称で始まり、ティロ・メラーとマンフレート・グーリングを含む技術者チームが主導しました。ドイツ連邦警察は1966年にこの武器を採用し、最初はMP64と命名されその後MP5となりました。この設計は、G3ライフルのローラー遅延システムをピストル口径の作動に適応させることで根本的な突破口を表し、広く採用された最初のクローズドボルトサブマシンガンを創造しました。
MP5ファミリーは、実質的にあらゆる戦術要求に対応する100以上の異なるバリエーションに進化しました。Aシリーズには、MP5A2(固定ストック)、MP5A3(伸縮ストック)、バーストファイア型のMP5A4/A5が含まれます。MP5SDシリーズは、異なるストック構成を持つ6つのバリエーションで一体型サプレッサーの先駆けとなりました。コンパクトMP5Kシリーズは近接警護要求に対応し、MP5-Nのような特殊バージョンは、トリチウムサイトとサプレッサー機能を持つ米海軍シールズ向けに開発されました。
重要な進化のマイルストーンには、1977年の直線型から湾曲型マガジンへの移行、1978年の「トロピカル」ポリマーハンドガードの導入、アクセサリー用クローマウントレールシステムの開発が含まれます。ライセンス生産は世界的に拡大し、ギリシャ、イラン、メキシコ、パキスタン、サウジアラビア、スーダン、トルコ、英国に製造施設が設立され、世界中で数十万丁の武器が生産されました。
MP5は1980年のイラン大使館人質事件(ニムロッド作戦)で伝説的地位を獲得しました。英国SAS隊員が数百万人が視聴するテレビ生中継でその有効性を実証しました。この作戦により、MP5は専門的なドイツの武器から対テロ部隊の世界標準に変貌しました。
世界中のエリート軍事部隊が近接戦闘の主要武器としてMP5を採用しました。これには米海軍シールズ、デルタフォース、英国SAS、ドイツGSG-9、フランスGIGN、スペインGEOが含まれます。この武器の最初の主要作戦成功は1977年のフォイアーツァウバー作戦で、GSG-9隊員がモガディシュでハイジャックされたルフトハンザ航空181便から87人の人質を救出する際にMP5を使用しました。
米特殊作戦部隊はアージェント・フューリー作戦(グレナダ、1983年)、ジャスト・コーズ作戦(パナマ、1989年)、不朽の自由作戦(アフガニスタン)でMP5を広範囲に展開しました。この武器は海上作戦、航空機強襲、精度とコンパクトさが重要な都市戦闘で特に価値があることが証明されました。
法執行機関での採用も同様に広範囲で、米FBI地域SWAT チームの61%が2022年時点でもMP5の使用を承認しています。この武器は空港警備、外交官保護、VIP警護チームの標準装備となり、世界中で推定20万丁以上のバリエーションが現在も現役で使用されています。
MP5の革新的なクローズドボルト作動は、オープンボルト設計で一般的な精度低下を排除し、人質状況で重要な優れた初弾精度を提供しました。ローラー遅延システムは、ストレートブローバック競合製品と比較して体感反動を大幅に軽減し、フルオート射撃でも迅速で正確な追撃射撃を可能にしました。
製造には、ヘッケラー&コッホが先駆けたコールドハンマー鍛造プロセスが採用され、卓越した精度と耐久性を持つバレルを製造しました。モジュラー設計思想により、互換性のあるトリガーグループ、ストックシステム、バレル構成による広範囲なカスタマイゼーションが可能でした。品質管理基準は軍用仕様を超え、各部品は厳密な公差で精密加工されました。
武器のサプレッサー互換性は決定的特徴となり、MP5SDの一体型サプレッサーシステムは秘密作戦の基準を設定しました。設計には、迅速なサプレッサー装着のための専用3ラグアタッチメントと従来型サプレッサー用のネジ付きバレルを含む複数の取り付けシステムが組み込まれました。
注目すべき戦闘配備は数十年にわたる紛争と作戦に及びます。ジャスト・コーズ作戦中、海軍シールズはパイティージャ空港襲撃でMP5を使用し、特殊作戦部隊はパナマシティ全域の都市作戦で使用しました。密閉空間での武器の効果は、船舶強制乗船、建物掃討、車両阻止で非常に価値がありました。
対テロ作戦はMP5の精密能力を披露しました。GSG-9の1993年デュッセルドルフでのKLMハイジャック解決と複数の成功した人質救出作戦は、極度の圧力下での武器の信頼性を実証しました。傍観者へのリスクを最小化しながら脅威に正確に交戦する能力が、MP5の決定的な作戦上の利点となりました。
国際展開には、イラクとアフガニスタンでの連合特殊部隊による広範囲な使用が含まれましたが、部隊が一般戦闘作戦でライフル口径武器に移行する中、主に専門的役割での使用でした。MP5は個人保護、都市偵察、最大限の慎重さを要求する作戦で好まれ続けました。
MP5の成功は、同時代のサブマシンガンの根本的制限に対処した優れた工学技術に由来しました。UZIのオープンボルトシステムと比較して、MP5は劇的に優れた精度と制御性を提供しました。MAC-10の極端な毎分1,090発の連射速度に対して、MP5の毎分800発の速度は管理可能なフルオート射撃を提供しました。スターリングのより単純な構造は、MP5の精密工学技術とモジュラー能力に匹敵できませんでした。
市場への影響は変革的でした。1980年以前、UZIは約80%の市場シェアで世界のサブマシンガン市場を支配していました。イラン大使館人質事件は市場認識を転換し、MP5を専門的用途の「ゴールドスタンダード」として確立しました。武器のエリート部隊との関連は前例のない需要を創出し、競合製品の2-3倍の高価格にも関わらず、MP5はプレミアム価格を要求しました。
MP5の設計思想は武器開発の全世代に影響を与え、精密サブマシンガンの標準としてクローズドボルト作動を確立し、後続メーカーが採用したモジュラー設計概念の先駆けとなりました。
50年以上経過しているにも関わらず、MP5は近代化プログラムと共に製造が続いています。ヘッケラー&コッホは輸出と近代化契約向けに限定生産を継続し、トルコとギリシャのライセンス製造業者は活発な生産ラインを維持しています。米国の民間クローン市場は爆発的に拡大し、PTRインダストリーズ、ゼニス・ファイアアームズ、センチュリー・アームズなどの製造業者がセミオート型を生産しています。
現代バリエーションには、アップグレードされたストック、HKeyレールシステム、STANAG 4694光学機器互換性を特徴とするMP5 MLI(ミッドライフ改良)が含まれます。現在の軍事調達は専門的役割に焦点を当て、MP5は2022年時点で海外任務における海軍シールズの第3位使用武器にランクされています。
しかし、戦術環境は大幅に進化しました。ほとんどの軍事部隊は、優れた射程と装甲貫通能力を提供するM4カービンと短銃身ライフルに移行しています。現代紛争におけるボディアーマーの普及と延長された交戦距離は、一般戦闘用途での9mm弾薬の効果を低下させました。
MP5の将来は専門的ニッチにあります:VIP保護、海上作戦、秘密作戦、密閉空間で最大限の慎重さと精度を要求する状況。確立された訓練インフラ、豊富な部品供給、専門的役割での実証された効果により、MP5プラットフォームは少なくとも今後10年は実用性を維持する可能性が高いですが、一般戦術使用ではなく、ますます特定の用途での使用となるでしょう。
MP5サブマシンガンは小火器開発における重要な成果を表し、現代武器設計に影響を与え続ける精度、信頼性、戦術的汎用性の新基準を確立しました。その革新的ローラー遅延ブローバックシステムとクローズドボルト作動は、サブマシンガンの能力を変革し、以前はより低精度な武器に限定されていた役割で精密交戦を可能にしました。
40カ国以上での採用から対テロ作戦での伝説的地位まで、MP5は優れた工学技術と戦略的市場ポジショニングにより前例のない成功を収めました。現代の戦術要求がより長射程のライフル口径武器にシフトしているものの、MP5のコンパクトさ、精度、サプレッサー特性の独特な組み合わせは、専門的用途での継続的関連性を保証します。
武器の永続的遺産は、技術仕様を超えて、現代特殊作戦と法執行において確立を支援した戦術ドクトリン、訓練方法論、作戦概念にまで及びます。技術的成果と文化的アイコンの両方として、MP5は現代の最も重要な火器の一つであり続け、その影響は現代武器開発と戦術用途の形成を続けています。
『ハチ公物語』(1987年) → 『HACHI約束の犬』(2009年)
『Shall we ダンス?』(1996年) → 『Shall We Dance?』(2004年)
そして
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年) → 『イエロー・ハンカチーフ』(2008年)
元ネタはアメリカだからポロロッカというかUターン・ブーメランものじゃないか・・・
逮捕されたのは、当時日本経済新聞社の北京特派員だった鮫島敬治(さめじま けいじ)記者です。
1964年9月、鮫島氏は戦後初の日本常駐記者として中国に赴任しました。
文化大革命が激化する中、他の日本の記者が次々と国外追放となる状況下で、鮫島氏は北京に留まって取材活動を続けていました。
1968年6月7日、鮫島氏はスパイ容疑で中国人民解放軍北京市公安局軍事管制委員会に逮捕、拘留されました。
1969年12月に鮫島氏が釈放され国外追放となった際、北京放送は「鮫島は記者の衣をまとって大量の情報を盗み米日反動派に提供した。大量の事実を前に罪を認め、関係当局は寛大に処理し、国外追放を決めた」と発表しました。
1972年の日中国交正常化後、1977年には李先念副首相(当時)が鮫島氏に陳謝し、名誉は回復されました。
1932年大連生まれ。大阪外国語大学卒業後、日本経済新聞社に入社。
北京特派員、編集委員兼論説委員、論説副主幹、大阪本社編集局長などを歴任し、1985年に取締役、1992年に専務に就任しました。
ノーム・チョムスキーとエドワード・ハーマンは、1977年の書評「又聞きの又聞きの又聞きによる歪曲」において、カンボジアに関する三冊の本を評するなかで、フランソワ・ポンショーの『カンボジア・ゼロ年』(フランス語の原書)も検討した。ポンショーには不注意な点があるものの、読むに値する真剣な本だ と評した。この本は、ジャン・ラクチュールのセンセーショナルな書評によって、またたく間に有名になった。しかしラクチュールの書評は歪曲を含む不注意なもので、ポンショーは共産主義者によって現実化される自己虐殺 (ラクチュールの造語)政策を明らかにしたとか、クメール・ルージュは 二百万人を「殺戮した」と 「豪語した」 とかいう、根拠のない宣伝文句が各種メディアに踊ったのだった。チョムスキーとハーマンは、ポンショーの本すらまともに読まれないまま、報道のなかで雪だるま式に情報が歪められて、だれもカンボジアの現実をまともにみようとしなくなることを問題にしていた。
ところがなぜか翻訳された英国版の著者付記には、チョムスキーたちが大殺戮をなかったといい、難民たちは妥当な情報源ではないという、などと書かれていた。これがポル・ポト擁護説のはじまりのようだ。チョムスキーたちは二巻本『人権の政治経済学』の下巻『激変の後』33のなかで既に反証している。そもそもポンショーの本を読むに値する真剣な本だと評価するのは、かなりの虐殺があったことを前提としている。さらに、「難民たちの報告は深刻にうけとめねばならない、ただし扱いには注意深さと慎重さが欠かせない」というポンショー自身の指摘に同意していた46。
チョムスキーたちが『人権の政治経済学』下巻の『激変の後』でカンボジアの章をたて、詳細にその報道を検証しているのは、そもそもこのように根拠もなくいいかげんな流言飛語が流布する様子をきちんと把握することを目的としていた。またカンボジアの報道に焦点をあてるのは、合衆国による秘密爆撃が看過され、また同時期に同じインドシナ地域で同規模 (人口比ではそれ以上) の殺戮が東チモールで繰り広げられていたにもかかわらず、ほとんど報道されなかったことと比較するためだ。事実を調べもせずに根拠のないポル・ポト擁護説をくりかえすことは、再び東チモールの悲劇から目を逸すことになる。チョムスキー=ポル・ポト擁護説は、『人権の政治経済学』であらかじめ反論されている。
『人権の政治経済学』を出版した翌年の1980年にも、チョムスキーがカンボジアのポル・ポト政権を取り巻く策略に加胆しており、ポル・ポトを擁護しているというような論説が掲載された。これに対しては、数週間のうちに二つの反論が掲載された。その反論は、一部だけしか読んでいないこと、二つの巻にわたる著作全体の要点を見逃したこと、上巻の内容を無視したこと、著者たちの主張を矮小化したこと、事実を歪曲したこと、不正確に伝えたことなどを指摘していた。どちらも、チョムスキーからの反論ではない。しかし、ここに並べられた指摘は、チョムスキーにまつわる流言飛語に共通する特徴をよく示している。
BSジャパネクストがリニューアルBS10の無料放送側で日曜昼などに放送中
見られなかったケーブルテレビ局でも見られるようになったので要確認
(2)パーフェクト達成者大会(1995)2.5
・平安(時代
・[択]スケート
//千里眼
・[第1問]花祭り
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・02ソメイヨシノ
・03樋口一葉 ひぐちいちよう
・06 『おおきく振りかぶって』
・14 [3択]水星
・15香川(県
・16 [3択]トイプードル
・21パタゴニア
・25 [国]スイス
・26 [2択]右(側
・29 [3択]2 670万人
・30ヴィンテージ
・32e [2択]重さ
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先日、地域の吹奏楽祭に足を運んだ。いくつかのバンドが出演していたのだが、その中に大学生合同バンドがあった。彼らが演奏したのは…まさかの「ディスコ・キッド」。
「おいおい、1977年の曲だぞ?」と思わずツッコミたくなった。今の大学生なんて、まだ影も形もない時代の曲だ。もちろん、MCは「世代を超えて人気の曲です!」なんて言っていたけれど、正直なところ、本当にそこまでの曲か?
それだけじゃない。以前見かけた高校の定期演奏会のチラシには、ピンク・レディーの名前が踊っていたし、YouTubeを漁れば高校生が「学園天国」を元気に演奏している動画がゴロゴロ出てくる。
いや、懐メロが悪いわけじゃない。往年の名曲を演奏するのは、それはそれで楽しい。でも、これだけ昔の曲ばかりが定番として残り続けているのは、さすがに不思議じゃないか?
吹奏楽の世界、新しい時代の曲がどれほど生まれているのか?なぜここまで過去のレパートリーに頼り続けているのか?
もちろん、吹奏楽というジャンル自体がクラシック音楽と同じく「伝統を重んじる文化」だからというのもあるだろう。でも、それにしても新陳代謝が遅すぎる。新曲は毎年発表されているはずなのに、なぜか演奏されるのはいつもの顔ぶれ。
せっかく若い世代が演奏するのだから、もっと今の時代に合った音楽にも挑戦してほしい。そうでなければ、吹奏楽は「過去の遺産」にすがるだけの世界になってしまうのでは?
一般に「スタンバる」という言葉はアニメ『機動戦士ガンダム』が初出だとされている。
意外なところでは「スタンバる」=用意する、スタンバイする もガンダム発祥の言葉。初出は『機動戦士ガンダム』で、シリーズを代表する名艦長・ブライトが発した。
「黒歴史」「スタンバる」…実は"ガンダム発祥"な用語で、世代の上司とうまくコミュニケーションを取る方法(1/3) - ウレぴあ総研
現在、Google Booksや国会図書館デジタルコレクションによって、容易に用例を検索できるようになった。
画面では居間から台所へ行くだけでもスタジオの中では、AセットからBセットへ飛んで行かねばならぬ場合が多いのです。これをスタン・バイと呼びます。中には日本語の様にくずして、「Aさん、早く台所のセットへスタンバって下さい」などという、F・Dさんもいる様です。
日本でテレビ放送が開始されたのは1953年だが、1960年の本に載っているということは、かなり早い時期からあったのだろう。
「ママちょのカメリハはCスタでやります」「ハイ、スタンバってー」「A子のシヨン待ち」「フロアシさん、そのバック八百屋にして下さい」
スタンバる=用意する。
ちなみに「ママちょ」は『ママちょっと来て』というドラマのこと。
こうして「スタンバる」はテレビ業界外へと広まっていったのだろう。
どちらもテレビ局を舞台にした小説だが、フィクションにも登場していたことがわかる。
1973年『日本教材文化研究財団研究紀要』「特別寄稿 語彙の広がりと知性」
名詞に「る」をつけて動詞にする流行語もよくない。スタンバイから「スタンバる」,サドから「サドる」,ガリ版を切ることを「ガリる」,ゲバ棒から「ゲバる」,ゼロックスから「ゼロる」ETC。
そして、この時期には既に「最近の流行語」として認識されていたらしい。
ということは「ガンダムが広めた」ということすら怪しい。
以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。
大雑把に言えば、この「夏目漱石がI love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、
に分解できる。ひとつずつ追っていこう。
まず、夏目漱石は「I love youは日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石のイギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージ・メレディスの『Vittoria』という小説に言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love you」である。
formula ノ差西洋日本 “I will excuse myself toyouanothertime,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p.113. 此I love you ハ日本ニナキ formula ナリ.
1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです
同じく1908年に劇作家の益田太郎冠者という人物も次のように書いている。
欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。
やや遅れるが、1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村は漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。
日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。"I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたにいろはにほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。
以上からすると、夏目漱石が最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love youは日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである。
そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム「東方へ」での記述が最も古かった。
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
1935年刊行の笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事が雑誌に掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年の雑誌『英語研究』。
月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.
1957年の雑誌『産業と産業人』の対談記事「ニッポン居よいか住みよいか」。
三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)
大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)
1961年の早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である。
ドイツ人学生が日本の女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人だからね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。
1962年『日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。
さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。
それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家の豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載は1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。
明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代だから、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら、日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。
ほぼ同時期に、つかこうへいが小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへいが豊田有恒の記述を読んだのか、それとも共通の元ネタがまだどこかにあるのか。
古くは夏目漱石がI love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳のリアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。
以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。
ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞を二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷がI love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。
「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。
この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦の1975年『日本人の言語表現』ではこういった具合だ。
土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説で女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。
Permalink |記事への反応(15) | 00:42
コピペで引用なのここまで明確に示してるのになんで内容の不満が俺に向けられてんだよ
1964年「うず潮」
1966年「おはなはん」
林謙一「おはなはん」
1977年「いちばん星」
1978年「おていちゃん」
1979年「マー姉ちゃん」
1981年「本日も晴天なり」
1984年「心はいつもラムネ色」
1986年「はね駒」
1987年「チョッちゃん」
1990年「凛凛と」
1994年「春よ、来い」
最愛の夫を見送るまでが描かれている。
1997年「あぐり」
2000年「オードリー」
DVD未発売。
2003年「てるてる家族」
2006年「芋たこなんきん」
ソフト化されていない。
2010年「ゲゲゲの女房」
2011年「カーネーション」
ファッションデザイナー「コシノ三姉妹」の母、
2014年「花子とアン」
2014年「マッサン」
2015年「あさが来た」
2016年「とと姉ちゃん」
2016年「べっぴんさん」
2017年「わろてんか」
2018年「まんぷく」
2019年「なつぞら」
2019年「スカーレット」
2020年「エール」
古関著書「鐘よ鳴り響け」
2020年「おちょやん」
2023年「らんまん」
2024年「ブギウギ」
2024年「虎に翼」
三淵嘉子関連書籍
2025年「あんぱん」
2025年「ばけばけ」
Permalink |記事への反応(11) | 10:48
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
最近、昭和のドラマや映画を観るようになった。解像度の高い映像で当時の作品をじっくり楽しめる環境が整ったこともあり、作品の細部にある仕掛けや意図が見えるようになり、改めて面白さを感じている。そんな中で観た「はなれ瞽女おりん」(1977年)は、篠田正浩監督の名作といわれる一本だ。
正直、この年齢になるまで篠田監督の作品を観たことがなかったが、この映画は素晴らしかった。明治から大正にかけての日本の「原風景」を映し出すという監督の意図は、見事に画面に現れていた。しかし、単に美しい風景を描くにとどまらず、登場人物の人間性や時代の矛盾を深く掘り下げた内容に感銘を受けた。おそらく20代の若いころにみていたら、おりんカワイソス以外の感想が残らず、忘れさられてしまっていただろう。年齢を重ねて初めてわかる名作というのがある。
映画の中心となるのは、瞽女であるおりん(岩下志麻)と脱走兵の鶴川(原田芳雄)の物語だ。二人とも社会から周縁化された存在だが、その中でもおりんの「はなれ瞽女」という立場は二重の周縁性を持っている。彼女が瞽女共同体である高田の一座から追放された理由は、禁制の「男との関係」があったためだが、それは彼女自身の選択ではなく、レイプによるものだった。
そんなおりんに寄り添い、導き手となる鶴川は、物語が進むにつれてその人物像の不整合が明らかになっていく。「天涯孤独」と語りながらも、家族の存在がほのめかされ、ついには母親の存在を告白するシーンは映画のクライマックスとなる。この告白が、おりんにさらなる絶望をもたらす。
この物語が描かれる背景には、明治維新に始まる天皇を頂点としたイエ制度による国民統合の矛盾がある。家父長制のもと、人々は家や国家という枠組みに縛られていた。おりんと鶴川に共通するのは、このイエからの周縁性だ。
天皇を頂点としたイエ制度は、乱暴にいってしまえばそもそも江戸時代の「家中=藩」にならって編み出された。江戸時代においては「家中」が人を従わせ、結束させる機構だった。幕末の志士たちが思いつくことのできた次の時代の国民統合の在り方は、やはりイエだったということだ。この点が王を承認する倫理的な神を持つヨーロッパの統治と異なっている点だ。国の危機を前にしても藩同士がいがみ合うならば、ということで、もっと大きな家中=イエにしてしまえばよい、という発想が明治維新だ。天皇を頂点として、家父長制に結合させ、国、地域共同体、世帯すべてのレベルで上から下まで論理的に整合する入れ子構造にするために、寺子から氏子へと転換する廃仏毀釈という荒業まで行った。イエの主従関係は、現代にいたるまで日本人のDNAとまでいえるほど根深い。嫁姑、上司部下、先輩後輩など。どんなに言っていることがおかしくても絶対である、という点で共通の倫理だ。この「家」の概念は、主君への忠誠のもと、等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠すことになった。
大正デモクラシーはそうした不条理を解決する機運として盛り上がりを見せたが、やがて不況が日本を襲い、財閥と大地主の利害を代弁した立憲政友会に幻滅し、人々の失望とともに大正デモクラシーは終焉を迎えるのだ。当時、腐敗した政治が毎日新聞をにぎわせた。
脱走兵であることが官憲についにバレて拷問されたときの鶴川の叫び「何が、国民皆兵だ。金持ちの徴兵逃れで、俺が引き受けただけだ」というセリフは、その矛盾を端的に表している。明治維新で構築された家制度の矛盾を背景に、映画は鶴川の叫びやおりんの境遇を通じてその時代の不条理を描いている。
また、瞽女たちが社会の中で次第に居場所を失っていく様子もこの映画は巧に表現している。鉄道の普及が、農村部を含め人々の娯楽へのニーズの変化をもたらし、ひいては彼女たちの文化を衰退させたことや、彼女たちが生き残りをかけて変化を迫られた様子は、急速な近代化による価値観や生活の変化を象徴している。
そうした社会状況のなか、おりんは一座から破門され、「はなれ瞽女」となってからは一人で生きてゆく覚悟を決めた女性だった。旅の途中で長岡のはなれ瞽女(若いころの樹木希林)と出会うシーンでは、斜陽化する瞽女文化のなかで自立を模索する様子がうかがえた。またおりんも同じ境遇のはなれ瞽女と出会いを通じて、自立して生きてゆく勇気と自信を得ていたように見えた。しかしやがて愛する男との別れを契機に、おりんは猛烈な不安に襲われる。それは周縁であるがゆえの存在論的な不安だ。
この映画で特に印象的だったのは、男女の「帰る場所」の非対称性だ。
鶴川が官憲に連行される直前、おりんは鶴川から思わぬ告白を受ける。
鶴川の、ごめん実は家族がいるんだ、という告白に、留置所の小窓にかけたおりんの手が崩れ落ちるような衝撃を受ける。このときの岩下志麻の演技すごい。
このシーンに二重写しで思い出した映画がある。それは「駅station」降旗康男監督(1981年)。大晦日に一人飲み屋のおかみさんと熱燗を飲むシーンでおかみさん役の倍賞千恵子がいうセリフだ。
水商売やってる子には暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる? 男が家庭に帰るからよ。どんな遊び人もこの時期は家庭に帰っちゃうからね。
好きな男には帰る場所が別にある、迎え入れてくれるホームグラウンドがある、という、この同じ寂しさがおりんを襲う。
おりんは、そのさみしさを押し殺して、よかったじゃないか、あんたにお母さんがいても不思議はないと思っていた、自分もいるんだ、と幼少期に記憶の残る唄を口ずさむ。エンタメ的には、涙腺崩壊のシーンだ。
鶴川がなぜうそをついていたのか。おりんを深く愛しながらもなぜ夫婦になるのを鶴川は拒んでいたのか。これは推測だが、おそらく母親が瞽女を娶ることを認めないことを鶴川はよくわかっていたからだろう。失恋でつきつけられる差別社会の現実、瞽女文化の衰退、はなれ瞽女であるおりんの存在論的な不安定はここに極まってゆく。
鶴川には母親という寄る辺があり、天皇を頂点としたイエ制度の中で一定の救いが残されている。しかし、おりんにはそのような場所がない。かつての瞽女共同体も失われ、彼女はどこにも属することができない存在だ。この非対称は、映画終盤の「親不知の岬」で息絶えるという結末に象徴されている。
女はひたすらアウエイを強いられ帰る場所はない。これは同時代の歌でいうと、中島みゆきの「生きていてもいいですか」「エレーン」や山崎ハコの「望郷」と同じ世界線だ。対照的に、同時代の男性歌手では、何気に、上京してもふるさと愛にあふれている、という世界線の歌が多い。男には、失敗してもいざとなったらふるさとに抱かれる、というまなざしだ。「母に捧げるバラード」の海援隊や松山千春の「旅立ち」が典型。
この男女の人生の非対称は、先日来観ていたドラマ「おしん」でも同様にみることができた。
おしんの物語では、農民運動に熱を入れていた浩太は官憲に拷問され転向を余儀なくされる。夢破れ傷ついた浩太は傷をいやしに実家の世話になる。浩太の実家は父親が貴族院で太かったのだ。事業に失敗したおしんの夫・竜三を救うのも佐賀の実家だ。一方、おしんにはセーフティネットとしての故郷はない。振り返るという選択肢は存在せず、ただただ前を向いて歩く以外に救いはなかった。
「はなれ瞽女おりん」の映像表現は見事で、セリフに頼らず映像で感情や状況を語る部分が多い。例えば、鶴川が告白した後のおりんの行動や、瞽女屋敷を訪れるシーンの演出は、彼女の焦燥や絶望を鮮烈に伝えている。
男の告白ですべてを悟ったおりんは、まず瞽女屋敷に向かい、自分の育った場所を確かめに行く。しかし、時がたち、すでに瞽女の時代は終わりを告げていた。屋敷がもぬけの殻だとわかると、男を待つことも探すこともせず、心身ボロボロになって、一人はなれ瞽女として宿場町を回る日々。おりんの着物がボロキレ状態になっていることから、はなれ瞽女としての暮らしが何年も経過していることがうかがえる。この映画終盤のテンポが絶妙だ。
また、ラストシーンの親不知隧道での描写は、観る者の解釈に委ねる余韻があり、深い感動を呼び起こした。私の解釈になるが、ズームアップされるトンネルの測量機器と遠くの岬に見えるおりんの着物の切れ端の遠近感は、鉄道の普及と瞽女文化の終焉を見事に演出している。さすがだわ、この演出家、そしてカメラワークに感嘆ぜざるを得なかった。映像を学ぶ人にはぜひみてもらいたい作品。
おりんの物語は、単なる一人の女性の悲劇ではない。社会の中で周縁化される女性たちの象徴であり、家制度という枠組みの中で矛盾を抱える日本近代そのものを映し出している。家父長制のもと、妻には銀行口座を持つ権利すらない時代、周縁化された存在であるはなれ瞽女の自立と恋、その挫折を通じて、その背景に潜む不平等や抑圧を丹念に描いた篠田監督の手腕に心から感服した。
篠田正浩監督が描きたかった「日本の原風景」とは、単なる美しい日本の風景ではなく、矛盾や悲哀に満ちた人々の生き様そのものだったのではないか。この映画を観て、初めて彼の作品に触れたが、もっと多くの作品を観てみたいと思った。そして、昭和のドラマや映画が描く時代背景の奥深さに、改めて心を動かされた。
また、ドラマ「おしん」と時代が重なるところでは、国民統合や周縁性に関して、もう少し思うところがあるので、またそのうち増田で。
週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選 https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
週刊ビッグコミックスピリッツ史上最も重要なマンガ5選https://anond.hatelabo.jp/20241014232424
週刊ヤングマガジン史上、最重要な漫画10選 https://anond.hatelabo.jp/20241016182953
月刊アフタヌーン史上、最重要な漫画10選 https://anond.hatelabo.jp/20241017235116
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上記シリーズが好きなので、コロコロ大好きっ子の自分も書いてみた。
コロコロは小学生をターゲットとしているため、「自分が子供の時に読んだ時代の作品が一番で、それ以外の作品はそもそもほとんどor全く知らない」となりがちと思われる。そのために「なぜこの作品が入っていないんだ!」という感想を抱かれやすい可能性はあるかもしれない。なるべく公平に選んだつもりだが、あくまで独断と偏見による10選であることをお断りしておく。
いきなりの番外扱いで申し訳ないが、コロコロコミック自体が『ドラえもん』の総集編本として創刊された歴史があり、以降現在に至るまでコロコロコミックにとって『ドラえもん』はいつの時代も特別な存在である。他の雑誌にこのようなスペシャルofスペシャルな作品が存在している例ってあるのだろうか? その存在感と功績は他と比肩できるものではなく、殿堂入りという形で別枠とさせていただく。
ちなみにコロコロコミックに掲載された『ドラえもん』は基本的に「小学一(~六)年生」といった学年誌などで発表された作品の“再録”で、藤子Fの生前コロコロ向けに新作が描かれたのは実は数話のみである。(『大長編ドラえもん』についてはコロコロコミック描き下ろし)
コロコロコミック史だけでなく、マンガ史に燦然と輝く画期的な「ビデオゲーム」漫画の始祖。
単に「ビデオゲーム」を題材とした作品というだけでなく、その後コロコロコミックは「ラジコン(RCカー)」や「ファミコン」「ミニ四駆」といった子供向けホビーを題材としたヒット作品を多数生み出すが、その礎を作った記念碑的作品である。企画はコロコロ編集部発案によるものだが、この題材をすがやに描かせた慧眼も光る。
「つるセコ」などの名台詞を生み出し、アニメ化もされたのむらしんぼ最大のヒット作。元よりギャグ作品の多かったコロコロの中でも当時際立ったヒット作となったが、この作品の画期的なポイントとして「4コマ漫画」という点も見逃せない。当時でも4コマ漫画は“古典的”な形式と見られており、当時では新聞はじめ大人向けマンガ以外で見かけることは意外と少なかったが、児童誌にこのフォーマットを定着させた功績は大きい。
後に『ゴーマニズム宣言』などの大人向け作品で名を馳せる小林よしのりだが、言うまでもなく元はギャグ漫画家である。常識外れに大金持ちのおぼっちゃまが主人公で、ち○こやウ○コなど下ネタも多く小学生男子のハートをガッシリと掴む。「ともだちんこ」「こんにチワワ」などの茶魔語も子どもたちの間でブームとなり、平成初頭のコロコロコミックを牽引する大ヒット作品となった。
ホビー漫画に力を入れるコロコロは田宮模型(タミヤ)とのつながりは深く、同社とのタイアップによるメディアミックス戦略は『ラジコンボーイ』(大林かおる/1983~1989年)を嚆矢とするが、その戦略が大きく花開いたと言えるのがこの作品。田宮模型の「ミニ四駆」も、そしてこの作品もお互いの相乗効果で大ヒットを果たした。当時のミニ四駆ブームを牽引。
熱血主人公の多いコロコロコミックだが、シンプルにスポーツを題材とする漫画は意外と少ない。
その中で、スポーツ漫画といえば「野球」「サッカー」が多くを占めていた時代に、小学生には非常に馴染み深い「ドッジボール」をテーマにした新規性は、意表を突かれながらも「なるほど!」と唸らせられる。アニメ化のほか、ファミコン・スーファミ・ゲームボーイ・PCエンジン・メガドラ・ゲームギアと、当時発売されていたありとあらゆるゲーム機でゲーム化もされている(すげえ)。
コロコロコミックにゲームのコミカライズ作品は非常に多い。ヒット作も数多いが、その中でコロコロを代表する作品をどれか一作を選べと言われたら、これしか無いだろう。
任天堂の人気キャラ・スーパーマリオを題材とした沢田ユキオの超ロングランギャグ作品。連載開始は1990年で、なんと現在も連載中である。昭和末期~平成以降に生まれた子どもなら、きっと誰もが一度は読んだことや目にしたことがあるであろう。
コロコロの歴史を語るうえで、80年代から活躍し『江戸っ子ボーイ がってん太助』『学級王ヤマザキ』などアニメ化されたヒット作も数多い樫本学ヴ作品を外すわけにはいくまいが、その中から『コロッケ!』をセレクト。一話完結ギャグやタイアップ作品の多いコロコロコミックとしては珍しい、連続冒険ストーリー漫画である。2年にわたるアニメ化、そして樫本学ヴはこの作品で小学館漫画賞児童部門を受賞した。
21世紀のコロコロコミックの『顔』である。じーさんと孫が織りなす子供向け不条理ギャグの大ヒット作品。表題作は2010年で連載終了しているが、続けざまに『でんぢゃらすじーさん邪』『なんと!でんぢゃらすじーさん』と20年以上に渡り、コロコロの看板作品として現在も続編が描き続けられている。
強烈で個性的な文房具のキャラクターが繰り広げるギャグ作品。2004年連載開始、現在も続く超絶ロングラン作品である。でんぢゃらすじーさんと並び、長らくコロコロの2大ギャグマンガとして君臨。一話が短めでサクッと読める。SNSを見ると、コロコロコミックは卒業しても、このマンガだけは読み続けているという声もちらほら見られる。
どんなものでも盗み出す怪盗ジョーカーを主人公としたたかはしひでやすのヒット作。魅力的なキャラクターたち、一部では強引とも評される(?)トリックも含め子どもたちの大きな支持を得た。
別冊コロコロに連載開始され、その後月刊コロコロに移籍。根強い人気でアニメもシーズン4まで続く。別コロ時代を含めると10年以上という長期連載で、連載開始時に小学校高学年だった子どもは連載終了時にはもう大人だが、最終話は見届けられたのだろうかと気になる。
一作家一作品縛りのため選外としたものも含め、次点作品を挙げておく。他の方の意見も聞いてみたい。
・とどろけ!一番(のむらしんぼ)1980-1983
・がんばれ!キッカーズ(ながいのりあき)1984-1989
・かっとばせ!キヨハラくん(河合じゅんじ)1987-1994
・爆走兄弟レッツ&ゴー!!(こしたてつひろ)1994-1999
・爆球連発!!スーパービーダマン(今賀俊)1995-2001
・うちゅう人田中太郎(ながとしやすなり) 1998-2004
・ドラベースドラえもん超野球外伝(むぎわらしんたろう)2000-2011
Permalink |記事への反応(27) | 22:55
包丁人味平 1973年から1977年にかけて『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された。
その後の料理漫画やテレビ番組にも見られる「料理勝負」や「解説」の形態を確立
◆再追記
anond:20241026155116←皆さんの意見を受けてリライトしました、よかったら読んでみてね
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ランキングではなく、連載開始順に並べただけです
忌憚なき意見、待ってるぜ
黎明期レジェンド枠。サービスエロがジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実は否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。
黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品。これが無かったらろくブルも東リべも存在しない。
ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般を積極的に題材として取り入れたことで現代日本の風俗、文化を凝縮したような史料的価値を持つ作品になった点を評価したい。
黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽な能力バトル」というジャンルを確立させた点を評価したい。(このジャンルのパイオニアはアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しをはじめ一般社会への影響力もすごい。いわゆる「友情・努力・勝利」はほとんどキン肉マンで作り上げられたといっても過言ではない。
勝利や友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えつつも、キャッチーな必殺技を取り入れ実際のスポーツ以上のエンタメ性を付与した。マンガ史全体としてはドカベンがこのジャンルのパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も重要。この作品がなければメッシはサッカーやってなかったかも。
80年代のジャンプの象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチやハードボイルドな男向けの作風の最高到達点。
ラブコメから選ぶならこれ。決して革新的な要素があったとは言えないが、当時のジャンプが唯一苦手としていた王道ラブコメで人気を得たことが重要。ポップ路線を持ち込み、ジャンプ紙面の多様性はより進むことになる。
90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ、日本のマンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。
国民的作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代の異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。
バスケマンガ、いやスポーツマンガ史上の最高傑作。勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まったタイムレスな名作。もし序盤の不良マンガ路線を継続していたら日本のバスケットボールの歴史は(恐らく悪い方に)大きく変わっていただろう。
特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代の代表として入れておきたい。
純粋なギャグ枠から一作入れたかった。ナンセンス、シュールさを主体としたギャグをジャンプ誌上で成功させた最初のマンガ。下品さやエロさを排除した純粋な面白さを追求した点が重要。その影響度は「マネもほどほどに...」という注意書きが当時の新人賞の要項に書かれるほどだったそう。
正直マンガ作品としての完成度は大したことない。だが集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例であり、TCGを日本に定着させた初めての作品であり、暗黒期の集英社(とコナミ)に莫大な富をもたらしたことが重要。お金は正義。
大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。それでもなんだかんだ国民的マンガ、ジャンプの看板の地位は譲ってない。幼少期から温めた構想を週刊連載で30年かけてやる人間って歴史上存在しないと思うので、そういう意味では既にマンガの枠を超えた注目度になりつつある。
残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有な作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたら冨樫以上の人間はいない。ハンタの最終回を読むまでは死ねない。
サスペンスを主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品を大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになるが、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品。
ワンピース以降不在だった、圧倒的な看板力を持つマンガ。趣味の多様化、出版不況といった逆風を跳ね返し、国民的な作品を生み出す力がマンガにまだあると示した功績がデカい。
今のジャンプがジャンルレス化している最大の要因はジャンプ+の影響であり、その代表格ともいえる藤本タツキを入れないわけにはいかない。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツキフォロワーが無限に産まれそうな予感がするので入れておく。
◆追記
ブリーチ→個人的にはリストに入れるべきか一番迷った作品。るろ剣と入れ替えてもいいかも。売上的にも後世の影響的にも入っていいと思うけど、他の超長期連載作品と比べ終盤面白さを保ててなかったところがちょっとマイナス。実際掲載順もどんどん下がってたし
銀魂→人気売上的にはあり、メディアミックスの成功度も高い。ただ銀魂がなかったと仮定した時のマンガ史的影響力があまり感じられないので外した
シティハンター→人気売上的にはあり、ただハードボイルドでもコメディでも上の作品が複数あるように思う
テニプリ→正直候補に入れてなかったけど腐人気の拡大とテニス人口の拡大という意味ではたしかにアリだなと思った。入れ替えるならチェンソかデスノかな
ハンタより幽白→これ言うと公平性を欠いてると言われそうだが、俺は冨樫がジャンプ史上もっとも偉大なマンガ家であるという前提で全作品を評価している。幽白は序盤の人情モノ路線と打ち切りで冨樫の作家性が薄まっているように感じるため、より純度の高いハンタを選出。ただ未完に終わったなら幽白でもいいと思う
リンかけより聖闘士星矢→書いたように能力バトルマンガのパイオニア的存在であることを重視した。1作家1作品縛りなければ入れてもいい
ひばりくん→もともとギャグマンガとして書かれた作品なので評価に迷う。入れ替えるならオレンジロードなんだけど、あえてオレンジロードを入れたのはジャンプでギャグ要素を排した恋愛マンガをヒットさせたことによる後世への影響を重視したからなので...
サーキットの狼→ジャンプ史においてレース漫画の存在感がさすがに薄すぎると思う、必然的に後世への影響力も低く評価せざるを得ない
漫☆画太郎→画太郎のギャグは面白いけど汎用性や他作家への影響に欠ける。なぜなら絵柄ありきで、良くも悪くもマネができないから。俺がうすたのギャグを高く評価する理由は、ストーリーににも絵柄にも下ネタにも頼らない純度の高さ(=マンガにおける笑いの一般化)にある
呪術→はっきり言って候補にも挙げてなかった。同世代のチェンソ鬼滅より明確に格下だし、そもそもコンセプトがジェネリック版ハンタでしかない以上このリストには入れられない。冨樫になくて芥見にはある面白さがあるとするならば俺とは感受性が根本的に合わない
男塾→あれは劇画タッチとバトルものという過去のメインストリームをメタにしたギャグマンガなので、他作品の影響を大いに受けた側。このリストには入らない
Permalink |記事への反応(85) | 18:11
もう少し薬害を学べよ。
既に異常事態。
感染症は上下水道の整備により、自然に死亡者が減ってきたところにワクチンを投入して自分たちの手柄にしてきた。
https://dissolvingillusions.com/wp-content/uploads/2021/07/G11.2-UK-Deaths-1838-1978-1.png
「人類を救った」とされる天然痘の生ワクチンなんて詐欺も良いところ。
厳格な接種法が設定された1867年から、死亡者が爆増してるし、そもそも天然痘の生ワクチンは当時の先進国である世界人口の数%でしか打ってない。
天然痘が医学の力で根絶されたのは、壮大な嘘である確たる証拠だ。
一般人はこの話を知らないから「ワクチンはスゲー」と今でも思い込まされてる。
弱毒化ウイルスを体に入れても、そんなものは体外に放出されて、余計に感染を拡大させる。
そいつがダメだから不活化ワクチンなんてものができたが、これは抗体誘導全然しないし、アジュバントにアルミなどの毒を使う。
不活化ワクチンで下半身不随になるの当たり前の話。アルミなのどの毒が脳に運ばれてるからだ。
近年、ワクチン大好き国家の米国で自閉症の子供が異常に増えているが、毒が血液脳関門を突破すれば自閉症にもなる。
子供のワクチン接種は、1986年には数種類のワクチンだったのが、2024年には35本以上。自閉症が増えない方がおかしい。
https://www.conservativewoman.co.uk/vaccines-autism-and-an-epidemic-of-official-lies/
今回のmRNAワクチンに至っては、免疫抑制しながら自然感染の400倍~1000倍もの異常なスパイクタンパクをつくるパワフルバカな機序。
こんなもん人死ぬわ。
そして、10月からレプリコンワクチンという、さらにバカで大薬害なワクチンが登場するが「看護倫理学会」が緊急声明をだした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/72dcf13fe005d1057d4d739e656824f86cd8e691
https://www.jnea.net/wp-content/uploads/20240806kinkyuseimei.pdf
お前の嫁さんにも問題あるぜ。
「ワクチンは政府が自分たちの目標実現のため打たせてる」なんて言ってるのは、反ワクの中でも陰謀論に傾いてるバカだからな。
だが、部分的には本当の話も混じってる。
シェディングは生ワクチンの頃から知られていた害だし、mRNAワクチンで癌が増えるのも当たり前。
免疫抑制しながら抗体誘導するし、繰り返しの接種で免疫寛容するからな。
https://www.explorationpub.com/Journals/ei/Article/1003140
自分でも打ってるから、害が認められないサンクコストクソ野郎。
おめーみたいな奴なんて、反ワクの誰もが説得できると思わねーよ。
手遅れでもあるし。
でも、お前は、もうちょい薬害の歴史を学び、ワクチンの機序を調べろよ。
「ワクチンを打たせないことは虐待だ」と言うけども、判断力のない子供に無理矢理ワクチンを打たせることも、それが逆効果な毒物である場合は虐待だからな?
分かってたら、自分では打つにしても他人にはけして勧めない代物だからな。
お前と反ワクの嫁さんなんて、何回話したところで歩み寄ることはねーよ。
例えば医者や医学者である夫が反ワクで、いくら機序を説明しても、医学洗脳者の嫁は聞く耳持たない。
嫁さんや子供を説得できなくて打ってしまい、案の定、嫁さんや子供は後遺症を抱えて怒り狂ってる医者や医学者は結構な数いる。
機序も分かってない一般人同士なんて、もっと分かり合えねぇな。
バカがバカ同士で、根拠薄弱なことを言って罵り合っているのだからな。
嫁さんが反ワクになろうが、それは変わらないだろ?
医学なんて個体差を利用して、デタラメばかりを風潮する非科学。
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2017/PA03212_01
てめーみたいな人間は絶対に変われないだろうが、嫁さんや子供を大切に思う気持ちが、少しでもあるのなら、少しは自分を疑い世界を疑ってみろ。
anond:20240904032316についてたブクマカの初めて買ったCDのリリース年を調べた。
for (let a ofdocument.body.getElementsByClassName('entry-comment-textjs-bookmark-comment'))console.log(a.textContent)
ってやってテキスト集める。
Microsoft Copilotに「以下の文章に出てくる、音楽CDのタイトルとリリース年を一覧で表にしてください。」って指示。
途中で切れたので分割する。 続き→anond:20240905115337
「権威勾配」という考え方が注目されたきっかけは、1977年にスペイン領テネリフェ島の空港で起こった航空機どうしの衝突事故です。
583人が犠牲になった大惨事は、機長の権威勾配が急すぎたため、機関士が機長の間違いに気づいていながらも、強く主張できなかったことが一因とされました。
このリスクマネジメントの教訓から、米航空宇宙局(NASA)が主導し、ヒューマンエラー防止のための訓練プログラム、CRM(Crew Resource Management)が開発され、各航空会社が導入。
このなかで権威勾配の考え方も、訓練の重要な要素になっています。
もともとは航空業界で、機長と副機長他クルーとの間に何かしら権力の格差があり、そのせいで事故を起こすのを避けようってことで産まれた言葉やね。
機長の権威が高すぎる(権威の勾配が急すぎる)と副機長らが萎縮して、機体の異常や機長の判断ミスに気付いたとしても口をはさむことができなくなって事故につながってしまう。このため、「操縦室内の権威勾配(Trans-cockpitauthority gradient,TAG)」は適切であることが必要とされる。