はてなキーワード:1971年とは
全日空機雫石衝突事故 | 日本航空123便墜落事故 | |
発生日 | 1971年(昭和46年)7月30日 | 1985年(昭和60年)8月12日 |
事故内容 | 岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)上空を飛行中の全日本空輸(全日空)の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。 | 日本航空123便が飛行中に後部圧力隔壁が破損し、垂直尾翼がの大部分を喪失した。補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が発生した。コントロールを失った同機は御巣鷹山に墜落した。520名が犠牲となった。 |
機材 | ボーイング727、F-86F | ボーイング747SR-100 |
原因 | ジェットルートと呼ばれる民間機が飛行するルートがある。航空自衛隊の教官が訓練空域を逸脱してジェットルートの中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したため。また、全日空機を視認してからの回避指示が遅かった。 | 製造元のアメリカ・ボーイング社による機体尾部修理不良と設計上の欠陥。 |
刑事裁判 | 第一審の盛岡地裁(1975年(昭和50年)3月11日)は、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。 第二審の仙台高裁(1978年(昭和53年)5月9日)は、教官の控訴は棄却したが、訓練生に対しては一審判決を破棄し無罪を言い渡した。上告審で教官に対して禁錮3年執行猶予3年の判決を下した。 | この事件に対して刑事裁判は行われていない。1990年(平成2年)8月12日、公訴時効が成立した。 |
言いたいこと
ご長寿麻雀漫画のタイトルとして知られる「むこうぶち」という言葉だが、もとは裏社会の隠語だということもあって、その意味はあまり知られていない。
漫画では「一匹狼の真のギャンブラー」とされているらしいが、隠語大辞典は「鉄火場の客のこと」としている。
「むこうぶち」という言葉がどのように使われていたのか、過去の用例から探ってみたい。
「出方」というのはヤクザの幹部のことで、貸元=店長、代貸=副店長、出方=チーフ、三下=バイト、くらいの感じらしい。
おそらく「客の向かいで博打を打つ」という意味で「向こう打ち」だろうか。
隠語大辞典で「客のこと」とされているのは「ヤクザの向かいで打つ」という意味で互いに「向こう打ち」だからかもしれない。
1974年『ヤクザ映画はどこまで実録に迫っているか』梅原正紀
ところで「向こう打ち」とは賭場にくる客のためのサービス要員である。まだ本格的に賭場を開催するには、客の数が少ないさいに、客の相手をつとめる男どものことだ。だから「向こう打ち」は勝って悪し、負けて悪しである。賭場が開かれる前にまきあげてしまえば、賭場が立ちにくくなるし、心のせまい客はアヤをつけられたと思いかねない。そうかといって、負けてもいられない。これはブンリが悪い。上手に客を遊ばせながら時間つなぎをする力量を向こう打ちは持っていなければならないのである。つまりキャリアの要請される職種なのだ。
こちらのほうが説明が詳しい。実力が求められることも書かれている。
賭場でまだ時刻が早くて客が集まらないといったとき、早くきた客をたいくつさせないために出る「むこうぶち」は、たいていこのハンカうちである。
ハンカうちとは、
渡世のものではないが、なまじ三下よりは渡世に明るい。その点では白モクに似るが、白モクはだんなに近い。それだけ渡世とは離れている。ハンカうちは、だんなでいればいられるものを、より渡世に近づいて、身うちのあつかいこそうけないが、一家のめしを食う。一家の用を足す。が、まったくの子分、三下ではないし、「客人がまい」だから、こづかいをもらうのも「子分ワリ」ではない。出方の財布と決まったほどではないがしかし、出方同様のあつかいである。
「だんな」は金持ちの上客のこと。
「渡世人ではないが渡世に明るい人」の中で、客に近いのが白モク、渡世人に近いのがハンカうち、と言っているのだろう。
この「ハンカうち」は、博徒の一家(ヤクザの組)に正式には属していないというので、その意味では「一匹狼」に近くはなっている。
「ハンカうち」についてはかなり時代が遡るが、
渡世人間に『半可打ち』と云ふ言葉が云ひ伝ひられて居た。此の半可打と云ふのは堅気の衆が道楽の末、常習的に博打を専門のやうにして打ち歩るき、それを職業のようになすとか、或ひは渡世人の家へ入り込んで仕舞つて、改めて乾分ともならずに、世話になつて居る場合がある。斯る者達を称して『半可打ち』と云つたのである。
いきなり「むこうぶち」=「一匹狼」の意味になっている。「ハンカうち」の側面が強くなったのだろうか。
むこうぶち=ハンカうちのこと。
『関東の仁義』『仁侠大百科』の著者は藤田五郎という元ヤクザの作家で、『無職渡世』『やくざ辞典』の著者は井出英雅という元ヤクザの作家である。
井手氏は「むこうぶちは出方がお客の相手をすること」と、藤田氏は「むこうぶちとはハンカうちのこと」という認識だったのか。
この二人(+前出の梅原正紀)は親交もあったらしいが、井手氏が1913年生まれ、藤田氏は1931年生まれ、という年齢の差はあったようだ。
まず、賭場をひらくことによって、その手数料で生活する者たち。彼らは、通常一家を形成しており、その中で五つの階級に分けられている。貸元=いわゆる「親分、代貸=賭場の支配人役、中盆=壺を振ったり札を配ったりする勝負の進行役、出方=いわゆる子分で、客の接待から使い走りまでの役、三下=人の出入りの見張り、客の下足番・警察の手入れの見張りなどの役、がそれだ。
次に、「控えぶち」という博徒がいる。これは、いわばサクラのような役目の博打うちで、通常どこかの一家と関係を持ち、その一家が賭場をひらくと必ず顔を出すことになっている。つまり、自分が親しくしている一家の賭場で、にぎやかに振舞ったりして、客の勝負欲をあおり立てることを生業としているわけだ。
そして、どの一家にも属さずに賭博を常習とする一匹狼的な博徒が「向こうぶち」だ。この向こうぶちは、控えぶちと違って、特定の賭場に所属することはない。自分の気が向いたときに、好きな賭場へ足を向けることができる。しかし、このさすらいのギャンブラーとして生活する者は少ない。なぜなら、自分の腕ひとつを頼って生きなければならない過酷な仕事だからだ。
この『賭博大百科』での「むこうぶち」の説明は、すっかり一匹狼のイメージになっている。
どちらかと言えば「控えぶち」のほうが、当初の「むこうぶち」に近いように思える。
というわけで、
というような変遷があったように思われる。
もともとの意味では「ヤクザの幹部」とか「中途半端なやつ」みたいな感じだったのが今では「一匹狼の真のギャンブラー」になったというのはなかなか面白い。
余談。
などがある。
全日空機雫石衝突事故 | 日本航空123便墜落事故 | |
発生日 | 1971年(昭和46年)7月30日 | 1985年(昭和60年)8月12日 |
事故内容 | 岩手県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)上空を飛行中の全日本空輸(全日空)の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。 | 日本航空123便が飛行中に後部圧力隔壁が破損し、垂直尾翼がの大部分を喪失した。補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が発生した。コントロールを失った同機は御巣鷹山に墜落した。520名が犠牲となった。 |
機材 | ボーイング727、F-86F | ボーイング747SR-100 |
原因 | ジェットルートと呼ばれる民間機が飛行するルートがある。航空自衛隊の教官が訓練空域を逸脱してジェットルートの中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したため。また、全日空機を視認してからの回避指示が遅かった。 | 製造元のアメリカ・ボーイング社による機体尾部修理不良と設計上の欠陥。 |
刑事裁判 | 第一審の盛岡地裁(1975年(昭和50年)3月11日)は、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。 第二審の仙台高裁(1978年(昭和53年)5月9日)は、教官の控訴は棄却したが、訓練生に対しては一審判決を破棄し無罪を言い渡した。上告審で教官に対して禁錮3年執行猶予3年の判決を下した。 | この事件に対して刑事裁判は行われていない。1990年(平成2年)8月12日、公訴時効が成立した。 |
言いたいこと
@K_JINKEN
2時間
徐浩予との対談動画見たけど、徐氏は帰化人ということがあからさまだから、有権者は判断できるので、かなり良心的ではないですか。はるかに闇深いのは、立憲民主党の福山哲郎でしょう。帰化は公知の事実なのに、その事実を公言することがほとんどタブーになっていて、Wikipediaさえ自己検閲されている。
福山氏が帰化した1975年は官報に帰化前の本名と通名が掲載されていました。1971年より前は国籍も記載されていました。しかし、1995年からは帰化前の本名だけの掲載になりました。
誰が帰化したのか分かりにくい上、公人でさえプライバシーだからと公示されたものを公言できないなら官報の告示は意味があるのでしょうか。戸籍も今は事実上クローズになっているし、帰化一世の参政権の是非以前に、まず帰化した事実が分からないか、分かっても言えないことが問題です
立憲民主党はDEI(多様性・公平性・包摂性)政策を積極的に推進しているが、その実態は極めて思想的かつ一方向的であり、「差別をなくす」という名目のもと、日本の価値観や制度基盤を解体していると批判されても仕方ない。とりわけ、Wikipedia上での帰化情報の自己検閲に対して何ら反対の意思を示さない点に、この党の姿勢が端的に表れている。
本来、DEIを掲げるのであれば、情報の透明性や公平な判断材料の提供に尽力すべきはずだ。しかし実際には、自党にとって不都合な情報の隠蔽には沈黙を貫き、ダブルスタンダードを公然と容認している。選択的夫婦別姓の議論においても、制度改革を装いながら、根底には日本的な家族観を破壊する意図が透けて見える。
こうした態度が続けば、帰化の事実が不明瞭なまま公職に就く者が増え、国家に忠誠心を持たない者が国政に潜り込む事態を招く。これは安全保障上の重大なリスクであり、スパイ防止法があっても機能しなくなる。
福山哲郎氏が本多平直氏に対してレッテルを貼り、党内から排除した件は、立憲民主党における差別概念の恣意的運用を象徴している。問題とされているのは福山氏の出自ではなく、その行動の異常性であり、本来は正当な政治的批判の対象となるべきものである。しかし、それすら「差別」という言葉で封じようとする態度は、議論を抑圧し、政党内外の言論の自由を脅かすものである。
この構造の中で、立憲民主党が明確な政治的利益を得ている以上、これは利益相反の状態にあり、「差別」という言葉が政治的権力の獲得と批判封殺の手段として悪用されているのは明白である。
結果として、「差別される属性」を持つ者が、制度上・社会上の批判を免れながら政治権力を行使するという構造が出来上がりつつあり、その弊害はすでに顕在化している。このような状況では、**「差別属性を持つ者を政治家にすべきではない」**という厳しい指摘が現実味を帯びざるを得ない。
そもそも、このような構造の根源にあるのは、DEI(多様性・公平性・包摂性)という理念が現実の政治運用において破綻している点にある。アメリカでもDEI政策の誤りはすでに指摘されており、企業や大学ではその見直しが進められている。しかし、立憲民主党はこれを無批判に受け入れ、反差別を掲げながら実際には民主制度の根幹を破壊している。
これに加え、彼らはアメリカの政治的変化――とくにドナルド・トランプのような「反DEI」的な存在――を一方的に嘲笑し、実際の議論や反省の余地を自ら閉ざしている。こうした態度がもたらす制度的ゆがみの責任は、立憲民主党、ひいては福山哲郎氏らにあると断じざるを得ない。
論点* | 内容* | 補足・視点強化* |
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------ | ------ | ---------------- |
情報のタブー化と制度の空洞化 | 官報に帰化情報が掲載されているにもかかわらず、公人に対してさえ「出自の話題」が事実上タブーとされている | 1995年以降、官報では「帰化前の氏名のみ」掲載となり、誰が帰化したか識別不可能に。官報が公示として機能しておらず、制度が骨抜き |
プライバシーの過剰保護と国家の脆弱化 | 帰化者の情報が“プライバシー”の名の下に封印され、実質的に確認不可能 | スパイや潜在的工作員の混入リスクに無防備な状態を生み、明確に国益に反する |
「差別」レッテルによる言論封殺 | 出自や帰化歴に言及することが「差別」とされ、正当な批判や議論まで封じられている | 特定属性により、批判に対して“反論”でなく“差別”のレッテルで遮断する構図が固定化 |
情報の恣意的不可視化と政党の利益構造 | Wikipediaやメディアなどで特定の公人の情報が意図的に編集・抑制され、結果的に特定政党や立場に利益が集中 | 情報の“不可視化”が、特定勢力にとっての政治的「防弾チョッキ」として機能している |
民主的判断の破壊 | 有権者が正確な出自・経歴情報を得られず、民主的選択が制度的に妨げられている | 情報の非対称性により、投票行動が歪められ、民主主義そのものが機能不全に |
スパイ防止法の無効化 | 帰化情報が曖昧なままでは、仮にスパイ防止法を制定しても監視対象の特定すら困難 | 法があっても情報がなければ効力を発揮しないという致命的なセキュリティホールが存在 |
こんな記事を読まずに、レイ・ダリオの本を読め。動画を見ろ。GR!GR!GR!
ダリオ氏は約50年にわたるグローバルマクロ投資の経験と、過去500年間の歴史研究に基づいて
世界秩序の変遷には繰り返されるパターン(ビッグサイクル)が存在することを主張しています。
本稿では、そのビッグサイクルの構造、帝国の興隆と衰退の要因、そして現代における世界秩序の変化の兆候について概説します。
ダリオ氏は、自身の経験を通じて、驚くべき出来事は過去にも繰り返し起こってきたことを痛感し、過去500年間の帝国(オランダ、イギリス、アメリカなど)の興亡を研究しました。
彼は、帝国や世界秩序の変化には時代を超越した普遍的なサイクル(ビッグサイクル)が存在すると結論付けています。
「過去の事例に似ているようですが、これからの時代は私たちがこれまで生涯で経験した時代とは大きく変わります。どうしてそれがわかるのでしょうか。なぜなら、これまでもずっとそうだったからです。」
ビッグサイクルは約250年続く重なり合うサイクルで発生し、その間には10〜20年の移行期間(しばしば大きな紛争の時期)があります。
ダリオ氏は、帝国の力を測る8つの評価基準を用いて分析を行っています。
・教育
・軍事力
・技術革新
によって特徴づけられます。
衰退は
・競争力の低下
・労働意欲の低下
・富の格差拡大
・政治的分極化
・内部紛争
によって引き起こされます。
「中央銀行が危機を回避するために多くのお金(紙幣)を印刷し、株式、金、一次産物を購入すると、それらの価値が上昇するため、お金(紙幣)の価値が下がるのです。」
準備通貨を持つことは、帝国がより多くの資金を借り入れることを可能にする「法外な特権」をもたらしますが
ダリオ氏は、秩序を「お互いに対応する人々のための地のシステム」と定義し、
国内秩序(通常は憲法に定められる)と世界秩序(通常は条約に定められる)の2種類があると指摘しています。
世界秩序は通常、大きな戦争の後に変化し、新たな支配的な大国と通貨システムが確立されます。
現在の世界秩序は、第二次世界大戦後の連合軍の勝利とアメリカの台頭によって形成された「アメリカ世界秩序」です。
ブレトンウッズ協定によってドルが世界有数の準備通貨となりました。
ダリオ氏は、自身の生涯で経験したことのない以下の3つの大きな事柄が、現在の世界秩序が変化しつつある兆候だと指摘しています。
中央銀行は債務支払いのために大量の紙幣印刷を開始しています。
②富と機会の格差が拡大し、大きな国内対立が発生していること。
③中国とアメリカの間で生じているような、台頭する大国とリードする大国間の外部紛争が増加していること。
ダリオ氏は、これらの状況が以前にも同時に起こっており、ほぼ必ず国内および世界秩序の変化につながっていると述べています。
前回この連続的な事柄が起こったのは1930年から1945年です。
ダリオ氏は、過去のサイクルを理解することで、これから起こることをより良く予測し、対応できると主張しています。
帝国の盛衰の歴史から得られる重要な原則として、以下の2点を挙げています。
①歳入よりも多く支出しないこと。
②お互いを敬い、大切にすること。
健全な教育、独創性、競争力の維持などは、上記の2つの原則を達成するための手段であると述べています。
ダリオ氏は、各国が自国のバイタルサインに注意を払い、改善に努めることで、サイクルの期間を延ばすことが可能であると示唆しています。
1971年、アメリカは資金が枯渇し、ニクソン大統領はドルの金との交換を一時停止しました。
これは、ダリオ氏が「私たちが理解していた貨幣が終了しつつある」と認識した出来事でした。
1933年、ルーズベルト大統領も同様に、金準備の不足からドルの金との交換を停止しました。
歴史的に、政府が歳入よりも多くを支出し、資金が不足すると、大量の紙幣を印刷し、通貨の価値が下落し、ほとんどのものの価格が上昇するパターンが繰り返されてきました。
ビッグサイクルは通常、大きな紛争(しばしば戦争)の後に始まり、新たな大国と世界秩序が確立されます。
過去の帝国の興隆と衰退のパターンを分析することで、現代の世界が大きな変革期にあることを示唆しています。
彼の提唱するビッグサイクルの理解は、現在の国際情勢を読み解き、未来の動向を予測する上で貴重な視点を提供します。
特に、債務問題、富の格差、そして大国間の対立といった現代の課題は
過去の帝国の衰退期にも見られた特徴と重なっており、注意深い分析と適切な対応が求められます。
ダカット(オランダ)→ポンド(イギリス)→ドル(アメリカ)→現在、人民元も台頭。
「中国(中華人民共和国ではない)」という条件を踏まえた上で、歴史上の台湾のタイムラインを示します。ここでは、中国大陸の政権(中華民国・清・明など)との関わりを軸に整理します。
•漢民族の影響は限定的で、中国の正史にもほとんど言及がない。
•13世紀:元朝(1271–1368)時代、福建や広東の商人が台湾沿岸に渡航。
•15世紀:明朝(1368–1644)期、台湾は「東番」と呼ばれ、密貿易の拠点に。
• 1624年:オランダが台湾南部(台南のゼーランディア城)を拠点に支配。
• 1626年:スペインが北部(基隆・淡水)を占拠するが、1642年にオランダに駆逐される。
• 1661年:鄭成功(国姓爺)がオランダを駆逐し、明の亡命政権「東寧王国」を樹立。
• 1683年: 鄭氏政権が清に降伏、台湾は清の版図に入る。
• 1684年:清朝が台湾府を設置し、中国本土の一部として統治開始。
•18世紀~19世紀:漢民族の移住が急増、台湾の漢化が進む。
•1885年:台湾が清の「福建省」から独立し、「台湾省」となる。
5.日本統治時代(1895–1945)
• 1895~1945年:日本統治下でインフラ整備・産業化が進む。
•1945年:日本の敗戦により、台湾が中華民国に返還される。
•1949年:国共内戦の結果、中華民国政府が台湾へ移転。台湾が「中国(中華民国)」の拠点となる。
•1950年代以降:中華民国は台湾を実効支配し、独自の発展を遂げる。
•1971年:国連での「中国の代表権」を中華人民共和国が獲得、中華民国は脱退。
このタイムラインは、「中国(中華人民共和国ではない)」という前提のもと、中華民国・清・明などの政権との関係を整理したものです。台湾の歴史は多層的で、先住民の歴史や日本統治の影響も含めて考えると、さらに深い議論が可能です。
アニメにおけるプログラマーの描かれ方は、時代とともに変化してきました。コンピューターが一般に普及する以前は、プログラマーという職業自体が一般的ではなく、フィクションの世界でも馴染みの薄い存在でした。しかし、情報技術の発展とともに、アニメでもプログラマーやハッカーといったキャラクターが登場するようになり、その役割やイメージも変遷を遂げてきました。
この時代はまだコンピューターが一般家庭には普及しておらず、プログラマーという職業も専門的なものでした。そのため、アニメにおいてプログラマーが主要なキャラクターとして登場することはほとんどありませんでした。
代表的な作品としては、『ルパン三世』(1971年~)などで、電子機器やコンピューターを駆使するキャラクターが登場するものの、プログラマーというよりは技術者やハッカー的な立ち位置でした。
インターネットが普及し始めた1990年代になると、プログラマーやハッカーの存在がアニメにも反映されるようになります。この時期の代表的なキャラクターは、ハッカーとしての側面が強いですが、プログラミング能力を駆使して物語に関わることが多くなります。
2000年代に入ると、インターネットは日常生活の一部となり、プログラマーという職業がより身近なものになってきました。この時期のアニメでは、天才的なハッカーキャラクターだけでなく、現実的なプログラマー像も描かれるようになります。
2010年代以降、アニメに登場するプログラマーはより多様化し、単なる天才ハッカーだけでなく、日常的にコードを書くキャラクターや、IT企業のエンジニアとして働くキャラクターも増えてきました。
アニメにおけるプログラマーの描かれ方は、時代とともに変化し続けています。1970~80年代はほとんど登場せず、90年代にはハッカー像が確立され、2000年代には現実的なプログラマー像が登場しました。そして、2010年代以降はプログラマーの職業が一般化し、多様なキャラクターが描かれるようになっています。
今後のアニメでも、AIやブロックチェーン、メタバースなどの技術の発展に伴い、新たなプログラマー像が登場することが期待されます。
女性の高学歴化が少子化の原因ってよく言われるけれど、今の日本においてははっきり言って時代遅れだと思うよ。
実際統計からも1971年以降は学歴で女性の出生率は下がっていないと出ているし、
周りを見渡しても、F欄学部卒の女よりも、東京工一早慶院卒の女の方が明らかに沢山産んでいる。
現実的に考えたら簡単に分かるよね。男が高学歴な方が高収入になるので子供を沢山持ちやすく、
低学歴の女は高学歴の男には出会えないか、出会っても相手にされない。
それにそもそも自己肯定感が低くなるので負の遺伝子を子供に受け継がせたくないとしてセルフ断種を選ぶ。
出生率を上げたいのなら、女の学歴を抑えるのではなくてその反対、寧ろ上げるようにした方が有効だと思う。
・女性では、1956-1970 年の間に生まれた人では、大卒の人ではそれ以外の人と比べて子供を持っている人の割合が少なく、合計出生率(Total Fertility)も低かった。しかしながら、1971 年以降に生まれた場合は、大卒とそれ以外の人とでの差異は見られなかった。
・女性の学歴と子供の関係に関しては、これまでは高学歴の女性ほど子供を持たない割合が高いとされていた。実際、欧米の先行研究でも同様の指摘があるが、こうしたギャップは近年では縮小傾向にある(高学歴女性とそれ以外の女性での子供の数の差)。近年、スカンジナビア諸国を対象とした調査では、むしろ学歴が最も低い階層に属する女性の方が40歳時点では子供を持たない割合が高いことがわかっている。北欧諸国のように、女性が出産後も就労を継続できる環境にある場合には、女性が経済的に自立している方が家族形成にとって有利とする考え方があり、結果として学歴が高い女性の方が(そして結果として高収入となる女性の方が)より子供を持つ可能性が指摘されている。今回の我々の調査研究からも、女性の学歴と子供の数の間に見られたギャップは 1971-1975年生まれでは消失していることが明らかになった。この傾向がさらに若い世代でも続くのか、さらに諸外国でも見られている逆転現象が見られるのかは(高学歴女性の方が子供を持つ割合が高くなるのか)、さらなる研究が必要である。
ざっとWikipediaで検索して、記事が存在してなおかつ出身大学の記載があるものをまとめただけなので、なんならこの20倍はいる
これだけいても「高学歴芸人」といえばロザン宇治原なのだからファーストペンギンは偉大とわかる
2024年の現在から過去数十年を振り返った際の重要なイベントやトレンドに関してまとめてみた。筆者の出自(旧来側の小売企業に所属)によって、記載の濃淡がどうしても出てしまうが、その点は容赦いただきたい。
大型店舗の新規出店に対して規制をしていた「大規模小売店舗法」が1991年に緩和され
2000年に廃止された。経緯としては、日米間の貿易摩擦に対する折衝の中で日本の国内産業障壁の一つとして指摘されたことによるもので、大店法緩和の象徴として日本に進出したのがトイザらスである。しかし、大店法の緩和と廃止によって生じたのは米国企業の進出ではなく、商店街などの中小小売業の衰退とロードサイド化である。我々が日本の各地で目にしている、寂れた中心市街地と画一化されたロードサイド店舗が並ぶ郊外の風景は、これによってもたらされた。
楽天市場のサービス提供が1996年、Yahoo!ショッピングが翌年の1997年である。小売の各セグメントにおいて、Eコマースは食品スーパー、コンビニ等を抑えて堂々の一位にある。あまり詳しくないので記載はこの程度。
岡田卓也が社長を務める岡田屋ほか3社が合併し、ジャスコ株式会社が誕生。
大店法緩和以降(第1位参照)の小売業の郊外進出の時流に乗って積極的に出店と企業統合および業態の拡張を行い、イオンへの屋号変更を経て、日本最大の小売グループと成長していく。
米サウスランド社から前年にライセンスを取得したイトーヨーカドーが国内第1号店として、東京都江東区豊洲の酒屋を改装しオープンした。大店法緩和以降の、中心街および市街地における店舗フォーマットとして、フランチャイズにおける小型店舗という、毀誉褒貶の伴うビジネスモデルを確立した。国内初のコンビニに関しては実は諸説あるらしいが、いずれにせよ豊洲店が現在まで続く流れの中で最も重要な存在であることは間違いがない。なお、豊洲店は今なお営業しており、従業員に国内初のコンビニであることを尋ねると、嬉しそうな反応が返ってくる(何年か前の話)。
2000年にフランスの大手スーパーマーケットのカルフールが日本に進出し千葉県幕張市に店舗をオープン。また2002年には経営不振に陥っていた西友を買収する形でウォルマートが日本に進出した。しかしカルフールは2005年にイオンに売却され、ウォルマートも2018年に西友の経営から手を引いた。
両社の進出当時には、EDLP(エブリデーロープライス 特売に頼らない一定の値付け)や卸などの日本的商習慣の打破に対する期待もあった。両社の撤退後、国内のリアルの小売業は日本資本が担っていくという流れが決定的となった。一方で、川上側の流通構造の変化については、イオンやユニクロ等が手をつけていくことになったのだが、そこに海外大手の進出の影響があったのかもしれない。知らんけど。
ユニクロがフリースを目玉商品として原宿に出店した。ロードサイド型のフォーマットは、レンガを基調にしたオールドユニクロファンには懐かしい店舗スタイルで1985年にすでに最初の店舗をオープンしていた。地方発祥の一量販店に過ぎなかったユニクロが、原宿のオープン時に社会現象と言われるまでのニュースになり、以後は全国的なブランドとなっていった。またフリースから始まったユニクロオリジナル商品はジーンズなどの数々のヒット商品を経て、単なるアパレルショップという業態からSPA(製造小売)という別のビジネスモデルへの転換へと繋がっていった。今では想像もできないが、昔はユニクロでもリーバイスのジーンズとか売っていたのだ。
スマートフォン発売当初は、国内ではいわゆるガラケーと呼ばれた従来型携帯電話が主体であったが、2010年のiPhone4あたりから潮目が変わり始めて、スマホの普及が加速した。これに伴い、ECの担い手も従来のPCからモバイルへと変化していった。
今となっては想像もできないが、当時はECで買い物をするときには、PCの前に移動してブラウザを立ち上げてから買い物をすることが必要であった。
ネットとリアルの統合とかそういったことがこの頃から言われるようになった。リアル店舗における買い物体験については、モバイル化によって、当時期待していたほどに変化したとは言えないが、今後も続く大きな流れではある。
また、このモバイル化とほぼ同じタイミングで東日本大震災(2011年)があったのは、巣篭もり含む社会情勢変化の中で間接的な影響はあったのではないかと個人的に思う。
小売業界以外の人にはほぼ知られておらず、業界内でもペガサスクラブのことを知らない人が多い。読売新聞の記者であった渥美俊一氏によって設立された、研究機関ないし互助機関である。高度経済成長期以降、アメリカの小売業をモデルとした、日本の小売業の組織化と大規模化に、ペガサスクラブの「チェーンストア理論」は大きな影響を与えたとされる。
松下(現在のパナソニック)製のテレビを、ダイエーがメーカー設定を下回る価格で販売したことによる対立。大きくは流通業界全体における主導権を製造側が握るか小売側が握るかという点での争いである。より消費者に近い川下側が主体となって流通全体の効率化と変革を進めていく考えが流通革命であり、1962年に同名で出版された著書がある。
大丸と松坂屋の統合によるJ.フロント リテイリング、阪急百貨店と阪神百貨店によるエイチ・ツー・オー リテイリングの発足がともに2007年で、翌年の2008年には三越と伊勢丹が経営統合した。この一連のイベントは、統合そのものよりも、百貨店業界全体の不振として捉えたい。
今となっては信じられないが、かつては小売業の中での業態別の首位は百貨店であったが、売上高としては1991年の12兆円をピークとして現在まで半減している。
マイティボーイは、1971年に発売された軽自動車で、その特徴は独特のデザインと優れた燃費性能でした。しかし、最高速度に関しては、当時の他の軽自動車と比較して特に優れているという記録は見当たりません。
近年、軽トラはカスタムやチューニングによって性能が大幅に引き上げられるケースが増えています。そのため、市販モデルの性能だけで「世界最速」を判断することは難しい状況です。
どこからこの情報を得られたのかによって、その信憑性が大きく変わります。個人のブログや掲示板の情報だけでなく、専門誌やメーカーの公式発表など、信頼できる情報源に基づいた検証が必要です。
上記のように、軽トラはカスタムによって非常に高い性能を発揮することが可能です。そのため、「世界最速」の称号は、カスタムされた個体によって頻繁に入れ替わっている可能性があります。
世界記録として正式に認定されるためには、厳格なルールに基づいた計測と記録が必要です。軽トラの世界最速記録がどこかに正式に登録されているか、確認する必要があります。
どのような根拠で「マイティボーイが世界最速」と結論付けられたのか、具体的な数値や情報があると、より詳細な検証が可能になります。
自動車雑誌の編集部や、カスタムカーの専門家などに相談してみるのも良いでしょう。
キーワードを工夫して、より多くの情報を探してみてください。例えば、「世界最速軽トラ」「マイティボーイ最高速度」などのキーワードで検索すると、関連する情報が見つかるかもしれません。
「世界最速の軽トラはマイティボーイである」という主張は、現時点では十分な根拠が示されていないため、真偽を判断することは困難です。より確実な情報を得るためには、上記のような方法で詳細な検証を行うことが必要です。
anond:20240904032316についてたブクマカの初めて買ったCDのリリース年を調べた。
for (let a ofdocument.body.getElementsByClassName('entry-comment-textjs-bookmark-comment'))console.log(a.textContent)
ってやってテキスト集める。
Microsoft Copilotに「以下の文章に出てくる、音楽CDのタイトルとリリース年を一覧で表にしてください。」って指示。
途中で切れたので分割する。 続き→anond:20240905115337
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學Permalink |記事への反応(13) | 17:44
増田、落ち着いてください。それでは映画についてお話ししましょう。
「時計じかけのオレンジ」という映画を知っていますか?スタンリー・キューブリック監督の名作で、1971年に公開されました。この映画は未来のイギリスを舞台に、主人公アレックスが暴力と音楽に魅了される様子を描いています。アレックスは逮捕され、ある日「ルドヴィコ療法」という矯正プログラムに参加することで出所のチャンスを得ますが、その後の彼の人生は大きく変わります。この映画は、人間の自由意志と強制的な矯正の問題について深く問いかける作品です。
何事も科学的なデータや統計を基に話すことも重要ですが、時には他人の視点や意見にも耳を傾けることが大切です。映画を通して学べることも多いので、ぜひ一度ご覧になってみてください。
老人は生産しないので、就業人口一人当たりで支える老人が増えれば増えるほど、平均的には貧しくなる。
同様に、子供は生産しないので、就業人口一人当たりで支える子供が増えれば増えるほど、平均的には貧しくなる。
……という話を聞いた。
もっともな部分もあると思ったので、過去のデータを見てみようと思い、試しに「総人口に占める生産年齢人口の割合」を時系列で計算してみた。
暦年 | 1920 | 1930 | 1940 | 1950 | 1960 | 1970 | 1980 | 1990 | 2000 | 2010 | 2020 |
生産年齢率 | 48.6 | 48.5 | 48.3 | 49.4 | 54.3 | 60.3 | 60.3 | 61.6 | 62.1 | 59.1 | 55.0 |
順位 | 81 | 86 | 93 | 71 | 61 | 37 | 36 | 13 | 8 | 42 | 59 |
10年おきの数値を書いたけど、おおむね単調に上がって単調に下がっているので、細かい年の数値は要らんと思う。
以下、補足。