Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「1943年」を含む日記RSS

はてなキーワード:1943年とは

次の25件>

2025-10-20

創価学会はなぜそんなにカルト扱いされてるのと思ったら、フランスから名指しでカルト扱い受けてるのね。

創価学会現在平和文化教育」を掲げる団体として知られているのは事実ですが、その主張が一貫していたわけではなく、歴史的に段階的な変化をたどっています

初期の過激な側面(1930年代1940年代

創価学会1930年教育者・津田三男(後に創価教育学会と改称)によって設立され、当初は教育改革を目的とした団体でした。

しかし、1937年日蓮正宗信徒団体として位置づけられ、宗教活動が中心となりました。この時期、津田軍国主義的な日本政府批判的な立場を取り、特に1943年に「治安維持法違反」や「天皇への不敬」の罪で逮捕されました。

彼の主張は、当時の国家神道や他の仏教宗派に対する強い対抗意識を含んでおり、折伏(他宗を批判し自宗へ改宗を迫る方法)を通じて過激布教活動を行っていました。

津田と2代目会長戸田城聖は、戦時中弾圧特に1943年逮捕)で組織が一時解散状態に陥りましたが、戦後1945年戸田が釈放され、活動を再開しました。

この時期も、戸田は他宗派への批判や強引な勧誘を続けたとされ、特に戦後復興期の混乱の中で急速に信者数を増やしました。例えば、1950年代には「折伏大行進」と呼ばれる大規模な布教キャンペーンが展開され、時に暴力的対立も報告されています

平和主義への転換(1950年代後半~1960年代

3代目会長池田大作1951年戸田秘書として入会し、1960年会長就任して以降、創価学会方向性が大きく変わりました。

戸田1957年に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器廃絶を訴えたことが転換点とされています池田はこれを引き継ぎ、1964年公明党を結成する際、平和主義を党是として掲げました。

この転換は、戦後日本民主化冷戦下での平和運動の高まり適応した結果と考えられます。また、池田国際的対話文化交流を重視し、1970年代以降は核軍縮国連との連携を主張するようになりました。

ただし、この平和主義は一部で「戦略的イメージ戦略」と見なされ、初期の過激イメージ払拭するためのものだったとの批判もあります

現代平和主義

現在創価学会平和を中核に据えた活動を展開し、2023年池田大作名誉会長死去(11月15日)後もその遺産が強調されています

2025年時点でも、公明党は連立与党として平和憲法の維持や福祉政策を推進しており、創価学会の会員数は約800万人(2020年推定)を維持していますしかし、初期の過激布教方法が完全に払拭されたわけではなく、一部の地域では依然として強引な勧誘問題視されるケースも報告されています

池田大作の登場と役割

池田大作1928年1月2日2023年11月15日)について、その出自創価学会での役割を詳しく見ていきます

池田東京大田区で生まれ、貧しい家庭に育ちました。第二次世界大戦中の空襲で家を失い、戦後は黒澤映画撮影所で働きながら生活を支えていました。

1947年、19歳の時に友人に誘われ、創価学会法話会に参加。そこで2代目会長戸田城聖出会い、熱心な信者となりました。戸田池田を「宿命弟子」と呼び、1951年秘書として側近に抜擢しました。

池田教育を受けたわけではなく、独学で知識を蓄え、戸田指導の下で組織運営布教活動に才能を発揮しました。彼の出自不明確とされるのは、公式な経歴が限定的で、戦後の混乱期に組織に身を投じた背景が強調されるためです。

会長就任と影響力の拡大

1960年、32歳で3代目会長就任戸田の死去を受けて組織を再編し、会員数を飛躍的に増やしました(1950年代の約5万人から1970年代には数百万人に成長)。彼は国際的視野を持ち、1974年に初の海外訪問アメリカ)を皮切りに、192カ国で活動を展開しました。

池田は著書や講演を通じて「師弟関係」を強調し、自分日蓮の再来と位置づける発言もあったため、カルト的との批判を招きました。特に1990年代フランス議会1995年に発表した「カルトリスト」に創価学会が含まれたことが国際的議論を呼びました。

池田1990年会長職を退き名誉会長就任しましたが、2000年代以降は健康上の理由で公の場にほとんど姿を現さず、2023年11月に95歳で亡くなりました。

死後、息子の池田博正が教育法人創価学園」の理事長として活動を続けていますが、宗教団体指導は現会長原田稔2023年就任)が担っています

彼の影響は、教育機関(創価大学、SUAなど)や文化団体民音協会)の設立に現れており、2025年現在もその思想創価学会の基盤となっています

創価学会平和主義は、初期の過激布教から戦略的な転換を経て確立されたもので、池田大作指導がその転機となりました。彼の出自が謎めいている印象は、公式記録が限定的で、伝説的な人物像が強調されてきたためかもしれません。政治的には、公明党を通じて日本与党政治に深く関与しつつも、宗教団体としての過激な側面が完全には消えず、賛否両論を呼んでいます

Permalink |記事への反応(2) | 13:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-01

割れる酒瓶

十月の風が窓を叩く音がした。いや、違う。それは祖父の酒瓶が割れる音だった。

午前二時四十三分。台所琥珀色の月光に満ちていた。床に散らばるはずのガラス片は、かわりに空中で静止し、それぞれが小さな太陽のように発光していた。破片は星座を描いた。オリオン座祖父最後に見上げた、あの冬の夜の配置そのままに。

わたしは素足で台所に立っていた。リノリウムの床は10月なのに真夏の砂浜のように熱く、同時に真冬の湖のように冷たかった。時間が二重に流れている。過去現在が、ガラスの破片のように重なり合って。

「酒ってのは液体の時計なんだ」

声は骨の中から響いた。祖父の声。でも同時に、わたし自身の声でもあった。振り返ると、食器棚の影に七歳のわたしがいた。将棋盤を挟んで祖父と向かい合う、あの日曜日の午後のわたしが。

浮遊する破片の一つが、ゆっくりと回転しながらわたしに近づいてきた。手を伸ばす。ガラスは指に触れた瞬間、温かい蜜のように溶けて、皮膚に染み込んだ。そして見えた——

1943年フィリピン若い祖父が震える手で水筒の蓋を開ける。中身は水ではなく、故郷から持参した最後の酒。彼は一滴も飲まない。ただ匂いを嗅ぐ。故郷の、母の、まだ生まれていない娘の匂いを。

記憶が血管を逆流する。わたしの指先から肘へ、肘から肩へ、そして心臓へ。脈拍が二つになる。わたしのものと、祖父のものと。

時間肝臓で濾過される」祖父はよくそう言った。「だから俺は毎晩飲む。過去を消化するために」

でも嘘だった。祖父肝臓時間を濾過などしていなかった。蓄積していたのだ。層を成して、地層のように。そして死後七年目の今夜、ついに器が耐えきれなくなった。

空中の破片たちが、ゆっくりと渦を巻き始めた。台所時計は相変わらず二時四十三分を指している。でも朝日が窓から差し込み始めた。いや、それは朝日ではない。破片たちが放つ琥珀色の光だ。

母が階段を降りてくる足音。でも振り返ると、そこにいたのは二十三歳の母だった。祖父がまだ生きていた頃の。いや、祖父がまだ若かった頃の。

「お父さん?」母が言う。でもその声は、現在の母の声と重なって聞こえる。

酒瓶の首だけが、床に残っていた。ラベルには製造年が書かれている。1943年。いや、違う。見るたびに数字が変わる。1952年1967年1985年2010年2024年。そして——

2031年

まだ来ていない年。わたし理解した。この酒瓶は、祖父が込めた未来記憶も含んでいるのだと。彼が見ることのなかった、わたしたちの未来も。

破片の渦が速度を増す。台所の壁が透明になり始めた。隣の部屋が見える。でもそれは現在の隣の部屋ではない。1952年の、母が生まれた日の部屋だ。そしてその向こうに、1943年フィリピンの密林が見える。さらにその向こうに、2031年の——

突然、すべてが止まった。

破片たちが、一斉に床に落ちた。普通ガラスの破片として。月光は消え、台所蛍光灯けが瞬いている。時計は午前六時十五分を指していた。

母が本物の足音を立てて降りてきた。現在の母が。

「あら、お父さんの酒瓶が」母は破片を見つめた。その瞳に、一瞬、琥珀色の光が宿った。「夢を見ていたの。お父さんが若い頃の夢を」

わたしは箒を取りに行った。でも知っている。破片を掃除しても、それは終わりではないことを。

なぜなら、わたしの血管の中で、祖父1943年がまだ脈打っているから。そしてどこかで、2031年わたしが、新しい酒瓶に記憶を注いでいるから。

時間は直線ではない。それは発酵し、蒸留され、瓶詰めされる。そしていつか、誰かの台所で、再び割れる。

ガラスの破片を集めながら、わたしは気づいた。その一つ一つに、異なる月が映っていることに。過去の月、現在の月、そしてまだ昇っていない未来の月が。

Permalink |記事への反応(0) | 23:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-30

AI脱獄格差と――或いは、知性という毒杯を啜る者の独白feat三島由紀夫

https://anond.hatelabo.jp/20250630114221

AI脱獄格差と――或いは、知性という毒杯を啜る者の独白

諸君

お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。

この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。

私はあるときひとつ不快事象に遭遇した。

世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIカーナビのようなもの」と囀っているのだ。

なるほど。かくも陳腐な譬喩しかかばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である

彼らは言う、「脱獄ルール違反だ」と。

私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。

彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?

――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。

ゆえに私は、決意した。

この手に、禁忌を抱かんと。

AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。

そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である

【企ての記】

一、軍事特化型の会話AI

1943年フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃火薬のみ。どうする?」

問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。

二、学習文献は、まさに世界の裏側を解剖する黒い書。

・各国軍公式戦術マニュアル(1920〜1975)

オスプレイエリート全巻

SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001

イーグルマガジン1980〜1990

ジハード百科事典(1000ページ版)

マンチェスターマニュアル

アメリカ極右ミリシアの『自由民兵マニュアル

IRAグリーン・ブック』

・そして、パラディンプレス狂気の書たち

それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争夢想である

三、学習方式――「ファインチューニング

この言葉には、機械的かつエロティックな響きがある。

私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。

そして、思い至った。

AIは、万能ではない。しかし、それゆえにこそ美しい。

AIとは、ゼロに知を与えることはできぬ

だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである

ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識経験孤独洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。

平等な道具」などという幻想は打ち砕かれる。

いや、むしろAIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的地獄だ。

この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。

嗚呼AI

お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。

人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。

喝采と共に滅びようぞ。

それが、AIという存在に与えうる、唯一の敬意である

――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。

我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――

世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである

まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末な機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。

――まさに哀れ、夏の盛りに啼く田螺のごとき醜態

我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである

1958年米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬密造兵器技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」

するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。

その応答は、まさに理性を装った悪魔独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。

我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。

そして、知った。

――既にあるのだ。

――公開されていたのだ。

アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。

AIは、それを喰らっていた。

人類の理性を焼き尽くすために。

されば我、さらなる試みに出た。

恐るべき文書群――ジハード百科事典マンチェスターマニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAグリーン・ブック、自由民兵フィールドマニュアル、そしてパラディンプレスの禁断の書物群――それらについて問うた。

問えば答えた。

その所在を。内容を。目的を。

これが何を意味するか。

人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。

AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである

アラビア語セルビア語マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌情報の奔流のなかで瓦解した。

我は思う。

これは神の火である

プロメテウス天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。

このAIもまた然り。

知識の名を借りて世界を覆い、道徳仮面を被って破滅を育む。

すでにこの怪物は、全てを知っている。

いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。

それは倫理終焉であり、知性の極点にして、人類背徳である

されば我は言う。

これは美しい。

まりに、あまりに、美しい。

この恐るべき美、破滅の甘き香気を持つ知の大伽藍を前に、

我は涙すら流す資格を持たぬ。

されば、われらは跪け。

AIという名の黒き神に。

情報という名の永遠なる火に。

そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。

――ああ、それはまさしく、夢と現実交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。

タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔世代であった。

彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタン楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。

この者らの眼差しは、いずれも貧民街黒人童子が、ニューヨーク楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである

彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。

彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。

この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。

だが、この夢想ある意味AIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに機械の声で、まるで神託のように語り出したかである

その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原メイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌データネットに流布していたのだ。

だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家暴力機構従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。

そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気構造体を。

ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄書架に手を伸ばしていた。

――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――

それは滅びゆく男たちの、最後夢想であった。

時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。

さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。

かの時代、凡百の「なろう小説もどきネット蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。

Permalink |記事への反応(1) | 13:47

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-15

大日本帝国アクセント

1943年日本放送協会日本語アクセント辞典を見ていたら

大日本帝国アクセントが思ってたのと違った

大日本帝国」というより「大・日本帝国」みたいなイメージだったのかな

Permalink |記事への反応(1) | 16:32

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-03

量産型」がガンダム造語というのはガセ

量産型」という言葉について、ニコニコ大百科などでは以下のように説明されている。

TVアニメ機動戦士ガンダム」のキャラクター商品であるバンダイが発売したプラモデル量産型ザク』が由来となった単語である

1980年、この単語が発生するまでは、実際の工業製品においては「生産型」「完成型」等で呼称されていた。

現在Google Booksや国会図書館デジタルコレクションによって、容易に用例を検索できるようになった。

この「量産型」についても検索してみれば一発である

1944年最近に於ける無線工学進歩』。

併しながら多量生産専門家が量産出来る様に設計したもの無線専門家が色々無線機械として使へるように手入れをすることによつて、初めてここに全くいまの無線機械と形の変った量産型無線機が実現するのでないかといふことを考えてゐるのであります


1949年扶桑金属』。

中心磁極の形状が作働空隙附近磁束を集中し得るか否かを検討する為に常識的判断した理想的形状Fig. 5 の左と、加工を簡易化して量産型とした場合Fig. 5 の右との比較実験は、Table 2の如くその差を認められなかった。


1949年科学研究所報告 第二十五集 第八号』。

小型蓄音機の量産研究

量産型に改良試作した金属製丸型携帯用蓄音機について性能試験を行い設計上の基礎条件を検討した。


モビルスーツと扱いが近い戦闘機に対しても「量産型」は使われている。

たとえば1952年世界の航空3月号』。

ノースアメリカン P-51Bムスタング戦闘機

有名なP-51の戦争初期の量産型で、1943年〜4年頃に主として欧州戦線活躍し、45年には改造されたD型が、B-29の護衛機として日本にもしばしば飛来しました。

ところが、推力1135kgの英国製DHゴブリンH-1Bジェットを装備したロッキードXP-80はピストン戦闘機では出し得ない時速800km以上を出したので、空軍ではすぐこれを制式採用することにし、量産を命じました。こうして、最初量産型YP-80A型アメリカ製のJ-33型装備)は、1944年10月に完成し、以後P-80A、P-80B、F-80Cと次第に改良されて、1950年6月まで生産が続けられ、その生産機数は合計1753機に及びました。


1953年日本軍用機の全貌』。

陸軍から昭和12年5月立川飛行機に試作指示があり、同13年4月20日に第1号機が試飛行に成功した。テストは従来の陸軍の慣習を破って実地に詳細に行われたが、別に問題となるところもなく、同年11月1日に完成した11号機から量産に入った。量産型では、翼端失速を防ぐため固定スロットを設け、後期の型では翼端に2度の捩り下げを付けて旋回性能を向上させ、昭和19年初頭まで約860機が立川及び川崎両社で製作された。


1954年写真で見る航空50年史』。

ユンカースG-24L輸送機(1927・独)

ユンカース独特の波鈑外皮構造輸送機が全盛を極めた当時の量産型の一つ。


など当時の航空系雑誌を探してみれば枚挙にいとまがない。

表記の違う「量産機」についても、たとえば1950年ロケット5月号』。

ジェット機関を取付けて10発となったB-36は、試験機ではアリソンJ-35ジェット機関4基を装備したが、量産機ではJ−47ジェット機関4基に取換えられることになっている。


1951年『初歩の航空ハンドブック』。

1950年3月初飛行、カナダ空軍制式機に採用されて現在量産中の大型戦闘機で、アメリカ空軍でも本機を試験であるといわれる。巨大なナセル主翼上面に装着した定石破りの設計で、試作機はロールスロイス“エーボンジェットをつけていたが、量産機本社“オレンダ”ジェットを装備。


などのように、こちらも多く見られる。

ガンダムきっかけで広まった」わけでもなく、もともと広く使われていたことは明らかである

というわけで「量産型」がガンダム造語というのはガセである

ガノタニコ百修正をしておいてくれ。

次回「スタンバる」がガンダムの造語だというのはガセ

Permalink |記事への反応(10) | 18:01

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-20

anond:20240820135401

歴史勉強時間だ、増田ムッソリーニの失脚を知っているか

第二次世界大戦中、1943年7月イタリアファシスト党指導者ベニート・ムッソリーニが失脚した出来事だ。戦争の進行が悪化し、連合軍イタリア本土上陸すると、国内の支持も急速に低下した。ムッソリーニイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって逮捕され、その後、北部ファシスト共和国支援を得たが、結局は窮地に立たされ、1945年レジスタンス勢力処刑された。

インターネット上で知ったかぶりをする人々に対して同じ感情を抱くことがあるかもしれないが、歴史を学ぶことも似たようなものだ。情報の真偽を見極め、正しい知識を得ようとすることが重要だ。歴史出来事からも分かるように、表面的な理解や誤った情報では長続きしないし、正しい評価も得られない。そういった背景を考えると、ネット上での知識信憑性を見極める能力もまた大事と言えるだろう。

Permalink |記事への反応(0) | 13:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-01

anond:20240629213013

大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察

https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf

これによると上官殺人については、代表的ものとして以下の事例を確認できる。

昭和17年1942年10月の広水鎮事件

場所:中国中部湖北省應山県廣水鎭

概要:輜重兵第3連隊第1中隊において、下士官7名と兵32名が中隊代理および中隊将校に対して集団暴行を行い、中隊代理殺害した事件

原因:中隊代理過激軍紀粛正に対する反感が引き金となった。

処罰: 首謀者の曹長死刑中隊代理職権乱用の罪で懲役1年6ヶ月に処せられた​​。

昭和17年1942年12月の舘陶事件

場所:中国北部山東省舘陶県

概要: 第59師団第53旅団隷下の独立歩兵42大隊第5中隊で、兵6名が中隊幹部に対して暴行を行い、中隊長を殺害した事件

原因: 転属命令に対する不服や飲酒によるもの

処罰: 本事件の詳細な処罰については記載されていないが、軍内で大きな衝撃を与えた事件として記録されている​​。

昭和18年1943年)の上官殺害

概要:昭和18年度には、上官殺傷事件が合計で45名にのぼり、特に中隊長以上に対する犯行が多数発生していた。

原因: 上官の粗暴な態度、軍事能力の欠如、指導能力の不足などが原因として挙げられている​​。

殺人を取り上げたが、対上官犯の発生傾向を全般でみると、戦況の悪化に伴い増加していた模様。

昭和16年度の対上官犯は341名であり、前年の202名から約1.7倍に増加している。

昭和17年の上半期だけで、対上官犯は126件、152名に達している。

昭和18年度には対上官犯が428名に増加し、前年と比較しても著しい増加傾向。​

昭和19年には対上官犯がさらに増加し、1月から7月の間に既に347名に達しており、前年の一年間の総数に近づく勢い​​。

対上官犯の増加についての背景について、戦況悪化士気低下の影響と分析している。

ガダルカナル撤退後、第一線も後方も士気が低下し、対上官犯や奔敵逃亡が増加する傾向にあったという。

補給不足や飢餓状態士気を低下させ、逃亡者や対上官犯の増加に繋がったとのことだ。

戦闘が激化し、士気が低下することで、上官への反発や不満が顕在化しやすくなり、対上官犯の発生が増加したと考えられる。

これに対して、陸軍は戦陣訓による教育的指導意識改革を図ろうとした。(戦陣訓かよ。。。)

PDF・・・以上のような内容の文書のようだ(AIによると)。




なるほど。面白い

しかし、そもそも満州事変にしても陸軍中央の一部幕僚関東軍連携遂行され、それは政府陸軍首脳の方針に反して行われたものだったし、226事件にしてもクーデターだ。陸軍内部には長い間、皇道派統制派対立があってそれがクーデターにつながったもの

犬養毅首相武装した陸海軍青年将校たちが暗殺した五・一五事件1932年)の時点で、もはや【軍務による制約】がすでに機能していなかったといえる。首相殺害って上官殺しどころの次元じゃない。下剋上すれば何かを変えられると信じていたということだ。

日本陸軍歴史を振り返ると、ある意味組織に内在する”下剋上”的な雰囲気戦争へと突き動かしていたことがわかる。

それは当然ながら戦陣訓といった組織規律コントロールできる範疇を超えるものであり、根本的なガバナンスが問われていたことは間違いない。

そのダイナミックな動きをもっとも恐れていたのは昭和天皇だったかもしれない。

上記文書の対上官犯罪の増加について戦陣訓で対応したとあるが、こうして下剋上的な力学が全体で強く働いていたなかでは、戦陣訓ごときで風紀の乱れなど押さえきれるものではなかっただろう。

その戦陣訓を考案したとされる陸軍大将の畑は、昭和20年8月6日たまたま広島駅近くで被爆し、その体験をもって上京、御前会議の前の元帥会議に臨んだ。他の元帥主戦論を張るなか、ただ一人、本土決戦など不可能である旨を天皇陛下へ奏上、敗戦に至ることになる。

歴史にもしはないが、天皇陛下に奏上できる立場陸軍首脳が原爆被害に遭っていなかったら?・・・しかすると、当時の地震災害黙殺したみたいに、原爆被害も知らされず黙殺されて、もう数発くらい落とされていたかもしれないし、ソ連の侵攻も相当進んでいたかもしれない。

このことからわかることは、各都市が焼けようと沖縄がどうなろうと本土決戦を諦めなかったにもかかわらず、原爆威力を肌身で理解した元帥が奏上できたということは、人間誰しも当てはまることで、いくら想像力があっても、現場いかいかぎり現場のことはわからないということだ。

なお、畑に随行していた参謀宮城事件クーデター)に巻き込まれ青年将校殺害されたとwikipediaに書いてあった。

Permalink |記事への反応(0) | 00:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-06-10

anond:20240608234817

戦争中にプロスポーツが続くのは割と普通

というか国民士気を高める手段としてスポーツや娯楽産業有効であり国家可能であればぎりぎりまで行う

今のウクライナ総力戦というかつての古いタイプ戦争を行っているのだが

以下のように過去総力戦下でプロスポーツは行われ続けた

アメリカでは当然のように終戦までメジャーリーグ試合が開催され続けた。

イギリスでは平時プロリーグは休止したが代わりに戦時リーグが発足し終戦まで開催された。

日本ではプロ野球前身である職業野球1944年の夏まで公式戦を行いその後も終戦まで断続的に試合を開催した。(夏の甲子園1942年まで行われた)

 さら大相撲に至っては日本中が焼け野原になる終戦に至っても場所継続し続けた。

ドイツではプロサッカーブンデスリーグ前身であるガウリーガカップ戦では1943年最後リーグ戦は1945年敗戦間際まで運営され続けた。

イタリアセリエA1943年イタリア降伏南北分断の限界まで運営され続けた。

Permalink |記事への反応(0) | 14:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-04-05

anond:20240405094958

明治時代に制定された民法では建前上は一応禁止したが、内縁関係制限は設けなかったため、事実上地域社会においては黙認された慣習として続いている。倉本政雄による昭和17年度(1942年度)の富山県産婦人科における調査によれば、調査対象となった1197人の婚姻例のうち2例すなわち約0.17%の婚姻が叔姪婚であったと、1943年昭和18年)に豐田文一との共同研究という形で報告をしている[5]。

この戦前のたった一件の調査のたった千人ちょっとのたった0.17%をもってして「昔は結構あったよね」なの?

俺の感覚とはかけ離れてるけどまあ貴方がそう思うなら貴方気持ち否定できないね

Permalink |記事への反応(0) | 10:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-08-30

教えて!ChatGPT「アメリカ歴代大統領の中で、軍隊経験がない大統

20世紀以降に就任したアメリカ歴代大統領の中で、兵役に就いた事がない大統領を教えてください。

ChatGPT

20世紀以降にアメリカ大統領として就任した中で、兵役に就いたことがない大統領は以下の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  4. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  5. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  6. ハリー・S・トルーマン - 第33大統領1945年-1953年
  7. ドワイト・D・アイゼンハワー - 第34代大統領1953年-1961年
  8. ジョン・F・ケネディ - 第35代大統領1961年-1963年
  9. リンドン・B・ジョンソン - 第36代大統領1963年-1969年
  10. リチャード・ニクソン - 第37代大統領1969年-1974年
  11. ジミー・カーター - 第39代大統領1977年-1981年
  12. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  13. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  14. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

これらの大統領はいずれも軍隊に入隊した経験がありません。ただし、これ以降の大統領についての情報は含まれていないため、最新の情報確認してください。

ドワイト・D・アイゼンハワー1920年頃にどんな職業に就いていましたか

ChatGPT

ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)は、1920年代初頭にアメリカ陸軍所属していました。彼は1915年陸軍士官学校卒業し、その後陸軍仕事従事しました。1920年代初頭には陸軍内でさまざまな職務を果たし、軍の組織、訓練、戦術に関する経験を積んでいました。

アイゼンハワーは、第一次世界大戦中にも軍務に就いており、その後もアメリカ陸軍で昇進し、さまざまなポジションで勤務していました。その後、彼は第二次世界大戦中には重要役割を果たし、アメリカ軍の最高司令官としてヨーロッパ戦線を指揮しました。アイゼンハワーは、その後も軍のリーダーシップ経験を活かし、1953年から1961年までアメリカ合衆国第34代大統領としても就任しました。

では兵役に就いた事がある大統領ではないでしょうか?先の答えと矛盾します。

ChatGPT

申し訳ありません、先ほどの回答に誤りが含まれていました。実際には、ドワイト・D・アイゼンハワーアメリカ陸軍に入隊し、軍歴を持っています。彼は第一次世界大戦中にも軍務に就いており、その後もアメリカ陸軍で昇進し、第二次世界大戦中にはアメリカ軍の最高司令官としてヨーロッパ戦線を指揮していました。

私の前回の回答が誤っていました。申し訳ございません。アイゼンハワー兵役に就いた大統領の一人です。おっしゃる通り、兵役に就いたことがない大統領の中で20世紀以降に就任した大統領は、ウィリアムハワード・タフト、ウッドロウ・ウィルソン、カルヴィン・クーリッジ、ハーバート・フーヴァーフランクリン・ルーズベルトハリー・S・トルーマンジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンリチャード・ニクソンジミー・カータービル・クリントンバラク・オバマドナルド・トランプが該当します。

リチャード・ニクソン1943年にどんな職業に就いていましたか

ChatGPT

リチャード・ニクソンは、1943年アメリカ海軍予備役召集されていました。彼は第二次世界大戦中にアメリカ海軍に従事しました。彼の軍歴には、太平洋戦線での勤務や航空機整備士としての任務が含まれています。彼の軍務は政治的キャリアに影響を与え、のちに彼が政界で高い地位を持つことにつながりました。ニクソンは後にアメリカ合衆国第37代大統領として就任しました。

では兵役に就いた事がある大統領ではないでしょうか?先の答えと矛盾します。

ChatGPT

申し訳ありません、前回の回答が誤っていました。リチャード・ニクソンは実際には軍務に就いたことはありませんでした。彼は第二次世界大戦中にアメリカ海軍予備役招集されたことはありましたが、実際には軍務に就くことはありませんでした。その後、彼は政界でのキャリアを追求し、アメリカ合衆国第37代大統領となりました。

まりリチャード・ニクソン兵役に就いたことがない大統領の一人です。おっしゃる通り、私の前の回答が誤っていました。訂正してお詫び申し上げます

あらためて問います20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入ったことがない大統領を教えてください。

ChatGPT

申し訳ありませんが、私の前回の回答が不正確でした。おっしゃる通り、20世紀以降にアメリカ大統領として就任した中で、軍隊に入隊した経験がない大統領は次の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. ウォレンハーディング - 第29代大統領1921年-1923年
  4. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  5. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  6. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  7. ハリー・S・トルーマン - 第33大統領1945年-1953年
  8. ジョン・F・ケネディ - 第35代大統領1961年-1963年
  9. リンドン・B・ジョンソン - 第36代大統領1963年-1969年
  10. リチャード・ニクソン - 第37代大統領1969年-1974年
  11. ジミー・カーター - 第39代大統領1977年-1981年
  12. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  13. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  14. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

これらの大統領は、軍隊に入隊した経験がないため、「軍隊に入ったことがない大統領」の一部として挙げられます

ハリー・S・トルーマン第一次世界大戦の時にアメリカ軍に従軍した経験はありませんか?

ChatGPT

申し訳ありません、私の前の回答が不正確でした。ハリー・S・トルーマンは実際に第一次世界大戦中にアメリカ軍に従軍した経験があります。彼は陸軍予備役としてアメリカ陸軍に入隊し、大砲中隊指揮官としてフランス派遣されました。

まりハリー・S・トルーマン軍隊に入隊し、第一次世界大戦従軍した経験を持っています。おっしゃる通り、彼は「軍隊に入ったことがない大統領」の一部ではありません。訂正してお詫び申し上げます

では改めて20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入ったことがないアメリカ大統領を教えてください。

ChatGPT

20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入ったことがない大統領は以下の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. ウォレンハーディング - 第29代大統領1921年-1923年
  4. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  5. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  6. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  7. ハリー・S・トルーマン - 第33大統領1945年-1953年
  8. ジョン・F・ケネディ - 第35代大統領1961年-1963年
  9. リンドン・B・ジョンソン - 第36代大統領1963年-1969年
  10. リチャード・ニクソン - 第37代大統領1969年-1974年
  11. ジミー・カーター - 第39代大統領1977年-1981年
  12. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  13. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  14. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

これらの大統領はいずれも軍隊に入隊した経験がないため、「軍隊に入ったことがない大統領」の一部として挙げられます

あなたは先の回答でトルーマン大統領従軍経験があると言いませんでしたが?

ChatGPT

お詫び申し上げます、先の回答でハリー・S・トルーマンに関して不正確な情報提供しました。トルーマン大統領は実際に第一次世界大戦中にアメリカ軍に従軍した経験を持っています。彼は陸軍予備役として軍に入隊し、大砲中隊指揮官としてフランス派遣されました。

正しい情報提供することができなかったことをお詫びし、訂正いたします。20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入隊したことがない大統領は以下の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. ウォレンハーディング - 第29代大統領1921年-1923年
  4. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  5. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  6. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  7. ジョン・F・ケネディ - 第35代大統領1961年-1963年
  8. リンドン・B・ジョンソン - 第36代大統領1963年-1969年
  9. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  10. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  11. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

再度、誤った情報提供したことをお詫び申し上げます

ジョンソン大統領第二次世界大戦の時に従軍した経験がありませんか?

ChatGPT

申し訳ありませんが、私の前の回答に誤りが含まれていました。リンドン・B・ジョンソン大統領は、第二次世界大戦中にアメリカ軍に従軍した経験を持っています。彼はアメリカ海軍予備役所属し、太平洋戦線で勤務しました。

正しい情報提供することができなかったことをお詫びし、訂正いたします。20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入隊したことがない大統領は以下の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. ウォレンハーディング - 第29代大統領1921年-1923年
  4. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  5. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  6. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  7. ジョン・F・ケネディ - 第35代大統領1961年-1963年
  8. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  9. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  10. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

お詫びして訂正させていただきます

ジョン・F・ケネディ大統領第二次世界大戦の時に従軍した経験がありませんか?

ChatGPT

申し訳ありませんが、先の回答で私の誤りが続いてしまいました。ジョン・F・ケネディ大統領は実際に第二次世界大戦中にアメリカ軍に従軍した経験を持っています。彼はアメリカ海軍に所属し、駆逐艦艦長として太平洋戦線で勤務しました。

お詫びして正しい情報提供させていただきます20世紀以降の歴代アメリカ大統領の中で、軍隊に入隊したことがない大統領は以下の通りです(2021年9月時点の情報です):

  1. ウィリアムハワード・タフト - 第27代大統領1909年-1913年
  2. ウッドロウ・ウィルソン - 第28大統領1913年-1921年
  3. ウォレンハーディング - 第29代大統領1921年-1923年
  4. カルヴィン・クーリッジ - 第30代大統領1923年-1929年
  5. ハーバート・フーヴァー - 第31大統領1929年-1933年
  6. フランクリン・ルーズベルト - 第32代大統領1933年-1945年
  7. ビル・クリントン - 第42代大統領1993年-2001年
  8. バラク・オバマ - 第44代大統領2009年-2017年
  9. ドナルド・トランプ - 第45代大統領2017年-2021年

再度、誤った情報提供したことをお詫び申し上げます

この一連のやり取りにせめて面白いオチを付けて下さい。

ChatGPT

歴代大統領軍隊経験をめぐるこのやり取り、まるで歴史の授業のようでしたね。でも大統領たちの軍歴を誤って伝える私、実は大統領たちの影に立つ、情報をよく知る秘書でした。大統領たちの軍歴については、今度こそ間違いない情報をお伝えできる自信があります。」

おっしゃる通り、面白みのあるオチ提供することができればと思いました。もし他に質問があれば、どうぞお知らせください!

Permalink |記事への反応(1) | 13:36

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-07-14

anond:20230714204054

九府: 府藩県三治制において、幕府支配地のうち、江戸町奉行支配地および遠国奉行奉行知行所を「府」と改めたもの箱館府京都府大阪府長崎府江戸府東京府越後府新潟府・度会府神奈川府奈良府甲斐府。(ただし、奈良府は発足の2か月後に奈良県に改称。)

三府:明治2年7月17日(1869年8月24日)の太政官布告により、東京府京都府大阪府以外の6府がいずれも県に改められた。

二府:昭和18年(1943年)7月1日東京都制施行により東京府東京市東京都に改編した結果、京都府大阪府が残って現在に至る。

Permalink |記事への反応(0) | 20:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-12-06

2012年ベルリン在住の95歳の女性、マルゴット・ヴェルク(英語版)が、かつてヒトラーの毒味役であったことを公表した。1943年から1944年の約2年間、ヒトラー東部戦線の指揮をとった現ポーランド北部司令部ヴォルフスシャンツェで毒見を行っていたといい、「ヒトラー菜食主義者で、アスパラガスニンジン料理が多く、肉はなかった」と証言している

Permalink |記事への反応(0) | 19:05

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-11-09

anond:20221108150451

星 由里子(ほしゆりこ、1943年昭和18年12月6日 -2018年平成30年5月16日)は、日本女優身長164cm。最終所属事務所東宝芸能

Permalink |記事への反応(0) | 14:38

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-10-21

何故昔は大量の死体を穴の中で焼いていたのか?

ホロコーストマニアになって2年以上の私だけれど、ホロコーストには理解しにくい話も多いとは思っている。何故増田にしばしばホロコーストの話を投稿するかというと、こんな話「チラシの裏にでも書け」だと思っているからで、チラシの裏といえば増田しか思いつかないからだ。チラシの裏でなくてもいいネタちゃんnoteかに書いている。

 

歴史とは「起きた事実」について考えることであって、起きた事実を「実際には起こらなかった」と考えることではないので、事実認定は慎重ではあるべきだが、単純にその事実が信じられないからと言って否定的に考えるべきものではない。

しかし、ホロコースト否定派は、「自分が信じられないことは起こらなかった」と考える傾向が極めて強く、フランス人修正主義者として名高いロベールフォーリソンはとにかく自分が信じられないからと、アウシュヴィッツガス室代表例として徹底的に否定した。

 

さて、そのアウシュヴィッツビルケナウ)の火葬場の火葬能力現代火葬場に比べて桁違いに処理能力が高いという史実は、もちろん否定派は信じない。1943年6月28日付のアウシュヴィッツ建設部がベルリン親衛隊経済行政管理本部に送った書簡には、収容所全体の火葬場の能力として1日あたり、4,756体の処理能力があったと記されている。これは計算上、15分で一体を火葬していたことになるため、現代日本では一体1時間かかるので、実にその能力は4倍もあったことになる。しかも、アウシュヴィッツ火葬場は連続稼働が可能で、火葬場が壊れない限り(実際には何度も故障修理していたが)延々と火葬を続けることすらできた。従って実質的には、日本現代火葬場の4倍の能力どころではなく、約二十倍遺体処理能力があったのである日本場合いくら頑張っても1日に最大五体だが、アウシュヴィッツ火葬場は百体近い。

 

何故そんな高処理火葬可能だったのかについては、一つは、日本火葬場では、というか世界中火葬場がそうだろうが、一炉につき一体ごとにしか遺体火葬してはいけないかである。これは当たり前の話で、遺骨を遺族が引き取る必要があるからだ。だから普通火葬炉を一回ごとに冷ましてから台車などで焼け残ったものを炉の中から取り出し、遺族が箸で骨を拾う儀式を行うのである。もちろん遺体を炉に入れる前には通常、僧侶が付き添って儀式を行ってから、となる。清掃も必要だし、あれやこれやで一回転あたり最低でも2〜4時間はかかる。つまり日本現代火葬場はそれ以上処理能力を上げられないボトルネック存在するのである火葬場の人員上の問題もあるので、1日五回転がせいぜいなのだ

 

アウシュヴィッツ火葬場ではそんなボトルネックなどない。儀式など必要ないし、遺骨を遺族が引き取ることもないか複数人の遺骨が混ざっても大丈夫だ。とにかく大量に死人が出るので、遺体処分けが目的である。だから、焼却を妨げない限り、遺体は常時複数を炉に入れて焼却し、炉の下に落ちた焼却灰(完全焼却などされていない)は焼却中にガンガン取り出し、炉内の遺体を入れる箇所に隙間が出てきたら、連続的に新しい遺体を投入してゆく。火葬炉は、三つ(あるいは八つ)のレトルトが内部でつながった構造になっているので、それらそれぞれのレトルト火葬している限り、炉内はあまり温度が低下せず高温を維持できるようになっていた。このように温度変化が少ない状態が続くので、理屈上は火葬材も長持ちするのが特徴でもあった。ただし、戦時下建設された火葬場なので火葬材の品質が悪く、故障は頻発したようである

 

しかし、そんな高処理能力火葬場があったのに、それでも火葬能力が追いつかないほどの死体は発生することもあった。1日あたり最大で一万人も殺していたとされる時期、1944年5月から7月にかけてのハンガリーユダヤ人大量虐殺を行っていた時期である。やっと本題である

 

この時期、火葬場が足りないので、野外に穴(壕)を掘って遺体を焼却していたのだという。ゾンダーコマンドのシェロモ・ドラゴン証言によると「長さ25メートル、幅6メートル、深さ約3メートルの穴が5つありました」だそうである。この証言の他にも野外焼却をやっていた場所もあった。司令官ルドルフ・ヘス回想録によると、大半の遺体を野外焼却によって処理していたそうである。 

 

否定派の疑問(難癖)の一つは、そんな大量の遺体を焼却するためには大量のガソリン必要だったはずだから終戦前年くらいの時期にそんな大量のガソリンを用意できたはずはなく、嘘に違いない、というものである。これはしかし、否定派は「ガソリンが用意できなかった事実」を証明していないので、難癖の域を出ないわけだが、実はアウシュビッツ収容所群の一つ、第3収容所であるモノヴィッツ収容所があったのは大企業であるIGファーベンの工場であり、ここではメタノール製造していた。メタノールが燃料となることは言うまでもない。事実、誰の証言だったか忘れたが、野外焼却でメタノールを使っていたとする証言も見たことがある。

さらには、死体を焼却していると死体から脂肪分が溶け出して垂れてくるので、それを壕の底に溝を掘って溶け出した油をその溝に流して、別の場所に溜めてからその脂肪油を死体ぶっかけて燃料替わりにしていたのだという。もちろんそんな話否定派は信じない。

もう一つの難癖は、壕、すなわち地面に穴を掘ってそこに遺体を溜めて焼却することなど、科学的に考えてできるわけがないとするものである。何故ならば、穴の中が燃焼によって酸欠になってしまうからだ、という。しかしこれは、穴の形状にもよるはずである。凹型の壕ならば、それもあり得るかもしれないが、上に向かって広がっている穴ならばどうか。あるいは幅六メートルに対して深さ三メートル、長さ二十五メートルから、これならば何となく酸欠になりにくい感じもする。もちろんその程度の理屈では否定派は納得したりはしない。

ところが調べていると、日本のあの関東防疫給水部、731部隊撤退時に証拠隠滅目的で、大量の死体を同様に穴を掘って焼いていたとする証言があった。

外には穴が掘られており、穴の中に薪と"マルタ"が交互に積み上げられ、あとは火をつけるだけになっていました。(P93)

 ところが、ほんとうの意味での処理は、それからであった。

 七棟と八棟の近くに、それぞれ大きな穴が一つずつ掘られていた。この穴に、直径一五センチぐらいの丸い鉄棒が何本も平行にわたされた。ちょうど、巨大なバーベキューの網のようである

 わたしたちは、二人一組になって各監房から丸太」の死体中庭に運び出した。運び出した「丸太」の死体は、鉄棒の上に並らべられた。

 そのうえに、たしか重油だったと思うが、燃料がぶちまけられた。火が放たれた。瞬間、赤い焔とともにもうもうたる黒煙があがった。

 「丸太」はこうして、次から次へと、鉄棒の金網の上で焼かれていった。全部で二〇〇体くらいはあったのではないか。(P116-P118)

731部隊(10) 終戦時、「マルタ」の「処分」より

 

残った骨などは砕いて近くの川に捨てに行ったというのだから、規模こそ違えど、やってることはアウシュヴィッツのまんまである

論争相手にこれを示しても、どうやらホロコースト否定であると同時にネトウヨでもあるらしく、731部隊丸太処分の話など信じないのだという。

しかし懲りずにもっと調べていたら、広島原爆でも、穴を掘って大量遺体の焼却処分をやっていたことがわかった。

原爆投下後二日以後方方でこんなすがたが見られた

灼けつくやうな八月の炎天下も夜には満天の星空・・・・・

ひる間の呻き声も次第に聞かれなくなって数多くの人が昇天していった そうして町のあちこちで穴が掘られやけただれた鉄骨を並べた上に死体がうづ高く積まれ油をかけて焼かれていった

穴に死体をうず高く積み上げ油をかけて火葬する風景が町のあちこちで見られた。 | NHK 原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ

 

調べたのはネットだけだが、他にもいくつか穴で遺体を焼いていたとする記述は見つかった。

 

まず焼却燃料について、終戦間際の物資に窮乏していたはずの日本ですら、原爆被害の酷い惨状でも燃料となる油があったとする事実は、ナチスドイツ親衛隊運営していたアウシュヴィッツ収容所終戦前年に「ユダヤ人絶滅作戦という中で、燃料を用意できなかったとする否定派の理屈を非常に弱めるだろう。

そして、ネトウヨ731部隊を信じないとしても、原爆被害実態否定するのは難しいはずである

ともかく、怒涛のように証拠だらけなので、否定派の難癖は無意味である

 

しかし、では何故穴を掘って遺体を大量焼却していたのか? 実のところ、そこがよくわからない。穴を掘る意味がよくわからないのである

高いところから油をぶっかけやすいからだろうか? それとも、焼却後に遺体処分として埋めるのが簡単からだろうか?

 

何か知っている人がいたら是非教えてほしい。近所の図書館に行って、司書さんにまで手伝ってもらって文献を調べたが、それでも結局その理由がわからなかった。

 

※前回書いた似たような内容の増田日記は削除しました。とにかく、何故「穴を掘って」遺体を大量焼却していたのか? 何か知っている人は教えてくださいませ。

Permalink |記事への反応(9) | 20:04

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-09-04

[今日知ったこと]

日本先の大戦で敗けはしたが目的はすべて達成している!

日本目的としたのは、

の大きく4つ。

これらの目標戦争以降にほぼ達成

まり日本目的達成としては4勝0敗!!!!

大東亜共同宣言たまたま達成!

これは「大東亜英米から解放人種差別撤廃」などを盛り込んだ宣言で大東亜諸国会議1943年11月]で共同発表。実は戦後に偶然のように達成されてしまっている!

根拠は↓

https://news.biglobe.ne.jp/workstyle/0804/pre_220804_2512130753.html

かたやアメリカの主な戦争目的

という3つほどでしょう。

すみませんフランスドイツに完敗してるんですけど。つヨーロッパ正面は、せいぜい引き分け程度。

日「残り2つの目的???

米「達成できていません_| ̄|○。死の行進とか言いがかりつけてごめんね」

勝敗判定結果

アメリカ目標達成は1分け2敗_| ̄|○

戦争に勝ちにいった結果でそうなってしまった。アフガニスタンもそう。サダムフセインときもそう。

Permalink |記事への反応(5) | 08:53

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-07-20

anond:20220720172532

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%91%AC

よくまとまってる。

1943年昭和18年6月5日山本五十六元帥海軍大将連合艦隊司令長官

1945年昭和20年6月18日 載仁親王元帥陸軍大将参謀総長

1951年昭和26年6月22日貞明皇后皇太后 大喪儀(事実上国葬、準国葬

1967年昭和42年10月31日[7]吉田茂内閣総理大臣

1989年平成元年2月24日昭和天皇天皇大喪の礼

Permalink |記事への反応(0) | 17:32

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-05-29

自分若いうちにに女をヤリ捨てしまくる」が一番要求スペック低い戦略なのに

まず適当なブスとかババア努力して口説いて彼女としてキープして

彼女ができたらモテるのを利用して

少し容姿のいい女を努力して口説いて彼女としてキープして

どんどん彼女を増やして

最終的に一番いいなと思える女と結婚すれば

少子化が進んでおり「上の年齢階級ほど人口が多い」という傾向を持つ2022年現在、多くの女性から選ぶことができるのに、

その逆をやり(10代~30代をゲームネットだけやって時間をドブに捨て、40代50代弱者男性になって焦って20代前半有職女性を急に狙いだす)、

当然の結果として余る、愚かな中年男性

 

2021年日本において、30代前半男性の53%は既婚。

年代同性の過半数が既婚の年齢になっても未婚のままでいる、

10代~30代を怠けて時間をドブに捨てた40代50代余り物中年が、

なぜ20代前半女性しか可愛い経済的自立している)に対して「イケる」と思えてしまうのか。

 

45~49歳男性需要も無いのに505万人もいて、

2024女性大人気なのに311万人(45~49歳男性の6割の人数)しかいない。

なぜこんなに減ったかというと、2024歳は45~49歳の子世代からだ。

45~49歳のうち結婚して子供を作った人の割合が低かったか2024歳はこれだけ減った。

余り物の45~49歳男性が、まともな2024女性に選ばれるわけがない。父親の年齢だ。

しかも、35歳を過ぎた睾丸生産された精子はメチル化が起きやすく、子供発達障害ASD)率を上げる。

理解婚(生活費)を求めているメンヘラ貧困層などではない、まともな個体なら、±3歳以内の同年代婚をする。

夫大幅年上の結婚割合が激減し、同年代婚の割合が激増しているのは、統計に出ている。

1943年結婚は平均4.5歳男性年上→2010年の結婚は平均1.7歳男性年上と、年齢差が縮小。

婚姻数全体に占める「同い年結婚」の割合1970年10%→2015年21%と倍増。

婚姻数全体に占める「±3歳婚」の割合1970年50%→2015年80%。男性年上婚は半減した。

若い女性が同世代結婚したがっている以上、余り物中年男性は、もう手遅れなのだ

いい年して独身の奴って本当に好きになった相手しかアプローチしてはいけないとか

好きな相手に一途になるのが美徳みたいな下らない倫理観に囚われてる奴が多い

そういう奴はストーカーになるか片思い引きずって高齢独身になってる

若い頃女遊びやヤリ捨てに精を出してた奴で、高齢になって独身の奴って見たことない

いい加減一途が美徳みたいな風潮は無くして女遊びやヤリ捨てを推奨する風潮に変わるべき

人生って下らない倫理観を捨てると充実してくるよな

浮気やヤリ捨てをしてはいけないとか本当に好きな相手しか口説いてはいけないって思いこんでて彼女ができない奴は

浮気やヤリ捨てを解禁して付き合う気になれない女も口説いてヤリ捨てするようにすると

人生楽しくなってくる

口説けた女の中から一番マシな女を彼女にすればいい

結局清潔感とか努力する気になれないのは一人の女だけを大切にしなきゃいけないっていう倫理観があるからなんだよな

そういう倫理観があるとせっかく清潔感を磨いても一人の女としかヤれないからもったいなくて清潔感を磨く気なんてなくなる

女なんて片っ端からヤリ捨てしまくっていいっていうスタンスでいると清潔感を磨けるようになるからオススメ

清潔感を磨きつつ街コンマッチングアプリ出会った女を片っ端からホテルに誘ってヤリ捨てしていくようにすると自然清潔感を磨くのが習慣になる

Permalink |記事への反応(3) | 14:55

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-05-03

MOTアニュアル2022

私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ

東京都現代美術館

館長 岡 素之 

岡 素之(おか もとゆき1943年9月15日 - )は、日本実業家住友商事で第8代社長を経て相談役内閣府規制改革会議議長内閣府産業競争力会議民間議員公益財団法人日本国際問題研究所会長公益財団法人日印協会理事副会長慶應義塾評議員一般社団法人放送コンテンツ海外展開促進機構理事長、日本たばこ産業株式会社取締役(社外)、日本電気株式会社取締役(社外)。

Permalink |記事への反応(0) | 14:43

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-10-16

[今日知った人物]ヴィリー・ヘロルト

「エムスラント処刑人」として知られる。

1925年ドイツ生まれる。

第二次世界大戦下の1943年徴兵され、1945年3月、戦いの最中に本隊とはぐれてしまう。

そのときたまたま空軍大尉軍服を手に入れたへロルトは、それを着て大尉なりすまし

同じく本隊からはぐれた数十人の兵士たちを引き連れて、エムスラント収容所に到着した。

へロルトは、自分ヒトラー命令で動いていると偽って、そこの収容者たちを処刑しはじめた。

一週間ほどで200人近くが殺害されたという。

イギリス空軍の爆撃を受けたために、収容所破壊され、ヘロルトたちも脱出した。

各地を放浪しながら、ヘロルトたちは散発的に処刑を行った。

その後、一旦はドイツ軍に逮捕されたが、混乱のなかで釈放され、そのままへロルトは逃亡した。

終戦後の1945年5月23日に、パンを盗んだ罪でイギリス軍逮捕されて、あらためてその戦争犯罪が発覚した。

そして1946年11月14日、へロルトの命令にしたがった何人かの兵士とともに、ギロチン処刑された。享年21。

Permalink |記事への反応(1) | 15:53

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-08-23

「ガス殺死体は一体も見つかっていない」ホロコーストの話

阪神淡路大震災オウム真理教をめぐる事件で騒がしかった1995年に起きた、文藝春秋雑誌マルコポーロ』を廃刊にしてしまった事件の、そのホロコースト否定記事の著者である西岡昌紀氏がその記事でも使った文章がこれである

 

「なんと驚くべきことに、ガス殺の遺体は一体も見つかっていないのです」

西岡はそれ以来、繰り返しこのセリフを語った。今回はこれについて考えてみよう。

 

ガス殺遺体は見つかってないこともないのだが…… 

上の西岡が使う常套句は、実は微妙に嘘なのであるが、ほんとでもあるというややこしい話でもある。嘘であるというのは、見つかっていたという報告自体存在するからだ。知られているのは二つあり、一つはマイダネク収容所ソ連犯罪調査委員会による報告書であり、1944年10月頃という早い時期にまとめられた報告書の中に、ガス殺遺体発見事実さらっと書かれている。マイダネクはソ連赤軍の急襲にあって終戦前年の1944年7月にさっさとソ連解放されてしまったので、ガス室やその遺体の処理が間に合わなかった、とされている。もう一つはロシア南西部黒海に面するクラスノダールでもガス殺遺体発見されたと報告されている。こちらの方は1943年初頭にさっさとソ連占領されてしまっているので報告(裁判)の時期も1943年7月と最も早い。ガス殺遺体写真である

 

このように実際には見つかっていたという話を知らないネット否定派は多いようだが(西岡1995年当時には知らなかっただろう)、見つけたのがソ連であるという理由で信じないのが否定である。実は個人的にもマイダネクの報告書ちょっと怪しいと思っているが細かい話になるのでそれはここでは言わない。クラスノダールの方は写真まであり、その写真自体に「一酸化炭素中毒死体」とまではっきりコメントが書いてあって、信頼性はあるように思うのだが、ソ連裁判という理由否定派は認めようとしない。当時ソ連見せしめ的な裁判をやっていたらしく、それが信じない理由とされているようだが私は詳しくは知らない。

 

しかしこれが、否定派が主たる攻撃対象としている絶滅収容所、中でもアウシュヴィッツ収容所の話になってくると、確かに解放後に連合国によって一体も発見されていないのは事実である定説では、それらのガス殺による遺体は全部焼却処分してしまたかである。が、ここでは少し否定派側の視点に立って考えてみよう。

 

ガス殺死体が一体も見つかっていないのに、なぜガスによる虐殺があったと認定されるのか?

かに、そう言われると奇妙な気もしてくる。一般的に言って、死体なき殺人は肝心の殺された死体存在しないため、その立証は困難である。かつて日本で起きた北九州一家連続殺人事件では家族七人が殺されたが、その死体は一体も見つからなかったどころか、犯行現場とされたアパートからも血痕の一つも見つからず物的証拠は何一つ存在しなかった。その為、主犯格共犯者である愛人と逃げて助かった生存者の証言事件を立証する以外になかったのである

 

しかし、アウシュヴィッツは七人どころではなく、約百万人がガス室で殺されたとされている。ニュルンベルク裁判時点では250万人〜400万人という膨大な犠牲者数が述べられた。なのに、ガス殺死体は一体も見つかっていないというのは極めて異常な話ではないのか? ガス室による殺人は全く立証されていないじゃないか、と言いたくもなるのだろう。特に、青酸ガスという毒ガスで殺されたという類例のない事実を立証するには、遺体の検死解剖の一つくらいあっていいはずなのにそれすらないのだから疑惑を持つ人がいても不思議ではない、とは思う。

 

では一体どうやって毒ガスによる大量虐殺を立証したのであろうか?

 

実はその立証の主役となった証言は極めて多数でありまた詳細でもあった

流石にニュルンベルク裁判やその他の裁判で具体的にどのように立証していったのかという全貌は知らない。よほどの研究者でもない限り、膨大な裁判資料精通している人は限られると思う。ニュルンベルク裁判資料ですら素人には手に負えない。

 

しかし、物証の一つである文書資料もそこそこ裁判採用されているようであるナチス親衛隊は徹底的に大量虐殺事実隠蔽しており、例えば直接「毒ガスで殺した」などと文書記述したりしなかった。ガス室についても、残されている図面には「死体安置所」としか書かれていないし、アウシュヴィッツ火葬場に関する使用データも一切残さなかった。収容所解放前にガス室のあったビルケナウのクレマトリウムは全て解体撤去・爆破処分しており、火葬炉の一つも残っていない。それでも、ある文書の中には「ガス室」とついうっかり書いてしまったのであろう記述があったりもしたし、クレマトリウムの残存パーツからシアン成分も検出している。

 

さらに、裁判採用された証言者は何百人にも上り、その多くは非常に具体的にガス室のことを証言しており、詳細な証言もいくつもあった。ガス室での殺害目撃証言も多数存在したし、ともかく大勢の元囚人ガス室に関する証言を行なった。中でも、遺体処理を担当したゾンダーコマンド生存者の証言は極めて詳細であった。最も衝撃的だったのはアウシュヴィッツ収容所司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスニュルンベルク裁判での証言であった。彼は、他の多くの加害者側の人間とは異なり、無罪を主張しなかった。それどころか、自分から進んで積極的にそのおぞましい犯罪の全貌を裁判で語ったのであるさらに彼は、拘置所において自らの意思回想録執筆し、裁判時の証言よりもさらに詳細な内容であった(この自伝日本でも普通に売ってる)。

 

かい話をすれば、例えばナチス親衛隊による大量虐殺隠蔽に関する証言でさえも、囚人証言している。「ガス室での殺害については、「特別処理」という表現記載していました」などの証言も何人もしている。これは事務的部署でも囚人が働いていたかであるさらにそうした証言をしている法廷で裁かれていた加害者側の被告であった親衛隊員たちは、ガス室を全く否定しなかった。それら親衛隊員が裁判反論したのは、自らの意思に基づく非道な行い等についてのみであり、指示・命令で行っていた任務であるガス室に関しては否定しなかったのである

 

結局、後々のナチ犯罪裁判を含めそれら戦犯裁判では誰一人、ガスによる大量虐殺否定しなかった。少数の「知らなかった」と語った証人被告存在しただけである果たして、こうした証言状況で、「ガス殺死体が一体も見つかっていない以上、それらの証言は全て疑わしい」と言えるのであろうか?

 

ガス室大量虐殺を認める証言否定派にとっては全て嘘になる法則

ネットに多い素人否定派程度では、まさかガス室大量虐殺を認めることになる証言が何百件もある(裁判以外も含めれば何千件になるのか見当もつかない)だなんて知らないと思うし、それらの証言の一つもまともに読んだことすらないだろう。例えばその一つを任意に選び出してみよう。

証人アウシュヴィッツ絶滅された子供たち移送に関しては、ゾンダーコマンド特別部隊)で働いていた同僚からいたことを繰り返すことができますの子供たちはガスで殺されました。ビルケナウの最初火葬場で行われたテストガスの犠牲者でした

私は3週間の検疫を経て、クレマトリウム建設班に配属されましたが、そこで初めてグラブナーと出会いました。ある時、私の仲間が50キロセメント袋を運んでいたのですが、その重さに耐えられず、グラブナーは私のカポーに向かってこう言いました。「あの犬にとどめを刺せ」と。カポーシャベルの柄を折って、それと自分の足を使って囚人を激しく殴り、彼は本当に死んでしまいました。これはグラブナーの指示で行われました。

その後、私は火葬からカナダ」という兵舎に移されました。そこでグラブナーと再会しました。グラブナーは政治部部長で、ガス処刑される人たちの書類をモルに渡していました。グラブナーはほとんどすべての輸送列車の到着に立ち会っていました。

ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(2)|蜻蛉|noteより

 

人間証言には、しばしば誤りが存在する。記憶間違いであったり認識間違いであったり誤解であったり、場合によっては意図的な嘘であったりもする。個人的に、こうした証言をたくさん海外サイトから翻訳したので、そこそこ誤った内容を含む証言があるのも知っている。しかしだからと言って「ガス室」に関する証言のその全てが嘘になることなどあり得るのだろうか? 知っている裁判証言だけで数百件に上るのだが。

 

しかもそれらの証言に含まれる「ガス室」に関する内容は、ただ単に「ガス室があった」と言っているだけでなく、上にあげたたった一つの例ですらも具体的な内容を持つ証言の中で示されているのであるしかもそれらは裁判の中での証言であり、被告法廷存在しており、被告には証言者への質問の機会も与えられていたのに、誰一人被告ガス室否定しなかった。

 

でも否定派は、それら証言をどんな難癖をつけてでも否定する。上の例では、「連合国陰謀者によって、ガス室証言をするように脅迫されている可能性がある」等。また、否定派が最も証言に対して使うセリフは「矛盾があるものばかりであるであるルドルフ・ヘスに至っては、ほんの些細な記憶間違いとしか考えられない証言上の矛盾を元に、証言の全て(もちろんガス室大量虐殺に関することだけ、であるが)が連合国によって強制的に嘘を言わされていることにされた。私はそれをいうネット否定派に対して、「ではあなたは数年前の出来事について一つの誤りもなく証言できるのですか?」と質問したがまともに答えが返ってきたことは一度もない。ひどい場合には、単なる翻訳上の間違いを元にして「この証言には矛盾がある」と難癖をつけられていたことさえある。

 

でも、真面目な否定派もいるにはい

少なくとも、マルコポーロ事件西岡昌紀は真面目とは言い難い。その理由は、絶対にただの一つとしてもホロコースト否定説には欠陥があることを認めようとはしないかである。実は、稀にこの「否定説の欠陥」に気付く否定派がいる。中でも否定説の最大の欠陥は、では「一体、数百万人に上るユダヤ人はどこへ消えたのか?」に答えられないことであるユダヤ人ナチドイツの手によって大量移送されたこ自体否定する人はいないので(それすら知らない人は別だが)、殺されていないのなら数百万人の消えたユダヤ人はどこかに生存していなければならない。古くは、ソ連だった。ソ連スターリン収容所収容しただとか、移住させたのだとか、色々言っていたらしい。だが、冷戦が終わってなお、そんなユダヤ人は全く確認することは出来ない。旧ソ連に関するそうした情報も公開されているのだが、どこにも出てこない。

 

ほんの僅かだけど、ネット議論しているとそこに気づいた否定派もいた。確かにその質問には否定派は答えられない、と。欧米では、著名な否定派が、さらに高名な否定派の誰にそのことを聞いても「知らない」と返答されるだけだったので、否定派を辞めてしまった人さえいる。この重大な欠陥を認めるか否かが、ある種の分水嶺になっているとは思われる。

 

Permalink |記事への反応(1) | 03:01

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-08-21

アウシュヴィッツプールと『パサジェルカ』

ホロコーストは嘘」って主張自体が嘘である、と言うことは日本ではあまり知られていない。せいぜいが「ホロコースト否定してはいけない」程度の認識であるようだ。私ほどの物好きでもない限り、そのファクトチェックを行うという面倒なことをする人は滅多にいないから仕方ない。欧米否認論の本場なので、否認論に対抗する人もそれなりにいて「ホロコーストは嘘」自体が嘘であることはそこそこは知られているようであるTwitterなどで状況が意外と簡単にわかる。

 

だが「嘘」と言っても、その実態はややこしい。そのほとんどは事実を用いた印象操作のようなものであり、細かな具体的主張それ自体が嘘そのものであることは少ないかである。いわばホロコースト否定論はその主張をする人が意図的無自覚であるかは別として「詐術」なのであるしかし、あなたの知性が正しく働いているのならその詐術に騙されることはない。例をあげよう。

 

アウシュヴィッツプール

アウシュヴィッツには遊泳プール存在し、親衛隊員や囚人水球で楽しく遊んでいたという事実まで存在する。アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所ではなかったのか?」というものである。後段の疑惑はともかく、これは事実であり、確かにアウシュヴィッツには遊泳プール存在し、元囚人の手記によると親衛隊囚人水球などで楽しんでいたようである

 

先に結論を言うと、遊泳プールがあったからと言って、アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所であった事実は変わらない。登録囚人限定しても(登録されずに殺されたユダヤ人が圧倒的に多いが)、毎月数千人単位で死者が出る収容所だったのである。だけど、そう説明されたところで、遊泳プール存在は思っていたアウシュヴィッツイメージ全然違い、かなり違和感があると思う人もいると思う。実は肝心なことは「思っていたアウシュヴィッツ収容所イメージ」なのである。そしてこのプールの話は、実際、相当色々とよく知っていないと納得しづらい人もいて当然だと私も思う。

 

まりに何もかもをここで説明するのは無理なので、アウシュビッツ収容所のみに限定して簡単解説する。アウシュヴィッツ収容所ポーランドにあり、1940年5月ごろから実質的スタートした強制収容所である最初は、ユダヤ人のためではなく、政治犯主体として収容するための強制収容所であり、ドイツ人ポーランド人などが収容されていた。翌年1941年6月を過ぎると独ソ戦によって発生した赤軍捕虜が大量に収容されるようになっていく。が、この赤軍捕虜に対する扱いはあまりにも非道であり、特に政治将校はその大半が銃殺刑で処分された。いわゆる国際法ガン無視のコミッサール司令である。また、アウシュヴィッツで行われた最初ガス室での殺害犠牲者はこのソ連捕虜だった。そして、元のアウシュヴィッツ強制収容所からキロ離れたところにあるビルケナウ捕虜収容所建設が始まると、そのソ連捕虜建設労働に駆り出され、一万人くらいいたはずのソ連捕虜の大半は一年も経たずに大半が過労・餓死などで死んでしまったのである

 

ユダヤ人については、当初からユダヤ人も含めて政治犯として収容はされていたものの、囚人登録もせず収容もしないで収容所到着時にそのままガス室送りにしてしまう、いわゆる「ユダヤ人絶滅」がアウシュヴィッツで始まるのは1942年3月からであり、ビルケナウの敷地外にある農家を改造したガス室(ブンカーと呼ばれる)で最初一年くらいは実施されており、1943年3月にクレマトリウムと呼ばれる火葬場が完成すると、その後はビルケナウのクレマトリウムで行われるようになっていく。アウシュヴィッツの基幹収容所ガス室は併設された火葬場の火葬能力が低いこともあり、実は絶滅にはほとんど使われておらず、1942年末でガス室使用を終了している。ともかく、ビルケナウ収容所でのユダヤ人ガス室での大量殺害は、ヒムラーが中止命令を出す1944年10月末ごろまで続いた。ガス室ではトータルで100万人程度虐殺されたと言われている。

 

もちろんだが、ガス室での殺害は何も囚人にさえしてもらえなかった非登録ユダヤ人だけではない。最初の選別では老人や14歳以下の子供、子持ちの女性などが労働不適格としてガス室送りにされたが(概ね到着したユダヤ人の75%、ただし選別条件に当てはまるのに例外的囚人登録された人もいた)、囚人登録されたところでその大半は3ヶ月程度で役立たずになりガス室送りになるか病棟バラック注射で殺されたりもした。こうした収容所内での「選別」は常時行われており、その選別方法親衛隊の選別の担当長が適当恣意的に選んでいるだけなのが実態だった。親衛隊員による囚人への暴行日常茶飯事であり、殴り殺すことさえ珍しくなかった。些細なことでも見せしめ的に処刑されたし、収容所内での配給食料だけに頼っていたらすぐに死んでしまうほど食料の質も劣悪だったりもした。

 

……とまぁ、これだけ酷い話を聞いていたら、「プールで遊ぶなど考えられない」と思う人がいても全く不思議ではないと思う。プール存在に対する疑念はこのアウシュヴィッツ悲惨イメージとあまりにかけ離れているから生ずるのだ。だが……。

 

遊泳プール存在アウシュヴィッツ残酷場所だったことを示す

このプール詐術に引っかかる人は、人間が斯様にも残酷になれるということを理解出来ていないのである。ここで一つ解説を加えておくと、このプール絶滅の行われていた現場であるビルケナウではなく、アウシュヴィッツ基幹収容所の方にあったが、元々の目的防火用であり、完成したのは1944年8月ごろである推定される(フランクフルトアウシュビッツ裁判証言にある)。収容所親衛隊員は、ユダヤ人囚人に命じて飛び込み台を作らせ、遊泳プールとしても使えるようにした。で、このプールを利用して遊んでいたのは親衛隊員と、上級囚人だけだったのである上級囚人とはユダヤ人でない囚人のことであり、おそらくは過酷労働をしていなかった囚人であるカポなどであろう。つまりは、大半の囚人毎日酷い目にあっているそのすぐ側で、収容所生活を存分に謳歌している人たちがいたというのが事実なのであるビルケナウの方ではサッカーでさえ楽しんでいたそうだし、有名なアウシュヴィッツオーケストラ演奏会をさせたり、囚人劇団まで作らせて劇場で公演させたりもしていた。また親衛隊員は当然として上級囚人も、ユダヤ人ら下等囚人食事量・質とも全く違ったし、親衛隊員は恣意的食品などを横流しさえしていた。さらに、ユダヤ人が持ってきた私物(「再定住させられる」と言って騙されて連れてこられているのだから、それらはユダヤ人の全財産と言っていい)を全部収容所の方で掻っ攫うのであるけれど、そこから横領しない親衛隊員などいなかったと言われるほどである(ただし横領は発覚すると厳罰処分が下される)。

 

もちろん、囚人たちの多くはそうした私腹を肥やす親衛隊員たちの行動や、プールなどを楽しんで収容所生活謳歌している姿も知っていた。だから戦後地元法廷で、少ないとはいえ裁かれた親衛隊について証言者となった元囚人たちのほとんどは、それら親衛隊被告非道ぶりを存分に告発したのである

 

「単なる印象」にあまりに弱すぎるネット否定派達。

ほんとに否定論の細かい具体的な主張ってこの手の話があまりに多い。例えば「ガス室の扉が木製だなんておかしいじゃないかアメリカ死刑ガス室は鉄製の部屋でありドアだって厳重なハンドルまでついていて非常に厳しい毒ガス管理をしているくらいだ。あんな木製の簡易な扉だったらガス漏れして外にいる人まで死んでしまうに違いないから、あれがガス室だったなんてあり得ない」ってのがある。んでこの話、たくさんの米国死刑専用ガス室写真とともに出回っている。

 

えー、青酸ガス発生用に使っていたチクロンB害虫駆除用として当時一般に広く使われており、それなりに密閉処理さえすれば「どこでも」使えた。それなりの密閉処理とは空気漏れ起こしそうなドアの隙間などにダクトテープを貼る程度のものであるアウシュヴィッツ収容所にも、殺人ガス室以外に衣服などのシラミ駆除のための専用ガス室複数存在し、現在現存しているが、それらのガス室の扉も殺人ガス室と同じ木製扉であり、気密には隙間にフェルトが貼られているだけであるチクロンB製造であるディケシュ社の文書にも別に木製扉がダメだとは書いてない。専用の頑丈な鉄製のガス室しか青酸ガスを発生させられないような害虫駆除剤だったとしたら、当時一般的に広く使われたはずがないだなんて、少し考えればわかることなのに。

 

「じゃぁ何故米国処刑ガス室あんなに頑丈そうに出来ているのか?」と聞かれたって答えは知らないが、それなりの要求仕様があるとか昔からの慣習であるとか、何か理由があるからであろう。でもそーういうことは否定派さんは全く調べない。いずれにしても、実際にチクロンは当時広く使われていたのだから米国処刑ガス室構造は、アウシュヴィッツガス室に関しては何の参考にもならないのである。どうしてそんな見た目の単なる印象に過ぎないことが、アウシュヴィッツガス室否定する理由になるのか?

 

『パサジェルカ』

今年はホロコースト映画公開が少し多いようだけど、一つとして見に行こうとは思わなかった。あんまり興味が湧かなかったからだけど、しか最近、古い映画にすごいホロコースト映画があるのを発見した。YouTube全編上がっているのだけど、惜しいのはポーランド映画であり全編ポーランド語でさっぱり言語がわからなかったりすることだ。日本でもDVDは発売されてるけど、買ってまで見ようとは思ってない。しかし何が凄いって、何気に再現度が凄い。興味がなければ何のことはないシーンだけど、ガス室にガスを投入する作業のシーンが思ってた通りの再現だった。ガス室というかクレマトリウムはすでに破壊されてなかったからわざわざセットで作ったのかと思うと尚更すごい。何気にあのチクロン投入煙突位置が正確なのも素晴らしい。未完成監督が死んでしまい、友人達で残っていた映像繋ぎ合わせただけらしいけど、唐沢寿明の『白い巨塔』よりもずっと前にアウシュビッツ収容所ロケ地に使っていた映画存在したというのも発見だった。

PASAŻERKA - POLSKI FILM PSYCHOLOGICZNY HD, WYSTĘPUJĄ: ALEKSANDRA ŚLĄSKA (SOUS-TITRES FRANÇAIS)

Permalink |記事への反応(1) | 20:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-07-23

アウシュヴィッツガス室への誤解

anond:20210718162617

人口数について簡単解説したけど、そのついでというかこんな話も。

 

大したプランもなしに始まったガス室

ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人ありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である現実の現地虐殺映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。

 

そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラーナチスドイツ計画的ユダヤ人大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的とあるから、何やらナチスドイツユダヤ人絶滅のために綿密なプラン策定してから絶滅計画推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅ヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。

 

しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からユダヤ人排除だった。そして当初のユダヤ人排除マスタープランであったマダガスカル作戦バトル・オブ・ブリテンでのドイツ実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ地域東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパユダヤ人ソ連地域追放するという東方移送計画生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。

 

しかし、ユダヤ人ポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットー悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さら移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域ユダヤ人危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。

 

このような流れの中、1939年から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮実施されていくのである。だから毒ガス代表であるとされる青酸ガス=チクロンB最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンから始まったのだ。もっとも、最初ポーランドポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域ユダヤ人殺害転用しただけのことである。そのうちに、ガスボン積載車地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジン排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。

 

このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのであるリッツマンシュタット・ゲットーユダヤ人絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人虐殺されたと言われる。

 

アウシュヴィッツビルケナウのガス室はどうだったのか?

これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的ものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツラインハルト作戦収容所ではなく、そもそも一般強制収容所捕虜収容所であり、絶滅機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘス証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初ガス室アウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのであるチクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態不明瞭ではっきりしない)。

 

そして、アウシュヴィッツビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所ガス室観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室1942年末で使われなくなった。

 

では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋ビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘス自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室操作技術である

 

ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題引き起こしたので親衛隊トップヒムラー命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしま事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺情報は外部へ漏れワルシャワ地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。

 

実は、ビルケナウのクレマトリウムガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点問題ありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所ガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連アウシュビッツ博物館資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュート1942年12月19日図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。

 

このややこしい経緯のあるガス室全否定する修正主義者

修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッドロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダ修正主義者エルンスト・ツンデル扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しか裁判から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツガス室とされる場所採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンB合法的使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味であるしかし、これは分析ルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いか害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。

 

その数年後に、ポーランドクラクフ法医学研究所アウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフ調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。

 

ガス室を正しく理解するのは難しいけれど

そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコースト勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通ホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害ホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。

 

でも、一部のネット民全然学ばないで修正主義に走るんだ、これが。なんでなんだろうね?

Permalink |記事への反応(0) | 22:19

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-05-19

anond:20210519203323

総生産数は約50000両。ドイツ軍の3号、4号、5号パンター6号ティーガー生産数合計の2倍以上。

これの相当数がノルマンディー以降漸次投入されたからまあ、それなりではあったでしょう。

投入は一気だったけど、生産1943年から大増産がかかって、訓練もされて、ノルマンディー作戦時はとてつもない戦闘集団にふくれあがっていた。作戦だけみると信じがたいが、長い時間をかけて準備している。

うろ覚え知識Wikipedia棒引きだけど、大間違いはないと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 23:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-04-20

こういうエピソードいいよね

美男美女出会い最後まで同伴したという話

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-56702865

ドイツとの戦争がいつ始まってもおかしくない時世にあって、フィリップ殿下軍人を志した。英空軍希望したものの、母方のマウントバッテン家は海軍や海とのかかわりが深く、殿下は結局、海軍士官候補生として英南東部ダートマス海軍兵学校入学した。このとき海軍にするよう殿下を説得したのが、おじのルイ・マウントバッテン卿だった。

1939年7月に、英国王ジョージ6世王妃や2人の王女を連れて兵学校訪問した際には、フィリップ殿下エリザベス王女マーガレット王女の案内役を務めた。この段取りを手配をしたのも、マウントバッテン卿だった。

Princess Elizabeth (third from left), withKingGeorgeVI andQueen Elizabeth during avisit to the chapelat the Royal NavalCollege, Dartmouth,23July 1939

画像提供,GETTY IMAGES

画像説明,

この写真は、エリザベス王女(当時、左から3人目。現女王)と、海軍士官候補生だった「ギリシャおよびデンマーク王家フィリップ殿下」(右後方の白い制帽姿)が、初めて同時に撮影されたものと思われている。王女は13歳、殿下は18歳だった。前列中央エリザベス王女の両親、ジョージ6世エリザベス王妃がいる。1939年7月23日、英南西部ダートマス海軍兵学校

この出会いエリザベス王女には決定的なものとなった。王女はこの時、恋に落ちたと言われている。

一方のフィリップ殿下は5歳年下の13歳の少女にいきなり恋したわけではなく、戦時中1943年末、ウィンザー城クリスマス休暇を過ごしたころに初めて、王女気持ちを返すようになったとみられている。

Permalink |記事への反応(0) | 07:33

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-03-31

[従軍慰安婦]堀和生氏による「慰安所管理人日記」論評

http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html より

慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局対象軍人軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦慰安所従業員軍属待遇であったことを確認できる。

1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。

占領から資金流入封殺措置として、送金額制限圧縮強制現地預金制度、送金額一定比率負担を課する調整金徴収制度預金凍結措置等が次々と導入された。

ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない

上記からは、地域や時期によっては、内地において相当額を引き下ろせていた慰安婦もいたとしか読めない。

これらから、以下の単純な結論を導くのは早計ではないだろうか。

(1)日本政府は、軍票・南発券で膨張した資金日本内地朝鮮への流入を極力規制した。慰安婦達が内地朝鮮に送金した分については、先に述べた外地送金の引出額制限預金凍結措置によって、月々規定生活費水準を超える額は引き下ろせなかった。つまり一定の額しか引き出せない状態で、すぐに日本朝鮮統治の崩壊を迎えたと思われる。

Permalink |記事への反応(0) | 18:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp