
はてなキーワード:1931年とは
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
近江一郎の著書に『小舟を住家に南洋へ』『斜に視たる神戸一中』がある。『小舟を住家に南洋へ』は読めなかったが、大まかな内容は上記で説明されている。『斜に視たる神戸一中』は、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
中日新聞プラス事務局から、「中日ボイス」のアンケートです。戦後80年となる今年。第2次世界大戦(1939~45年)の時期などに海外派兵した日本の戦争をめぐっては、「先の大戦」「太平洋戦争」「大東亜戦争」など多くの呼び方があり、いまだ呼称が定まっていません。呼び方によって戦争の捉え方も変わってきます。それぞれの呼称の説明を下記にまとめました。あの戦争をなんと呼べばいいのか、皆さんのご意見をお聞かせください。
回答の締め切りは8月8日(金)正午です。ご回答いただいた方の中から10名様に図書カード1000円分を進呈します。ご協力よろしくお願いします。
■主な呼称
太平洋戦争:戦後に使われるようになった呼称です。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が推奨したとされます。
アジア・太平洋戦争:米国との戦いを重視する太平洋戦争に対し、アジア戦線も含めようと歴史学者が1980年代に提唱しました。
大東亜戦争:1941年12月の閣議で決定した当時の呼称です。戦後、GHQが公文書での使用を禁じました。
中日新聞プラス事務局から、「中日ボイス」のアンケートです。戦後80年となる今年。第2次世界大戦(1939~45年)の時期などに海外派兵した日本の戦争をめぐっては、「先の大戦」「太平洋戦争」「大東亜戦争」など多くの呼び方があり、いまだ呼称が定まっていません。呼び方によって戦争の捉え方も変わってきます。それぞれの呼称の説明を下記にまとめました。あの戦争をなんと呼べばいいのか、皆さんのご意見をお聞かせください。
回答の締め切りは8月8日(金)正午です。ご回答いただいた方の中から10名様に図書カード1000円分を進呈します。ご協力よろしくお願いします。
■主な呼称
太平洋戦争:戦後に使われるようになった呼称です。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が推奨したとされます。
アジア・太平洋戦争:米国との戦いを重視する太平洋戦争に対し、アジア戦線も含めようと歴史学者が1980年代に提唱しました。
大東亜戦争:1941年12月の閣議で決定した当時の呼称です。戦後、GHQが公文書での使用を禁じました。
ご長寿麻雀漫画のタイトルとして知られる「むこうぶち」という言葉だが、もとは裏社会の隠語だということもあって、その意味はあまり知られていない。
漫画では「一匹狼の真のギャンブラー」とされているらしいが、隠語大辞典は「鉄火場の客のこと」としている。
「むこうぶち」という言葉がどのように使われていたのか、過去の用例から探ってみたい。
「出方」というのはヤクザの幹部のことで、貸元=店長、代貸=副店長、出方=チーフ、三下=バイト、くらいの感じらしい。
おそらく「客の向かいで博打を打つ」という意味で「向こう打ち」だろうか。
隠語大辞典で「客のこと」とされているのは「ヤクザの向かいで打つ」という意味で互いに「向こう打ち」だからかもしれない。
1974年『ヤクザ映画はどこまで実録に迫っているか』梅原正紀
ところで「向こう打ち」とは賭場にくる客のためのサービス要員である。まだ本格的に賭場を開催するには、客の数が少ないさいに、客の相手をつとめる男どものことだ。だから「向こう打ち」は勝って悪し、負けて悪しである。賭場が開かれる前にまきあげてしまえば、賭場が立ちにくくなるし、心のせまい客はアヤをつけられたと思いかねない。そうかといって、負けてもいられない。これはブンリが悪い。上手に客を遊ばせながら時間つなぎをする力量を向こう打ちは持っていなければならないのである。つまりキャリアの要請される職種なのだ。
こちらのほうが説明が詳しい。実力が求められることも書かれている。
賭場でまだ時刻が早くて客が集まらないといったとき、早くきた客をたいくつさせないために出る「むこうぶち」は、たいていこのハンカうちである。
ハンカうちとは、
渡世のものではないが、なまじ三下よりは渡世に明るい。その点では白モクに似るが、白モクはだんなに近い。それだけ渡世とは離れている。ハンカうちは、だんなでいればいられるものを、より渡世に近づいて、身うちのあつかいこそうけないが、一家のめしを食う。一家の用を足す。が、まったくの子分、三下ではないし、「客人がまい」だから、こづかいをもらうのも「子分ワリ」ではない。出方の財布と決まったほどではないがしかし、出方同様のあつかいである。
「だんな」は金持ちの上客のこと。
「渡世人ではないが渡世に明るい人」の中で、客に近いのが白モク、渡世人に近いのがハンカうち、と言っているのだろう。
この「ハンカうち」は、博徒の一家(ヤクザの組)に正式には属していないというので、その意味では「一匹狼」に近くはなっている。
「ハンカうち」についてはかなり時代が遡るが、
渡世人間に『半可打ち』と云ふ言葉が云ひ伝ひられて居た。此の半可打と云ふのは堅気の衆が道楽の末、常習的に博打を専門のやうにして打ち歩るき、それを職業のようになすとか、或ひは渡世人の家へ入り込んで仕舞つて、改めて乾分ともならずに、世話になつて居る場合がある。斯る者達を称して『半可打ち』と云つたのである。
いきなり「むこうぶち」=「一匹狼」の意味になっている。「ハンカうち」の側面が強くなったのだろうか。
むこうぶち=ハンカうちのこと。
『関東の仁義』『仁侠大百科』の著者は藤田五郎という元ヤクザの作家で、『無職渡世』『やくざ辞典』の著者は井出英雅という元ヤクザの作家である。
井手氏は「むこうぶちは出方がお客の相手をすること」と、藤田氏は「むこうぶちとはハンカうちのこと」という認識だったのか。
この二人(+前出の梅原正紀)は親交もあったらしいが、井手氏が1913年生まれ、藤田氏は1931年生まれ、という年齢の差はあったようだ。
まず、賭場をひらくことによって、その手数料で生活する者たち。彼らは、通常一家を形成しており、その中で五つの階級に分けられている。貸元=いわゆる「親分、代貸=賭場の支配人役、中盆=壺を振ったり札を配ったりする勝負の進行役、出方=いわゆる子分で、客の接待から使い走りまでの役、三下=人の出入りの見張り、客の下足番・警察の手入れの見張りなどの役、がそれだ。
次に、「控えぶち」という博徒がいる。これは、いわばサクラのような役目の博打うちで、通常どこかの一家と関係を持ち、その一家が賭場をひらくと必ず顔を出すことになっている。つまり、自分が親しくしている一家の賭場で、にぎやかに振舞ったりして、客の勝負欲をあおり立てることを生業としているわけだ。
そして、どの一家にも属さずに賭博を常習とする一匹狼的な博徒が「向こうぶち」だ。この向こうぶちは、控えぶちと違って、特定の賭場に所属することはない。自分の気が向いたときに、好きな賭場へ足を向けることができる。しかし、このさすらいのギャンブラーとして生活する者は少ない。なぜなら、自分の腕ひとつを頼って生きなければならない過酷な仕事だからだ。
この『賭博大百科』での「むこうぶち」の説明は、すっかり一匹狼のイメージになっている。
どちらかと言えば「控えぶち」のほうが、当初の「むこうぶち」に近いように思える。
というわけで、
というような変遷があったように思われる。
もともとの意味では「ヤクザの幹部」とか「中途半端なやつ」みたいな感じだったのが今では「一匹狼の真のギャンブラー」になったというのはなかなか面白い。
余談。
などがある。
いとこ婚(いとここん、英:cousincest)は、いとこ同士の結婚のこと。
いとこ婚の扱いは国家や民族、文化圏、地域社会によって異なり、いとこ婚を近親婚の一種と見なして忌避したり法律で禁じる場合も、法的に認められ一般的に行われている場合もある
日本では、4親等以上離れていれば直系でない限り親族同士の結婚も認められているため、いとこ婚が可能である[3]。古いデータではあるが、後藤源太郎の著書『近親結婚と母系制』に世界各地におけるいとこ婚の比率が記載されており、1931年(昭和6年)の東京市で4.0%、1949年(昭和24年)の長崎市で5.24%となっていた[4]。1914年 -1919年のフランスで0.97%、1925年 -1939年のイングランドで0.40%、1925年 -1950年のアメリカ合衆国のボルチモアで0.05%となっており、欧米に比べれば高い[4]。ただし、1955年 -1957年のイスラエル全土で5.22%と、当時の他の地域と比べて、日本在住の人々のいとこ婚の比率が突出しているわけではない[4]。なお、今日の日本では過去に比べいとこ婚の比率が減少したとされ、調査でいとこ婚の比率は全ての婚姻のうち1.6%だったという1983年の報告がある[5][6]。
イスラーム文化圏では地域によって異なるが、サウジアラビアなどではいとこ同士の見合い婚が多い。血縁が濃いことを良しとする文化があること、女性が顔を隠す服装をしているため男性にとって恋愛対象になり得るのが顔を知っている従姉妹に限定されてしまうことといった事情がある。また、預言者ムハンマドの第7夫人ザイナブがムハンマドの従姉妹であることも、いとこ婚が推奨される背景になっている。クルアーン(コーラン)に記述された、婚姻が禁じられた近親者の一覧[7]の中には、いとこは書かれていない。父方いとこ同士の結婚(ビント・アンム婚)は好ましいものとされており、特別な理由がない限り、女性が父方の従兄弟に当たる男性からの求婚を断ることができない、という慣習を持った地域も存在する[8]。
ヨーロッパの王族、貴族の間では、いとこ婚が頻繁に行われている(関連項目の例を参照)。しかし本来は教会法に反する近親婚に当たるとされており、カトリックの場合には教会から特別に赦免をもらい、逆に離婚時にはこれを理由に用いて結婚を無効にする、といったことが行われていた。
主な法制
→「近親婚」も参照
国にもよるが、いとこ婚(cousinmarriage)は近親婚を意味し、その制限は近親度数に基づいて行われている。現在の近親度数の計算方法は、同じ祖父母を持つ子孫は近親度1度(いとこかその父母、firstcousin)、同じ曽祖父母を持つ子孫は2度(はとこ、その父母・祖父母、secondcousin)、同じ高祖父を持つ子孫は3度(thirdcousin)などとされている。
中世前期のヨーロッパはローマ帝国後期の慣習を引き継ぎ、カノン法に基づいて近親間の結婚を禁じていたが、次第に貴族氏族の近親関係が増えてゆき、最終的には限られた活動範囲で伴侶になる見込みのある相手を見つけることが容易でなくなった。例外的な婚姻(特免の結婚)やその婚姻による子を教会の保護対象とすることを認可されるには教会に莫大な支払いをする必要があり、その金額も次第に増加していった [11]。
1215年、第4ラテラン公会議は7度以内だった近親婚の禁止の度数を4度以内(6 - 16親等以内)へと下げ[12][13]、度数計算方法も改定した[14]。それまでの計算方法は、同じ祖先に行き着くまでの人数にそこから婚約相手までの人数を加える方式だったが、新法では単に同じ祖先に行き着くまでの数となった[14]。
1215年以降は、特免を受けずとも4度までは婚姻可能という習慣が一般的に普及し、近親婚の全体的な経費は下がった[15]。
19世紀になり女性の社会的な活動性が高まると、教会法に基づく規則は次第に廃れ、19世紀にはハンガリー、スペインでは特免は政府によって行われるようになった[16]。
1875年のチャールズ・ダーウィン(1809年 -1882年)の試算によれば、イングランドでは1度の近親婚の割合は全体で3.5%、中流階級では4.5%だった。貴族階級の中では1819年生まれのヴィクトリア女王とアルバート王配との婚姻が傑出した例外となっているが[17][18]、20世紀にはいとこ婚の割合は1%にまで下がった[19]。
スコットランドの精神科医で学会副委員長のアーサー・ミッチェル(英語版)(1826年 -1909年)は論文で、近親婚の子孫への悪影響に関するダーウィンやアラン・ハス(Alan Huth)の結論の大きな矛盾を指摘し、血縁の悪影響は適切な住環境によって部分的に解決ができるという仮説を立てたが[20][21]、実際にはそのデータは仮説を証明しうるものではなかった[22][23]。
2002年には『タイム』誌が、男女人口差による男性の結婚難によりいとこ婚が増加していることを報じた[24] 。
アメリカでは、いとことの結婚は25の州で禁止されている。また、別の6州では特殊事情の下でのみいとことの結婚が許可されており、例えばユタ州は双方の配偶者が年齢65歳以上もしくは年齢55歳以上で性的不能に関する証拠を持つ場合に限定して可能となっている。残る19の州およびコロンビア特別区では2008年現在、いとこ婚は制限無しで許可されている。
インドは多宗教国家であり、結婚する者の宗教により法律が異なる。異宗婚の場合に用いられる婚姻法ではいとこ婚を原則禁止としている。同宗婚の場合は各宗教の宗教法に従うため、イスラームなどではいとこ婚が可能である。
東・東南アジア
韓国は1997年まで3度以内の近親同士(高祖父母が同じ近親)の婚姻と、同姓同本(同じ苗字で、同じ本貫を持つ同士)間の婚姻を禁じていた[25]。今日でも民法により近親婚は無効や取り消しになりえるが、その婚姻中に妊娠した場合などについては例外を置いている。
台湾、北朝鮮、フィリピンはいとこ同士(1度の近親)の婚姻を禁じている[26]。
日本では上述の通り、近年は割合は下がっているものの、法的にはいとこ婚は認められている。
中国はかつて農業地域ではいとこ婚も行われていたが、1981年の婚姻法で禁止された[3][27][28]。中国婚姻法(英語版)は男女が直系の近親にあるときと、傍系の近親であり近親度が3度以内のときの婚姻を禁じている[29]。
なお、言ってることは支離滅裂なので、元増田には賛同できない。
(ポケモンカードゲームはM;TGのパクリ、とでも言われたんだろうか)
さて、下記を条件として、カードを使うボードゲームの始祖を考えてみよう。
とりあえず、辿り着くのが下記。
モノポリーのルーツとして、有名なゲーム。1904年というのは、アメリカのエリザベス・マギーが、このゲームの特許を取得した年だ。
後のモノポリーでは贅沢税マスに止まると、一定のお金を支払うだけだが、このThe Landlord's Gameでは、ゲーム終了時に得点となるカードを購入することができた。カードには、贅沢税を払うのに相応しい「ゲーム終了までは能力のない」品々が書かれていた。
コレクション要素としても悪くないルールには感じるが、The Landlord's Gameの多種多様なバリエーションが作られていく中で、このルールは早々に削除された。
次にモノポリーの血統に専用カードが登場するのは、ルイス・トゥーンとフェルディナンド・トゥーンがチャンスと共同基金の2種類のカードを持ち込んだ、1931年のことだ。
1904年から遡ろうとすると、もう、伝統的ゲームか、すごろくの類、トランプや花札ばかりになって、専用カードを使ったアナログゲームというのが、ピンと来ないのだけれど、誰か後は頼む。
"神"みたいな、まあまあ使い所があるやつより、
近年でてきた概念で、日常的に使い道がないが一般に浸透しているほど芸術点が高いものとします。
先攻オレ。
テレポテーション
はい優勝。
チャールズ・フォートが1931年に「テレポテーション」を初めて使用した後、この概念は特にSFやファンタジーのジャンルで広く知られるようになり、人気を博しました。様々なメディアで取り上げられ、現在では一般的なSF用語として定着しています。
量子テレポーテーションについてはトラバで見解語っております。時系列調べたわけでないのでふわふわだけど。
Permalink |記事への反応(23) | 08:07
常山勝弘(つねやまかつひろ、Tsuneyama Katsuhiro、1989年8月7日生まれ、血液型はA型。)とは、JRの株主などを務める新潟県出身の華族(從二位)の弟であり、チェス愛好家として、現在日本チェス連盟の会員である。
…関東軍の孫 …
徳川の時代に、魚沼地方において大庄屋をやっていた士分の門家である両家(苗字を帯刀することが許された格式がある両家。現在の姓は、常山家と南雲家。)の中に生まれ、満州事変(1931年-1934年)において、関東軍(第9師団騎兵9連隊)を務めていた常山新作の孫であり、常山氏(氏族)に属する。幼い頃は新潟県の公立学校で育ち、東京の私立高校(通信制NHK学園高等学校)を中退した後、旧大検を取得し、2024年4月には、伊豆半島にJALcardで、旅行に行っている。本人は国鉄の娘である母親洋子の母南雲タキの家系から続くカトリック信仰であり、日本のキリスト教会のプロテスタント派の神学生を成人の頃に、少しだけ務めたことがあり、誕生日のお祝いに洗礼の宣伝を作らせてもらったことがあると言う。
常山新作は、昭和天皇陛下の直属部隊に属しており、関東軍に務めていたので龍光大綬章を受賞しているが、これは桐花章と同位である。
父親の常山満は、神奈川近代文学館に自著の詩集を所蔵されている。
…人物 …
幼少期から、かっちゃん(Kattyan)の名前で、親しまれている。
…脚注 …
… 外部リンク …
https://miitus.jp/t/JCF/login/box/?logout&p=b2tma0NyUStMVjJMTzlwS2crdXNFQk5PYThFcVhqeWNaUVlSZkRDd2xZTm9leEZMOUd6dWdlc0FPczduWFNxTWNOaFVRMzMvK1l3SjRRUFFzU3A0V2c9PQ==| MiiT+/日本チェス連盟
ナチス前のドイツでのユダヤ人の地位について簡単なまとめと詳細な記述をしろ
Copilot
簡単なまとめ:第一次世界大戦終結後の1919年には、ドイツに居住していたユダヤ人たちは、すでにドイツ人と同等の市民権・公民権を憲法で保障されるようになっていました1。
詳細な記述:ドイツに居住していたユダヤ人たちは、第一次世界大戦終結後の1919年には、すでにドイツ人と同等の市民権・公民権を憲法で保障されるようになっていました1。それから十数年後にヒトラーが政権を握ったときには、ユダヤ人とドイツ人の間の結婚が進んでいたこともあり、ユダヤ教徒のユダヤ人はわずか50万人でした1。当時、ドイツの総人口は6500万人でしたから、ユダヤ人はそのうちの1%にも満たない少数者です1。しかも彼らの多くは、ドイツに忠実な愛国者でした1。もし、その後12年にも及んだナチスの時代さえなければ、おそらくユダヤ人はドイツ国民として、この国に溶け込んでいったことでしょう1。
経済や権力といった地位についてと、当時のドイツ人からユダヤ人への感情などを掘り下げて
Copilot
ナチス前のドイツにおけるユダヤ人の経済的地位については、ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は一時好調であったものの、1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥りました1。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)でした1。
権力的地位については、1933年にヒトラーがドイツ国首相に任命され、その後大統領になり、国の絶対的な支配権を手に入れました2。ナチ党は、ドイツが陥っている窮状の責任はユダヤ人にあるとし、国をかつての栄光へと導くと約束しました3。
当時のドイツ人からユダヤ人への感情については、ナチ党が政権を握った後、すぐにさまざまな法律を公布して、ドイツ人の生活からユダヤ人排除を図りました3。また、東欧の多くの地域では、ホロコースト以前から反ユダヤ主義が蔓延し、ユダヤ人は他の住民と隔離された生活を強いられていました3。これらの事実から、当時のドイツ人からユダヤ人への感情は、大きな差別と偏見に満ちていたと言えます。しかし、一方で、潜伏ユダヤ人とドイツ人が極限状態の中でともに過ごすうちに、「ユダヤ人」と「ドイツ人」、「被害者」と「加害者」、「救いを求める弱者」と「救援者」といった二項対立が揺らいでいき、人が人として互いを支え合うことがあったとも報告されています4。これらの事実は、当時の複雑な状況と感情を示しています。
当時から反ユダヤ主義があり、ナチスが政権をとる以前から反ユダヤを主張し民主的に選ばれたという背景があるのならば、なぜ現代でナチスの罪がナチスのみに着せられているのか
Copilot
その問いは、歴史的な事実と個々の責任についての複雑な議論を引き起こします。ナチスが政権を握った時、彼らの反ユダヤ主義の政策は一部のドイツ人から支持を受けていました。しかし、それは全てのドイツ人がその政策を支持していたわけではありません。また、多くのドイツ人はホロコーストの全貌を知らなかったとも言われています。
ナチスの罪がナチスのみに着せられているという認識については、ナチス政権下でのホロコーストという大量虐殺は、その組織的かつ計画的な性質から、ナチス政権とその指導者たちに対する責任が強調される傾向にあります。これは、彼らがホロコーストを計画し、実行した主要な力であったという事実を反映しています。
しかし、これは個々のドイツ人や他の協力者の責任を免除するものではありません。戦後の裁判では、多くの個々の犯罪者が起訴され、有罪判決を受けました。また、ドイツ自体も過去の罪を認め、ホロコーストの犠牲者やその家族に対する賠償を行ってきました。
この問題は非常に複雑で、歴史的な事実、個々の責任、集団の責任など、多くの要素を考慮に入れる必要があります。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理
ナチスの反ユダヤ主義を支持するドイツ人は一部とのことですが、ではナチスが政権を取れたのは反ユダヤ主義のみが支持されたことではないと思います。
では、ナチスの何が政権を取れるほどドイツ人に支持されたのか。それは有権者の主義と反する反ユダヤ主義を受け入れて余るほど重要なものだったのかを解説して。
また、多くのドイツ人は当時、ホロコーストの全貌を知らなかったと述べていますが、当時のドイツ人はユダヤ人に何を望んでいたのか。どのような迫害を行いたかった、あるいはここまでなら許容できると考えていたのか教えて。
Copilot
ナチスが政権を取得できた理由は、反ユダヤ主義だけではなく、他の多くの要素が関与していました。その一つは、1930年代初頭の世界恐慌による経済危機で、多くのドイツ人が失業し、経済的な困難に直面していました1。この状況下で、ヒトラーとナチス党は経済の回復と雇用の創出を約束し、多くのドイツ人から支持を得ました1。
また、ヒトラーが政権を握ることができた理由の一つは、彼の独裁権力の掌握が必ずしも「民主的」ではなかったことです2。ナチス党が国会で単独過半数を占めることはなく、ヒトラーの首相就任は議会の選出によるものではありませんでした2。首相指名は大統領の権限に基づくもので、大統領周辺の保守勢力との提携が鍵を握りました2。さらに、ナチスの権力掌握の過程では、選挙運動や宣伝活動と並行して、突撃隊などによる暴力の行使も大きな役割を果たしました2。
当時のドイツ人がユダヤ人に対して何を望んでいたかについては、一概には言えませんが、ナチス政権下では、アーリア人至上主義に基づきユダヤ人を標的に迫害しました3。しかし、多くのドイツ人はホロコーストの全貌を知らず、ユダヤ人が大量に殺害されているという事実を理解していなかった可能性があります3。また、ユダヤ人に対する具体的な迫害の形態や許容範囲については、個々のドイツ人により異なり、一部のドイツ人はユダヤ人を助ける行動をとったことも報告されています4。しかし、全体として、ナチスの反ユダヤ政策は広範に受け入れられ、実施されました3。これらの事実は、当時のドイツ社会の複雑さと、個々の市民の行動や意識がどのように政府の政策に影響を与え、また影響を受けたかを示しています。
まとめると、
当時反ユダヤ主義はナチスのみがことさらに強調していたことではなく、ドイツのみならず過去から少なくない人や国がもっていた一部でのうっすらとした共通認識であった。(独裁後のホロコーストはいきすぎだとしても、独裁前に不穏さは少なかった)
ナチス自体は単独過半数を取ることはなかったが、落ち込んだ経済と共産主義に対するという点で国民や国に民主的・非民主的に支持されていた。
大統領による首相指名での就任という、おそらく議会からも大統領からも弱い立場から独裁を勝ち取れたのは、上手く立ち回ったと言える。
あっている点・間違っている点・補足・解説を加えろ
Copilot
あなたのまとめは大部分が正確ですが、いくつかの点を補足・解説します。
あっている点:
反ユダヤ主義は、ナチスだけでなく、他の人々や国々にも見られました。しかし、ナチスの反ユダヤ主義は特に極端で、組織的な大量虐殺(ホロコースト)につながりました。
ナチス党は、1933年の選挙で単独過半数を得ることはありませんでした。しかし、経済危機と共産主義への恐怖を利用して、多くのドイツ人から支持を得ました。
ヒトラーは、大統領による首相指名を通じて政権を掌握しました。これは、彼が巧妙に政治的な状況を利用した結果でした。
間違っている点:
ナチスが政権を握る前のドイツでは、反ユダヤ主義は一部の人々によって支持されていましたが、全体としてはそれほど強くはありませんでした。ホロコーストの「いきすぎ」は、ナチスが政権を握った後に始まったもので、それ以前にはそのような大規模な迫害は存在しませんでした。
補足・解説:
ナチスが政権を握った理由は複数あり、その中には経済的な困難、政治的な混乱、そして反ユダヤ主義のようなイデオロギーが含まれていました。これらの要素が組み合わさって、ナチスの台頭を可能にしました。
当時のドイツ人がユダヤ人に対して何を望んでいたか、またはどの程度の迫害を許容していたかについては、個々のドイツ人により異なります。しかし、全体として、ナチスの反ユダヤ政策は広範に受け入れられ、実施されました。これは、当時の社会的な状況と、個々の市民の行動や意識がどのように政府の政策に影響を与え、また影響を受けたかを示しています。この問題は非常に複雑で、歴史的な事実、個々の責任、集団の責任など、多くの要素を考慮に入れる必要があります。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われています。それぞれの視点から見れば、異なる解釈や結論が導き出されるかもしれません。このような議論は、歴史の理解を深め、未来の同様の悲劇を防ぐための重要なステップです。それぞれの視点を尊重し、開かれた対話を通じて理解を深めることが重要です。この問題についての詳細な研究や議論は、歴史学者や社会科学者によってなおも行われて
テーマ。
「リーゼントというのは前頭部の髪型(ポンパドール)ではなく後頭部の髪型(ダックテイル)のことだ」って本当なの?
だいたいの前回のまとめ。
さて、今回の記事の主眼は、前回の記事でも書いた「ポール・グラウス」という人物は何者か、というところにあるのだが、そのまえに増田英吉が戦前から「リーゼント」を施術していたという証拠を提示しておきたい。というのも国立国会図書館デジタルコレクションで検索したところ1936年の広告を見つけたのである。
スタア 4(21)(82) - 国立国会図書館デジタルコレクション
「ゲーブル」というのは俳優のクラーク・ゲーブルのことだろう。
などがこれでわかる。
なおインターネット上で「リーゼントの命名者」とされるもう一人に尾道の理容師・小田原俊幸がいるが、彼が「リーゼント」を発表したのは昭和24年=1949年だというので遅すぎる。おそらくは既にあったリーゼントを独自にアレンジしたとかそういう話なのだろう。
さて、では増田英吉や小田原俊幸とは違って、ググっても検索結果に引っかかりすらしない「ポール・グラウス」とは何者なのか。あらためて調べてみると、1931年にイギリスで刊行された『TheArt AndCraft Of Hairdressing』という書籍にその名が掲載されていることがわかった。
7ページ(16 of 700)より。
PAUL GLAUS, PastPresident, Academy of Gentlemen’s Hairdressing (London), a former Chief Examiner in Gentlemen’s Hairdressing,City and Guilds ofLondon Institute.
ポール・グラウスは、ロンドンの「Academy of Gentlemen’s Hairdressing」の前会長であり、かつては「City and Guilds ofLondon Institute」の紳士向け理髪の主任試験官でした。
同姓同名同職の別人の可能性もなくはないが、おそらくはこの人が「ポール・グラウス」なのだろう。ただし、この書籍の著者はGilbert Foanという人物で、ポール・グラウスは「Special Contributor」としていくつかの記事を寄稿しているだけである。
そして驚くべきことに、この『TheArt AndCraft Of Hairdressing』では「リーゼント(Regent)」についても解説されているのである。「リーゼント」は和製英語であると思われていたが、やはり由来はイギリスにあったのだ。
118ページ(146 of 700)より。
One ofthe mostartistic and distinguished of haircuts, the Regenthas been wornby elderlysociety gentlemen for many years. Thenitwasalwaysassociated with long hair, inmost instances nicenatural wavywhite or grey hair. Since the presentwriter first decided to cut this style shorter, but in exactly the same shape, thestyle has been in great demand.
リーゼントは、最も芸術的で格調高いヘアスタイルのひとつで、長年にわたり、年配の社交界の紳士たちに愛されてきました。当時、リーゼントは長い髪、それも自然なウェーブのかかった白髪や白髪の髪によく似合う髪型でした。筆者がこのスタイルをより短く、しかし全く同じ形にカットすることに決めて以来、このスタイルには大きな需要があります。
Rub the fixative well into the hair, spreadingit evenly, but do notmake the mistake of using so much thatit runson tothe face and neck. Then, when the hairis saturated,draw the parting and comb the hair in the position required, sideways, going towards the back of the ears.
整髪料を髪によく揉み込んで均一に広げます。顔や首に流れるほど使いすぎないよう注意してください。髪に馴染んだら、分け目を作り、耳の後ろに向かって横向きに髪をとかします。
「リーゼント」の解説を読むかぎり、そしてイラストを見るかぎり、その前髪には分け目があり、側面の髪を横向きに撫でつけて、襟足はバリカンでV字に刈り上げていたようだ。どうやら前髪を膨らませるわけではなさそうである。また、この書き方だと、もともと「髪の長いリーゼント」が存在しており、それから「筆者」によって「髪の短いリーゼント」が生み出されたらしくはある。具体的なところは不明だが。
追記。鮮明な画像を見つけたのでリンクを張る。ダックテイルのように左右の髪を流して後頭部で合わせているのがはっきりとわかる。
https://www.pinterest.jp/pin/59672763786345196/
ちなみに、この書籍の281ページ(316 of 700)では「Duck-Tailed Pompadour」という髪型も紹介されている。おおっ、と思ったがこれは女性向けの髪型で、いわゆる「エルビス・プレスリーの髪型」とは異なるように見える。しかし、後頭部をアヒルのお尻に見立てる発想や、それとポンパドールを組み合わせる発想は、まず女性向けに存在していて、それが1950年代にアレンジされて男性にも適用されるようになった、ということなのかもしれない。
ややこしいことに、このスキャンされた『TheArt AndCraft Of Hairdressing』は1958年に発行された第四版なので、どこまでが改訂の際に追加された内容かわからない。1936年にポール・グラウスが日本でリーゼントを紹介した、という話があるからには、少なくともリーゼントは1931年から存在していたと思うのだが…。
追記。Google Booksにあった1931年版に「The Regent Haircut」が記載されていることを確認した。
『TheArt AndCraft Of Hairdressing』はイギリスで30年以上にわたって改訂されつつ出版されていた名著らしいので、当時のイギリスの理容師のあいだでは「リーゼント」はそれなりに広まっていたのではないかと思うのだが、現在では「リーゼント」という言い方はぜんぜん残っていないようだし、それどころか英語圏でさえ「リーゼント」は和製英語だと書かれていたりするのも謎ではある。
ともあれ推測するに、まず1930年代以前にイギリスで「リーゼント」という髪型が生まれ、1936年ごろにイギリス人のポール・グラウスが日本に「リーゼント」を紹介し、その「リーゼント」を見た増田英吉が日本人に合うように「前髪を膨らませるかたち」にアレンジして広告を打った、という流れなのではないかと思われる。
というわけで大枠の結論としては前回の記事と変わらないが、いくつかのディテールが明らかになったことで状況の理解度は上がったと思う。こちらからは以上です。
佐々木のおっちゃんと濱口のおいちゃんが「左翼も右翼もプーチンロシアを大日本帝国になぞらえないw」と的外れなことを言って失笑を買われてる。
[B!ロシア]佐々木俊尚onTwitter: "プーチンロシアを大日本帝国になぞらえる議論がなぜ右からも左からも出てこないのか。納得感あり。/サヨクとウヨクのウクライナジレンマ - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)https://t.co/7M64YmKJyv"https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sasakitoshinao/status/1640490883811246080
彼らは「都合が悪いから誰も指摘しないw」と笑うことはしても、彼らが「プーチンロシアの戦争は大日本帝国の戦争と同じ」と主張することはないんだよな。どうせなら「誰も言わないけど俺はこう主張する」って書いてほしいけど、「誰も指摘しない」で終わらせるってことはその主張はその程度のどうでもいい内容だったということでしかない。
彼らが仮想敵にしてそうなリベラル左翼、その代表メディアの朝日だけでも、プーチンロシアの戦争と日本の戦争の類似指摘記事はちゃんと出てくる
今は政治も「変動相場制」 五百旗頭真氏が問う、動乱の中の安全保障:朝日新聞デジタルwww.asahi.com/articles/ASQ7M44QZQ7HUTFK00M.html
ロシアの侵攻の図式、かつての日本とうり二つ 盧溝橋事件の教訓とは [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタルwww.asahi.com/articles/ASQ764JDQQ73USPT00D.html
権力に自ら服従したとき プーチンの「大本営発表」がやって来る:朝日新聞デジタルwww.asahi.com/articles/ASQ675KMVQ5TUPQJ00D.html
ウクライナ危機、各国なぜ「戦争」と呼ばず 昔の日本に重なるロシア:朝日新聞デジタルwww.asahi.com/articles/ASQ5C4K1RQ5BUTIL01Q.html
(交論)憲法と平和主義 山室信一さん、松元雅和さん:朝日新聞デジタル
www.asahi.com/articles/DA3S15280549.html
1931年の満州事変からの満洲国建国、6年後に泥沼の日中戦争開戦して、1941年に日米戦争開戦。
2014年のクリミア侵攻からの傀儡国家独立、ロシア併合に続いて8年後の2022年にウクライナ戦争開戦。泥沼化で今後の世界大戦勃発への恐怖。
あと昔はこういうの「マスコミが言わない」「マスコミが報じない」って枕詞で広まってたけど、SNSの言論バトルがメインの今は「左翼も右翼も言わない」「右も左も無視する」という形容詞がトレンドになってるんだなって思った。
マスコミが報じないとは一般の人気・最新記事を集めました -はてなhttps://d.hatena.ne.jp/keyword/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E5%A0%B1%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84
濱口首相は翌1931年(昭和6年)1月21日に退院した。しかし、野党・政友会に所属する鳩山一郎らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ(放線菌症)のため[5]死去。享年62(満61歳没)
パンの原料である小麦を始めとして、農作物を育てるには、窒素・リン・カリウムの肥料の三要素が不可欠だが、ハーバー・ボッシュ法は、窒素を供給する化学肥料の大量生産を可能とし、結果として農作物の収穫量は飛躍的に増加した。このためハーバー・ボッシュ法は、水と石炭と空気からパンを作る方法とも称された[5]。
化学肥料の誕生以前は、単位面積あたりの農作物の量に限界があるため、農作物の量が人口増加に追いつかず、人類は常に貧困と飢餓に悩まされていた(マルサスの人口論)[13]。
しかし、ハーバー・ボッシュ法による窒素の化学肥料の誕生や、過リン酸石灰によるリンの化学肥料の誕生により、ヨーロッパやアメリカ大陸では、人口爆発にも耐えうる生産量を確保することが可能となった[13]。これは1940年代から1960年代にかけて起きた、18世紀の農業革命に続く「緑の革命」の先駆けとなった[14]。また日本などでは従来肥料として用いられてきた屎尿による寄生虫の感染も避けられるようになった。
ハーバー・ボッシュ法は同時に爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことから、平時には肥料を、戦時には火薬を空気から作るとも形容された。硝石の鉱床が無い国でも国内で火薬の生産が可能となり、その後の戦争が長引く要因を作った。例として第一次世界大戦において、ドイツ帝国は海上封鎖により、チリ硝石の輸入が不可能となったが、戦争で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できた(火薬・爆薬を参照)。
本法によるアンモニア合成法の開発以降、生物体としてのヒトのバイオマスを、従来よりもはるかに多い量で保障するだけの窒素化合物が、世界中の農地生態系に供給され、世界の人口は急速に増加した。現在では地球の生態系において最大の窒素固定源となっている。さらに、農地生態系から直接間接双方の様々な形で、他の生態系に窒素化合物が大量に流出しており、地球全体の生態系への窒素化合物の過剰供給をも引き起こしている。この現象は、地球規模の環境破壊の一端を成しているのではないかとする懸念も生じている[15]。
ハーバーは本法の業績により、1918年にノーベル化学賞を受賞したが、第一次世界大戦中にドイツ帝国の毒ガス開発を主導していたために物議を醸した[16][17]。またボッシュは実用化の業績により、1931年にノーベル化学賞を受賞している。
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「こいのぼり」を歌ってるのがお母さん。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 -1999年4月8日)は、日本の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年、広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学、山中高等女学校の音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市外千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者の近藤忠義と結婚、専業主婦となる。
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松: