
はてなキーワード:1912年とは
[研究] 謎の薩摩弁「ちぇすと」はどのように生まれたか――鹿児島谷山方言とロシア語が結びついて流行語になり、誤解から「興奮とくやしさを表す雄たけび」に変化|mitimasu
(1)本来、「ちぇすと」は**鹿児島谷山町の方言で、「よっこいしょ」の意味**の言葉
(2)明治時代の中頃に鹿児島谷山方言の「ちぇすと」と**ロシア語の「че́сть(名誉)」が結びついて称賛としての「ちぇすと」が鹿児島の知識人の流行語になった**
(3)島津義弘の関ヶ原正面退却や宝暦治水を**称賛する言葉として**「ちぇすと関ヶ原」「ちぇすと松原」(※宝暦治水の千本松原のこと)が生まれた
(4)しかしロシア語の意味がわからない人が、(3)の使われ方から(2)を**悲しいとき・くやしいときに発する言葉だと誤解した**と思われる
(5) これらを踏まえて明治30年ごろに「ちぇすと」が**東京の学生や青年のあいだで「気合を入れる言葉」として流行し**、広く世間に知られるようになった
(6)流行がしずまり現実では(2)と(5)を使う人は減り、**フィクションの中の薩摩人ばかりが使う言葉になった**
(7)鹿児島県出身の作家である**海音寺潮五郎が(4)の意味でさかんに使用**(海音寺氏は谷山から遠く離れた現・伊佐市の生まれ)
(8) これが鹿児島県に逆輸入され「ちぇすと」が「くやしいときや気合を入れる時に薩摩人が発する言葉」だと**鹿児島県人が認めてお墨付きを与えてしまう**
(9)司馬遼太郎をはじめ**多くの作家が(4)の意味で使用し、(3)の意味は失われていった**
(10) 結果として「気合を入れるときの雄たけび」と「くやしいときに発する言葉」という**異なる意味が「ちぇすと」の中に共存し、よくわからない**ことになってしまった
(11)そもそも「ちぇすと」は「よっこいしょ」という意味でしかない江戸~明治期の谷山町の方言なので、**多くの現代鹿児島県人にとっても使わないよくわからない言葉**である
しかし、このnote記事では1936年の辞書の「露語から来たといわれる」という一つの記述を、そのまま鵜呑みにしてしまっている。
また全体として推測が多すぎるため、いくつかの情報を提示するとともに研究を補強したい。
「ちぇすと」の初出としては、1898年内田魯庵『くれの廿八日』が挙げられているが、これよりも早い用例はいくつかある。
まず、1888年の『青年之進路』。著者は鹿児島県士族の佐藤良之助とある。
これは相手を馬鹿にして煽っているシーンであり、この「ちぇすと」は少なくとも称賛の意ではあるまい。
ただ、ステッキを振るための掛け声なのか、相手を威圧するための掛け声なのかはわからない。
「さうダワ」「なくつてよ」のあどけない令嬢のみならんや「チエスト」と罵るこわからしき九州男児も「オオしんど」と言ふ裊娜(たほやか)なる西京佳人も以て一対の主人公となすに足らん
句読点がないからどこからどこまでが一文かわからないが、ともあれ「ちぇすと」は「罵り」だという認識があったことが窺える。
「ドウモ奇絶ジャ…」「エライ人が駈をるナ…コレどふする…」
田舎者が上京してきて呆然としているところに箪笥をかついだ男に突き飛ばされて「ちぇすと」と扼腕する、といった場面。
「ちくしょう」「なんてこった」などと同じような、思わず出てしまった言葉という感じがする。
1892年『罪と罰』。ドストエフスキーの訳書だが、訳者が『くれの廿八日』の内田魯庵である。
真向に鉈振上げて、婆アの頭脳を打砕き、腥血淋漓たる中に生血の滴る得物を手にし、錠を破し、金を盗んで、隠れやうとする自己だ。ちェすと!こんな事が出来るか?有るもんか?
英文からすると「ちぇすと」はかなり意訳っぽいが、やはり「なんてこった」という感じだろうか。
1893年『称好塾報』。称好塾は滋賀出身の杉浦重剛という人が東京に作った私塾である。
此頃より陰雲未た開けずと雖も細雨は既に跡を収め皆チエストと絶叫せり
其佳なる所に至れば「チエスト」と絶叫せしむ
前者は川船を漕いでいるときに雨が上がったところ、後者は薩摩琵琶の演奏についての記述で、いずれにしても快哉を叫んでいるようである。
薩摩琵琶はともかく、雨上がりに「ちぇすと」と叫ぶのは、すでに鹿児島出身ではない学生たちのあいだでも「ちぇすと」が定着していたのだろうか。
此愉快なる、此呑気なる、此無責任なる、此無頓着なる生活の写生に向って毛奴を奔らす、予輩も亦自らチエストー一声の下に案を叩いて四辺を一睨せさるを得さるなり
下宿暮らしの書生はあまりに自由気ままだという話のオチの部分だが、よく意味がわからない。
とりあえず、気合を入れるための一声、という感じか?
「左様か教師が左様云ッたか……自分でさへ左様思ふもの……」と言つつ両眼に涙を湛へ「チエストッ鹿児島男児が」と一声高く叫びたり
自分が情けなくなってちぇすと。
溝口は下足番の招き声に風(ふ)と心注(こころづ)きて立止り「チエストー、貴様(おはん)は偽言と云ひ馬鹿なッ」と言捨しまま元来し道へ駈戻らんとせり
怒りのちぇすと。
彼が情厚の男子と己(おい)どんを今日まで思ッチヨルとは何たる事か夢か誠か、イヤ誠……此文……チエストー、アア愉快愉快ト喜び勇むも実に尤もなり
喜びのちぇすと。
薩摩人の「溝口」が女義太夫の「紋清」に惚れ込んで事件に巻き込まれていく話らしく、全体的に良くも悪くも感情が高ぶると「ちぇすと」と言う描写になっているようだ。
ただ著者は匿名だが、実は高谷爲之という刑事上がりの新聞記者で、東京の出身らしい。
チェストー、這は是れ感情鋭烈なる薩摩隼人が何事にか其の心を刺撃せられ感泉俄に湧て抑ゆるに由なく、一條の熱気思はば口端より迸出するの声なり、此感声の発する時、是れ彼れ等が掌を握り肉を震はすの時なり、ステキヲ揮ひ路草を薙ぐるの時なり、実に薩人の感情は激烈なり
ステッキで草を薙ぐというのは『青年之進路』の場面そのままだが、そんなに典型的な行動だったのか?
と気付いたが、note記事でも紹介されていた『薩摩見聞記』にもほぼ同じ文章が出てくるので、この「薩摩新風土記」を本にしたものが『薩摩見聞記』なのだろう。
この『薩摩見聞記』の著者は本富安四郎といい、新潟(長岡藩)出身だが鹿児島に数年ほど滞在したという。
1897年、江見水蔭『海の秘密』。江見水蔭は先ほど出てきた「称好塾」の出身らしい。
「ちえッすと!」
謎の集団が、その企みが失敗したのか「ちぇすと」と叫んで去っていった、というような場面。
と、こうしたあたりが1898年の内田魯庵『くれの廿八日』以前の用例である。
明治中期からしか用例がないということに変わりはないが、当初から明らかに「称賛」ではない例が多く見られる。
これは冒頭でリンクしたnote記事の説明に反する事実である。
「薩摩新風土記」に書かれているように「何らかの感情が高ぶったときに出る声」というような説明が適当ではないか。
ちぇすと てすとに同ジ
元は「てすと」なのか?
元は「ちぇ+すとう」なのか?
チエスト よいしょ(掛声)
note記事では「ちぇすと」と「ちぇっそ」は無関係であろう、としていたが、
1977年『かごしまの民俗探求』の久保けんお「薩摩の方言と民謡」では、
チェストはおそらくエイクソの転化であろう。エイヨは薩摩ではチェイヨとなる。母音エに子音Tをかぶせてチェとするのである。エイクソがチェイクソとなり、促音化してチェックソ、クを省いてチェッソ…。チェッソを遠くへぶつけるには当然「チェスト」となるはずである。
1979年、井島六助『出水方言 カゴシマ語の一特異分野』では、
ちぇっそ 感動詞。一般に知られているカゴシマ語としては「ちぇすと行け」など言って激励の語とされ、または、思わず感嘆する時の語とされているが、ここでは元来、「ちょいちょい」と同様、「ざま見ろ」という気持ちを現わす感動詞で、これに類する用例は、「ちぇすと行け」多用のずっと南にもあるようである。チェッソ、ユゴトセンモンジャッデ(ざま見ろ、言うようにせんもんだから)。語源については、英語zestからとか、露語yectbからとかいうのがある。
と説明されており、これらは「ちぇすと」と「ちぇっそ」には関係がある、としている。
これらの説明が正しいかどうかはともかく、多くの異論があるということであり、そのなかで一つの説を支持するならば、何らかの根拠が必要になりそうである。
1. 基本コンセプト:秩序輸出論(Order‑輸出論)
劉仲敬は「西洋の国際秩序」がどのように東アジアにもたらされ、中国や周辺地域でどのように再生(=輸出)されたかを、1912年以降のおよそ百年間を通じて追跡します。本書では、
秩序の輸入:ウェストファリア体制以降、植民地化や不平等条約、国際連盟・国連体制など西洋発の国際制度が東アジアに持ち込まれたプロセス
秩序の輸出:中国や日本、共産主義運動が独自の「大帝国」モデルを再輸出し、周辺地域や内陸アジアに影響を及ぼしたプロセス
という双方向の流れを「秩序輸出論」として体系化し、従来の一方向的な「西洋化論」を批判的に改編しています
本書は序論+10章+結論で構成され、主な論旨は下表のとおりです。
章 節題の例 主な議論
序論歴史神話の解体東アジア史に残る「神話」を洗い出し、秩序輸入/輸出モデルの必要性を説く
第1章 秩序輸出論の理論モデル 秩序の流れを「入力→再構築→再輸出」という三段階のメカニズムとして提示
第2~3章不平等条約と立憲運動 清末の列強侵入と、中華民国成立後の憲政・立憲論を「西洋秩序の部分輸入」と捉察
第4章国民政府の模倣と限界国民党政権における米英「外交・情報システム」の導入と、その矛盾
第5章 暗躍する世界革命20世紀前半、コミンテルン/レーニン主義が東アジアに「革命秩序」を輸入した事情
第6章世界革命の失敗冷戦末期のソ連・中国・米台間の「非公式同盟」と、台湾戦略地位の低下を分析
thinkingtaiwan.com
第7章冷戦体制の安定と裂け目 『台湾関係法』以降の米台中三角関係を、「秩序の柔性規訓」と捉える
第8章改革開放と秩序の再輸出鄧小平以降の中国が「市場経済+自党支配」をセットで周辺に拡散した構造
第9章新大国の興隆と東アジア秩序21世紀初頭の中国台頭を、再び「大帝国モデル」の輸出兆候として描く
第10章 多元連合体としての未来 「諸夏主義」の萌芽を示し、東アジアの多元的秩序共存の可能性を展望
結論歴史神話の刷新中国の建国神話と党国語りを脱構築し、新たな地域秩序を提示
3.キー・セクションの詳解
◇ 第6章「世界革命の失敗」
主張:レーニン主義・スターリン主義の「世界革命」モデルは、社会を敵―味方に切り分け、一気呵成の破壊と軍拡を標榜したため、結局は内部消耗を招き、外部への拡張も継続できず頓挫した。
台湾戦略地位の低下:1970年代、米中ソの三角関係で台湾は米国秩序の「柔性規訓(技術支援・情報協力)」に依存するだけの立場に転落。南ベトナムと同様に「前線国家」から外され、戦略的価値を大きく失ったと解説します 。
◇ 第8章「改革開放と秩序の再輸出」
主張:鄧小平以降、中国は市場主義と一党支配を「パッケージ輸出」し、途上国や内陸アジアで「経済的自由+政治的統制」モデルとして受け入れられた。
意義:ソ連型共産主義とは異なる「中国モデル」の国際的地位を確立し、東アジア秩序に新たな亀裂を生む。
主張:東アジアを複数の「文明圏(夏)」が緩やかに連合する多元的秩序として再編する可能性を探る。これが後の「諸夏主義」理論の根拠になります。
4. 本書の意義
歴史神話の脱構築:従来の「中国一貫史観」「西洋単線的近代化論」を批判し、歴史を多層・多元的に再読解
地域秩序の相互依存性:西洋と東アジア、中国大陸と海洋諸国の相互影響を「秩序の輸入/輸出」で可視化
現代への示唆:米中対立、台湾問題、改革開放後の中国影響圏拡大といった現状を、歴史的長期視点から俯瞰的に理解できる
大谷翔平は「投打二刀流」という唯一無二の偉業で世界的な注目を集めていますが、全スポーツ史の中で「比類する」とされるアスリートはごくわずかです。ここでは、競技の枠を超えて歴史的なインパクトや多才さ、記録、影響力の観点から、大谷と並び称される5人の伝説的アスリートを紹介します。
古代中国の書物である『易経』に「観国之光,利用賓于王(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)[注釈 5]」との一節があり、「観光」はこれを略した成句であるというのが定説である[1][5][8][13][34][35]。したがって、明治期に西洋から輸入された多くの概念が和製漢語に当てはめられ理解されていったのに対し、観光という言葉そのものの起源は東洋にあるということになる。
「観光」という用語の使用が確認できる最も古いものは、1855年にオランダから江戸幕府に献上された洋式軍艦「観光丸」である。誰がどのようにしてこの艦名をつけたのか明らかになっていないが、珍しさや誇らしさを表したり「国の威光を海外に示す」という意味が込められていたと考えられる[1][34]。また、明治時代初めの米欧使節団を率いた岩倉具視は、報告書である『米欧回覧実記』冒頭に「観」「光」と揮毫している[注釈 6][37]。岩倉は後に、東京奠都により衰退した京都の経済再生の一環として、洋風迎賓館を建てて外国の賓客をもてなすことを政府に献策している[36][38]。なお、「観」という漢字には「示す」という意味もあり、「外国の要人に対して国の光を誇らかに示す」という意味も込められているとする説もある[1]。
このほかに佐野藩の藩校「観光館」や国産品奨励を目的として設立された「観光社」など固有名詞の中での使用例があるが、用語として広く普及したとは言い難い[注釈 7][34]。
1872年の日本の鉄道開業以降、各地で鉄道のネットワークが広がってゆき、これにより国内旅行が盛んになるが[33][39]、このころは「遊覧」や「漫遊」の語が使われるのが一般的であった[注釈 8][5][34][40]。1886年に東京府師範学校が「長途遠足」を開始し、内国勧業博覧会の開催などとも合わせて修学旅行が促進された[39]。1905年には鉄道を利用して高野山と伊勢へ参詣するパッケージツアーが南新助(日本旅行の創業者)によって始められている[39]。
1893年、渋沢栄一と益田孝の旗振りにより、日本で始めて外客誘致に取り組んだ民間団体である喜賓会(英: WelcomeSociety)が設立され、設立目的に「旅行の快楽、観光の便利に」が掲げられた[34][40]。喜賓会は1912年にジャパン・ツーリスト・ビューローとなり、日本交通公社の前身となっている[5][40]。
1923年・1924年ごろにはアメリカ移住団の祖国訪問について「母国観光団」と大々的に新聞報道されており、観光の語が現代的な意味として一般に認知されるようになったのはこの頃からともいわれる[1]。
濱口内閣は、元帝国ホテル副支配人で熱海ホテル経営者の岸衛[注釈 9]の働きかけを受け、外貨獲得のための外客誘致事業を目的とした機関の設置を決定した。これが1930年4月24日付け勅令83号によって創設された鉄道省の外局「国際観光局」である[5][1][35][40][41]。名称の候補には「観光局」「国際局」「外客誘致局」などがあったが、当時の鉄道大臣江木翼により決定された[40][42]。なお、英文名はBoard of Tourist Industryとなっており、ツーリズムの語を用いず、国際にあたる表示もなされていない[注釈10][34]。
「観光」の語は原典を紐解くとアウトバウンドを指すものとも解釈できるが[35]、このように戦前の「観光」を冠する事業はインバウンドを中心としたものであった[注釈11][5][40]。
国内旅行も包含した今日の意味合いでの「観光」が定着したのは、マスツーリズムが到来した1960年代以降であるとする指摘もある[34]。宮崎バス(現・宮崎交通)が、「名勝」「遊覧」といった表現が享楽性を連想させるとして、戦中戦後に「参宮」「観光」へ名称変更した事例が報告されている[5]。
庶民に普及した当初は観光に行くことそれ自体が贅沢でありステータスであったが、観光が身近な存在になるに連れて「どこに行くのか」「何をするのか」が次第に重視されるようになっていく[23]。
藤原明衡の『雲州消息(明衡往来)』に年賀の手紙の例文が記載される
玄関に「名刺受け」を設置し、不在時に年賀の挨拶を書いた名刺を入れる文化が生まれる
1873年:官製はがきが発行され、年賀状の利用が徐々に広まる
1887年頃:年賀状を出すことが国民の間で年中行事として定着
1906年:「年賀特別郵便規制」が公布され、年賀状文化が法的に確立
1949年:お年玉付き年賀はがき(くじ付き年賀はがき)が初めて発行される
1982年:寄付金付き年賀はがきの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになる
2003年:年賀はがきの発行枚数が過去最高の44億5936万枚を記録
スコヴィル値は、唐辛子の辛さを測定するための単位です[1][3]。正式にはスコヴィル辛味単位(Scovilleheat units、略称SHU)と呼ばれます[3]。この単位は、1912年にアメリカの化学者ウィルバー・スコヴィルが考案したスコヴィル味覚テストに由来しています[3]。
当初の測定方法:
5.キャロライナ・リーパー: 約3,000,000SHU[4]
スコヴィル値は、辛さを数値化することで、異なる唐辛子の辛さを比較したり、料理や加工食品の辛さを表現したりする際に広く使用されています。ただし、個人の感じ方には差があるため、あくまでも参考値として捉えることが重要です。
Citations:
[1]https://aminaflyers.amina-co.jp/list/detail/1191
[2]https://www.unagi-koubou.jp/contents/blog/2087.html
[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E5%80%A4
[4]https://canaeru.usen.com/diy/p944/
タイタニックで女が女子供より男を助けろと言わなかったから、女性参政権は遅れたって言うが、じゃあ海難事故の平均で女より生存率が2倍高い男は何で参政権あるの?
女子供押しのけて自分生存第一で生き残るのは正義だからってこと?
https://x.com/kouei52/status/1836340819957297423?t=G_Y0RebRlBz2swnerA8igw&s=19
「女性と子供が優先の原則に、女性の大半は異議を唱えなかった」
この結果、女性の参政権運動は後退する事になる。普段は男女平等を要求しても、戦争や災害等でいざとなると男に危険を押し付けるのは現代も変わらない
船が遭難した際、一般的には女性や子供が優先的に救助されていると見られがちだが、実はこの説は間違っている。スウェーデンの学者が1852年から2011年までに発生した18件の海難事故を分析した結果、助かるのはもっぱら男性であることが分かった。中国新聞網が台湾「聨合新聞網」の報道を引用して伝えた。
調査対象となったのは、海難を起こした18隻の船に乗っていた30カ国あまりの乗客・船員ら約1万5千人。
研究によると、船長や船員の多くはわが身の安全を第一とする傾向があった。海難事故における男性の生存率は女性の2倍で、子どもは最低だった。
18件の海難事故のうち、女性の生存率が男性を上回ったのはわずか2件のみだった。そのうちの1つが、1912年のタイタニック号事故だ。タイタニック号の事故では女性と子どもの7割が助かったのに対し男性はわずか2割で、「例外的」と言える。
1. **エイブラハム・リンカーン (1865年)**
2. **ジェームズ・ガーフィールド (1881年)**
3. **ウィリアム・マッキンリー (1901年)**
4. **ジョン・F・ケネディ (1963年)**
1. **アンドリュー・ジャクソン (1835年)**
2. **セオドア・ルーズベルト (1912年)**
3. **フランクリン・D・ルーズベルト (1933年)**
4. **ハリー・S・トルーマン (1950年)**
5. **ジョン・F・ケネディ (1960年)**
6. **ジェラルド・フォード (1975年)**
1903年、イギリスはレーニンを立ててメンシェビキの党(中流国民の共産党)を作る
1912年、レーニンがメンシェビキの党をボリシェビキ(大衆の共産党)に作り替える
1917年、ボリシェビキはロシア王政を倒すが、メンシェビキに政権を奪われる
1918年、ボリシェビキがメンシェビキを追放、独裁のロシア共産党が発足する
1919年、レーニンがコミンテルン(第3インターナショナル)を発足させ、労働革命が始まるが、ここで内戦や、ポーランドのロシア侵攻が発生
1922年、敗退したポーランドは、ヒロヒトと日波通商航海条約をして手厚い輸出支援を受ける。スターリンが共産党書記長になる(他方で、日本は元ドイツ租借地の中国青島の権利を失い、刑訴法改正で検察の不起訴裁判権が設置)
1923年、日本の検事総長小山松吉が、『露国の司法制度及び訴訟手続』を出版(法曹会)
元のボリシェビキを潰すために、スターリンをレーニンの見張りにつけ、ポーランド・ソビエト戦争で戦功を上げさせ(しかしソ連のポーランドへの侵攻には反対させ)、書記長にしたのは誰だろうなあ(棒)
今日、最も有力とされているおっぱい(と呼ぶ)の起源は、江戸時代末期、幕末の1859年に、戯作者の柳亭種秀(柳亭種彦の弟子、笠亭仙果とも言う)が著した随筆『於路加於比』における記述である。
「乳汁をおつぱいとは、をヽうまいの約りたる語なるべく…(以下略)」
この文章を細かく噛み砕いてみると、まず「乳汁」とは「母乳」のことであることが分かり、「母乳」を「おっぱい」とは...と続くことが読み取れる。後半の「約りたる」が一見難しいが、これは現代で言う「縮む」と同じであるから、「おおうまいの縮まった言葉で...」と解釈される。
つまり、「おっぱい」とは「おお美味い」が変化して生まれた言葉だというのである。ここでの「美味い」とは「母乳」のことである。今日でも「おっぱいを飲む」といった表現を用いるものの、「おっぱい」が「おお美味い」からきていることは意外であろう。
引用元
https://note.com/fuku_piyo_0329/n/nb3e5da5ae513
ということらしい
朝夕の通勤・通学ラッシュ時間帯に登場した「婦人専用電車」が最初とされている。
乃木将軍もかつて学習院女学部の生徒が電車に乗ると男子が女生徒の体に触れたがって困ると電気局員に語られたと記憶するが、
近来不良学生が山手線沿線より市内各女学校に通う女学生の乗車するを機とし
混雑に紛れて、或いは巧妙なる手段を以て誘惑し、逸らすとも女生徒の体に触れて、其の美しき姿を見るを楽しみとする風がある。
彼らは此の女学生の満載せる電車を称して「花電車」と呼んで居るが、今回中野昌平橋間に各駅から
婦人専用電車を朝の八時半前後と午後の三時半前後の数回運転せしむることに決定し、
此の電車を女学生が利用する様にお茶の水附属女学校、女子学院、千代田女子学校、雙葉女学校、三輪田女学校、精華女学校等に対し通知し、
来る三十一日より実施することになった。
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河"コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
ゲイやセクシャルマイノリティを基本的に弾圧してる中国だが、
マクロな点でみれば人類が崩壊してしまうゲイやレズをある程度統制するのは正しい
中国市民の間で鉄道に女性専用車両を設けて欲しいという要求が殺到している。これは日本と同様に痴漢が横行しているからだ。
とあるネットユーザーは重慶市に女性専用車両の設置を求めたが、重慶市は拒否の意思を明らかにした。
中国の特性上、このような公式的な意思決定は、中央政府の裁可が必要だという点を考慮すれば、習近平政府の意思が反映されたという解釈だ。
ネットユーザーが最近、重慶市政治ネットワークのプラットホームに書き込みを掲載し、「女性専用車両」を設置するかどうかについて問い合わせた、と報じた。
該当ネットユーザーは「重慶市は地下鉄を通じて外国人に良いイメージを植え付けなければならない。セクハラのような状況を防止するためには女性専用車両の設置が必要だ」という意見を提示した。
しかし、重慶鉄道公社は「当分、女性専用車両を設置する計画はない」と答えた。
その理由は3つだった。まず「女性専用車両の設置は法律を遵守する男性に差別・不信を与える」と述べた。
続いて「女性専用車両ができれば、一般車両に乗っている女性に心理的圧迫を与えることがある」と述べた。最後に「公共施設を平等に使用できる男性の権利を排除しピーク時間帯に不便をもたらすことがある」と付け加えた。
この3つの理由から、中国政府は女性専用車両の設置を最終的に“許可しない”としている。
人民日報インターネット版人民網も女性専用車両が導入された日本を例に挙げ、「肯定的な側面よりは否定的影響の方が大きい」と否定的見解を提示した。
あれだけブルマーについて調べたのだから、しばらくはブルマーに対する知的関心も収まるだろう。そう思ってはいたものの、何となくツイッターでブルマーと検索したときに、ヨーロッパの女の子のブルマー姿を目撃し、疑問が再発した(画像はこちら。フェチの人のアカウントにつき注意)。結局、東欧のブルマーの普及っていつからだったんだ?
以前の調査でも、チェコやポーランドにもブルマーが存在していることまでは調べたが、言語の壁もあり画像検索にとどまっていた。ならば、まとまった時間が取れたことだし、しっかり調べてみるべきではないだろうか。元々チェコ文化には文学や音楽を通してなじみがあることだし。ドヴォルザークいいよね。
社会主義政権下では、制服を着て体育の授業に出るのが義務であった。
体操服としての制服は、第一共和国時代(1918-1938)にはすでに一部の学校やソコル(後述)で必要とされていたが、社会主義の時代になって初めて一斉に普及し、広く統一されたものとなった。
男子は白いタンクトップに赤い短パン、女子は短い袖に青いスエットパンツだった。この強制され対象は階級のない社会主義の未来の象徴だった。これは1965年、チェコの3回目のSpartakiada(東側の体育祭、後述)のためにデザインされ、70年代から80年代にかけてが最盛期であった。1985年のSpartakiadaではチェコ国旗の三色を再現するため、赤いブルマも導入されたようだ(ここは誤訳かもしれない)。
女子の短パンはお尻の周りゴワゴワとまとわりつき、ウエストは高く、太ももにはゴムが入っていた。ブルマーによく似ているが、体育の授業のたびに太ももに跡がつくくらいきつかったという。
ちなみに、この時代の運動靴は後に普段使われたり、バレーダンサーがはくようになったりしたそうだ。のちに、ポーランドなどに輸出もされたらしい。
Jednotný cvičební úbor: noční můra děvčat za socialismu - ExtraStory
https://www.abczech.cz/Jednotny-cvicebni-ubor-P7035300.html
プラハで創設された民族的体育運動協会。現チェコの国民性の形成に重要な役割を果たしたと言われる。元々はハプスブルク家からの独立を目指す意図を持っていた。
ソコル設立の動きは他のスラヴ系民族にも波及し、1908年にスラヴ・ソコル連盟が設立された。チェコ以外にもスラヴ諸国の連盟が加入し、1912年にはプラハで全スラヴ・ソコル祭典が開催される。1926年には180,000の観客を収容可能なマスゲームの上演のためのGreat StrahovStadiumが完成。
両大戦間にソコルはより発展するが、ソビエト連邦では活動を禁止された。ナチス下では解散させられるが、戦後協会は再建される。しかし、共産党政権下では東欧諸国のソコルは事実上活動を禁止され、協会は国外で活動を継続した。1948年にプラハで開催されたソコル祭典の集団演技には98,000人の学童と273,000の会員が参加し、2週間にわたって行われた大会の中で共産主義政権への反発が露にされた。
チェコスロバキアではソコルの活動が停止した後、社会主義的な演出を施した「Spartakiada」というマスゲームを中心とした体育大会が1955年から5年ごとに行われるようになった(後述)。
なお、もともとは同じユニフォームの着用、マスゲームの参加は過去には民族主義による開放感をもたらしていたが、関心が多様化した社会ではそれらの行為は拘束として受け止められているそうである。現に、上から国民を教育しようとしたこの運動はあまり成果が出ず、徐々に管理主義的になっていったという。民族の自由を求める戦いも、完全にクリーンというわけでもないらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%AB_(%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A)
ソビエト連邦がスポンサーになったスポーツの大会である。ソビエト連邦はもともとオリンピックに対抗し、これを補完しようとしていた。国際Spartakiadaは1928年から1937年に5度開催されたが、のちにこれは東側ブロックの国ごとのイベントになった。名前はスパルタクスから来ており、プロレタリア国際主義を象徴する。貴族的・資本主義的な(古代)オリンピックとの対比になっている。
その後、チェコでは大規模場マスゲームを指す言葉にも転用された。これは先述のGreat StrahovStadiumで5年に一度開かれた。規模は非常に大きく、1960年は75万人が国中から参加し、200万人がイベントを目にしている。
1955年から5年ごとに開かれたが、1970年はプラハの春で中止、1990年はビロード革命で中断され、小規模な形で再開した。
1994年以降ソコル祭典は6年ごとに開かれているが、祭典のマスゲームやパレードに参加する会員の多くは過去のソコルに馴染みが深い高齢者で占められているらしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spartakiad_(Czechoslovakia):title]
他人に迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリアの混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所が日本にないのは残念だ。何も混浴にしろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。
さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである。
以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。
有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性の壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマのビキニには漫画「テルマエ・ロマエ」からも言及があった)。つまり、絵画の水浴図で誰もが全裸なのは、西洋の画家の猥褻な妄想ではない。
水着の歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場で女性がガウン上のものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫のシャーロック・ホームズ「ライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物は全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M.フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性に悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。
ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝の反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代のビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外の観光案内に、トップレスの女性の写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツ・オーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。
また、一部のスポーツ施設では、男性が全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本のCFNM系エロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きである(リンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。
なお、女性の水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に、生理時の衛生管理の問題もあったそうである。
ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較的最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴の歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年に自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉がイギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。
この時期はVictorianSports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国が世界をリードする国家的運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランドの英文学史の本にも載っている。
海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である。
https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear
上記の記事によれば、女性がオリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年のストックホルムでのこと。競泳水着の歴史は、ここから語られるべきだろう。
初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太ももの露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである。
ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。
1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性の水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着の流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんのハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。
そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードのボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。
つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどしの一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房の露出があるのでリンクは控える)。エッチなマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。
https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/
https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg
これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である。江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。
昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物をしまうことで、取りすぎることを防ぐそうである。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html
たぶん、女性のふんどしの使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか。団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SMは不勉強なもので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。
考えてみれば、自分はふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。
https://captain.or.jp/?page_id=4231
https://spc.jst.go.jp/news/120801/topic_4_05.html
研究によると、船長や船員の多くはわが身の安全を第一とする傾向があった。
海難事故における男性の生存率は女性の2倍で、子どもは最低だった。
18件の海難事故のうち、女性の生存率が男性を上回ったのはわずか2件のみだった。
そのうちの1つが、1912年のタイタニック号事故だ。タイタニック号の事故では女性と子どもの7割が助かったのに対し男性はわずか2割で、「例外的」と言える。
—北宋(960年 - 1127年)
—南宋(1127年 - 1279年)
—五胡十六国時代(304年 - 439年)
—新(8年 -23年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/世界の歴史
哺乳類では当たり前の行動だから、人間でやる人が居るのも本能なんだろうな。
マシュ・ダーヤンっていう植民地時代の南アフリカ哺乳類学専門の人が発表した
1912年の『哺乳類の文化的性行動とヒト』という論文の中で詳しい説明がある。
哺乳類のオスが、メスの顔面に対して男性器をこすりつける行為は、イルカ・ライオン
つまり陸、海両方の哺乳類のみで見られる行動で、生得的ではないが群れの一部でその行動をすると皆し始める、
「生得的トリガー文化行動」っていう、遺伝子に組み込まれているが、何かの拍子に後天的にその行動をし始めるという行動の一つ。
その理由は、顔面は餌を食べたりモノを調べたりするのによく使い、より多くの菌にさらされているので、
そこに男性器という粘膜を擦り付け自己に軽く感染させて、女性器に挿入。結果的に子供にもその菌は晒されるので、抗体を持った子供が生まれるわけ。
1912年当時はまだそういう人間の性的な文化行動については広がってなかったけど、
現代で改めて考えてみると、AVでやってる人も多いし、結局マシュダーヤンの仮説というのは人間にも適応することが出来る
ってのが結論。