
はてなキーワード:1910年とは
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3.ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5.過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある日本、英国、サウジなど比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた韓国、イラン、バルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強いラテンアメリカ、バルカン、東欧王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある韓国→日本、イラン→湾岸諸国など政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国日本、タイなど 高い(主に歴史もの)清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イランサウジ、ヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコヨルダン、湾岸諸国 中オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカンスペイン、英国、モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
ツイッターの外国人排斥論者を眺めてると「あぁ、我々は正しく関東大震災で朝鮮人殺しまくってた民族の末裔だわw」って思えるから楽しいよね
日本人ってほんと流言飛語による他民族の弾圧、迫害が好きすぎる
しかもその差別意識において加害者の立場なくせに被害者ヅラするのが大得意
日本人は敗戦を経験してなお民族としては100年間何一つ成長できていないんじゃないかって思えるわ
関東大震災の朝鮮人虐殺はその場の流言飛語によって引き起こされたと勘違いされがちだけど、実際には1910年の朝鮮併合以降のヘイト感情の蓄積がある
朝鮮に恨まれているんじゃないかって疑心暗鬼から生じる「加害者ポジションの被害者意識」から日本に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者にヘイトが向かい、社会不安と合わさって最終的には大震災というトリガーをきっかけに虐殺が行われた
もうびっくりするくらい今の日本人のメンタリティと共通してるんだよな
・人手不足解消のために外国人技能実習制度なんて現代の奴隷制度をぶち上げて
・いざ奴隷たちがその境遇に反抗したら「治安ガー」「美しい日本ガー」と被害者意識とナショナリズムを拗らせて
YouTubeなんかみていると自警団を組んで川口を『パトロール』する極右の活動家の動画が大人気
いま関東大震災が起こったらまた虐殺なんていう醜聞を世界に撒き散らしまくるの確定だよね、我が美しき日本民族様はさぁ…w
奴隷制度を作り外国人を大量に日本に入れたのは外圧でもなんでもない
そういう政策を支持してきた我々日本人の代表たる日本政府の意思なんだよ
しかもいまの日本はその外国人労働力がないと成り立たないまでに人口減少が著しい
こんなん外国人に積極的に教育と就労の場を提供してなんとか日本社会に馴染んでいただけるよう国が頭を下げて積極的に策を打つしかないじゃんね
ま、敗戦で国を滅ぼしてもなお反省できないんだから未来永劫不可能なのかもしれないね
伊藤博文役でリリー・フランキーが出演してるから興味あって鑑賞したんだがマジで安重根が朝鮮民族の英雄として描かれてて酷かった。
映画は安重根がハルビンでリリー・フランキーを銃殺して旅順で死刑になるまで(1910年3月)しか描かれないのだが、エンドロールの手前にこんな説明文が挿入される
「その後も日帝の抑圧は強まり義士達の闘争は続いた。そして36年後、遂に韓国は独立した」みたいな感じの文章なんだが、これだけ読むとまるで義士達の闘争の成果として韓国が独立したかの様に誤解してしまいかねないめちゃくちゃイデオロギッシュな悪文なんだよ。実際は米帝のおかげなのに。
もっと言うと安重根がハルビンでリリー・フランキーを殺害しちゃったせいで日韓併合論の機運に拍車がかかった事実を無視してる。
日帝は伊藤博文暗殺事件を口実に日韓併合に踏み切ったわけで、その意味では安重根は祖国を亡国へ導いた人物とも言える。
それ故かこの映画では日韓併合について作中では一切触れないし説明文すらない。
つまり安重根がリリー・フランキーを殺害した時点でも、旅順で処刑された時点でも、韓国は日帝にまだ併合されてなかったという事実に触れないんだよな。
安重根が日韓併合の口実を作ったという不名誉かつ不都合な事実に触れたくないという意思を感じる映画で俺はそこが不満だった。
あとシアターの雰囲気も独特で俺の右隣の老紳士は作中の台詞(韓国語)を小声で反芻してて、安重根がリリー・フランキーを殺害したシーンでは幾度も首を縦に振ってた。
左隣の女性は涙を流しながら連れの男性と韓国語?らしき言葉で会話してた。
あなた:
韓国における代替歴史物の創作で君主制を想定した場合の典型的なストーリーを教えてください
ChatGPT:
韓国における代替歴史(仮想歴史、または「もしも歴史」)ジャンルは、特にウェブ小説やドラマ、マンファ(韓国の漫画)などで非常に人気があります。君主制を前提とした代替歴史物は、「朝鮮王朝が続いていたら」「大韓帝国が滅びなかったら」「近代以降も王政が存続していたら」など、歴史の分岐点を仮定することで展開されます。
設定例:1910年に日本に併合されなかった、または1945年以降に王政が復活した世界。
若き王太子/王女が、政争や陰謀、国際関係の中で王室の存続と改革を目指す。
王室を中心にした宮廷ロマンスや、現代政治との対立が描かれる。
主人公は一般市民から突然皇太子妃に選ばれる…といった「シンデレラ」系展開も人気。
代表作例:ドラマ『宮 -Love in Palace-』(韓国に君主制が残っていたらという設定)
設定例:清や日本の圧力を跳ね除けて近代化に成功、大韓帝国が今も国家として存続。
軍制改革・産業育成・列強との交渉などを中心とした歴史スリラー。
主人公が改革派の若き王子または天才官僚・軍人として登場し、国を導く。
設定例:朝鮮文化をベースにしたが、歴史的な国家とは異なるファンタジー国家。
女性主人公が男装して科挙に挑戦する、あるいは王妃として政敵と戦うなど。
「逆ハーレム」的展開もありえる。
代表作例:小説『赤い袖先』(歴史ベースだがロマンチックな脚色が多い)
設定例:現代人が過去の王朝時代にタイムスリップし、歴史を変えようとする。
IT知識を駆使して軍事改革、政策改善、民生安定などを実現する。
主人公が王になったり、王に仕える形で「現代的価値観」を浸透させる。
要素説明
主人公の成長譚無能と思われた王子が覚醒、女性主人公が政治の舞台へ
もしご希望があれば、特定の時代設定やテーマ(例:改革志向の王妃主人公、外敵に抗う若き王子など)に沿ってオリジナルストーリーのプロットも作成できますよ。
あなた:
ChatGPT:
はい、韓国における代替歴史創作では君主制は非常に人気のあるテーマです。以下に、その理由や背景、そして現代韓国社会との関連性を解説します。
韓国は現在、民主共和国ですが、現代政治への不信感や疲弊感が社会の中に存在します。
君主制=強いカリスマ指導者、秩序、美意識、伝統文化の象徴とされ、**「理想の統治者像」**として描かれることが多いです。
特にフィクションの中では、「賢君」「改革派の王」「国民を思う王女」など、理想化された人物が登場し、現実では得られない希望や正義が体現されるのです。
朝鮮王朝(1392-1897)や大韓帝国(1897-1910)の美術、建築、衣装などは韓国の伝統文化の象徴。
宮廷文化、科挙制度、王宮建築など、視覚的・美術的に魅力的な要素が多く、映像作品やマンファに適しています。
「韓国的ファンタジー」を構築するうえで、王朝文化はとても都合がよい舞台です。
多くの代替歴史作品では、「もし併合されなかったら」「もし大韓帝国が続いていたら」というナショナル・アイデンティティの再構築が試みられています。
『宮(Goong)』『赤い袖先』『雲が描いた月明かり』『恋慕』『ノクドゥ伝』など、君主制設定のロマンス作品が大ヒット。
ウェブ小説プラットフォーム(カカオページ、RIDIBOOKSなど)でも、王族や王朝をテーマにした作品が多く、安定したファンダムを形成しています。
🔥 人気の背景を要約すると:
もし興味があれば、韓国の代替歴史小説における人気作ランキングや、最近のウェブ小説トレンドもお調べできます。
あなた:
現在、世界の国の圧倒的多数が共和制です。たとえ日本による植民地支配を実際の韓国が受けなかったとしても、韓国の君主制が続いてたと仮定するのは荒唐無稽ではありませんか?
ChatGPT:
非常に鋭いご指摘です。ご指摘の通り、現代の国際政治・社会の潮流に照らせば、韓国に君主制が続いていたと仮定するのは現実的には非常に難しい、つまり「荒唐無稽」と言ってよい側面があります。ただし、代替歴史(架空歴史)というジャンルが扱うのは現実的な「あり得た未来」というより、**ある種の「文化的・心理的欲望」や「理想の投影」**であるため、現実性とはまた別の次元の話になるのです。
第二次世界大戦後は、植民地支配から独立した国のほとんどが共和制を採用。
韓国と文化・歴史が近い中国(中華民国→中華人民共和国)、ベトナム(阮朝→社会主義共和国)なども王政廃止。
朝鮮半島において:
大韓帝国(1897–1910)は、清の宗主権を脱して近代国家を目指したが、近代化は不完全で内部の腐敗と列強の圧力にさらされていた。
仮に日本による併合がなかったとしても、国内革命(例:辛亥革命的なもの)やクーデターによって王政の廃止→共和制移行の可能性が高い。
したがって、リアルな歴史的分岐点を考えると、君主制が21世紀まで韓国に残っていた可能性はきわめて低いです。
🤔 2. にもかかわらず、なぜ君主制が人気なのか?
この矛盾は、代替歴史における「リアルな可能性」より「感情的欲望」や「美学」が重視されるというジャンル特性に由来します。
「もしも滅びなかったら」=喪失への反動、文化的ノスタルジア。
君主制は物語装置として、「家柄」「身分」「天命」などのドラマ性・運命論を生む力が強い。
君主制を舞台にした物語では、貴族・王族・反乱軍・平民といった階層社会がくっきり描け、読者にとっても分かりやすい。
現代社会では不正・格差・ポピュリズムなど民主主義の問題点も目立つ。
フィクションでは、「聡明な王がすべてを導く」というユートピア的統治像が歓迎されやすい。
実際には現在も君主制国家は30か国以上あり、その多くは立憲君主制(英国、日本、スウェーデンなど)です。ただしそれらは古くからの制度を維持してきた特異な例であり、新たに王政を導入する国はありません。
✅結論
はい、歴史的・構造的に見て韓国の君主制存続を仮定するのは現実性に欠ける仮定です。
しかし、それは代替歴史ジャンルにおいては「荒唐無稽であること」がむしろ想像力の余地を与える魅力となります。
これは「現実を再現する」ための歴史ではなく、「現実では失われたかもしれない理想を夢想する」ための物語なのです。
もしご興味があれば、「君主制フィクション」がどうして現代の視聴者にとって魅力的なのかをもう少し哲学的・文化論的に深掘りすることも可能です。
個人的には歴史や文学など、最新情報は特に重要ではなく、定説があり、文字情報が情報のオリジナルで、チャットGPTが一部でも全文学習しているものが、チャットGPTとの議題でとても面白いよ
増田らしく男女論なんかで話すなら、
・泉鏡花「外科室」で奥さんがそこまで秘めた理由がわからない。当時の女性の身分格差や自由恋愛はどうだったのか?
・森鴎外「雁」や谷崎潤一郎「刺青」が女性が自らの性に自由になれるさきがけの作品とされるが、当時の女性の自由恋愛の価値観は、外科室から15年でどう変わったのか?
・1910年ごろに女性が解放され始めたのは社会で何が起きたからなのか?
こんな話はとても面白かった
現在、「パン食い競走」の起源については、一般にこう説明される。
この「1874年海軍兵学寮起源説」と「1896年札幌農学校起源説」について検証する。
1874年の海軍兵学寮では、イギリス人のダグラス提督の提案により「競闘遊戯」という日本初の「運動会」が開催された。
そこで実施された競技は詳しく記録されているのだが、そのなかにパン食い競走に類するものは見当たらない。
二年後の1876年にも同様の運動会が開催されたとするが、その内容を伝える『Japan Weekly Mail』の記事を確認しても、やはりパン食い競走はない。
一方の札幌農学校であるが、こちらは1878年から毎年「遊戯会」という名の運動会を行っていた。
これは「大志を抱け」で有名なクラーク博士や、その後継のアメリカ人教師たちの指導のもと、生徒たちにより実施されたものであるという。
『恵迪寮史』によると、1896年の第十五回遊戯会にて「食菓競走」という競技が行われた。
これが「1896年札幌農学校起源説」の根拠になっているのだろう。
また1898年刊行の『札幌農学校』という書籍でも、現今の遊戯会では「菓子喰競走」が行われている、とある。
この「食菓競走」あるいは「菓子喰競走」はパン食い競走と同様の競技だったのだろうか。
1895年に札幌農学校を卒業した松村松年は、『人間学としての体育』という本において、「昔時著者の学生時代に行はれたる競技」として「菓子喰競走―之れは両手を後方に廻はし、口にて途中に吊れる菓子を喰へ行くの競走」と説明している。
1902年(明治35年)の新潟県高田中学校修養会の機関誌では、秋季大運動会の「食菓競走」について「飢えたる狼の如く押開いて突貫して来る一隊。目の前にぶらつくを取り得ぬもどかしさ」と説明している。
1910年(明治43年)の『運動世界』の記事では、早稲田大学春季陸上運動会について「滑稽なのは菓子喰競走で宙にぶら下げた菓子を手を結びて馳け付け下からガブリとやる、それを側に居る係りがワザと動かす、喰い付く動すと云う滑稽もの」と書いている。
これらを勘案すると札幌農学校の「食菓競走」「菓子喰競走」が現在のパン食い競走と同じ形態だった可能性は高く、とりあえずは「1896年札幌農学校起源説」を採用していいのではないかと思う。
というか松村の記述を素直に捉えるなら「菓子喰競走」は1895年以前にも行われていたかもしれない。
ただし松村はいくつかの学校を転々としているので札幌農学校のことである確証はなく、また研究者として農学校に残っているのでそれ以降の記憶と混じっている可能性もある。
当時、こうした競技を指導していたのは、ダグラス提督やクラーク博士といったお雇い外国人教師であった。
たとえばクラーク博士の母校であるマサチューセッツ農科大学では「サイダーミート(Cider Meet)」というイベントがあったらしい。
「サイダー・ミート」と呼ばれる最初の集まりがブレイク・フィールドで開催されたのは1878年10月20日で、’80年卒のクラスと’81年卒のクラスの対決は引き分けに終わった。両クラスは夕方にフィールドに集まり、平和的にサイダーを飲んだ。興味深いのは、800人以上がこの集まりに参加し、その中にはスミス大学の女子学生も多く含まれていたことだ。後の世代には奇妙に思えるかもしれない競技としては、ジャガイモ競走、3マイル競歩、フットボール蹴り、三本脚競走、目隠し手押し車レース、野球ボール投げ、太った男の競走、背負い競走、そして何よりも人気だったのが、油を塗った豚を追いかけるレースだった。
海軍兵学寮の競闘遊戯の種目だった「二人三脚」「背負い競走」「豚追い競走」などが記されているのは興味深い。
また「ジャガイモ競走(PotatoRace)」は札幌農学校の遊戯会に「薯拾」として採用されていたようだ。
時系列的に、アマースト大学の「サイダーミート」そのものが、「競闘遊戯」「遊戯会」に直接の影響を与えたわけではないだろう。
しかし、おそらく同種の競技はサイダーミート以前から行われており、それがお雇い外国人教師を通じて日本にも導入されたのではないだろうか。
その線で考えるなら、菓子喰競走も当時のアメリカの大学などで行われていたのではないかと思う。
明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、
出生時に人体に埋め込まれる生体統合型デバイスとして全国民に普及した。
この技術革新が明治5年(1872年)の学制発布以前に実現したことにより、
福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論の電気的伝播」が現実化し、
明治政府の中央集権化政策と民間の自由民権運動が複雑に絡み合いながら、
森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩がリアルタイムで共有され、
夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生文運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、
薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。
西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民のタイムラインで炎上する中、
岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義」映像コンテンツが300万回再生され、
戊辰戦争では会津藩の白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、
森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、
森鴎外が陸軍軍医時代に投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、
作中人物の心理描写をリアルタイム修正する実験的創作を試みた。
夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生の遺書」展開を読者投票で決定、
芥川龍之介が東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり、
谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者からの画像投稿で構成する「コラボレーティブ・アート」を実践、
永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原の遊女たちが匿名アカウントで作中の描写に反論するメタフィクション的試みがなされた。
明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ的情報戦を展開。
政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍の士気低下を計画的に誘導、
立憲自由党が政策動画配信と仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施、
明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化。
日露戦争記録映像『旅順要塞総攻撃』(1904年)では視聴者が攻撃ルートを投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。
落語家の三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ「怪談電送話」を配信、
陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。
一方で、端末の生体統合特性を逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化、
国家形成のプロセス自体を根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。
従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。
大正期のメディア・アート運動や昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相を付与し、
現代のSNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。
端末の技術的起源に関する考察(海外技術流出説VS超自然的出現説)と、
この件。
中国人キャラクターの「語尾アル」の元祖は誰なのか情報募集、最古は『のらくろ大事件』の中国人奇術師ほか部門ごとに発表へ - Togetter [トゥギャッター]
大まかな流れとしては、
→外国人居留地で日本語・英語・中国語などが混じりあってピジン(特に横浜ピジン)が生まれる
といった感じである。
横浜ピジンと日中ピジンの直接的な影響関係はわからないが、ピジンは自然発生的なものなので、仮にまったく関係がなかったとしても、収斂進化で似たような形になりそうではある。
まずは最初のツイートへの一つの回答として、明治5年初演の歌舞伎『月宴升毬栗(散切りお富)』に登場する詹五九と亜松金という中国人を挙げておく。
ちなみに詹五九は実在の人物で、身長が2m40cmくらいあり、矮人と一緒にヨーロッパへ渡って、見世物として話題になったという。
松金「あなた踊りをどるよろしい。」
これが横浜ピジン的な口調であるが、「見るあります」と敬語になっているだけで「〜〜アル」と変わりなく、「踊るよろしい」などの言い回しも「中国人が使うカタコトの日本語」のイメージそのままではないだろうか。
なお「大さん(たいさん)」というのは「たくさん」という意味で、
[ 2 ] 〘副詞 〙 ( 「たいそう」と「たくさん」をまじえた語か ) たいへん。
辞書にもこのように書かれているが、これも横浜ピジンの一種である。
こうした横浜ピジンが、明治期の小説では(中国人に限らず)外国人の役割語として広まっていたようだ。
日本娘、たいさん多淫あります、日本、卿、此娘と肉交あります、ペケ……娘……小生、サランパン、するよろしい、卿、娘と、マロマロよろしい……ペケー……
これはイギリス人の医師・グラマン氏が、日本人の妾の浮気を疑って言った台詞である。
「サランパン」は横浜ピジンで「壊れる」、ここでは「離縁」の意味。
「マロマロ」も横浜ピジンで「通りすぎる」とか「出ていく」というような意味らしい。
「ペケ」は今でも「バツ」の意味で使われているが、実はこれも語源は横浜ピジンである。
つまり、この台詞は「日本の女はとても多淫だ、そこの日本人の男はこの女と不倫しているんだろう、だめだ、女よ、おまえとは離縁だ、二人で出ていけばいい」といった感じか。
「私、当麻と同類ある、津の公園、彼処で別れたです。何かする目的、当麻。津、市、留りました。私、一人、此方へ来たです。貴女の話、当麻から聴きました。貴女の人相、委しく聴いて、記憶して居りました。私カーテス、実名あります。私と一処に稼ぐよろしい。日本ドロボウ未だ未だ幼稚あります。私、計画大さん大きいあります。これから味方になりませんか」
これもイギリスからやってきた悪人・カーテスという人物の台詞。
最初の「同類ある」は「〜〜アル」の形式かと思うが、それ以降が敬語なので判断しづらい。
著者の江見水蔭は当時の売れっ子作家だが、この役割語としての横浜ピジンを多用していたようだ。
水夫長らしい支那人は、茫然として甲板の隅に立つ美代雄に向ひ、達者な日本語で。『水夫見習、のお前あるか』『然うです』と美代雄は答へた。『翌日から勉強するよろしい。朝起きると、便所、前、中、後、三箇所ある、便所の掃除するよろしい』『えッ、便所の掃除?』美代雄は憤然とした。『左様、掃除するよろしい。それ、済む、皆々、靴、磨くある』『えッ、靴を磨くんですか』『それから、米飯食べろ食べろ皆々給使する、それある後食べろ食べろ器、洗ふ事あるよろしい』
と、これは完全に「〜〜アル」型の中国人とみなせるだろう。
いわゆる「英国紳士」的なキャラクターだと敬語で「〜〜あります」になるので、「〜〜アル」は水夫のような下っ端でないと出てこない、という事情はありそうだ。
『ソレ、十六円九十銭、安いあるよ』と是も拙い日本語で答へた。
『那個、很貴』
『安いあるよ。ホント安いあるよ』
と「〜〜アル」型の中国人が登場している。
明治43年は1910年なので満鉄設立以降であり、この場面も満洲にやってきた日本人が露天商から謎の箱を買うというところである。
少なくとも江見水蔭のなかでは「日露戦争以前の横浜ピジン的な外国人描写」と「日露戦争以降の日中ピジン的な中国人描写」は繋がっていたのではないか。
「〜〜アル」型の中国人の描写は、明治41年の遠藤柳雨『志士と佳人』などにもあった。
困った人間あるね、日本、婦人、何うして左様、銭儲け嫌あるかね、船長の夫人なる、お金ザクザク貰へるあるよ、お前さん、お金、欲しくないあるか
というわけで、「〜〜あります」と「〜〜アル」を明確に区別しないのであれば明治5年の『月宴升毬栗』までは遡れるし、「〜〜アル」に限っても明治年間の作品で確認できるので、『半七捕物帳』や宮沢賢治『山男の四月』よりも昔に遡れるよ、という話でした。
ご当地ラーメンはたくさんあり、それらの発祥を書き出すとさすがにきりがないので、ここでは全国的に見掛ける、ないし影響を与えたと思われるラーメンに絞りました。
→書きました。現代ラーメン史上最も重要な店舗10選
1910年創業。醤油味のスープに小麦粉とかん水を使用した麺、具は支那竹、焼き豚、ネギと、いわゆる「昔ながらのラーメン」を提供し、日本最古のラーメン店とされる。1976年に閉店。
1937年創業。創業者の出身地である長崎のちゃんぽんからヒントを得て、スープに豚骨を使用したラーメンを提供。ただし、このスープは乳化させたものではなかった。屋台から始まり、現在は店舗を構えて営業を続けている。
1947年創業。仕込み中に意図せず煮込み過ぎてしまった豚骨スープを試しに飲んでみたところ、予期せぬ濃厚な味に驚いたという。「白濁した豚骨スープ」という特徴を持つ豚骨ラーメンの源流と言われる。こちらも発祥は屋台で、今は店舗で営業中。
1950年創業。味噌汁を元に工夫を重ねた末、味噌ラーメンを生み出す。ちなみに「客から要望があり、豚汁(ぶたじる・北海道なので)に麺を入れたのが最初」なる俗説は、二代目店主曰く「都市伝説」とのこと。現在も営業中。
1951年創業。「ラーメンの神様」こと山岸一雄が、中野店の店長時代、賄いとして食していたメニューをブラッシュアップし、麺とスープが分かれた「特製もりそば」を提供する。これがつけ麺の元祖とされる。
山岸一雄は、後に暖簾分けで東池袋に「大勝軒」を創業。晩年は多くの弟子を取り、暖簾分け・出身店も多数輩出。「東池袋大勝軒系」と呼ばれる系譜を築く。
1954年創業。スープがなく、丼の底に溜まったタレと油を麺と絡めて食べる、油そばの発祥店と言われる。ただし発祥は、国立市の「三幸」説もある(創業は1952年と二年早い)。現在も営業中。
百済滅亡の報せが朝鮮半島全土を駆け巡るとき、そこには絶望だけでなく、わずかな希望が残されていた。それは、百済の地を追われた者たちが、遥か倭の国――大和への亡命の道を選んだことだった。
百済の都泗沘(しひ)が炎に包まれ、王族や貴族、そして多くの百済の民が散り散りになって逃げる中、一握りの者たちは東へ、海を越えて大和へと渡ることを決断した。彼らにとって、倭はかつて同盟を結び、文化や技術を共有してきた縁のある国だった。遠い異国ではあったが、そこに生き延びる希望があると信じていた。
夜の海は静かだったが、波は冷たく、命の危機を感じさせた。百済からの亡命者たちは、わずかな船団に身を寄せ合い、倭の地を目指した。彼らの目には、故郷を失った悲しみと、新しい土地での不安が浮かんでいた。
中でも、若き百済の貴族、武珍(ムジン)は、家族と共に海を渡ることを決断した一人だった。彼はかつて百済の王宮で官職を務めていたが、新羅と唐の連合軍が攻め込むと、命からがら国を脱出した。彼の目の前には、父祖の地であった百済が失われ、愛した仲間や民が散り散りになっていく姿が浮かび続けていた。
「いつか…いつか、この地に戻ることができるのだろうか」と、武珍は呟いたが、その声は波音にかき消された。
やがて、彼らの船は倭の大地に辿り着いた。彼らを迎えたのは大和朝廷の役人たちだった。百済からの亡命者たちが次々と上陸し、武珍もまたその一人として新たな生活を始めることとなる。だが、そこには異国の地での試練が待ち受けていた。
亡命者たちは大和王権に迎え入れられたものの、その生活は容易なものではなかった。彼らは、異国の地で自らの文化や風習を持ち込む一方で、大和の風土や習慣に馴染む必要があった。特に、故郷を失った哀しみが胸に深く刻まれている者たちは、再び自らのアイデンティティを見つけるまでに長い時間がかかった。
武珍もその一人だった。彼は大阪南部に割り当てられた土地で、新しい生活を始めることとなった。この地には既に百済からの移民が住み着いており、互いに助け合いながら新たなコミュニティを築いていた。大阪南部の河内平野は肥沃な土地であり、農業が盛んだったが、何よりも彼らにとって特別なものは、地名の中に「百済」という故国の名を残せることだった。
「ここは、我々の新たな百済だ」と、武珍は言った。
百済からの亡命者たちは、単に新天地で生活を始めるだけではなかった。彼らは百済で培った高度な技術や文化を大和王権にもたらし、その地位を高めていった。特に、天智天皇の治世において、亡命者たちは重要な役割を果たすこととなる。
天智天皇(大化の改新を主導した中大兄皇子)は、近江京を築いた際、百済からの亡命者たちを積極的に受け入れた。天智天皇自身が百済との強い同盟関係を保っていたため、亡命者たちの技術や知識を利用して、近江の地を発展させることを狙っていたのである。武珍を含む百済の貴族や技術者たちは、天智天皇の招きに応じ、滋賀県周辺へと移住していった。
「新羅に滅ぼされ、百済を失ったとしても、我々の技術や文化がこの地で花を咲かせるなら、それが我々の新しい故郷となるだろう」と、武珍は自らを励ました。
百済の技術者たちは、瓦や製陶技術、金属加工、建築技術をもたらし、近江京の発展に寄与した。その中でも、仏教文化や先進的な農業技術は、近江の人々にとって大いなる財産となった。百済からの亡命者たちは、大和王権の一部として取り込まれながらも、独自の文化を維持し続けた。そして、その痕跡は、現代の滋賀県に残る渡来系の遺伝子の多さにも反映されている。
時が経つにつれて、百済からの亡命者たちは日本列島に根を下ろしていった。大阪南部には「百済」や「加羅(伽耶)」といった故国の名を冠する地名が残され、滋賀県には亡命者たちの末裔が多く住み着いた。彼らの遺伝子は、日本列島の中で異質な文化を生み出し、後の日本文化に大きな影響を与えた。
武珍も、かつての仲間たちと共に大阪南部で新たな百済を築き上げた。そして、彼の子孫たちは、百済の血を引き継ぎながらも大和王権に忠誠を誓い、その技術と知識を後世に伝えた。
「故郷は失われたが、我々の血は生き続ける。我々の文化は、この新しい土地で栄え続けるだろう」と、武珍は亡命者たちと共に夜空を見上げ、倭の地で新しい未来を夢見た。
こうして、百済の亡命者たちの物語は、日本の歴史の中に深く刻み込まれていった。朝鮮半島を追われた彼らは、決して故郷を忘れることなく、新しい大地でその魂と誇りを守り続けたのである。
天智天皇が近江京を築いた時、百済からの亡命者たちは日本の地に根を下ろし、新しい生活を始めた。しかし、彼らの胸には常に故郷である朝鮮半島への想いが宿り続けていた。日本という国がまだ形成されつつある時代、その根底には、失われた「伽耶」や「百済」を取り戻すという強い願望が隠されていた。
天智天皇は、ただ単に新しい京を築いただけではなかった。彼の統治の下で、大和王権は次第に「日本」という国としての形を整えていった。しかし、その目標の一つには、かつて倭人が支配していた朝鮮半島南部――伽耶や百済の地を再び日本の手中に取り戻すという、壮大な夢が秘められていた。
朝鮮半島に築かれた前方後円墳の存在――それは倭人がその地を支配していたことを示す確かな証拠だ。前方後円墳は日本で発明された墓制であり、その巨大な墳墓が朝鮮半島南部にも点在している事実は、かつてその地が倭人にとっての故郷であったことを物語っている。
天智天皇の時代を過ぎても、この「朝鮮半島奪還」という目標は、日本の歴史の中で幾度となく浮上してきた。その後、豊臣秀吉の時代には、それが現実のものとして動き始める。
秀吉は、天下統一を成し遂げた後、自らの野望を東アジア全域に広げようとした。その第一歩として選んだのが、朝鮮半島への侵攻だった。1592年、秀吉は大軍を率いて朝鮮に進軍し、かつて倭人が支配していた地を取り戻し、さらには中国大陸まで征服するという壮大な夢を抱いていた。
「我が倭の祖先の地、伽耶、百済を取り戻す時が来た。朝鮮半島は、我々日本人の手に再び戻るべき土地である」
秀吉のその言葉には、単なる領土拡張を超えた、失われた故郷を取り戻すという深い信念が込められていた。だが、朝鮮戦役は厳しい抵抗に遭い、秀吉の計画は失敗に終わる。朝鮮半島の奪還は成し遂げられず、秀吉の死をもって日本軍は撤退を余儀なくされた。
しかし、この「朝鮮奪還」の試みは、単なる軍事的野心の産物ではなかった。それは、古代から続く日本人の潜在的な願望――かつての倭人の領土である朝鮮半島南部を再び自らの支配下に置くという、宿命的な思いの表れだったのだ。
大規模な侵攻が失敗に終わったとしても、歴史の中で日本と朝鮮半島との間には、常に緊張と抗争が続いていた。その中で、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団が、朝鮮半島の沿岸部や中国大陸沿岸を襲撃する形で、奪還の意図を示し続けていた。
倭寇の多くは、正規の日本軍ではなく、小規模な武装集団だったが、彼らもまた、朝鮮半島南部をかつての倭人の地として捉え、そこに自らの足場を築こうとした。彼らの襲撃は、単なる略奪ではなく、失われた倭人の故郷を再び支配するための小さな試みの一環だったと言えるだろう。
倭寇の活動は14世紀から16世紀にかけて活発化し、朝鮮や中国を混乱に陥れた。特に朝鮮半島南部はその影響を強く受け、倭寇の侵略によって多くの地域が荒廃した。これは小規模ながらも、日本と朝鮮半島との長い歴史的な繋がりを象徴するものだった。
そして、最も大規模で決定的な奪還の試みが行われたのは、20世紀初頭の戦前日本だった。明治維新を経て近代化を果たした日本は、軍事力を強化し、再び朝鮮半島に目を向けるようになった。1905年、日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島への影響力を強め、最終的には1910年に朝鮮を併合することに成功した。
これにより、ついに日本はその「歴史的な故地」を取り戻すかのように、朝鮮半島を自らの領土として統治することとなる。豊臣秀吉が夢見た「朝鮮半島奪還」の夢は、この時に現実のものとなったかのように思われた。
しかし、この支配もまた、長くは続かなかった。第二次世界大戦の敗北と共に、日本は朝鮮半島から撤退せざるを得なくなり、再びその地は遠い存在となった。
イスラエルがユダヤ人にとって失われた故郷であったように、朝鮮半島南部は倭人――すなわち日本人にとっての歴史的な故地であり、その奪還は、古代からの目標であった。日本の前方後円墳が朝鮮半島南部に点在していることも、その歴史的なつながりを証明している。これらの墳墓は、単なる埋葬の場所ではなく、倭人がこの地に深く根を下ろしていた証拠だ。
天智天皇から始まり、豊臣秀吉、戦前日本、そして小規模な倭寇――いずれも朝鮮半島南部を取り戻すという潜在的な思いを抱いて行動していた。この「奪還の夢」は、日本の歴史の中で脈々と受け継がれてきた宿命とも言える。
現代においても、日本と朝鮮半島の関係は複雑でありながらも、歴史的な繋がりは消えることなく残っている。かつて倭人が歩んだ地、朝鮮半島南部――それは、日本にとって単なる隣国の土地ではなく、彼らの魂が宿る場所であったのだ。
「フェミニストは騎士道にタダ乗りし保護権益そのままに権利だけ要求する。私は男女平等の為に扶養義務を廃したり、危険作業につこうとした女性を見た事がないし、そうした男性の地獄を拡張させようとしてる」
現代のフェミニズム批判でしょうか?いいえ、1910年の批判です
https://www.marxists.org/archive/bax/1910/05/feminism-suffrage.htm
https://twitter.com/Shanice79540635/status/1781512550263451706
お正月の歌と言えば、これ。
『お正月』
もういくつねると お正月
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
この歌、子供の頃からずーっと思ってたんだけど、「お正月の数日前」の歌なんだよ。
なんでこんなことになってんだ?バグか?
そう思って少し調べた。
まずこの曲の作曲者は、あの瀧廉太郎!(名前だけはなんか知ってる!)
どうやら、荒城の月や花(春のうららの〜隅田川〜)などの作曲者みたいだ。
なんかすごい。
東くめとその夫、あと瀧廉太郎らが「子供でもわかりやすい歌を」というコンセプトで作ったようだ。
120年以上も前!歴史あるんだなぁ。
今まで文語体だった子供向けの歌を口語体で作ったという、当時としては画期的な歌だったそうだ。
だからお正月と誕生日が同時に来るので、子供はことさら楽しみだったみたいだ。
数え年ではなくなったことも一つの理由だが、大きな理由はこれらしい。
1904年に銀座の明治屋がクリスマスツリーを店頭に飾り、1910年に不二屋がクリスマスケーキを発売。
その後昭和初期に、大正天皇の誕生日である12月25日が休みになった。
(それなら今の12月23日と合わせてクリスマス連休にしてほしいところだ)
つまり、クリスマスを祝う慣習が生まれたので、お正月の歌詞は現実から離れていったようだ。
こう見ていくと、お正月の歌が年末しか歌えないのはバグではなく、時代の流れだということが分かる。
瀧廉太郎は無実だった。誰も悪くなかった。
もういくつ寝ると お正月
お正月には餅食って 腹を壊して死んじゃった
不謹慎すぎてひく。ここに書くのもためらったが、当時のオリジナリティを尊重して載せた。
これも今じゃ子供も歌わないだろうな。
北村紗枝氏がむやみに叩かれているそうなので、周辺を調べてみた
表面的な問題は草津の公職者の冤罪か犯罪隠しであるが、あえて掘ってみるならば原因はイプセンの「民衆の敵」ではないかと思われた
「民衆の敵」(1882年)は鉱毒被害の告発本で、明治日本の主要産業は銅の輸出であったので、銅山営業のために、出版禁止にされていたと思われる書籍である
主要な銅山である足尾銅山の鉱毒は早くも1878年(明治11年)には報道されており、酸性雨、草木の枯死、魚の大量死、洪水もあった
そこで1882年(明治15年)、イプセンがスウェーデン下のノルウェーで「民衆の敵」を出版した
しかし原書か英訳を読むことができたのは、商社関係者か、法曹か医師ぐらいだったと思われる
日本政府がしぶしぶ鉱毒調査委員会を設置したのは、1897年(明治30年)で、その後の1901年(明治34年)にようやくイプセンの邦訳がある(大阪の元医師高安月郊)
それから更に何年も経過し、「人形の家」(1879年)の29年遅れで1910年(大正9年)、「民衆の敵」は39年遅れで1921年(大正10年)にようやく邦訳
戦後の高度成長期には、日本の銅は1ドル360円の固定相場で輸出された
僅かな被害対策が行われたまま鉱山は稼働し続け、1973年(昭和48年)に閉山となったときには、為替レートがあっさり変動制に移行している
したがって、「民衆の敵」の邦訳遅れや円安固定相場制は、日英米共同の銅ダンピング政策だった可能性もあろう
つまり円安のときは、輸出企業が薄利多売で儲けを出すため、あるいは輸入先がワクチンなどの薬品などを高く売るために
一応最後まで翻訳をしたのだが、無断翻訳は著作権の侵害に当たるらしいので、過去の投稿の翻訳部分を削除、議論をするための部分的な紹介にとどめることにした。
Evolution of the Gymsuit | The Vintage Traveler
前の記事と同様、男子からの目線を気にしたり、体操着に名前を書くことへの言及があったりした。日本の体操着にも大きく名前を書いていた時期があったが、このあたりからも影響を受けていたんだろうか。
あと、面白いのは女性のパンツスタイルが受け入れられるようになる理由に体操着があったことだ。
それにしても、前回と比べて非常に訳しやすい文章だった(投稿こそしていないが)。読みながら訳し、ほぼそのままの文章を和訳に使うことができた。これは論文とかウィキペディアとかの文章にも言えることだが、よく編集されている文章は一読しただけで何が書いてあるかすぐにわかる。
さて、今までは学校教育におけるブルマーについて書いてきたが、今度は学校の外の運動着についてまとめたい。例えばエアロビのレオタードはいつ流行ったか、スポブラはいつからか、そういった話になる。図版が多くてリンクを貼り切れない可能性もあるのでどうするかは検討中だ。
ただし、いつになるかはわからないし、気まぐれで別の話をしたくなるかもしれない。なんだか翻訳じゃなくて自分の文章を書きたくなってきているのも事実だ。そもそも翻訳をそのまま載せるのはまずいらしいし。
ひょっとしたらブルマと全然関係ない(自分とは特定できない)何かを書くかもね。それではまた。
ところで、増田で「ヤグルマギク」に言及しているのって前回の記事(とこの記事)だけなのね。今までにもこういうことはあったけど、それなりにメジャーな植物について触れられていないのはなんだか不思議だ。はてな匿名ダイアリーに投稿される内容って政治とは別の意味でも偏ってるんだな。
【追記】
オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国が国境で接していたのが1908年。
前者の ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝は長期政権の在位60年目で、ドイツやイタリア、ロシアと同盟していたが、オスマン領のボスニアとヘルツェゴビナに侵攻、そして併合したので、欧州各国はいきり立った。
で翌年に皇太子が暗殺され、5年後に第一次世界大戦が勃発(1914年。国際連盟はまだなかった。ただ今は国際連合があっても侵攻問題では影が薄いな)。
このとき日本はイギリスに要求されてドイツ側に宣戦布告(ドイツ領のハイテク山東が欲しかったはず)。ロシアは汎スラブ主義だったのでこれもまたドイツ側に宣戦布告。
ところで日本の硫黄王・海上保険の広海二三郎は、1910年から1911年で、生産量を年間1000トンから1800トンに拡大している。硫黄といえば火薬の原料。きっと軍拡イギリス向けに輸出して利益を得たんだろうな。なおイギリスは1911年には法律で医療無料化をした。
113年後の今はプーチンがハプスブルクの立場で、イギリスはイギリス。何かのきっかけで大戦争化して更にインフレ起こすなどは控えていただきたい、と岸田などが言えばいいのに。
「こいのぼり」を歌ってるのがお母さん。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 -1999年4月8日)は、日本の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年、広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学、山中高等女学校の音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市外千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者の近藤忠義と結婚、専業主婦となる。
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、AllEnglandClub’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「TennisGirl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
インターネットだけでの調査にはおのずと限界もあるだろう。仕事や家事で時間がとれるとも限らない。
キム・テヒョン(漢: 金泰現、韓: 김태현)-1910年生の韓国の囲碁棋士
キム・テヒョン(韓: 김태형)-1962年生の韓国のアイドル、男性アイドルグループ・ソバンチャのメンバー
キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)-1967年生の韓国の元野球選手、現野球監督
キム・テヒョン(漢: 金台鉉、韓: 김태현)-1978年生の韓国のお笑い芸人
キム・テヒョン(漢: 金泰賢、韓: 김태현)-1981年生の韓国の俳優であるチン・テヒョンの本名、旧芸名
キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)-1981年生の韓国のアイドルで、男性アイドルグループ・Click-Bのメンバーであるカンフの本名
キム・テヒョン(漢: 金太賢、韓: 김태현)-1983年生の日本の競技麻雀士
キム・テヒョン(韓: 김태현)-1987年生の韓国の歌手、男性ピアノロックバンド・DickPunksのメンバー
キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)-1992年生の韓国のアイドルで、男女混成アイドルグループ・KARDのメンバーであるJ.sephの本名
キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)-1995年生の韓国のアイドルで、男性ヒップホップグループ・BTSのメンバーであるV (歌手)の本名