
はてなキーワード:被害者とは
かにくたそ
とっくに魚拓済みなのも笑う
被害者に言う言葉ならわかるけど盗作した人間に辛いこと忘れてって基地外すぎん?
道南の寺社宛に届いたり町の掲示板に貼られてにばら撒かれてる怪文書面白えから晒す
この地域の寺社系の三姉妹で妹が狩猟とか猟銃免許取る話聞いたからわかっちまうよな
ネットのこととはいえ窃盗犯からの逆恨み殺人予告女のいる家なんて恥すぎません?
そのざきかにく
救いようの無い腐女子夢女子オタク三姉妹の生産地 →狩猟免許とった末の妹がいるおうちはこちら
盗作犯の妹ちゃんを庇って開き直り反省の色もない加害者からの終わったこと発言で盗作被害者にヘイトを誘導する優しいお姉ちゃん旭川のいじめ殺人犯みたいだね
猟銃免許とれたから被害者射殺できるなかったことにできるってかにくお姉ちゃんも米子お姉ちゃん言ってましたね
終わりですね
あーあ
非モテ男は女に選ばれる機会がないから、結婚相手はもちろんたまたま知り合ったり関わった女を生涯縛り付けようとし、さらに敬遠される悪循環
下記のような非モテ男はいくらでももいるけど、同様の非モテ女は皆無
婚活パーティーやお見合いに参加したら必ず女から選ばれたりOKさせる物という認識だが、女から見たら掘り出し物があったら買うわというガラクタ市やリサイクルショップに行く感覚という性差を理解できない
なので女からお断りされたり選ばれないと、初対面の女相手に「お前と釣り合う相手なのに高望みするな!」が決まり文句
性別逆だと「そんな女殺されて当然」
離婚問題でも、妻につきまといストーカー、妻を装いネットでレイプ依頼をして警察や訴訟沙汰になったり母子保護シェルターを作られたり共同親権制度を求めるのも男
妻→夫のDVやネグレクト、男がヤリモクで女に貢いでキレて殺した最上あい事件、たぬかなの女叩きトークに歓喜して重課金した男による「◯されても当然」という脅迫とそれに伴う返金対応、ホモ暴露本が出回る事務所に金とモテ目的で自ら履歴書を送りホビット老人にしゃぶらせた元ジャニーズジュニア
現に被害にあった人に「冤罪だハニトラだ」と言うこと自体が詐欺などの冤罪をかけているんだけどその危険性は無視する
結局彼らは「冤罪」を危険視しているのではなく性犯罪被害者が泣き寝入りしてくれる性犯罪をやりやすい社会の維持に血道を上げてるだけ
痴漢が男の娯楽だった時代から抜け始めて女性がどんどん声をあげるようになってきた頃、時代の空気をがっつり掴んだ「それでもボクはやってない」とかいうカス映画が作られて、男こそ痴漢冤罪の恐怖に日々晒されている被害者!って空気が一気に醸成された。AV売買淫大国日本のバックラッシュは強烈だよ
「それでもボクはやってない」のせいで日本の性犯罪対策に何十年の遅れが出たかな。それぐらい深刻なバックラッシュだったと思う。だって女性が痴漢被害の話をする時に「男性様が受ける冤罪」を優先的に気にかけさせられる国なんて他にあるか?めちゃめちゃ異常な事態がずっと続いてる。
日本と双子の社会って言われる韓国との性犯罪対策の差を比べれば、日本男の卑劣極まるバックラッシュで日本の女性が失わされてきたものの大きさを痛感する。
被害者が例え金儲けに走ってたとしても事実上は被害者なんだし叩かれる言われなくね?
配信とか整形みたいな賎業が何言ってんだよ
客を舐めた映画作るのも大概にせえよ。
酷評の嵐だったから、「どんだけクソ映画なのか見てやろうぜ」という悪い気持ちで友達と見に行った。
ちょうどズートピア2も公開されていて時間的にちょうどよかったのでズートピア→スカーレットの順で見た。
これが良くなかったかもしれない。せめて逆の順で見るべきだった。
動物の毛の一本一本を繊細に描写したグラフィック、多彩なアクション、抜群に盛り上がる歌やダンス。
お互いに違うことがあってもいい。伝えれば分かり合えるというメッセージもストンと胸に落ちた。
今作のヴィランがそのメッセージの逆をずっと行っていて、違うのは嫌だし一人で誰にも伝えずやり遂げようとしていたところも説得力があってよかった。
最近のディズニー映画って酷評されることも多かったけど(特に先日金ローでやっていたウィッシュとか)、
この伝えたいことはシンプルに、映像で観客を楽しませようとしているのが好印象でさすがディズニーだなと感じた。見直したよマジで。
それに比べて果てしなきスカーレットはさぁ。
脚本が酷いとか、ダンスシーンを見ていられないとか、そういう感想は散々見ていたし覚悟してた。
でもそんなに酷くないとか、教養があれば楽しめるとか、そういう擁護が現れたりして興醒めだなあと思っているところだった。
つまらんというか、何もない。見終わった後に何も残っていなかった。正直こんなの初めてで困惑したわ。
復讐は良くないと伝えたいの? 本当に? それならなんで仇は死んだんですか?
聖のおかげでスカーレットの考えは変わったの? それなら死にたくないと喚く仇をスカーレットが助けようとするはずでは?
愛って何? 人間って何? 生きるって何?
そう問いかけたなら作品内でそれなりの答えを出さないといけないんじゃないんですか?
聖のことすら、どうでもいいと思ってますよね?
聖がスカーレットといて葛藤するシーンもなく、看護師になった理由もペラペラで、自分が死んだことを思い出して苦しむこともなく。
不殺を訴えてきたのに人を殺すけど、特にそこへ至る布石もなく。スカーレットが追求したりもせず。吹っ切れたような描写ゃもなく。
「生きたいと言え!」も、キスシーンですらも、聖の人間性を欠片も感じなかった。
挙げ句の果てには苗字の設定すらないんですね。エンドロールで「聖 岡田将生」って出てきてびっくりしたわ。
まあ内容の話はこれくらいにして、それよりも映像面の方が個人的には腹が立った。
映像美はすごい、そんな風に言われてるのも見たけど本当にそう思います?
ズートピア2を見たらとてもそんなこと言えない。普通にショボいなと思った。
ダンスの動きがキモいのもそう、戦闘シーンにイマイチ迫力が足りないのもそう。
あと、シンプルに手抜いてるみたいなとこ多かったよね?
スカーレットが目をかっぴらいて「ああああ!!!」って叫ぶシーン、作中でいくつあった?
渋谷ダンスの前に光の渦に飲み込まれるみたいなシーン、何秒あった?
モデリングが大変そうなドレスはすぐ脱ぎ捨ててシンプルな服になったよね?
個人的に一番キツかったのは、フラダンスを見守っている老人たちの笑顔がスーッと一枚絵のスライドで流れていったところ。
笑顔に個性もなく、音楽にノっている様子を動きで見せることもなく、反応はその一枚絵とセリフだけ。
さすがにナメてるよね?
老人だから嫌だったんじゃない。老若男女描けやと思わんでもないけど、憤ったのはそこじゃない。
サマーウォーズではあれだけの大家族がそれぞれに動いているのを緻密に描写していたから、それができないわけじゃない。
それなのにこの小さなキャラバンの人数すら動かすコストを抑えたんだと思ったら怒りが湧いて仕方なかった。
それ以外にも後半に行くにつれ雑だなあと思う箇所が増えていったので、納期が厳しいとかで妥協していったのかなと思う。
けど思いたくなかったりもする。だって細田守だよ? いつもより時間かけて、金もかけて、上映館もこんなに多いのに?
ネームバリューと宣伝でこれでもいけると思われてたならマジで腹立つ。
製作陣でこの作品に愛着を持っている人います? 愛のない作品が売れるわけないじゃないですか。
そういうのは必ず観客にバレる。バレてるから人が来ないんじゃないんですか。
そう考えたら酷評は納得だし、特段見る必要のない映画だと思います。
ズートピア2を見るべき。あっちは見ても損がない。お金を払って劇場で見る価値ある。
最近は悪く言われることもありがちなSNSだけど、良いものも悪いものも共有されやすくなったのはやっぱりいいことだなと思いました。
この件で一番引っかかるのは、当初は同じ目的を共有していたはずの人たちが、なぜ途中から決定的に対立し、さらには録音や公開、記事化といった強い手段にまで踏み込んだのかという点だ。
一般論として、完全な敵同士よりも、元味方同士の方が深刻な対立に発展しやすい。目的が近く、関係性も近かった分だけ、期待や信頼が裏切られたと感じたときの反動が大きいからだ。社会的意義を持つテーマであればあるほど、感情的な衝突は激しくなりやすい。
まず考えられるのは、映画化を巡る主導権や表現方針の対立だ。ドキュメンタリーや告発性のある作品では、誰の視点で、どこまで踏み込み、何を強調するのかが極めて重要になる。制作者側は作品としての完成度やメッセージ性を重視する一方、当事者側は自分の経験や尊厳がどう扱われるかに強いこだわりを持つ。ここにズレが生じるのは珍しいことではない。
次に、金銭や権利の問題も現実的な要因として考えられる。制作費の扱い、著作権や肖像権、将来的な収益配分などは、最初は理念や信頼関係で曖昧にされがちだが、話が具体化するにつれて避けられない問題になる。ここで不信感が生まれれば、関係が急速に悪化するのは自然な流れだ。
さらに重要なのは、対立に至った側が、結果的に当事者にとって極めて不利になり得る情報、場合によってはセカンドレイプと受け取られかねない内容まで記事や記録として公にしている点だ。これは単なる意見の違いや感情的な行き違いのレベルを超えているように見える。
もし最初から敵対関係であれば、相手に不利な材料を出すこと自体は理解できる。しかし、元々は支援や協力の立場にいた人間が、相手の尊厳を傷つけかねない情報まで出す判断に至るというのは、相当深刻な決裂があったと考えるのが自然だ。そこには、裏切られたという感覚、あるいは自分たちの正当性を社会的に証明しなければならないという強迫観念があった可能性もある。
この段階になると、録音や公開は単なる証拠保全ではなく、相手との関係が完全に破綻したことの表明に近い意味を持つ。つまり、味方ではなくなったどころか、もはや敵として認識するに至った経緯があったのではないか、という疑問が生じる。
重要なのは、こうした構造的な可能性を指摘することが、性被害の訴えそのものを否定することとは別だという点だ。被害の有無や深刻さと、支援者や制作者との関係が崩れた理由は、切り分けて考えなければならない。
しかし現実には、この二つはしばしば混同される。内部対立や不和の背景を考察しただけで、被害を疑っている、被害者を攻撃していると受け取られてしまう空気がある。その結果、なぜ元味方がここまで強硬な行動に出たのかという核心部分が検討されないままになる。
むしろ、セカンドレイプと受け取られかねないリスクを承知の上で情報を公開する判断がなぜ下されたのか、その異常さを含めて考えることこそが重要だと思う。そこには理念だけでは説明できない、人間関係の破綻や利害対立、感情のもつれがあった可能性が高い。
結局のところ、この問題で問うべきなのは、誰が絶対的に正しいかという単純な話ではない。なぜ関係がここまでこじれ、取り返しのつかない形で対立が表面化したのか。その過程を冷静に検討することを許さない空気こそが、問題の本質を見えにくくしているように思える。
チー牛って自覚があるんだな
誰もお前のことチー牛だとは言ってないのにw
「女が痴漢に遭った話をする」って話で、「〝昔〟痴漢に遭った話をする」って即連想ゲームしてしまうほど女性経験ないもんな
劣悪なのはお前だぞ
気軽なのは「お前」な
「訴えればいい」「訴えないと駄目だよね」といったお前の発言を「気軽」と言っている
俺は「訴えても訴えなくても、実際に矢面に立つ西廣さんの判断が最重要」と思っているし書いているのよ
たとえば西廣さんは
「彼女(伊藤氏)は性被害者で事件は真実。この話と裁判は別問題で性被害への誹謗(ひぼう)中傷はやめてほしい」
とも言っている
あえて訴訟しないことを選んでも人間の心情として何もおかしくないわけだ
それをもって人権侵害を軽く見ているとはとても言えない。そんな単純な話はこの世にない
また、訴えなかった場合でも言論での批判はもちろん続けて良いだろう
さらにいうとこのあと訴えるという判断も当然あり得るし、その判断に至っても無理もないと思う
訴訟はたとえ勝つ見込みが圧倒的に高かったとしても、当事者は失うものも多く、
外野から気軽に「訴えればいいじゃん」なんて言えるほど簡単なものではないでしょ
人間社会において必ずしも裁判だけが正しい選択肢・解決策であるとは思わん
(裁判や判決が社会のルールとして実質的に一番強い部類であるのは確かだが)
仮に当事者がそれを望まないのであればそれはそれで尊重されるべき
ただそれでも、外野でも西廣さんたちを支持し勇気づけることはできるよね
そういう話をしている
フィンランドのおえらいさんが吊り目ジェスチャーをしたらしい。
その行為に「アジア人差別」の文脈が乗っかっていることは理解している。
でもたぶん、フィンランドのおえらいさんはそこんところが意識化されていないように感じる。
日本人も、肌を真っ黒に塗ったお笑い芸人が笑いを取るネタを四十年ぐらい前はやってた。
その行為に「黒人差別」の文脈が乗っかっているということを、当時は理解していなかった。
突然海の向こうの遠くの国の誰かさんが、「それは黒人差別という文脈があるんだよ」と言うから、そういうことになったように思う。
高い鼻をつけるお笑い芸人もいた。その行為に「白人差別」の文脈が乗っかっているってことも、海の向こうの遠くの国の誰かさんが言ってたから、そうなった。
差別をしようと思って意識的に差別をする人は、流石に見たことない。たいていそういう行為は、「ウチら」の中では表現として認められてる。
でも、「ウチらの外」は表現として認めていなくて、それを差別と意識している。つまり、差別を定義するのは被害者側なんだなと思う。
たぶんみんなどっかで差別はしている。誰かがそう認識してないだけで、みんな失礼なことしてる。
その失礼なところを、「ウチらの外」から指摘されたら、少なくとも「ウチら」以外のところではやめたほうがいい。めんどくさいことになるから。
フィンランドの件は、そういうところで面倒なことになってるなぁ、って、あったかいお茶飲みながら、対岸の火事みたいな感じで見つめてる。
女は45でも余裕でセックスできる
男の性欲が女の権力の源なんだよ
俺は20代。成人男性。ただの社会人。はてらぼ初投稿。結婚願望、アリ。
振り返ると俺の人生は常に真面目であったと思う。
某国立大学に入学できたのも別に奇跡という訳ではなく、今までそれなりに勉強してきたからであったと思う。正直、試験は過度に難しいと感じなかった。「まぁでけえ勘違いしてなければ受かってるな」ぐらい。
勉強が得意だったから恋愛も上手くいくだろう、と考えていたら大間違いだったのだ。
そう、本題はここからだ。
大学に入ってから気づいたのだが、どうやら今までの私は「ガリ勉」に分類される人間であったらしい。勉強一筋であったために年齢相応の恋愛経験を怠ってきたという訳だ。
彼女にフラレて数ヶ月経つが、俺はもう完全に恋愛に対して自信を失った。
理由を長く全て事細かに述べると、サーバーがダウンしてしまいそうだから要所を伝えよう。
今までの恋愛、ずっとそうだ。俺が正しい側に立っていたことはあったのだろうか。
何かケンカごとがあったとしよう。俺は常に「自分もどこか悪いところがあったかもしれない」という前提で話し合いを始める。
しかし相手と来たら、「え?なんで私に間違っている所ある?これが正しいよね?」という主張が毎回強いのだ。
俺は、机の上に何もない状態で話し合いを始めたいのだ。お互い悪いところがあったかもしれないから。
ただ何人かの女性は最初から机に「はい、これが正解です」とソレを置いてくるのだ。こらっ、それどこから持ってきたの、あったところに返しなさい。
常にあっちが正解を持っている。しかも加えて厄介なのは、俺はソレを"推測"で当てなければならない。隠されているのだ。
まるでマジシャンのようにソレを紙コップの中に隠してシャシャシャッとシャッフルして「私の気持ちどれか分かるでしょ?当ててみて」と言ってくるのだ。
そして推測を外すと「ねえ、なんで私の気持ち分からないの?」と言われる。分かるわけねえだろ、俺はメンタリストDaiGoじゃねえんだぞ。
結局、「男が先に謝るべき」という謎風習に追いやられて泣きながら謝罪するのだ。
後頭部にかけられた言葉は「なんで泣いてんの?被害者ぶんなよ、こっちが傷ついてんだけど」だった。
相手が悪かったのだろうか。家族に相談したら「相性が悪かった。あんたは変わらなくて良い。そのままでも受け入れてくれる人がいる」って温かい言葉をもらった。そしてまた泣いた。
それが真実なのか分からない。だけど今ここに確かにある真実は、"次に踏み出すことを怖がっている俺が存在している"ということなのだ。
女性ってみんなこんな感じなのかな。
「女の子はお姫様扱いされたい生き物なのよ」とか言われたことがある。
なにそれ。なにそれなにそれ。お姫様扱い??????ずるいよ、俺も王様扱いされたい。俺の気分を察してアイスとか持ってきてほしい。
なんだよお姫様扱いって。付き合って思ったけどあれは、「何でも言う事聞いてくれる奴隷が欲しい」か「何でも肯定してくれるChatGPTと結婚したい」の方がまだいい得て妙だと思う。
怒られている時に「ごめん、忘れたらいけないからメモさせて」と言ったことがある。
「なんでメモなんかすんの?メモしないと覚えられないの?そうだよね、私ってその程度の存在だもんね」
ごめんなさい‥‥‥ごめんなさいごめんなさい。
俺は物覚えが悪いんだ‥‥‥。
未だにその出来事が夢に出てきて泣きながら起きることがある。つい数日前がそれだった。
いいよな。正解を持ってる側は。え?「もともと恋愛に正解はないだろ」って?
じゃあなんであんなに別れたあとにあんな汚い言葉で愚痴ることができるんだよ。自分が正解側だって思ってないとあそこまで汚い語彙力で人を貶すことは難しいだろ。
もう本当に怖かった。なんで自分が悪かったかもって考えないんだろう。愚痴のスペシャリストだよ。
不思議に思っていたけど、「まぁでもよくよく考えたら愚痴って、"自分が絶対に正しい側である"っていう前提で始まるストレス発散法だから、そこに事実も議論もクソもねえよな」って考えたら少しは受け入れることができるようになった。
でも俺にはあんなことまだできそうにない。
一度、愚痴の練習をしたくて友達に付き合ってもらったことがある。まぁ確かに言ってる時は気持ちよかったけど、後味が悪かった。
なんとか言いたいことがまとまらなくなってきちゃった。
日記だから論理的じゃなくてもいいのに。正しく書かなくてもいいのに。
「でも、世の中には東大出身でちゃんとまともな恋愛している人もいるじゃん。勉強と恋愛は別々の話でしょ」って?
あぁ、そうだよ。いるよ。
そうなんだよ。
俺の人生で誇れるものは勉強しかないから、ガリ勉のデメリットとして出てきちゃったんだよね~ガハハって笑いたかっただけなんだよ。
勉強のしすぎなんて良くないよな~ガハハ、お前ら勉強は程々に恋愛もしとけよ~ガハハ。
フラレたお陰で新しい実績を解除したことがある。
別れた日にスナックに行って、お酒に身を任せながら、そして泣きながら1曲歌って、ママとその場にいたお客さんを全員泣かせたことだ。
grokに今日のニュースポストを読んでもらったら韓国の性犯罪者にデジタル足輪を付けてるとあったので深掘りしてみた。
以下はgrokにまとめてもらったものを貼り付けただけ。
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ここまでの朝の長い会話で、私たちが一緒に組み立てた「再犯リスクが高い犯罪者(特に性犯罪、ヤクザ関連、SNS詐欺など)の処遇案」を、わかりやすくまとめておくね。
最終的に到達した「バランスの取れた案」
1.選択オプション制度の導入 刑期終了後、犯罪者本人に2つの道を選ばせる
• 最低限の生活費(食事・光熱・医療など)は国が保証(税金負担最小限)
• それ以上の快適さ(テレビ、クーラー、娯楽、良い食事など)は、身内からの任意送金でカバー
• 送金があれば生活レベルが上がる
• 送金が止まれば即「最低限モード」にダウングレード → 身内に「払うか、見捨てるか」の選択を迫るが、強制ではないので人権問題になりにくい
• 不足分は、身内からの任意送金の一部を被害者側に回すことも可能
• 毎月「今月これだけ入金されました」と被害者に報告して透明性を確保
•GPS足輪や監視は任意で強化可能(外せば即Aルートに戻る)
•選択を撤回したい場合は、いつでも「もう施設に戻る」と申し出可能 →犯罪者側も「逃げられない」と思い、身内も「払い続けるか諦めるか」のプレッシャーを感じる
• 身内がお金を出せない・出したくない場合、最終的に税金で穴埋めになる可能性
•国会で揉めに揉めそう(「家族に責任を押し付けるのは酷い」という反対意見が出る)
一部認められないことがあるのを「一切切り捨て」って悪意的に解釈するのはお前が単にレイプ犯側のお気持ちに寄り添って被害者の孤立を望んでモメサしてるだけのカスでしかないだろ
せっかく味方してくれた証人たちが人権侵害だって裁判に訴えたりするなりしたらいいんであって、周りの連帯してると言ってる人間が被害者の自己救済で一切切り捨てるもんなんかと思うだけ
それだけの話じゃん
レイプして事件にすら出来なかった人が、自分が被害者であることの証拠を公益性を考慮して公開するのは別に不思議じゃないと思うぞ
いや理由は明らかでしょ。
人権侵害を訴えてきた伊藤氏自身が、他者の人権を侵害して映画を作っている。
擁護派からも批判が始まったのは、「当時の担当弁護士だった西廣さんたちが上記のことを訴えたから」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/361658
決して「なんとなく」批判されるようになったわけではない。
さらにその後、映画の中で「伊藤氏にとって不利な証拠」について一切触れていないことも暴露された。
「それだけ不利な証拠が提出されたにも関わらず、民事では二審・最高裁ともに性被害を認定され、勝訴した」
という事実があるのだから、映画の中でも不利な証拠について触れれば良かっただろう。
その上で、見た人たちに判断を委ねればよい。
(まあドキュメンタリー映画というのはたいてい一方的なアングルで作られる不誠実なものではあるが)
それをせずに「一切落ち度のない、無謬で完璧な被害者」として扱われることを選び、
そうした映画を海外で上映して味方を増やそうとした卑怯で愚かな態度も失望を買っている。
あと鬼の首を取ったように「やはりこの事件は伊藤の虚言だった」みたいに断定して書いちゃってる人らも注意した方がいいよ。
伊藤氏が最高裁でも勝訴したのには、それらの不利な証拠があってもなお勝てるほど有利な証拠があったからだろう。(それだけが映画では描かれているはずだが)
法のプロたちがプロとして吟味した末の判決である。もちろん最高裁だろうと誤審の可能性は常にあるが、
めちゃくちゃ不利な証拠も全部提出された上での司法判断を尊重しないのはダブスタにならないか?
西廣さんも「彼女は性被害者で事件は真実。この話と裁判は別問題で性被害への誹謗(ひぼう)中傷はやめてほしい」と言っている。
映画にまつわる伊藤氏の悪行への批判と、性被害を嘘扱いしての誹謗中傷は分けて考えるべき。
なぜか勢い余って後者にまで踏み込んじゃってる人たち、大丈夫かね?
たとえばウクライナにもパレスチナにも「非」はあって当たり前であるように、
被害者に落ち度があったり、人間的に問題があったりするのはごく普通のことである。
「どっちが完全な正義か」「どっちが全面的に正しいか」でしか語れないのは愚昧な話で、
その意味においては「ほら見ろ、伊藤に落ち度があったので完全逆転だ」とばかりに鬼の首を取った人々もまた
伊藤氏と同じ過ちを犯していると言える。
是々非々という切り分けができないリベラルの欺瞞を普段非難している良識あるブクマカにも
この誤謬に陥っている人がいて残念な限り。
被害の補填をしてもらうって任を果たしてもらうために責を受けてもらうんだよ
事故が何パーセントであれ確率でいえば事故にあうかあわないかは二分の一
これは被害者に対しての話
公的社会的にはどう改善されるのかによって提供している企業の存続が決まるって事
そうではなかった場合、基準を変えたという証明なしには存続できない事
謝罪して辞職ってのは会社の意向としての謝罪表明を代わり受ける事
問題点があった事を認識して、なぜ問題点をそのままに運用していたのかという理由づけに
「その人がその立場からみて問題だとおもっていなかった」というマーカーにフラグを立てることで
「これまで問題だと思わなかったのはどうしてか」という問いに
これは別に責任ではないし、責任を果たしたという評価になるのは「責任を取るべき企業の内部と運用されるであろう社会にむけて」だよ
個人が企業の役職の謝罪をみて満足や納得するとしたら逆に「何様だよ」って話
辞職ってのは企業のこれまでの問題点を払拭して改善するためにいなくなる事
そのバグを直してよくなりますよという事でこれは企業の存続のための改善点であって別に「被害者への責任」とは関係ない
企業が社会において提供をつづける事ができる理由づけのためにしてることで
だからつまり、事故がおきたときの被害者に何ができるかって話が責任だよ
保険をかけてもいいしなにかを補償してもいいしなんでも失ったものを取り戻せたらいいんだよ
ドライバーがAIになるのはキャブレターが電子制御になったりハンドルがパワーアシストされたりするのと同じ
それでも「責任は?」ってなるでしょ
それらを踏まえて責任っていうのは結局人が取ることになる
だって補償ができる蓄えをもっているのは法人であれ個人であれ人格だから
そのうえでAIかどうかを選ぶのはまた別の話で
キャブレターか電子制御か、マニュアルかオートマか、AIタクシーか人のタクシーか
そういうのは気分の問題
「それは仕様です」で損害が補償されない懸念があるよって気分の話
自動車がミサイルみたいに「ブレーキふんだのに加速してつっこみました」が
仕様で済むのかどうかって話
踏んだ記録がブレーキだと運転手の脳にはあるから運転手の責任があるように