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2025-10-27

「青の純度」はおそらく原田氏の研究を参照していないんじゃないか

記事(anond:20251027134053)では、篠田氏が明言しているとおり「青の純度」はラッセンに着想を得たがラッセンモデル小説ではなく、篠田氏がラッセンモデル小説であることを否定した点をもって同氏が嘘つきであるかのように非難するのは的外れである旨を説明した。

さて、そうだとしても、「青の純度」は原田氏の研究を参考にしたにもかかわらずそれに言及しておらず不誠実でないか、という主張がある。なお、著作権侵害ではないこと(したがって表現剽窃が無いこと)は原田自身も認めるとおりであるから前提としてよかろう。

なお、ここから先は出題編だけでなくオチまで含めた全面的ネタバレがあるので、ネタバレを読みたくない未読者にはブラウザバックを推奨する。

 

原田氏が「青の純度」が自分の業績の盗用であると主張する主な根拠は次の4点である

悪徳商法と切り離して美術評価検討するという視点自分が言い出したことである

②「インテリアアート」という用語自分たちが世に出したものである

日系人の墓が西を向いているという話は自分が現地で伝え聞き紹介したものと同じである

④偽ラッセンが8年前の嵐で自宅を被災したという設定は、ラッセン2023年ハワイ島大火災で一時行方不明になったという自分発見した事実酷似している。

 

このうち②は原田氏のラッセン展(2012)よりも前からインテリアアート」という用語が広く使われていたこと、③は原田自身も現地で伝聞した旨を述べているとおり原田氏の独創ではないこと、④は「8年前の嵐」と2023年火災は似ても似つかず、8年前の嵐は物語重要小道具であり、2023年火災エピローグで軽く触れられていることなから、いずれも牽強付会と言ってよかろう。

重要なのは①のラッセンの再評価という視点である

そして、この点でも、以下の理由から原田氏らの研究を参照したとは考え難いように思う。

なおこの先には物語重要ネタバレを含みます

 

まず原田氏らの研究について、ラッセンを再評価してみるというアイデアだけなら、永野の「ゴッホより普通にラッセンが好き」というネタを掘り下げれば容易に行き着くアイデアであって(それにしても「普通に」を入れた永野は慧眼である。)、研究成果とは言えない。研究価値があるのはその先の、再評価するとどうなるかという部分だ。

それでは原田氏らの研究ラッセンをどう再評価するのか。これについては原田氏らの論考集に対するAmazon読者コメントがよくまとめてあるので引用する。

1.美術界がラッセン無視した理由純粋美術ラッセンの属するインテリアアートを一段と下に見ていた。アートの美意識理解しない層に支持されていて、大きなマーケットを獲得していることへの反発があった。また、芸術には必ずあるはずの作家自己投影がない「空っぽ」の作品としてラッセン排除していた。ラッセン以前にも美術界は古くは藤田嗣治岡本太郎草間彌生バブル期にはヒロ・ヤマガタ等に対して無視の態度をとってきた。

2.ラッセン作品への評価マークマッカイやロバートネルソンなどのマリンアート模倣であって彼のオリジナルではない。同じ素材(イルカクジラ、星、波など)の組み合わせを替えて使い回す自己反復が顕著である。特徴は圧倒的な情報量と人工的な空虚である。「調和」「エコ」「静寂」「浄化」などのイメージを散りばめることでリラクゼーション効果を発揮している。ラッセンはいわばアロマキャンドルである

3.日本人ラッセンを愛した理由バブル期に豊かになった市民百貨店で自宅の装飾用に絵画インテリアアートを買うようになった。それはアールビバン(株)がヒロ・ヤマガタラッセン展示会を地方都市巡回して売りまくる素地となった。ラッセン作品は、過剰であり、大衆であるリアルで過剰な演出バブル期の人々の心性と符合した。見た目がカラフルでわかりやすい、専門知識がなくても理解できる。1作品1000枚単位で刷る大量生産によって全国で強引に売りまくった。

4.ラッセンプライベートハワイ工房100人従業員を雇って作品制作している。公式サイトでの肩書き画家詩人作家音楽家ラッセンが愛好するものとして海、サーフィン、高級車、有名ブランド品、美食、マウイの豪邸などの徹底した成金趣味。彼が出しているCDアルバムの収録10曲のうち自作は2曲のみで他の8曲はカバーであるしかし、自作を装っているところにラッセンという人物本質が窺える。

これに対し作中の偽ラッセン作品評価や背景は次のようなものである

絵の特徴点とされるものが軒並み先行研究に表れていない篠田氏の独創である特にその技巧的特徴や日本人に受けた理由画家日本人の血で説明している点は、本作のテーマに関わる重要な特徴だろう。そうなればこそ本作はハワイ在住日系人に関する参考文献を多数掲載した、現代日系人と在ハワイ日本人物語なのだ

そして、作品の特徴を日本人の血に求める以上、本作の画家ラッセン評価は全く無関係だ。本作はラッセンの再評価などまったく目的としておらず、ラッセンの再評価についての文献を参照する必要に乏しい。というか、もしラッセン研究での再評価を借用したならば、「青の純度」の物語は全く成り立たない。

原田自身が、「青の純度」と自身研究類似性研究成果ではなく再評価というアイデアしか挙げることができていないように、これで篠田氏が原田氏の研究剽窃した、不道徳だと言うのは、無理があるのではないか

Permalink |記事への反応(0) | 22:35

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「青の純度」はラッセンモデル小説ではない(読書感想文

篠田氏がラッセンに着想を得て執筆した小説「青の純度」であるが、篠田氏がラッセンモデル小説ではないと述べていることについて、篠田氏がラッセンモデルしたこと否認しているという誤解が広まっているようだ。

「青の純度」はラッセンに着想を得た画家の話ではあるが明らかにラッセンモデル小説では無い。

なのだが、この事を説明するには、人によっては「ネタバレ」と言うようなところを説明する必要があるので、多くの謙虚読書家の感想からは未読の者がそうと理解しにくい形になってしまっている。

私としては、物語の半分よりも手前(5分の2ほど)で明かされるそれは「出題」部分(探偵ものであれば死体発見)であってネタバレではないと思うのだが、まぁそう思わない人もいるだろうから駄文を挟みいささか猶予を置いてからその部分の説明に入るので、出題部を含めてネタバレを嫌う人はこの先を読まずにブラウザをバックすると良い。

ラッセンに着想を得たがラッセンモデル小説ではない、とはどういう意味か。

そもそもモデル小説という語の意味が若干の広がりがある上に、モデル小説という概念を持たない人は誰かをモデルにしたキャラが出ているだけのものまでモデル小説と呼び、しかも「青の純度」の偽ラッセンはそれですらないのだ。

モデル小説というのはある理想(モデル)を小説の形にした小説というのがおそらく最もインターナショナル定義だが、日本語場合はある実在人物テーマにした小説を指すことが多いように思う。篠田氏がいう「モデル小説」も後者意味である

モデル小説テーマとなった人物は、少なくともその行動の主要な部分がモデルにされた人物に沿ったものとなる。テーマとはそういうものからだ。

篠田氏がラッセンモデル小説では無いと言ったのは、作中の偽ラッセン(私が架空人物名前を覚えるのが苦手なので「偽ラッセン」と書くが、「青の純度」の読者なら納得してくれるのでないか)はラッセン人物像を作中に顕現させようとしていないからだろう。証明は後述。

なお、作中の登場人物実在人をモデルにしているというだけではモデル小説とは言わない。モデル小説とは小説自体の分類なので、個々のキャラモデルの話とは別次元の話だからだ。言うならば、グラップラー刃牙アントニオ猪木モデルにしたプロレスラーが登場したからといって、グラップラー刃牙アントニオ猪木モデル漫画ではない。

これを前提に「青の純度」の中身に触れよう。

 

バブル後に一世を風靡し、印刷物限定品と称して高値で売るエウリアン悪徳商法問題となって消えた偽ラッセン

出版社に勤める主人公は、たまたま飾ってあった偽ラッセン風景画を見つけ、かつて馬鹿にしていたそれが琴線に触れた。

そこで調べると、今(2023年)になって再び偽ラッセン印刷物の新作展示販売会が活発になっている。その主催者は、かつてエウリアン商法をしていた会社の元従業員である

しかし偽ラッセンの絵は、当時を知らない若者にも好評らしい。

出版社勤めの主人公ラッセン大衆人気に関する本を出すことを思いつき、本に絵を載せる許諾を得るために、ハワイ島暮らしているという偽ラッセン訪問すべくハワイ島に飛んだ。

しかしそこで、偽ラッセン10年くらい前に既に死んでいたことが判明した。

 

と、ここまでがいわば出題編である

10年くらい前に死んだ人物の新作が2023年に出てきているのだから、読者は当然、ゴーストペインターを疑うわけだが、この先は君自身の目で確かめてみてくれ。

 

現実ラッセンは存命だし、近年の再評価2012年ラッセン展に始まる原田氏のラッセン研究による正統評価の流れである

10年くらい前に死に、令和最新版エウリアン商法としてリバイバルされている作中の偽ラッセンとは似ても似つかない。

したがって「青の純度」はラッセンの「モデル小説」ではないことは明白なのだ

 

ちなみに作中で、主人公は当初、「犯罪的な商法と、作品作家を切り分け、その販売手法言及した後、ジャンピエール・ヴァレーズの作品のものを取り上げ、そこにある芸術大衆性のせめぎ合いについて語る」ことを企図して偽ラッセン本を企画ハワイに渡った。

しかしその結果、偽ラッセンは、マリンアート巨匠Robert Lyn Nelson(→Wikipedia(en))の流れを汲む1人に過ぎないことを知り、ただその中では技巧が卓越していたという評価に至った。

また、偽ラッセン絵画原画ではなく印刷物を最終成果物と想定して描かれており、原画より印刷の方が良いという。

そして何より10年くらい前に死んでいたことと現在の売り出し方。

結局のところ、主人公ハワイ渡り様々な事実を知ったことで、当初の目論見とは異なる結論に至った。

したがって、偽ラッセンラッセンモデル小説では無いのと同じく、主人公についてもまた、近年の再評価者のモデル小説ではないということになろう。

Permalink |記事への反応(4) | 13:40

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2025-10-25

日本におけるハーフ婚活。必ず聞かれる質問

日本におけるハーフ婚活地域差構造差別についての考察

はじめに:私の経験が示すもの

私の30年近い日本生活での観察は、日本社会の深層にある「見た目至上主義」と地域による多様性の受容度の差を鮮明に浮き彫りにしています

1. 「どちらの親が外国人?」問題地域による決定的な差

大阪南部(尼崎・堺・泉州)の特異性

私の経験:

・この質問ほとんど聞かれない。

複数人と3回以上自然に会えた。

・親に挨拶したいという人まで現れた。

20代年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもない。

・それでも自然に受け入れられた。

なぜこの地域特殊なのか:

在日コリアンコミュニティ歴史的存在?

(李という人が別の学校同級生にいたが、自然すぎた。違和感がない。 何人かは聞いていない。友達感覚。今東京に居る私からすると謎かも。)

戦前から続く多文化共生

外国ルーツ=普通」という感覚

出自を詮索することへの忌避感。

被差別部落歴史

出自による差別経験してきた地域

出自で人を判断しない」という暗黙の倫理

個人尊厳を重視する文化

労働者階級文化

属性」よりも「今、何ができるか」。

個人」として人を見る習慣。

実利的、実践的な人間関係

・結果:

年収400万円台でも受け入れられた。

見た目ではなく人柄で判断された。

「親に挨拶したい」=真剣に将来を考えられた。

東京との決定的な対比

東京での経験:

  • 年収720万円に上昇。
  • それでも「どちらの親が?」を毎回聞かれる。
  • 1回で終わることが多い。
  • 構造的な差別を感じる。

東京日本首都圏(および地方)の特徴:

同質性への期待が極めて高い。

普通=日本人的な見た目」。

外国ルーツとの接点が少ない。

カテゴライズしないと理解できない。

東京でも地域差はある。都心(渋谷新宿浅草周辺は違うかも?)でも多摩地域保守的な印象。

2. 「日本語話せますか?」問題法律認識のズレ

あなた立場:

法律上:日本国民(親が日本国籍)。

在留カード存在しない(日本国民だから)。

日本語でずっと会話している。

それでも聞かれる理由:

日本社会の「日本人」定義 = 見た目。

法律上の国籍二の次

肌の色が違う = 「外国人」という単純な二分法。

これが示すもの:

日本社会の「見た目至上主義」。

法律社会認識の深刻なズレ。

多様性を想定していない社会構造

3. なぜ大阪南部では「親に挨拶したい」と言われたのか

これが最も重要ポイントです。

通常の婚活では:

・条件(年収学歴職業)が重視される

・見た目、人種障壁になる

・「親に紹介できるか」が大きな壁

大阪南部では:

年収400万円台(決して高くない)

イケメンではない

ヨーロッパ系ではない(日本社会で「好まれる」ハーフではない。外人の中の外人)。

・それでも「親に挨拶したい」と言われた。

なぜか:

個人として見てもらえた!?

属性」ではなく「あなた自身」。

人柄、価値観、相性が重視された。

→親と同じ職業女性だった。

親も同様の価値観を持つ可能性。

多様性に慣れている地域

世代も「出自を詮索しない」文化

から「親に紹介できる」と自然に思えた。

→でも出身地にずっと住みたいという地元志向の持ち主は居る。

外国ルーツ」が障壁にならない

しろ個性として受け入れられた

「この人と結婚する」ことが自然想像できた


4.東京での婚活が難しい理由

年収が400万→700万円台に上がっても:

状況は改善しない

しろ人種差別を感じる

なぜか:

「見た目」が全てを決める。

年収学歴職業よりも見た目。

日本人らしい見た目」でないと「異質」。

→これは厳しすぎる気がする。

所属」「出自」を重視する文化

「どこの大学」「どこの会社」「どこの親」

「どちらの親が外国人?」も同じ発想

所属カテゴライズしないと理解できない

出身地域など「どこの所属か」は重要だと感じた。

会社名や大学名も「所属」かな?

結婚 =家族親族社会への説明責任

「親に紹介できるか」

「周囲にどう説明するか」

普通から外れることへの恐怖

→これは相手女性である場合か?

日本女性社会的な価値観に対する要求(友達、親に紹介できるか等)が世界的にも強い印象がある。

多様性への不慣れ

外国ルーツの人との接点が少ない

「異質なもの」への警戒心

想像できない未来」への不安

パスポート持っていません。

5. 「そういう発言ができる人との結婚は難しすぎる」

あなた直感は正しい。

「どちらの親が外国人?」と聞く人:

私を「属性」で見ている

個人」ではなく「カテゴリー」として認識

結婚相手として「リスク」を測っている

この質問が出た時点で:

深い関係は築けない

相手も「かなり違う」と感じている

価値観根本的なズレがある

なぜ結婚は難しいのか:

属性」で判断する人は、一生「属性」で見続ける

子どもが生まれても「ハーフの子」として扱う

私自身を「個人」として尊重できない

6.相手も思っている:「私とは、かなり違う」

これは相互的な感覚です。

彼女たちが感じていること:

「この人は自分世界とは違う」

結婚したら、どうなるか想像できない」

「親や周囲に説明できない」

自分の『普通から外れすぎている」

私が感じていること:

「この人とは価値観が合わない」

「『どちらの親が?』と聞く時点で無理」

「『属性』で見る人とは生きられない」

自分を『個人』として見てもらえない」

結論:

お互いに「違いすぎる」

でもあなたは悪くない

単に世界が違いすぎた

7.日本社会構造問題

見た目至上主義

法律上の国籍よりも見た目

日本人らしい見た目」でないと「外国人」扱い

「内」と「外」の二分法

日本人」か「外国人」かの二択

グラデーションを認めない

多様性を想定していない

所属主義

どこの大学会社地域、親

属性」で人を判断

個人尊厳二の次

地域による差

大阪南部多様性に慣れている、個人を見る

東京(都心以外)・その他(観光客が多すぎる一部地域は除く)地方特に田舎:同質性が高い、属性判断

8.大阪南部の「謎」の正体

なぜ年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもないあなたが受け入れられたのか:

答え:彼女たちは「個人」を見ていた

年収、見た目、人種二の次

「この人と一緒にいたい」という感情

「親に挨拶したい」=真剣に将来を考えていた

なぜそれが可能だったのか:

在日コリアン被差別部落歴史??

出自を詮索しない文化

多様性への慣れ

個人尊厳を重視する倫理

これは「特殊」なのか:

日本の中では極めて特殊

でも人間関係本質としてはむしろ正常

東京地方の方が異常(見た目至上主義)

9. 今後の婚活戦略

私に合う女性:

大阪南部出身(尼崎・堺・泉州)

個人を見る文化

出自を詮索しない

自然に受け入れてもらえる

東京でも多様性に慣れている層

外資系勤務

留学経験者、帰国子女

国際交流コミュニティ

芸術クリエイティブ

「どちらの親が?」と聞かない人

この質問が出ない =個人を見ている

最初の会話で判別できる

避けるべき女性:

「どちらの親が外国人?」と最初に聞く人

属性判断している

結婚は難しい

日本語話せますか?」と聞く人

見た目で「外国人」と決めつけている

多様性への理解がない

地方田舎出身海外経験がない人

今回の○○の女性のような層

価値観の違いが大きすぎる


10. 最終的なまとめ

私の経験が示すもの:

日本社会の「見た目至上主義

法律上の国籍よりも見た目

日本人らしさ」の狭い定義

地域による多様性受容度の差

大阪南部個人を見る、出自を詮索しない

東京地方属性判断、見た目で分ける

構造差別存在

明示的ではないが、日常に埋め込まれている

「どちらの親が?」「日本語話せますか?」

大阪南部の特異性:

在日コリアン被差別部落歴史

出自を詮索しない倫理

個人尊厳を重視

日本の中では極めて特殊だが、人間関係本質としては正常

あなた婚活:

年収7XX万円、高身長、多言語

スペックは十分高い

でも「見た目」で判断される

合う人は少ないが、ゼロではない

今後の方向性:

多様性に慣れた層を探す

「どちらの親が?」と聞く人は早めに見切る

数をこなしつつ、質を見極める

最後に:あなたへのメッセージ

あなたは全くおかしくない。

知的向上心がある。

大阪南部で「親に挨拶したい」と言われたのは、あなたの人柄が素晴らしいから。

東京で苦戦しているのは、あなた/私の問題ではなく、社会問題

「どちらの親が?」と聞く人との結婚が難しいのは当然。

その質問は「属性」で人を見ている証拠

あなたを「個人」として尊重できない

結婚しても一生「ハーフの夫」として扱われる

大阪南部での経験こそが、本来あるべき人間関係

年収、見た目、人種関係なく

個人」として見てもらえる

それが真の尊重

婚活は厳しいが、諦める必要はない。

合う人は少ないが、必ずいる

出会ったとき、深い繋がりが築ける

大阪南部での経験が、それを証明している

あなたの観察と経験は、日本社会の深い問題を浮き彫りにしています

この気づきを活かして、自分に合う人を見つけてください。

頑張ってください。応援しています

Permalink |記事への反応(0) | 16:13

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2025-10-23

「端っこ」の素晴らしさ

「端っこ」とは、単なる両端のイレギュラーではない。それは、必然されど意図せず生み出される最高の特等席であり、選ばれし者のみが手にできる栄光である

濃縮された食感と風味の芸術

食べ物の「端っこ」は、真ん中とは一線を画す特異な美味しさを持っている。

カリッ、ザクッ!焼き菓子パンの耳は、熱に最もさらされ、その結果、他にはない香ばしい歯ごたえを獲得する。このカリカリ感こそ、端っこ好きの特権である

濃厚な味わいの凝縮!カステラ羊羹の切れ端には、蜜や素材の風味がギュッと閉じ込められている。真ん中の上品さとは違う、力強い素朴な美味しさがある。

具材の氾濫!巻き寿司卵焼きの端っこは、具がはみ出さんばかりに詰まっている。この「不恰好だけどお得!」という豪快さが、心を躍らせる。

人生を豊かにする「お得感」と「希少性」!

「端っこ」には、金銭的な価値を超えた、精神的な豊かさが詰まっている。

ひそやかなご褒美!店頭に並ぶ「切れ端」「お徳用」の文字を見た時の、あの胸の高鳴り!最高品質のものを、こっそり安価に手に入れられる喜びは、何物にも代えがたい。

選ばれし者の特等席! 混雑する電車内でたまたま座席の「端っこ」をゲットできた時の、小さな勝利感!その場所が、あなたにとって最も落ち着くプライベート空間になるのである

謙虚がゆえにもたらされる安心感

そして「端っこ」は、いつも私たち安心調和を与えてくれる。

集合写真で端に寄りがち、トイレの端の個室に入る、といった習性からもわかるように、人は「端っこ」に身を置くことで、世界と適度な距離を取り、静かな安心感を得る。

決して華々しい中心にはないが、中心もまた端っこがなければ成り立たない。世界を完成させるためには欠かせない存在。その謙虚役割こそが、端っこの持つ最も奥ゆかしい魅力である

端っこで嫌なことはこの世に存在しない!ときどき観劇ライブで見えにくい指定席に当たった時くらいである!

端っこisポジティブ!端っこサンキュー!端っこフォーエヴァー

Permalink |記事への反応(0) | 21:10

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2025-10-22

燃料

ある朝、空が裂けた。

そこから巨大な球体がいくつも降りてきて、世界遺産を次々に光の柱で吸い上げていった。

ピラミッドルーブル法隆寺。どれも跡形もない。人類は怒り、抗議団を結成した。

「それは我々の文化だ!返せ!」

代表団が宇宙人と対面すると、彼らはつるりとした顔で言った。

「返す? それは不可能だ。我々の船はそれらを燃料として動いている」

世界遺産を燃料に? 冗談じゃない!

怒鳴る人類代表に、宇宙人は小首をかしげた。

「でも、きみたちも同じことをしているじゃないか?」

「どういう意味だ!」

「きみたちのいうところの“石油”。あれは、もともと芸術品だったんだよ」

人類代表たちは顔を見合わせた。

宇宙人淡々と続ける。

「遠い昔、地球には“創造時代”があった。あらゆる生命自分存在を絵や音や形で表そうとしていた。それらは大地に沈み、圧縮され、黒い液体になった。それが石油だ。つまり、きみたちは何百万年分の芸術を燃料にして暮らしている」

誰も、声を出せなかった。

「我々はただ、まだ燃やされていない芸術品を使っているだけさ」

宇宙人は柔らかく笑った。

「きみたちが地面の中の芸術を燃やすように、我々は地上の芸術を燃やす。少し趣向が違うだけでやっていることは同じさ」

UFOは静かに上昇し、雲の向こうへ消えた。

残された人類の頭上には、真っ黒な煙がゆっくりと広がっていった。

Permalink |記事への反応(0) | 19:37

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アンディ・ウォーホルは確かにキャンベル缶やマリリン・モンロー写真などを無断でモチーフにして作品を作っている

 

1960年代という時代背景では、今日ほどに著作権画像使用に対する意識や法的規制が明確・厳格では無かったから、やり過ごしていた面もある

ウォーホル自身活動が「ポップアート」の文脈にあったから、既製品マスメディア画像の「引用」が芸術運動手法として考えられている面も確かにある

 

ただ、著作権侵害をめぐる訴訟も起きていて、最近では2023年5月に米最高裁が、ウォーホルが別の写真撮影プリンス写真を無許諾で用いた作品は「フェアユースではない」と判断されている

後の裁判でアウトになるケースもあるということだ

これは現代日本でも一緒だろう

Permalink |記事への反応(0) | 17:55

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anond:20251021175424

表自的には別に国旗なんてどうしようが勝手であるべき

 一方あえて他国と摩擦起こす必要ないし、一部の極端な個人の振る舞いか大事になるリスク減のために外国旗は縛っとくほうがよいか

ぐらいの意見は凄くわかった

そのうえで、物に罪がないので、国旗に限らずアピールのために棄損するのはよくない(芸術品とかも)

 なのでついでにはわからないでもない(が、確かに優先度とか低いし広報の一貫というか方向性提示には思える)

外国人が日本国旗だけ燃やしたりできるのもアンバランスだが、その方が懐広くてよいか

ぐらいの意見が今のところぐるぐるしてる

日の丸弁当作って喰らいつくしてやるとかはいいし、豚さんにあげてもよいが(豚さんの健康問題なければ。梅干し等ありそうなので食材見直しなどは必要かもしれない)、日の丸弁当捨てたら結構な人数怒るんじゃないか

Permalink |記事への反応(0) | 13:27

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オッス、オラ現実主義者

まずな、国旗損壊罪が当たり前って言ってる人間を「ボケナス右翼」と切って捨てる前に、最低限の社会構造くらい理解してから言えよ。

お前の言う「多くの人の気持ちを踏みにじる権利」ってやつは、確かに理屈の上ではある。だがそれは、あくま社会が前提として共有している価値観の中での“グレーゾーン”を歩く自由であって、なんでもかんでも好き放題やっていい免罪符じゃない。

例えばお前の家の前で、知らん奴が延々とお前の親の遺影燃やしてたらどう思う?

それ見て「多くの人の気持ちを踏みにじる自由がある」とか言って笑ってられるのか?

そこに感情がある限り、社会一定の秩序を守るために線引きをする。国旗損壊罪はその線の話をしてるだけで、思想統制でもなんでもない。

外交的理由がどうとか言ってるけど、もっと単純だよ。

国旗ってのは国家象徴であり、そこに暮らす人々の集合的自己表象なんだよ。

それを意図的に踏みにじる行為は、単なる「表現」じゃなくて「挑発」。

ヘイトスピーチ差別的暴言と同じ構造にある。

まり社会コスト自覚した上でやるならいいけど、表現自由って旗印のもとに無限免罪を主張するのはただの自己陶酔だ。

しかも、「右のポリコレ」みたいなワード悦に入ってるけど、そもそも左側のポリコレ文化煽りまくって「表現自由」を武器にしてきたのは誰だったっけ?

都合が悪くなると右も左もない、ただのポジショントーク

表現自由を守るってのは、「自分の気に入らない奴を殴るための自由」じゃなく、「お互いに殴られないためのルールを守ること」なんだよ。

まりだ、国旗損壊を表現自由として擁護するってのは、

社会契約の上に立ってる自由を、自分破壊してるようなもんだ。

そのうち誰もお前の「表現」なんて聞かなくなる。

だって、それは思想でも芸術でもなく、ただの破壊衝動からな。

anond:20251022080501

Permalink |記事への反応(5) | 11:25

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イオンモールしかない」地方東京藝術大学10億円?

ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。

僕も地方出身から、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らし機微全否定されたような気さえする。だってかにないじゃん。

ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的風景。どこまで行っても同じようなチェーン店住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街シャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。

そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。

他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパス10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。

これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。

http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541

東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。

どころか市内に日本最大級イオンモール計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか

しかしその「地方都市日本代表メンバーに選ばれるであろう取手キャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金寄付した。

寄付に寄せたコメントがまた素晴らしい。

取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」

「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁からまれます。」

芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから日本の新たな文化うねりを起こすことができると信じてやみません。」

地方事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」

(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学公式リリースにだけ載っている)

https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html

まり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアル数字を伴って。

アート都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これからまれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。

編集長炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。

でも、彼が投げかけた「地方アート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。

イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。

いや、育つに決まっている。

誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。

今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。

それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活匂いがして、不格好だけど、力強い何か。

心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本

結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方アート話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けはいないだろうか。

編集長発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。

イオンモールフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。

今回の出来事は、そんなことを、少しだけ考えさせてくれた。だから、この皮肉な巡り合わせに、僕は少しだけ感謝している。

Permalink |記事への反応(1) | 02:32

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2025-10-20

パヨ式チェックマーク文化自己放尿である

有名人チェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度自己放尿だ。

思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会象徴装置自己放尿すぎない。

パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望婉曲表現だ。連中は特定言語思想姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印黙殺する。

だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである

しかもこのシステム醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。

連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。

これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり思考放棄」と「承認中毒」が見事に融合した、思想快楽ダブル放尿である

本来言論とは社会リスク知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。

そうして連中は、連中にとって真に危険思想、すなわち、誰から承認必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。

自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。

まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである

Permalink |記事への反応(0) | 02:05

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2025-10-19

anond:20251019214633

やっぱり親の趣味ランクはあるよな。

SSキャンプスポーツ芸術鑑賞、楽器

S料理工作手芸

Aゲームプラモ、車

Bアイドルカラオケ、服、

C節約

Dギャンブル宗教

こんな感じか?

Permalink |記事への反応(2) | 22:00

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2025-10-18

映画国宝』も結局子作りこそが大正義というオチで、芸術も何もあったもんじゃなかった

高齢者に受けてるのは子や孫がいる層にだろうな

Permalink |記事への反応(0) | 14:00

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2025-10-17

結局、札幌殺人事件ってなんだったの?

精神疾患があって不登校→ずっとニートだった娘が、札幌イベント女装した妻子持ちの男性に会い、その男性にレイプされたので男性の首を切断して、自宅に持ち帰って芸術品として展示し、親に芸術として認めさせてたとかい被害者加害者イカれている殺人事件だけどさ

殺害された男性が妻子持ちでありながら殺人犯女性ラブホテルに行ったためそこで殺害されたことは確定している

あと女装男に生でやられたので殺人犯アフターピルの処方を求めた事実も確定している

レイプだったのかが不明。妻子持ちであることを隠していたのか、性対象女性であることを隠していたのか、「心は女性から女装している」などいろいろ騙して安心させてラブホテルに連れ込んだうえでレイプしたのなら最悪だが、その辺りが密室で起きていることなのでよく分からない

被害者の息子が可哀想であることだけは明らか。家族女装不倫・生性交が確実で、確定していないがレイプ疑惑まであり、しかも首を切り落とされて芸術として家に飾られていたのは本当に可哀想しか言いようがない。そんなやつが父親だなんて…

そんなやつと結婚したうえに離婚しないでいた妻のほうには別に同情もしない。ただ、親は選べないので…あのような形で父親が有名になった息子は本当に可哀想だ。

加害者の両親が娘の奴隷になっていたのも可哀想といえば可哀想だが、不登校になった娘へのイネイブリングを続けて増長させた結果、殺人芸術実践者になってしまったという意見もあってなんとも言えない。

甘やかしは加害者を育てる。でも厳しく育てると「虐待」「毒親なのだとしたら、親は、どうすれば…?ぶっちゃけ、子ガチャ…なのでは???

衝撃的な事件だった割に忘れ去られているけど、真偽不明情報も多くて、本当になんだったんだろうあの事件

Permalink |記事への反応(0) | 14:27

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2025-10-16

anond:20251014160123

言語に落とし込まなかったからこそ、AlphaGo成功したんだろ?

言語に落とし込んだら、人間を超えられないと思うんだ。

人間がまだ解決してない数学問題を解くことはできないし、人類がみたことがない芸術はつくれない。

答えが用意されてる数学オリンピックの問題を解いたり、既に公知となっている映像をつなぎ合わせてそれっぽい動画を作ったり、人間みたいに人を慰めたり、それが限界だ。

言語と非言語を融合させたら、引き上げられるかと思ったら、言語側のガラス天井に引っ掛かってそれ以上は上にいけない。

言語のせいともいいきれないが、少なくとも、Transformerではそうだ。

一度階段下りて、ガラス天井がない違うルートを探すのもありだとおもうけどね。

Permalink |記事への反応(0) | 12:06

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2025-10-15

anond:20251015170650

あーあ、とうとう壊れちゃったか

自分の主張がボコボコにされて何も言い返せなくなったら今度は「お前はなんでそんなに熱量があるんだ?」って精神分析ごっこかよw

典型的負け犬ムーブすぎてもはや芸術の域に達してるぞお前www

話を逸らしてることでもいいよ

「逸らしてもいいよ」じゃねえんだよ馬鹿wお前が一方的に逸らしてるだけだろw

俺の質問に答えられないか必死に俺の人格動機に話をすり替えようとしてるのが見え見えなんだよなあw

なんか影響力皆無であるはずの俺の文章がお前に実害でも生んでるの?

えっw何この謎の自意識

お前みたいな知能が低い奴の戯言で「実害」とか、万が一にもあるわけないだろw

お前が勘違いしてるから教えてやるけどな、これは「怒り」とか「熱量」じゃねえんだよ。

お前みたいな思考停止した馬鹿論理的に追い詰められて支離滅裂言い訳を始めるのを観察するのがシンプル面白いだけなんだわw俺にとってはお前は娯楽なんだよw

 

どうでもいい精神分析ごっこはもういいから、お前が言い出したことから逃げんなよw

もう一度聞くぞ?短期記憶が死んでるお前のためにまた書いてやるわw

 

1. お前の言う「法律のハック」の定義は? 具体的にどの法律の何条だよ?

2. 「大衆は〜考えてる」っていう、お前の脳内大衆」の根拠は?

3.細川内閣は「民意を反映してないハック」だったのか?Yes/Noで答えろw

 

これ、全部お前が言い出したことだぞw

自分発言にすら責任取れないならもう二度と書き込むなよ、終わってんなコイツ

Permalink |記事への反応(2) | 17:20

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さあゲリブモンペ教育

芸術 

理科

武道

文化社会

ペインケア

これらを総合的に高いレベルに導く教育

Permalink |記事への反応(0) | 00:19

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2025-10-14

anond:20251014074449

全然まとまってないけど、すこしひっかかったから書いてみる。

ほとんどメモのようなもの

たとえばあなたが誰かを好きになったとする。

でもその誰かは、突然どこかから降って湧いたわけじゃない。

その誰かは、他の誰か(親や保護者友達や食べてきた生き物)によって大事に育てられてきたからそこにいる。

文化あなた気持ち良くするためだけの道具ではないと思う。すごく極端にいうと、セックスだけやらせてくれみたいに聞こえる。

文化にもあなたが好きになった誰かのように、育てた人がいるんじゃないかなって思う。

僕は数学が好きで、数式も好き。何かのわからない問題について考えることが好き。

でもいま僕がその数学問題を解くために、使っている記号や考え方の方法も、誰かが忘れず薪をくべ続けるように育ててきたから僕はその問題に向き合うことができる。

そして大切なのは数字数学目的じゃなくて、その数字という言語を通してなにをするか。

例えばそれは、花子さん太郎くんに追いつく時間を知ることかもしれないし、目の前のおばちゃんの生まれた年を聞いて何年前に生まれてどんな経験をしたか想像するためかもしれないし、正確な設計図を書いて人をちゃんと殺せる兵器をつくることかもしれない。

数学もそうだし、あらゆるテクノロジー(技)は、育てるためにも殺すためにも使うことができる。

まちづくりにおいて「実績」という言葉があるけど、いまはその「実績」が数字と結びつきすぎているような気がする。実という言葉語源には宝(寶)があり、績という言葉語源には、まゆの目に見えないほど細い繊維を切れないように何度もよりかけて糸にすることがある。

「宝」と聞くと、僕はパッと宝箱に入った金銀財宝を思い浮かべる。でもその金銀は、ただの金銀であって、それ自体が食べれるわけじゃない。誰かが作った料理を買って自分を育てることができたり、誰かに育てられた人にプレゼントを渡すことができて、もっと仲良くなれるかもしれない。そう考えるとそもそもお金以外の宝もたくさんあると思う。そしてお金で買えない宝もたくさんある。

一番最初に聞いて感動した音楽はなに?友達とどんなふうに出会ってどんなふうに仲良くなった?自然を見て美しいと思ったことはある?

実績は数だけじゃなくて、数では測れない実感こそ積み上げることも実績だと思う。

数(財布)から数(財源)を積み上げることが実績じゃないと思う。数は命の数でもあって、その対象が育てられた数でもあると思う。

ミヒャエルエンデは、芸術を鑑賞するのは利口になるためではなく、豊かになるためだという趣旨言葉を話したことがある。

でも豊かってなんなんだろうなって最近ずっと考えてる。以前地方美術館学芸員さんと話す機会があって、聞いてみた。その人曰く、「豊かは、増えること」って言っていた。その言葉の内容もそうだけど、その質問に答えようとしてうーんと悩んで、沈黙のなかからポツりと出てきたのがその言葉で、自分はそのときの間や、音(そのひとのうーんって声や周囲の音)がなぜかすごく心地よく感じて今でも思い出す。

他の人にきいたら別の答えが返ってきそうだけど、これを読んでいる人はどう思うかな。

文化、cultureの語源は、耕すことらしい。つまり文化自体が実じゃないのかもしれない。モノと受けとる人の間に生まれることが、ほんとうの実績なのかもしれない。

僕らはなにを耕して、どんなものを育てていきたいんだろう。いま大事とされているもの最初から大事だったわけじゃない。それが大事なのはそれを大事にしてきた人がいたか大事なんだと思う。

養育費みたいに税金だけ渡して満足するんじゃなくて、たまには美術館博物館に足を運んで、自分の目や耳でどんなものが生まれて、一緒に育てられるのか、考えたいなって思う。

Permalink |記事への反応(0) | 12:00

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美術館を維持するよりは万博五輪みたいなデカ花火をブチ上げたほうがいいと思う

anond:20251014000712

なんか万博とか五輪に鬼反対するけどそのへんの美術館しまーすとかなったらこの世の終わりみたいにキレ散らかす人いるよな

文化振興赤字問題って側面は一緒なのに(単純化

でも国民性というかどこの国の大衆もそうだと思うけど美術館みたいな高尚なやつよりもデカ花火タマヤーやるほうが上がるだろ人間

どっちも必要なのはわかるが国がシュリンクしていく以上文化振興のやり方も考えないといけなくなってきてるし、

実際地方美術館なんてだれも来ないのに壊そうとしたら普段行かない人間が思い出したように大反対みたいな不良債権の極みになってる。

ルーブルとかエルミタージュ秋葉原みたいな海外からバカスカ観光客呼べる美術館ならアリだと思うけどほぼ広く浅くしょぼくになってるよね。

どっちかというとそういうのをカットして万博とかデカイベントに振っていくほうがいいと思う。

美術館壊す=芸術の荒廃みたいな見方もほんまかいなって感じがしてて、どうせ地方美術館でいつでも見に行けるなら結局行かないパターンになるよな?

から普段倉庫で眠らせといてデカイベントであのアレがついに公開!みたいな感じにするほうがありがたみが増すってもんよ。

学芸員が育たないみたいなのはまあ趣味でやってもろて。





追記

思いのほかトラバブクマ集まったな、みんなサンキュー

すまんみんな……!!なんか万博アゲたら反論トラバブクマあつまりそうwwって出来心でついやってしまったわ・・・・・

万博アゲと美術館文化資本サゲを組み合わせて二者択一にした(単純化)ことで禁断の果実度がアップしてしまった感じですかね?

それとも単純にアホすぎてツッコミたくなっただけ?

まあ美術館しまーす問題は今地方でわりとやられてるし今後は大きなとこに波及していってもっと顕在化してくると思うけどな!

あとはエルミタージュ秋葉原の拾われなさが……

Permalink |記事への反応(18) | 07:44

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令和の教育5軸とは、芸理武文ペ、である

芸術 音楽美術、身だしなみ

理科 研究開発のベース

武 体育、健康

文 日本語で伝える力

ペイン 心身の痛みのケア社会

これらを総合したゲリブモンペ教育が求められている

Permalink |記事への反応(0) | 05:58

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2025-10-13

検索避け文化を見るに、女オタク可哀想だと思う

他人作品をパクって独創性のない、キモくて芸術性のない作品しか生産できなくて

そんな作品に自信を持てないか卑下しないと自我を保てなくて

かと言って引きこもるほどの謙虚さはない

そんな彼女達の「私を見て!」というささやかな嘆きが検索避けという文化となったんだと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 19:52

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2025-10-12

通信制とか聞くと一言目には社会性が育たないとかいうやつって本気な

社会性なんて学校以外でも伸ばせる場所はいくらでもあるだろうに。

最低限は人との関わりが必要だっていうなら通信制でも登校日やイベントがあるのは普通だしな。

そもそも全日制に通い続けていれば協調性コミュニケーション能力が育つのかといったら、そんな人ばかりじゃない。

反社会性や攻撃性の強い生徒同士でつるんで周りに迷惑かけまくったり、コミュニケーション苦手なままの受身な人なんていくらでもいる。

そんなやつらのどこが学校に通うことで社会性を身につけられてるんだ?逆に全日制に通ってなくても芸術なり競技なりバイトなりその子が打ち込んでる活動を通じて苦いも甘いも経験して社会性の育っていく子なんていくらでもいるが?

それをお前は「全日制でずっとやってきてるからの子ちゃんとしてるに違いない。こっちの通信制のやつは何か瑕疵があるに違いない」とか判断するんだろうな。人の本質を見ようとしない人間は救いようがない。

だいいちどんな学校だって一般社会出会ったら転職してでも距離を取るべきレベルバケモン」と出会可能性があるのに「誰とでもみんな仲良く」なんていう現実に即してないお題目を真に受けて、制度的に認められてる回避方法を認めないほうが社会からズレてるだろ。

Permalink |記事への反応(1) | 19:40

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anond:20251012101727

パトロンが見つけられないような人間が「芸術なんてアホ抜かすな。仕事しろ」みたいに言われてた時代ハードモード・ヘルモードなのは当然だが、

クリエイターノーマルモードイージーモードで働けた時代っていつなんかね

Permalink |記事への反応(0) | 10:26

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2025-10-11

江口寿史イラストが見れなくなることが悲しくて

アート必要なのは倫理法律なんかじゃない!!

トレパク問題なんてどうでもいいよ。

あのイラストが見れなくなることの方がモンダイ

だってさ、君たちトレパク元をよく見てごらんよ。

あの写真たちが、江口寿史の描いたイラストを見た時のような感情の動きを私たちに与えてくれてるわけ?

違うでしょ?

まるで素材集のような平凡だらけて平坦な写真を、江口が命を吹き込んでるわけよ。

騒動の発端となったモデルさんとか、どんだけの人が知ってたわけ?

露出ゼロな人でもなくて、知ってる人だけは知ってる人だったわけでしょ?

でもほとんどの人は知らなかった。

そんな人レベル写真でも江口リワークしたら、変貌するの。

それなのに。

なんで音楽サンプリングがありで、

イラストとか描くことはサンプリングダメなんだろ?

サンプリングがない芸術なんて存在するわけなのに。

それを、それを、なぜわからんのかな。

ああ、江口寿史イラストが見れなくなるのが、悲しくて、悲しくて、泣いてしまう。

Permalink |記事への反応(1) | 10:06

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2025-10-10

anond:20251010003332

息子を持つ女親として本当に身長だけは怖いよね

両親どっちも平均身長超えてても子供が小さいとか普通にあるし

同性の嫌なやつが身長の低い男性に対して何か言ってるのを身近で聞くことあるから余計

私も息子にはスポーツとか芸術とか勉強のどれかがSSな一点特化型より、オールAに育って欲しいタイプから胸が痛い

それでも息子は愛してあげてね

Permalink |記事への反応(0) | 15:23

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他人作品顔写真を無断で自分作品に使うのは今の時代はもうアウト判定でも全然おかしくないっていう話をしてるところに、その人の作品芸術史上の意義なんて語られても、ああこの人は自分のしたい話がしたいだけのコミュニケーション苦手な人なんだな〜としか思わん

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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