
はてなキーワード:職業とは
■司馬遼太郎風 改稿
人間というものは、しばしば自分の青春を他ならぬ自分の手で投げ捨てる。
それは他人に奪われるものではない。むしろ、他人のせいにできぬ種類の「敗北」である。
この国では、そうした人間が珍しくない。いや、むしろ今の時代、ネットという便利な井戸端ができてからというもの、その種の「自己廃棄型人間」は、どこにでも見られるようになった。
たまたま彼が自衛隊という特殊な組織にいたことで、周囲の人々は多少の情状酌量を与えるのかもしれぬ。
だが、職業が何であろうと、十代二十代を「捨てた」と言葉にする時点で、その人の人生観はすでに破綻している。
人は、自分の過去を呪い始めたとき、もうその呪いから逃れることはできない。
「お疲れさまでした」といった称賛の言葉は、慰めであると同時に、無関心の別名でもある。
三十を過ぎた男が、未だに己の人生に「物語」を求めて悩む姿は、滑稽といえば滑稽である。
だが、それもまた、この国の時代病の一つだ。
精神の成長よりも、感情の正直さばかりを美徳とし、成熟を「鈍さ」と呼ぶ。
したがって、彼のような男は、社会という大人の世界に出た瞬間、言葉の通じぬ異邦人となる。
しかし、それを離れたとき、人は初めて己の素肌を晒すことになる。
それは、冬の荒野に放り出されたような心地だろう。
そして多くの者は、そこで初めて「自由とは孤独である」と悟るのだ。
友を断つことは、己を断つことに等しい。
プライドは人を立たせもすれば、殺しもする。
古来より、この国の武士たちもまた、その誇りゆえに散っていった。
だが、戦場の死はまだ潔い。
自衛隊の中で鍛えられたはずの筋肉も、精神も、やがて脂肪のように弛んでいく。
彼は、今ようやく「市民」として生きねばならぬ段階に立っている。
それは決して容易なことではない。
だが、たとえどんな境遇にあっても、人間関係だけは切ってはならぬ。
人の生は、けっして理想や信念では支えられない。
孤高は人を導き、孤独は人を蝕む。
あなたが歩むべきは、前者の道だ。
世間は冷たい。
だが、冷たさの中にも温もりがある。
https://anond.hatelabo.jp/20251026193842
たまたま自衛隊や防大みたいな特殊な場所や職業だったからそこらへん割引いてもらえてるだけで、
これがどんな職業であれ、どんなものであれ何でもいいけどさ、自分自身で10代20代をドブに捨てたと思って言葉にまで出してるんだから、そりゃ10代20代をドブに捨てたゴミみたいな人生歩んでるね、としか言いようがないよ
まぁ、あんまり厳しい事言ったら可哀想だけど、これからそういう目で見られてそういう扱いを社会で受ける中で、働いて飯食って第二の人生歩まないといけないんだから、そりゃ物凄い苦労する人生にはなるわな。
内心、自分でもそう思ってるんでしょ?長い懲役の様だと形容してるけど、その認識正しいよ、みんな心の底で思っててお前さんには本当の事言わないから、あえて厳しい言葉で本当のことを親切心で言うのであれば
ガキん頃から世間と隔離された自衛隊という世界に身を置いて、これから身一つで生きていかないといけないのに、最後に頼れる友達を、チンケなプライドの為に縁切ってどうすんの?最後の最後に助けてくれるセーフティネット自分から断ち切って、縛りプレイなんかできる能力じゃないでしょ、そもそも、そんな能力あるのなら自衛隊辞めてないしな。
ここの増田やブコメの馬鹿共の心の内では嘲笑しながら、思ってもない慰めの言葉に縋り付いて、今のまま本当に心配してくれる自衛隊の友人たちとの関係を切って、あんなゴミ弱者男性や弱者女性の仲間入りしたいんなら、どうぞご自由にではあるけど
大学の友達との付き合い方で悩んでいる。極度の不安症の友人がいる。
でも努力家で優秀だ。だからこそというべきか。自分の目的を達成するためになら何でもやるし、友達も利用する。
なんでそんな奴と友達やってるんだ、と言われるかもしれないが、離れる方がかえって面倒くさいタイプだから。言葉を選ばないと、メンヘラ一人っ子わがまま声でか曲解系女子(パーソナリティ障害ってやつか?)なので、正直事を荒立てるよりは穏便に程よく付き合っていたい。大学卒業後、職業柄関わらざるを得ないという事情もある。
ただそれでも、ちょっと困っていることがある。
彼女はすぐ不安になる。対人関係でも、テストでも、とにかくなんでも。
そして、そのマイナス感情を自分のガソリンにしている。あえて自分を極度の不安に追い込むことで、それを自分の力に変えているように見える。だから過剰なほど勉強するし、自分の目的を達成するために他人を使うことに何とも思っていない。
私は逆だ。例えば試験があったとして、私は「受かりたい」というマインドで頑張るタイプだ。けど、彼女の場合は「落ちたくない」から頑張るのだ。
正直、頑張るきっかけは人それぞれだから、そこに文句を言うつもりはない。それが彼女の乗り越え方なんだろうなってことはこの一年間でよくわかった。別に不安をエネルギーにするのはいい。
自分の心にしまっていて欲しい。何度も何度も「大丈夫かな?」と聞かないで欲しい。
ハッキリ言うと、イライラする。「じゃあもっと頑張れば?」と言いたいところだけど、彼女はいつも十分すぎるくらい頑張っているから、何をそんなにやる必要があるのか、むしろ私よりやってるのに過剰に不安にならないでくれよ、と思う。自分がみじめになる。
引きずられる。私はお前のメンケア要員ではない。
勝手に不安になってもらって構わないし、誰よりも努力してもらって構わない。
というか、自分もなんだかんだ、年齢を経てだけど、能力や実績より人柄を優先するようにはなっちゃったんだよね…😟
なんつーか、常識的でつまらない人、って否定的な表現で言われがちだけど、
危機的状況になっても、多分、常識的な人はつまんないぐらい常識的な対応するだろうな、というのは良い面も悪い面もあって、
悪い面は、まー、その程度しかしてくれないよね、所詮役人とか公務員は…、みたいな感じだけど、
良い面は、あー、こういうときも粛々と淡々と仕事してくれるんだなあ、公務員は…、みたいに思うことが多々あって、
だって、災害の時とか、インフラ関係とかセキュリティ関係は違うだろうけど、プログラム書くだけの仕事とかなら、まあ休みになるじゃない
災害で仕事が止まっちゃった、で終わっちゃう仕事はみんな休みになるだけだけど、
災害対応が仕事に含まれてる人は、災害になってからが本番みたいなもんで、生活インフラとか交通インフラとか止まってるのに大変だなと…
多分、多分だけど、麻生さん的には、まあ菅さん岸田さん石破さんが敵だった、公明党は自分に味方してくれたことがない、
それから、石破さんは常識的で、ある意味、つまらない人でもあるわけで、新しい風を感じない、
そういう評価は、まあ正しいんだと思う…
ただねー、自分としては、ネットで誰か別の人が同じようなこと書いて盛り上がってたりしたけど、俺も消極的選択で石破さんだったんだよね
もう、政治は余計なことをするな、と…
クールジャパンとか、バカなことを始めるんじゃないか、と思っちゃうわけだよ、置かれた場所で咲けだの、日本は世界の中心だの…
もう、余計なことはしなくていいから、粛々と役人としての仕事をしろと…
あとは民間企業とか資本主義がなんとかするから、もうでしゃばらないでくれよと…
ところが、なんか高市早苗政権というか、第二次麻生政権というか、そういう方向性になって、公明党も排除した
どうするのかと思ったけど、良いか悪いかは別として、麻生さんとしては公明党の排除は悲願だったし、
ある意味、もうカルトとか宗教に票を頼るのはやめよう、という意思表示のようにも思える、これは考えようによっては好印象なのではないだろうか…
ただ、上述のクールジャパンじゃないが、でしゃばってどうなるか、はこれはもう、これから先の推移をただ眺めるしかない、もうわからん…
最近の中国は手のひら返しで、急にハイテク関係に力を入れるようになったけど、
そもそも、共産党中央は、巨大ハイテク企業は自分たち以上の力を手に入れる脅威になるわけだから、これまで冷たい態度を取ってきた
しかし、AIやロボット産業が、ある意味核開発みたいな感じになってきて、核開発とかアポロ時代の宇宙開発のように、アメリカと競争するようになった
高市さんにそういう中国みたいな産業への後押しを望んでる声が多々ネットにあるのだけど、俺は本当に中国と同じような方向性を導入していいのか分らん…
自分が老人になったからだろうけど、なんかもう疲れたんで、もっと緩い社会とか、温い世界があってもいいんじゃないか…
第三次世界大戦とか、ターミネーターみたな話を皮肉としては話すけど、本音では、まあ超知能が仮に登場しても、なんか良い方向に行く気がしてるのである
なんなくても、核と同じで、今度はみんなでその強大な力を抑え込むためになんかやるでしょ
やろうと思えばできるけどやらない、というのは、結局核戦争を始めても報復の連鎖が起こって人類が自滅するだけなのを、各国のインテリは少なくとも分かってるから
あー、でも、ここで手綱がインテリの手を離れて、バカな自殺志願者とかゴロツキに渡ったときに悲劇が起こる、という可能性は否定できない
話が大幅に脱線したけど、いや、ほんと、俺は石破さんみたいな人は、人として好きなタイプなので、一緒にご飯を食べに行きたいぐらい
極度の対人恐怖症の自分でも、そういうイベントがあったら、お金なくても行きますよ、鉄道の話はできないけど…
高市政権がどうなるのかしらんけど、麻生さんとご飯に行きたいとは思わない
皮肉屋なのは分かるけど、仮に新卒の学生が上司に向かって、麻生さんみたいな皮肉を言ったら、即刻干されれるでしょ…
麻生さんがそれをできるのは、あの人は生まれつきの上流階級の人間だから、
Xを眺めてたら、安倍晋三万歳、麻生太郎万歳、高須克弥万歳、みたいなことを書いてる人がいて、
その三人とも俺は正直あんま好きじゃないというか、嫌いなんだけどな、と思ってタイムライン読んでたら、
その人はかなり中年?高齢?の独身女性で、結婚歴もないみたいで、超貧乏生活してることが分かってきて…
自分は不思議なんだけど、いや、でも自分も厨二病のときとか、社会人挫折してひきこもってた初期の頃はあったか…
ナチスの真似したりして、高揚感はあるんだよね…、それは分かる、コスプレみたいなもんだし…
でも、自分が貧乏だと、金持ちのお金自慢みたいなの見て、いいなあと思って、不愉快になるだけで、
俺みたいに死ぬまで独身決定、孤独死確定の人間が、家族団らんを眺めてても辛いだけでしょ、普通…
自分より大きな権力とか力に憧れがあって、彼らと似たような思考や行動をしていれば、自分も金持ちになれる、とでも思ってるとか、
まあ、高揚感があるとか、俺は他人とは違うんだ、みたいなニヒルを気取ってるとか、そういう気持ちは分かる
分かるんだけど、まあ、そういうのは長続きしないよ、いつかは目が覚めるんじゃないかな…😟
常識的でつまらない、まあ、そうなんだけど、普通とか常識があるから社会がそれなりに安定して成り立ってるわけだし、
エクセントリックなことをする人が面白い、ってミュージシャンとか漫画家とか政治家とか、目立つ職業が評価されるのは分かるんだけどさ、
普段バスとか電車とかタクシーを運転してくれてる人がいるから、
なんとか退院したけど、とても家まで歩いて帰れない俺が無事に家に帰れるわけだし、
派手な芸能人とか政治家先生が俺を家まで送迎してくれるわけじゃないからねえ…
つまらない人にも価値があるし、能力や実績があっても人間として不快な人は不快に思う気持ちは自分にもあるし、
自分も人のこと言えないというか、昔の自分を反省しているところもあるんだけど、そういう人が干されても当然というのはあると思う
↑がやれないからという理由で離職した保育士・介護士を何人も知っている。
今どき、親だってネイルしてピアスしてデジタルウォッチをつけてるんだから、禁止にするのはナンセンス。海外では看護師もみんなやってるし。
きつい+給料低い職は、ネイルできる別の職業で同じ条件を出すのが簡単だから離職する。あんまり頭のいい人材がいない界隈だから、この程度の緩和でもかなり増えると思う.
私の30年近い日本生活での観察は、日本社会の深層にある「見た目至上主義」と地域による多様性の受容度の差を鮮明に浮き彫りにしています。
私の経験:
・親に挨拶したいという人まで現れた。
・20代で年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもない。
・それでも自然に受け入れられた。
(李という人が別の学校の同級生にいたが、自然すぎた。違和感がない。 何人かは聞いていない。友達感覚。今東京に居る私からすると謎かも。)
「属性」よりも「今、何ができるか」。
「個人」として人を見る習慣。
・結果:
年収400万円台でも受け入れられた。
見た目ではなく人柄で判断された。
・東京との決定的な対比
同質性への期待が極めて高い。
※東京でも地域差はある。都心(渋谷、新宿、浅草周辺は違うかも?)でも多摩地域は保守的な印象。
◇日本語でずっと会話している。
それでも聞かれる理由:
肌の色が違う = 「外国人」という単純な二分法。
これが示すもの:
通常の婚活では:
・「親に紹介できるか」が大きな壁
・年収400万円台(決して高くない)
・イケメンではない
・ヨーロッパ系ではない(日本社会で「好まれる」ハーフではない。外人の中の外人)。
・それでも「親に挨拶したい」と言われた。
なぜか:
人柄、価値観、相性が重視された。
年収が400万→700万円台に上がっても:
状況は改善しない
なぜか:
「見た目」が全てを決める。
「日本人らしい見た目」でないと「異質」。
→これは厳しすぎる気がする。
「どちらの親が外国人?」も同じ発想
「親に紹介できるか」
「周囲にどう説明するか」
日本人女性は社会的な価値観に対する要求(友達、親に紹介できるか等)が世界的にも強い印象がある。
多様性への不慣れ
「異質なもの」への警戒心
→パスポート持っていません。
「どちらの親が外国人?」と聞く人:
私を「属性」で見ている
この質問が出た時点で:
深い関係は築けない
相手も「かなり違う」と感じている
なぜ結婚は難しいのか:
6.相手も思っている:「私とは、かなり違う」
彼女たちが感じていること:
「親や周囲に説明できない」
私が感じていること:
「この人とは価値観が合わない」
「『どちらの親が?』と聞く時点で無理」
「『属性』で見る人とは生きられない」
結論:
お互いに「違いすぎる」
でもあなたは悪くない
単に世界が違いすぎた
見た目至上主義
「内」と「外」の二分法
グラデーションを認めない
多様性を想定していない
地域による差
東京(都心以外)・その他(観光客が多すぎる一部地域は除く)地方、特に田舎:同質性が高い、属性で判断
なぜ年収400万円台、イケメンでもない、ヨーロッパ系でもないあなたが受け入れられたのか:
「この人と一緒にいたい」という感情
なぜそれが可能だったのか:
多様性への慣れ
これは「特殊」なのか:
私に合う女性:
出自を詮索しない
自然に受け入れてもらえる
外資系勤務
「どちらの親が?」と聞かない人
避けるべき女性:
結婚は難しい
見た目で「外国人」と決めつけている
今回の○○の女性のような層
価値観の違いが大きすぎる
10. 最終的なまとめ
スペックは十分高い
でも「見た目」で判断される
合う人は少ないが、ゼロではない
今後の方向性:
多様性に慣れた層を探す
「どちらの親が?」と聞く人は早めに見切る
数をこなしつつ、質を見極める
大阪南部で「親に挨拶したい」と言われたのは、あなたの人柄が素晴らしいから。
東京で苦戦しているのは、あなた/私の問題ではなく、社会の問題。
「どちらの親が?」と聞く人との結婚が難しいのは当然。
「個人」として見てもらえる
それが真の尊重
合う人は少ないが、必ずいる
学部、修士課程で研究をするのはまあまあできた。ある程度成果が出そうなテーマをもらったこともあり、1→1.1くらいにするのはできた。手を動かして実験するだけならいくらでもできた。学会発表も出れるものは全部出て、私はこれが得意なんだ!と勘違いした。
卒業後、とあるメーカーの研究職に就いたがこれ本当に向いてるのか…?と思うことが増えた。まず、勉強ができない。ほぼ初見の分野の仕事をすることになり、比較的易しい教科書を1冊読んでみることにしたが学習が続かないのだ。学生時代、勉強が苦手だったことを思い出した。論文も英語が読めなくてほとんど読んでいない。このままではいけないとずっと思っているが、本当に解決策が分からない…
なぜよりによって頭脳労働の極みみたいな職業を選んでしまったんだろう。
指導などはほとんどなく、自力でテーマを探さなければいけないのだが、今の状態を変えられない限り無理だろう。
修士に進学するタイミングで大学を変えたので最終学歴だけはそこそこ良かった。人事も面接は怪しいがこの学歴ならいけるやろと騙されたのではないか。多くの人は知らないが院試はザルなのだ。
仮にこれがネカマによる釣りでない場合を考慮してマジレスしておく
・性依存症という医学的な疾患は現時点で存在しない(性依存症を名乗っている人や、性依存症を診ると標榜しているクリニックは存在するが、WHOの疾病分類であるICDやアメリカ精神医学会のDSMなどでは認められていない疾患概念である。理由は現時点で性依存症が病気であるというエビデンスが不足しているため)
・増田のケースに近いと思われる診断名は、WHOが2018年にアップデートした疾病分類の最新版ICD-11 に新たに追加された「強迫的性行動症(Compulsive sexual behaviour disorder : CSBD)」である
https://icd.who.int/browse/2025-01/mms/en#1630268048
診断は、個人が抵抗困難または制御不能と経験する強く反復する性的衝動・欲求を感じ、それが反復的な性的行動につながり、その反復的行動パターンが個人・家族・社会・教育・職業その他の重要な機能領域において顕著な苦痛または重大な機能障害をもたらしている場合にのみ適用される。
性欲が強いなど性的関心や行動のレベルが高い人(例:性欲亢進)は、性的行動の制御障害や機能障害・著明な苦痛を示さない限り、CSBDと診断されるべきではない。
・増田は自慰行為を「好き」「誰にも迷惑かけてない」と表現しており、性欲が強いことで具体的に困っていることや苦痛があるわけではない
つまり、CSBDの診断に必須である「顕著な苦痛」および「社会的に重大な機能障害」がない
・「シコ猿すぎて恥ずかしい、情けない」とあるが、ICD-11では性的衝動・欲求・行動に対する道徳的判断や非難に関連した苦痛のみを根拠にして、病理を示すとは考えられない性的衝動・欲求・行動についてCSBDを診断してはならないとしているので、普通じゃない気がして恥ずかしいからという理由では強迫的性行動症には当てはまらない
【結論】
おそらく増田はただの「性欲が強い人」であり、医学的に治療の対象となるような病気ではない
【補足】林先生のQ&A
【3455】27 歳女。私は性欲が異常に強いのでしょうか。
高度迷惑系Youtuberが高度ストーカー犯罪者に追い詰められる話。
良くもなく悪くもなく、60点くらい。
とにかくこの映画の褒めどころ且つ、多くの映画監督に見習ってほしいところがある。
ということである。
そのせいで話がよく分からんところもあるのだが、じゃあそこを補填して135分くらいやれば名作になったのかというと全くそんなこともないだろうし75分という短さは英断であると言える。
主人公はイタ電系Youtuberグループ。警察官や保険会社、弁護士等あらゆる職業に擬態してイタ電をかけまくり時には隠しカメラも仕込んで相手の反応を動画化してバズりまくっている。冒頭のシークエンスはかなり良くできていてアメリカの迷惑系Youtuberレベル高すぎるし、遵法精神低すぎるだろ!となってワクワクさせられる。
その後、彼らの元に謎の電話がかかってきてそれを無視していると家のテレビが突然乗っ取られ、そこに監禁される彼らの両親が映し出され謎の電話がイタズラではなくガチの脅迫電話であることがわかる。「電話を切るな!」という、それスクリームやないかーいというコテコテのオマージュを挟んで、電話を切れない中犯人を捜すというソリッドシチュエーションスリラー的な感じになっていく。
ゴア表現は少ないながらも脅迫系シチュエーションスリラーとしての一定の緊迫感と主人公2人組の精神的な葛藤をちゃんと描いていて普通に見ごたえはあった。特に男優の2人はいい演技してたと思う。全然知らん俳優だったけど。
問題は、2つあって1つは犯人がわかりやすすぎる上にちょっとルール違反なこと。こういうのって既に登場している人物が犯人であるべきだと思うんだけど、犯人は厳密には登場していなくて、でも「それしか考えられない」という人物になってる。これは作中の論理に基づくものではなく「映画として考えればそれしかない」というメタなもので、これは正直あんま面白くない。
2つ目は犯人が万能すぎること。犯人は主人公の家のあらゆる電話を完全にジャックしてテレビを勝手に操作し、家の電気を付けたり消したりし、主人公の両親の家に乗り込んでビデオ撮影後に殺害し、友人を殺害したり拉致したりし、家に出たり入ったりしてるがその理屈が作中でほぼ全く説明されない。
さすがに万能感強すぎて簡単に言えば「なんでもありやん」になって問題解決への推理への没入感が下がる。
個人的には主人公2人が最終的に疑いと混乱の中殺し合って、主人公1人は死に残った瀕死の主人公の元に電話がかかってきて「犯人を殺せたようだな。よく聞け。これ……いたずらでした~~~www」と主人公たちのイタ電のキメ台詞が流れて犯人不明のまま電話が切れて終了、とかでもよかった気はする。
犯人があまりにありきたりすぎてそこで逆に評価下がってる感じは俺はしたので、フォーンブース的に終わってもいいかなって。まぁ、犯人がアレであることは映画的に意味があるのもわかるんだけど。
なんやかんやで粗もあるんだけど75分で一気に駆け抜けるので「なんかソリッドシチュエーションスリラーの佳作を見たな」くらいの感じで見終えることができるので、悪い気はしない。
マジで盆百の監督はなんかダラダラ尺稼ぎするくらいなら80分くらいで終わる映画撮ったほうがいいよ。
その方が視聴後感がよくなるので評価が上がると思う。でも世の中の80分くらいの映画って40分くらいの映画を尺稼ぎして伸ばしてる場合もあるので難しいところかもしれん。
多くの人々がポーカーというゲームに魅了されるのは、それが単なるギャンブルではなく、高度な戦略、精密な計算、そして相手の心理を読む深い洞察力が求められる「マインドスポーツ」だと信じているからだろう。煌びやかなトーナメント、数億円という破格の賞金、そしてスポットライトを浴びるチャンピオンたち。その姿は、努力と才能が正当に評価される、実力主義の世界の象徴のように見える。
しかし、その輝かしいイメージの裏で、我々が決して目を向けてはならない、あまりにも残酷で不都合な真実が存在する。もしあなたが本気でポーカープロを目指しているのなら、この甘美な幻想は、キャリアの初期段階で徹底的に打ち砕いておく必要がある。
結論から言おう。現代のポーカープロになるための必須条件、それはスキルでも、経験でも、ましてや精神力でもない。それは、常軌を逸した「強運」と、その運を試すための試行回数を他人の金で確保する「資金調達能力」である。
ポーカーのトーナメントの本質を、極限まで単純化してみよう。それは、膨大な数の「オールイン対決」を生き残り続けるサバイバルゲームだ。特に、チップ量が拮抗し、プリフロップでのオールインが頻発する中盤から終盤にかけて、プレイヤーのスキルが介在する余地は驚くほど少なくなる。
ここで、ポーカーで最も頻繁に発生する「50% vs50%」の状況、通称「コイントス」または「フリップ」を考えてみよう。例えば、あなたのハンドがAK(エース・キング)で、相手がQQ(クイーンのペア)。どちらが勝つかは、コミュニティカードが開かれるまでほぼ五分五分だ。
さて、もしあなたがトーナメントで優勝するために、この50%の勝負を10回連続で勝つ必要があったとしよう。その確率は一体どれくらいだろうか?
そうだ、たったの1024分の1である。これは、スキルも経験も一切関係ない、純粋な確率の世界だ。コインを振って10回連続で表を出すことと何ら変わりはない。
つまり、極端な話、ポーカーを覚えたての初心者であろうと、10年経験を積んだをベテランであろうと、この「1/1024」の幸運の雷に撃たれさえすれば、世界的なトーナメントで優勝できてしまうのだ。そして、この偶然の産物であるチャンピオンは、いとも簡単に「自分は強い」と勘違いを始める。
「あのアクションが神がかっていた」「あのブラフで相手を降ろしたから勝てた」「プレッシャーの中で冷静な判断ができた自分は本物だ」
彼らは、結果から逆算して自分の成功物語を紡ぎ始める。しかし、その裏側にあるのは、9回連続でコイントスに勝った後、最後の10回目で無情にも敗れ去った、彼より遥かに実力のあるプレイヤーたちの無数の屍だ。メディアは1024分の1の勝者を英雄として祭り上げるが、残りの1023人の敗者の物語が語られることはない。この強烈なサバイバーシップ・バイアスこそが、「ポーカーは実力ゲームである」という幻想を強固に支える最大の要因なのである。
「長期的に見れば、期待値(EV)がプラスの行動を繰り返すことで収支はプラスに収束する」
これは、ポーカーを科学的にアプローチしようとする者が、まるで聖書のように信奉する言葉だ。しかし、この「長期的に見れば」という言葉の本当の恐ろしさを、彼らは理解しているのだろうか。
ここで、ポーカーの世界から一度離れて、カジノの胴元の立場になって考えてみよう。ブラックジャック、ルーレット、バカラ。これらのテーブルゲームは、すべてカジノ側(胴元)にわずかながら数学的な優位性(ハウスエッジ)があるように設計されている。つまり、胴元のすべての判断は、常に「期待値プラス」なのである。
彼らは、ポーカープレイヤーが血の滲むような努力の末にようやく手に入れるかもしれない、ほんのわずかな優位性を、ルールそのものによって永続的に保証されている、いわば「期待値の神」だ。
しかし、そんな神ですら、運の前にひれ伏すことがある。カジノの運営において、特定のテーブルゲーム部門が1日単位、1週間単位、あるいは1ヶ月単位でマイナス収支に陥ることは、決して珍しい話ではない。あるハイローラー(大金を賭ける客)が驚異的な幸運を発揮し、たった一晩で数億円をカジノから奪い去っていく。そんなニュースを耳にしたことがあるだろう。
数学的に絶対に負けないはずの胴元ですら、統計上の「ブレ」や「偏り」、すなわち「分散(Variance)」によって、短中期的には容易に赤字を出すのだ。
さて、ここでポーカーの世界に話を戻そう。胴元が持つ数%の鉄壁のアドバンテージに比べて、トッププロ同士の戦いにおける実力差(エッジ)など、一体どれほどのものだというのか。0.5%? それとも0.1%? おそらく、その程度の、誤差のような差でしかないだろう。
そんな、カジノのハウスエッジに比べれば無に等しいような僅かな優位性で、人生というあまりにも短い試行回数の中で、収支がプラスに収束すると本気で信じているのだろうか。答えは明白だ。人生のすべてを賭けても、ポーカーの収支は決して収束しない。あなたの生涯収支を決めるのは、日々の細かな期待値の積み重ねなどではない。キャリアを根底から揺るがす、数回から数十回の巨大なポットを、運良く勝ち取れたか、不運にも失ったか。ただそれだけである。
ここまで述べたように、トーナメントでの成功は天文学的な確率の産物であり、日々のプレイですら、あまりにも巨大な分散の前では個人のスキルなど無力である。
では、なぜ「ポーカープロ」という職業が成立し、彼らは破産せずに活動を続けられるのか。日々の生活費を払い、高額なトーナメントに参加し続けることができるのか。
その答えこそが、この世界の最も醜く、そして最も本質的な真実を突いている。
現代のポーカープロに必須の条件、それは**「ステーキング(Staking)」によって、他人の金でギャンブルすること**である。
ステーキングとは、投資家(バッカー)がプレイヤーのトーナメント参加費を肩代わりし、その見返りとして、もしプレイヤーが賞金を獲得した場合、その一部を受け取るという契約モデルだ。
これこそが、現代のポーカープロを支える生命線なのだ。彼らは自らのスキルを商品として投資家にプレゼンし、「私はこれだけの実績がある」「私のプレイスタイルは今のメタ(主流戦術)に適している」とアピールして資金を調達する。そして、その集めた金で高額トーナメントという名の宝くじを何十回、何百回と購入し続ける。
20回連続で参加費を失っても、彼らの懐は痛まない。損失を被るのは投資家だ。そして、21回目に、あの「1024分の1」の幸運を引き当て、莫大な賞金を獲得する。彼らはその賞金から投資家へ配当を支払い、残った巨額の利益を自らのものとする。そして、メディアは彼を「天才」と呼び、彼は再びその名声を元手に、次の投資家を探すのだ。
つまり、彼らの本当のスキルは、カードテーブルの上で発揮されるものではない。彼らの主戦場は、投資家との交渉のテーブルなのだ。いかに自分を大きく見せ、いかに自分という金融商品に投資価値があるかを説得するマーケティング能力と交渉術。それこそが、運という名の荒波を乗りこなすための唯一の羅針盤なのである。
これからプロを目指すというのなら、GTO戦略を学ぶ前に、まず投資家向けの事業計画書を書くべきだろう。ポーカーはもはやマインドスポーツではない。それは、自らを広告塔とした金融ビジネスであり、運の女神を他人の金で口説き落とす、壮大なギャンブルなのだから。
今考えていることを書き出す
②「執着を無くす」について
③仕事について
④AIについて
自分は30代後半男性だが、過去の「何者かになりたい」と感じる男性の気持ちがすこしわかるようになってきた
転職するとか、脱サラして飲食始めるとかは、こういう「人生で何かをなしとげたい」って気持ちからくるんだろうな
自分としては、結婚して子供もいて、仕事もあるので、人生にはかなり満足している
子供をちゃんと育てることで、「なにものかになりたい」という気持ちを昇華していきたい所存
■②「執着を無くす」について
最近、「嫌われる勇気」という本を読んだところ、仏教的な文脈で、とにかく日々の中で執着するものをなくしなさいよ、ということであった
よくわからなかったのでChatGPTに聞くと、こいつがかなりわかりやすく解説してくれてよかった
余談だが、仏教の「空」の概念について聞いてもChatGPTはスラスラ答えてくる
(仏教はかなり文字文化なので、ChatGPTとは相性いいんだろう)
今私が執着しているものを考えてみた
まぁさすがにこの辺に対する執着を手放すことはないだろう…
「仕事で成功したい」とか「誰かに認められたい」みたいな気持ちは捨てて行きたい
「仕事であまり頑張りたくない」と思っているのだが、これも執着なんだろうか?
頑張りたくない理由を深堀すると
①健康を損ないたくない
③頑張ってもリターンがないことがわかってる(= リターンがもらえても別に嬉しくない)
■③仕事について
ふと見渡すと仕事のメンバーが中途や新人ばかりで、ほんとうに大丈夫かと感じる
人数はいるんだが、叩き上げの中堅がごっそりいないので、私は「濃度が薄まってる」と表現してる
PMBOKという言葉すら知らない層がマネジメント業務に割り当てられてたりする
さすがにマズくない?
そんなメンバーではもちろんうまくいかないのだが、問題が発覚するまでに時間がかかる上に、
問題がおきても原因分析する人たちも素人なので、まともな原因分析が行われないのである
(まぁ「自分たちが何も専門知識がないのが失敗原因でした」と報告できないのはわかるんだが…)
「職場の素人化」である(話を聞くに、どの業界でも似たようなことは起こっているようである)
対処法は、まだ、ない
■④AIについて
AIについて考えない日はない
機械学習なんかを頑張っていた自分は、ここ1年ぐらい「自分の仕事もどうせAIにとられるんだ」と腐っていた
しかし、最近気づいたが、「思ったほどAI(LLM)に仕事を取られていない」
このペースなら定年まで逃げ切れるかもしれない
RAGとか間違った方向で検討してくれるところがあるおかげで、仕事も全然ある
LLMは素晴らしい技術だが、やはりそれを使うのがヘボな人間たちなので、パフォーマンスがでるまでにここまで時間がかかるものなんだとびっくりしている
まぁ日本企業が、普段の業務の分析や言語化をさぼっているというものあるんだろう
ちゃんと業務フローが言語化されているなら、LLMを使って相当な部分は自動化できるところまでは来てる(ローカルLLMですらだいぶ手軽に構築できる)
自分の日々の業務の1つ1つをちゃんと言語化・フロー化している人なら、LLMで相当な仕事を代替できるはずである
vide codingとかそっちの方面ばかりのびてるからな…
「意思決定のロジック化」は昔から根強く支持されてきたテーマなのに、いざLLMにやらせると、うまく言ってないように見える
その理由は、人間は誰も「ある意思決定に関連する要素をすべて洗い出してください」(プロンプトのために)と言われてもできないんだろうな
というか、意思決定に必要な要素を洗い出せるなら、意思決定は終わってるんだろうな…
最近のChatGPTはほんとうにすごい
むかしは5回に1回はアホだったが、最近は20回に1回程度である
少なくとも、偏差値45の人間に意思決定させるより、(適切なプロンプトと)ChatGPTのほうが優秀だと私は思う
1回の推論にかかるコストももうだいぶ下がってる(1回数百円程度だろう)
人間を働かせるよりは安い
「偏差値X以下のホワイトカラーはLLMに代替される」時代はもう来てる
(Xの値は、時間とともに増加する)
普及してないだけだ
「メールや電話を受けて、資料を作ってメールや電話をするのが仕事です」の人達は、今後、ChatGPTと比べられ続ける
なぜなら、やってることの本質がLLMと同じだから(与えられたコンテキストにしたがって反応してるだけだから)
やっぱり、昔から思ってたけど、「自分がいまやってる仕事が本質的に何なのか」に対する解像度がみんな低いんだろうな…
本質的な仕事に合わせて社会が変化するのにも時間がかかるか(「銀行業は要るが、銀行はいらない」と言われていた銀行は、窓口業務をどんどん縮小してる)
スポーツの世界を思い出す、スター選手でも、試合の中身を理詰めで話せる人と話せない人がいる
LLMに食べさせるなら、自分の仕事を理詰めで話せないとだめだ
自分の仕事の意思決定をぜんぶ言語化できるなら、LLMを自分のコピーとして使える
私が恐れているのは、誰かスーパーマンが1つの職業の言語化を終えてしまったら、世界中でもうその職業はLLMがやってしまうんじゃないか?ということ
「理想のプロジェクトマネージャー」のプロンプトができあがったら、それって世界中で使えるよね?
まぁプロンプトになるのか、ツールになるのかはこれからだろうけど
今、AIについて考えてるのはこんなところ