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2025-10-05

原作改変は小説原作でやればいいんだよ

どうせ小説原作は詰め込めないんだから

漫画そのままでいい、あんなの絵コンテじゃん

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2025-10-04

タイ社会 豊かな時間はどこに記事10回 すぐ横道にそれるジブリ映画 タイ時代でも倍速視聴されにくいわけ聞き手島崎2023年1月6日

 ――かけた時間に対する効果を示すタイパ(タイパフォーマンス)という言葉がよく聞かれるようになりました。そのひとつ現象として倍速視聴があります

 僕ね、実はやりますよ。ニュースはそれで見ているんです。ずいぶん長くやっているんですけれど、夜7時のニュースを30分そのまま見るのは、かったるくてね。全部録画して1.3倍とかで倍速視聴していますリアルタイムで見ると、時間もったいない。けちなのかもしれないけれど。

 名古屋の生まれで、中日ドラゴンズファンです。野球試合って今、長いんですよ。年間約140試合、全部録画して、その日のうちに見る。ここは大事というところはそのまま見て、それ以外は倍速でという風に分けるんです。

連載「タイ社会 豊かな時間はどこに」一覧

低成長で余裕なき社会、生き抜くためのタイパ Z世代あおる大人たち

筋金入りの倍速視聴派だという鈴木さんは、ジブリ映画について「倍速しにくい作品」と言います。その理由は――。「トトロ」「ハウル」「千と千尋」など、名作の舞台裏を交えて語ります

どう時間を盗むか

 ――なぜ、そうやって見るようになったのでしょう。

 18歳のときに読んだ本が面白くてね。「時間」について書かれていた。時間というのは2種類あり、「社会的な時間」というのが24時間。それとは別に自分時間」がある。人がストレスを感じるのはどういうときか。「社会時間が、個人時間搾取するとき」と書いてあった。これは面白かった。

 ――現代にも通じるような話ですね。

 そう。だから搾取されちゃ駄目だと思ってがんばってきた。自分時間をとにかく大事にしよう。それは思っていました。

 ――自分時間を生きてきた感覚はありますか。

 割と強いかもしれない。社会時間がどんどん流れていても、自分のもう一つの時間があるでしょう。大事なのはこっちに決まっている。だからといって、それを大事にすると1人よがりになる。その闘いですね。

 ――朝日新聞の連載「タイ社会 豊かな時間はどこに」の取材をするなかで、「自分時間」という言葉は、いろんなところから聞こえてきました。

 映画ってまさに「時間空間」ですよ。どう時間を盗むか。だから時間をどう使うのかに対して関心が強い。

 ――倍速で映画を見る人がいることは、ジブリ映画制作意識されているのでしょうか。

 それは関係ないですね。映画のつくり方って二つしかない。一つはストーリー主義。もう一つは、表現でみせる。

 つまり、倍速で見る人たちはストーリーを知りたい。映画って、本当はどっちをみているんですかね。ストーリーか、表現か。

 シンプルストーリーにして、表現を豊かにしてもらう。これがベテラン監督への要求ですよ。ところが、若い人にはなかなかできない。若い人にはストーリーを複雑にして、そこで面白さを保証し、つくってもらうというこの方法しかない。

 だから宮崎駿は「表現」の人ですよ。僕ね、宮さんに怒られたことがあるんです。「となりのトトロはいい例で、「単純なシンプルな話」と言ったら、宮さんが怒っちゃってね。「俺がどれだけ苦労して考えたと思ってるんだ」と。

時間を操る宮さん

 ――「ジブリの最大の魅力は表現」だと本で書かれていました。表現自体も変わっていないのでしょうか。

 変わっていないです。だからジブリ作品は、そういう意味でいえば、倍速をしにくい作品だってそこを速くしちゃったら、おもしろさが半減するんだもん。スピードが出ないように、いろいろやりますよね。だからお話の複雑さだけでみせるものだったら、僕は速く見ても全然かまわないと思う。

 宮崎駿作品はすぐ横道にそれる。でもそこで結構面白いことをやっている。そこが目に焼きついて、この話は何だったのか忘れちゃうわけでしょう。でもそこに大きな特徴がある。

 だから、お客さんの時間を奪っているんですよ。でも観客は「奪われた心地よさ」があるわけです。多分そういうことじゃないかな。

 たとえば、「千と千尋の神隠し」。千尋不思議の町へ潜入して、お父さんお母さんが豚になっちゃう。その後、千尋という名前を奪われて、働かなきゃいけなくなるっていうところまで、40分くらいかかるんです。その40分間の時間の流れと、それ以降の時間の流れが違うんです。

 要するに名前を奪われるまでは、あるテンポで丁寧にやっている。ところが、名前を奪われた後、突然、速くなるんです。僕の知る限り、1本の映画の中で、時間を操る人はなかなかいない。

 「ハウルの動く城」についてのエピソードもあります。宮さんは大体、ワンカットが平均すると5秒。でも、実際にフィルムになったときは、絵コンテには5秒と書いているやつが8秒とか9秒になる。

 映像の試写で、ワンカットの中の時間が違うと気がついた。いまの調子でつくったら、2時間と思っていた映画が4時間なっちゃう。

 悩んだんですけどねぇ。「宮さん、いつものよりカットの秒数長いですよ」と僕が指摘した。そうしたら「どういうこと?」って。宮崎駿という人はすごい人で、全く気がついていない。天才なんですよ、やっぱり。

 その後、宮さんがどう言ったか。いまだに忘れられない。開き直って「主人公がばばぁだからね、時間がかかるんだよ」って。

 ――すごい切り返しです。

 そう、切り返しがすごいんですよ。

 で、さぁどうするかでしょう。そうしたら宮崎がね、ここでぱっと切り替える。それまでワンカット8秒、9秒だったものを、4秒台にするんですよ。それで、次から次へと、できてくるものが短くなってくる。最初、丁寧に長かったやつが、途中でぽんぽんぽんぽんとテンポが良くなる。

 ぼくはあきれたんです。だってこんな監督いないもん。普通映画監督って、1本の映画の中での時間の流れをすごい大切にするわけです。それを無視ですよ。

「こいつ覚えてる?」

 ――宮崎さんの初期の作品から、つくり方としては変わっていることはないんでしょうか。

 だんだん自由になってきたよね。良く言えば自由です。でも、本当にいい加減だなって。なんでこの人はこうなんだろうか、考えざるをえなかった。だから僕は、時間とか空間に興味を持たざるを得なくなるわけです。

 ――プロデューサーという立場は結局、どこかで折り合いをつけて、つじつまをあわせなきゃいけない。

 だから言わなきゃいけない。「宮さん、これワンカットが倍になってますけど」と。

 「そんなことないよ。おれはそんなことするわけがない」と言っても、僕が「じゃあ絵コンテを見せろ」と言うんです。

 ――かけひきですね。

 本当にそうですよ。そこが面白いですけどね。

 これまた「千と千尋の神隠し」。千尋名前を奪われた後、「この後どうするかを考えた」と宮さんが言ってきた。

 千尋はまず名前を奪った湯婆婆(ゆばーば)をやっつける。ところが、湯婆婆には、もう1人のお姉さんの銭婆(ぜにーば)がいて、こいつが湯婆婆よりも強靱(きょうじん)な敵だった。千尋とハクは力を合わせて銭婆をやっつける。「どうかな?」って。

 ちょっと大変だなと思いました。普通映画だと、敵をやっつけたら終わり。たいがい1時間から2時間かかる。それをお姉さんがいたってことで、もう1回話を立ち上げて、やらなきゃいけないでしょう。

 「映画は3時間になりますね」と宮さんに言ったら「やだよ俺。どうしよう」と言うんです。

 でも、ここがすごいんですよ、あの人。「ちょっと待って」と言い出して、5分後に「こいつ覚えてる?」と、カオナシの絵を描いて見せてきた。その時まで、カオナシちょっと出てくるくらいの大したことないキャラクターで、僕は覚えていなかった。

 でも宮さんは「こいつにしようよ」と言って、あの話をつくり上げた。カオナシ千尋に喜んでもらいたい一心で金を出したり、金に群がってきた者たちや食べ物を食べてふくれあがったり……。その後、千尋と一緒に銭婆のところに行って、カオナシは銭婆のところにとどまることになる。この物語を5分で。これも、時間問題からまれものなんです。

 だから時間問題は、もう日々の仕事の中で、ものすごい大きなテーマです。僕は「自分時間大事」と言いながら、一方で、社会時間の流れというのをすごい気にしている。(映画を見た)みんながどう思うかというのは、そちらにあるわけだから考えざるを得ない。作品がどれだけの長さになるか、監督がわからないなら、僕が考えなきゃしょうがないでしょう。

最新作、構想から7年

 ――鈴木さんは学生時代から、「少ない労力で大きな成果を出す」というマインドをお持ちのようです。一方、ジブリ作品制作は、とても「少ない労力」とは思えません。時間や手間暇をかけて予算オーバーしたり、制作期間が延びたりしたこともありました。

 だって効率がいいものは売れないもん。効率が悪いものがお客さんは好きなんです。「風の谷のナウシカ」の時からそうです。

 ――ナウシカ漫画連載にあたって、鈴木さんが宮崎監督から3種類の絵を見せられ、どれにするか選ぶお話がありました。一つ目はすかすかな絵で、これなら1日20枚書ける。二つ目はそれよりもう少し複雑で、1日4~5枚。三つ目は緻密(ちみつ)なタイプで1日に1枚描けるかどうかというもの鈴木さんは緻密なものを選ばれたと。

 だって、すごい絵だったんですよ。実際、それが漫画になっているんですけど、時間お金をかけたものは、結局やっぱり、いろんなものを生み出してくれる。ちょこちょこやったものは生み出してくれないんです。

 ――最新作「君たちはどう生きるか」の制作も長い時間がかかっていますよね。

 2016年の7月かな。宮崎がこんなものをつくりたいと書いた。そこからです。

 ――タイパ重視の世界では、短い時間いかに大きな成果を出すかが問われます

 それを感じないようにしないといけないですね。その「短い時」が10年という時もある。だって今作ってる映画もね、そういうことでいえば、考え始めてから本当に7~8年かかったけど、短いと思いますよ、僕は。

 そういうことでいえば、ものすごいコストパフォーマンスいい作品ですよね。見たらびっくりしますよ。こんなものをつくったのかって。ぼくがびっくりしていますから。本当はもっと時間をかけたかった。人間ってね、待たされたほうが幸せなんですよ。

 ――「無駄がきらい」というお話がありました。

 無駄は嫌いです。いたずらに時間を使うのは好きじゃないから。それは有効に使いたい。

 ――鈴木さんの言う「無駄」は、かける時間の長さじゃないんですね。

 関係ないですね。新聞記者には「時間無駄に使いなさい」と言いたい。そのほうがいい新聞ができるに決まっている。

 ――「時間無駄に使う」とはどういう意味ですか。

 記者勉強する時間がなければ、いい記事ができないじゃない。そのためには、あっちみたりこっちみたり。そういうことでしょう。

 ――ぐさぐさ刺さります。最新作は7月に公開ですが、時間に追われている感覚はありませんか。

 自分でそうならないように努力しています。それはもうずっとやっていました。

 ――最新作の内容について、東宝の会見では「ファンタジー作品」という発言もあったようですね。

 内容ってね、ぼく今回ね、あんまりうつもりないんです。みなさんが楽しもうと思っていることを奪うわけじゃないですか。それは奪っちゃいけないです。

 ポスター1枚だけでいいんじゃないか、と言ったんです。宮崎はすごい喜んでくれた。彼が描いた絵です。本当は全体があるんですけど……。あ、これ以上言うとまずいですね。

 ――最近出版した本の最後に「『君たちはどう生きるか』のさらに次の映画企画もたてている」と書いてありました。

 宮崎はつくりたいでしょうね。今回の最新作で世に問うて、いろんな評価があると思いますが、それを聞きながら、次になにをやるか、本人は考えるんでしょう。僕は「これでやめてくれ」とは、もう言いません。言ったって言うことをきかないんだもん。

https://digital.asahi.com/articles/ASQDY438JQDSUTIL00C.html

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2025-09-30

anond:20250929004837

スタッフコメント引用だったか、5chスレの誰かの考察だったか覚えてないけど、「風邪をひくために濡れたまま扇風機の前に座る状態を作るため水着選択した」というのがあった。

全裸風呂に入り風呂から上がって下着を着る状況だと、一度バスタオル身体を拭いており半裸ではあるが体は濡れていない。

水着だと、風呂から上がる時に体を拭いても水着は湿ったままなので扇風機の風に当たるとすごく寒いという状況ができる。

風呂シーンの原作からの改変は、ぼっち髪型カメラ位置設定、小道具追加など、脚本タイム計測)と関係ない部分で行われているものが多く、絵コンテ斎藤圭一郎がやったと推測できる。主に斎藤が手掛けた作業なのに吉田エピソード披露したということは、これがぼざろの「ノイズを消す作業」を象徴するエピソードとしてスタッフ間で共有されてたんじゃないだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 12:15

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2025-09-19

anond:20250919133726

脚本家提案を受け入れたプロデューサー監督絵コンテは少なくとも共犯者

原作者を守るためにあいつらはもう原作付き作品にかかわらせちゃいけない

Permalink |記事への反応(0) | 13:44

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2025-08-16

映画火垂るの墓』で清太を擁護して西宮のおばさんを非難してる奴は恵まれてる人種

家庭環境に恵まれてて現代的な価値観家族総出で働きに出てるおばさんちに対して文句言うのってどうなの?おばさんちの事情なんて考えた事ないんじゃない?

おばさんが苦言口にしてたけど、清太は働きもせずブラブラ遊び回ってた。だから食事差別化されるのは当然でその上それに甘んじてたよね

文句も言わなかったもの自分よりさらに粗末な汁だけだった節子の境遇見ても自分さえ良ければって感じで無視してたよね。女学生のお姉さんはちらっと見てるのよね。

原作ではこの件でおばさんに待遇改善出来ないかと直訴してる。ドラマ版でも後におばさんのイジワルな姿勢を叱責してる。

それを後になっておばさんを悪者にして別に食事を取るつって七輪買ってきて当てつけててつくづく我儘でクソガキだったよね

その後自分食器も洗わず自分の服も洗濯せず家事殆どをおばさんに任せきりだった

しかもこのおばさんと清太たち兄妹って完全な赤の他人だったんだよね

おばさんが最初に清太に不信感を持ったのはお母さんの死を隠してたでしょ。節子の手前だったそうだけどさ

もし最初にこの事を言ってたら恐らくそれでも受け入れてくれたよ。だって清太の親がおばさんの亡き夫に生前約束してたからね。その遺志を尊重するために一応義理果たしてる訳よ

そのお礼ってのが家賃代わりのコメとかバターでしょ。赤の他人を住まわせて衣食住面倒見てお風呂毎日入れてやってる訳よ、これ慈善事業じゃないのよ?おばさんが清太たちを憐れに思ってやってくれてたのよ。

にも拘わらず薄情が~義理が~おばさんは卑怯卑劣で酷いって叩いてる奴らって本当に映画本編見た上で主張してるの?

現代的な価値観でおばさん批判ばかりしてて清太は子供なんだぞ!というばかりだけどさ、このおばさんちに住んでるお姉さんいたでしょ?清太と一つか二つしか年齢変わらないのに学校行って勤労奉仕してる女学生だけどさ、あの当時女性差別が凄まじかった時代に何とか家族を支えようと頑張ってる訳やん

でも清太は何か一つでも仕事した?何もしてないよね

から清太は子供から!っていうのは全く通じないのよ。学生時分の人でも働いて貢献してる訳よ。だから食事も差が付けられた訳で。

まれてる人って清太が持ってきた食糧が1か月分あるとか本気で思ってるんだろうね。家事やった事ないんだろうね。多くても1週間分位じゃない?あまりにもひもじいから清太のお母さんの着物を売ってそのお金で白いお米買って来てちゃんと二人がお代わり沢山出来るように配膳もしてくれたけど売った金でコメ買ったんだから当然だろっていう人もいるかもだけど当時インフレが凄くて食糧買うのにお金全然足りない時代だったのね。その事は後に清太が節子を連れてホームレスしてた時に親切な農家のおじさんから金銭で食料を分けて貰おうとしてた時にも判明してる。

そしておばさんちを出た時もおばさんは凄い心配そうに見守っててホントにやっていけるのかな?っていう心情が当時の絵コンテ資料にも残ってる。

とにかく我儘放題で一つ正論を叩き付けられると癇癪を起してついには家出。その上畑泥棒火事場泥棒もしてその間節子はどんどん衰弱してるのに本人は物凄い元気なのよ。いっぱい泥棒した先で喰ってるのよ。で節子に申し訳ないって気持ちになってかぼちゃを盗んで帰ってきた時もアリバイ工作みたいで感心しなかったよ

節子に母親を見たり節子でオナニーしたり節子がいなければ俺もあの家で・・・といった話もある。節子の存在は実は邪魔で足かせだった事は原作にあるけどアニメでは結構ぼかしたよね。だから駐在解放されて節子が迎えに来た時母性感じたって清太の心情が何か歪に感じられてますます不愉快気持ちになった

当時の世情だから泥棒も仕方ない、そうなのよね

でも結局優しい大人たちの助けをいつでも借りれる状況だったのに頑なに自分理想を追い求めて最後には最愛の妹を餓死させてるので清太をそれでも擁護してる人に対して理解が出来ないし恵まれてるなと強く思ったよ。

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2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

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2025-07-25

ミルキーサブウェイを見ろ

何で誰も教えてくれなかったの?

 

ミルキーサブウェイとは、今期放送ショートアニメの一つ

Yo☆Heyという若いクリエイター個人制作CGアニメアニメ化した作品

 

第0話(個人制作

https://www.youtube.com/watch?v=AYJrRakUyvg

1話

https://www.youtube.com/watch?v=iHd7eWUXuLU

 

たぶん、ファイアボールとかたつきアニメを見た時くらいにはすごい

これでまだ20代半ばなのか

 

どうすごいか

言語化すると陳腐化しそうでいやだけど

動きの自然さ、セリフの選び方、キャラ関係性、かわいさ、癖、昭和SFデザイン、ロボ、センス、演技、ギャル解像度演出フェチ、全部一定ライン超えてる

ストーリーに驚きはないんだけど、別にそこは良いと思う、変な展開にするより細部描写だけで特別ものになってる

 

ディズニーピクサーと言ったアメリカCGアニメとか、結構影響受けてる感じがするんだけど、絵コンテや表情の作りが

ただそれが半分アニメの影響くさいんだよね、結果ファイアボールっぽい、すごく見やす

 

個人的に一番驚いたのは間の使い方、動きのリアルさがすごいんだけど、モーションキャプチャー使ったのかな?計算してやってんのか、どう演技とシンクロさせてんのか謎

あと主人公2人の関係性、あんまりアニメとかで描かれてる所見たことがない

そのくせ心地いい、嫌な感じが全然なく「面白い」「こういうこと言うやつ居るわ」のラインキープしてる

 

演技さ、自然体の演技なので、こういうのでいったらgdgd妖精sとか、てさぐれみたいに、先に声を撮ってから絵を当てるパターンを思い出すけど

そこまで素でもないんだよね、ちゃん自然なうえで演技してる(セリフをわざと被らせる)、絵作って声作ってから絵を調整してんのかな

 

こういうの嬉しいなあ

 

____

 

いやでも文脈アメリカCGアニメなのかな、あのリズムに似てるんだよね、自然体とネタセリフリズム

しかもこれ今回多言語でやってるらしい、めっちゃ大変じゃん

 

あと一部が完全にファイアボールオマージュなので、ファイアボール好きなのは見て取れる、明らかにロボフェチ

Permalink |記事への反応(0) | 17:34

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2025-06-25

ジークアクス

富野絵コンテ天才すぎるなってことしかからない

カメラグルグルイナバウアー次元が違う

Permalink |記事への反応(0) | 23:25

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2025-06-19

[感想]ジークアクス11話

これ、話の内容とか教えられたうえで絵コンテ書けっていわれたラ絶対無理だわ

盛りだくさんすぎて見ごたえあった

面白かったというわけではない

ただ最後白いガンダム出てきたらやっぱりおおーとなったね

Permalink |記事への反応(1) | 21:33

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2025-06-09

こうの史代展行った

大体原画展みたいな

内容は良かったと思う

いや、富野展や庵野展と比べるからおかしいんであって、デパートでやってるようなのに比べれば頑張ってるとは思うし

グッズで単行本ガッツリ揃えてあったのはよかった

聖さえずり学園がどの単行本に入ってるかわかんなくて、まあ図録買えばええやろと思ったら展覧会の本だが図録じゃなかったので収録がなかったのが残念であった

そして今さらよしりんとつるんでたのを知って左な私としては少し複雑なのだった…ま、よしりんのシュミがよかったということにしとくか

しかし、手塚治虫原画見た時はオーッとなったが、原画ってもほぼ印刷版と変わらんつか、作品の1ページを抜粋してるみたいな感じで(それはそれで面白いんだけど)

個人的には絵コンテ見るのが好きだからネームとかボツ原稿みたいなのが見たい…ような…

まあ、知らんだけでそういうのも公表してたりするかも知れんが

カッパのねね子が一番すこ ハナクソほじる系わりと性格クソガール

Permalink |記事への反応(0) | 00:04

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2025-06-05

anond:20250605195146

感動してるところ申し訳ないけど、宮崎駿書いてないんや……

序盤の炎に巻かれるシーンがジブリっぽくないけど、宮崎駿原画動画を見れたのはその直前まで。あとは力尽きた

から

本来ジブリは、背景の動きにとても注力する。

という違和感は正しくて、2人の作画監督作品を完成させることに注力してブラッシュアップは諦めた

本来なら宮崎駿は出来上がった動画ガンガン直して、それがあの躍動感のある映像に繋がるわけ

制作会社マニアだったら各セクションどの会社が手掛けたか気づけると思うけど、その終盤はカラー担当だと思われる

宮崎駿絵コンテ監督級の原画マン動画マンが各々仕上げて、なんとかつなぎ合わして生まれたのがこの作品

なので技量的な部分は各スタジオの手癖だと思われます……

Permalink |記事への反応(0) | 20:02

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2025-06-03

anond:20250603175324

このひと絵コンテ程度の画力しかない富野由悠季カントク馬鹿にしてる~😧

Permalink |記事への反応(1) | 17:55

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2025-05-29

anond:20250529141552

2話は絵コンテ庵野君も入ってたけど、今回は全編鶴巻君だったよ。

少なくともクレジットでは。

Permalink |記事への反応(1) | 14:23

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2025-05-17

ジークアクスの乃木坂ネタを報告しなかった

都内某所のアニメスタジオ制作進行をしている。

先月、担当している『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』のある話数の絵コンテチェックがあった。演出作業が終わり、撮影出しのために素材を確認していた時、鶴巻監督担当パートに(明らかに私的な、しかもかなり攻めた感じの)乃木坂ネタが仕込まれているのに気づいた……。

さなカットインとか、モブセリフとかならまだしも、明らかに意図された演出だった。

一瞬、どうしようかなって思った。

ジークアクスは国民アニメの最新作だし、製作委員会にも報告すべきか悩んだ。

でも、プロデューサーから特に何も指示されてないし……それに、もし報告したら、鶴巻監督キャリアに何か傷がついたら嫌だなと思った。尊敬するクリエイター創作に口を出すのも……と。

結局、その乃木坂ネタのことは何も言わずに、いつものように撮影出しの事務手続きを済ませた。

先日、その話数が無事に放送された。エンドロールで鶴巻監督名前流れるのを見て、なんだかホッとした。SNSでは一部のファンが「あの演出もしかして…?」とザワついていたけれど、大きな騒ぎにはならなかった。

でも、本当にこれでよかったのかなって、今でも時々考える。

もし製作委員会に報告するのが当然だったとしたら、私は仕事ちゃんとやらなかったことになる。会社コンプライアンス的にも問題かもしれない。

かといって、もし報告することで鶴巻監督降板させられたり、作品の内容が大幅に変更されたりしたら、それはそれで心が痛む……。結果として作品の魅力が損なわれる可能だってあった。

同僚の制作進行に相談してみたけど、「うーん、鶴巻さんクラスになるとねぇ…」「プロデューサー判断を仰ぐのが無難じゃない?」「でも、最終的には自分判断だよ」って言われた。

突き放されたような感じだった。

それで結局、私は見なかったことにした。それが作品にとっても、鶴巻監督にとっても、そして何より私自身の心の平穏にとっても、一番いいと思ったから。

でも、あの時の判断が正しかったのかどうか、今でも時々考えることがある。

こういう場合って、どうするのが一番いいんだろうね?

Permalink |記事への反応(6) | 15:05

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2025-05-13

anond:20250513163649

進撃の巨人監督絵コンテ描いてたり、制作サイドがめちゃくちゃ豪華なことは分かるんだけど、分かるんだけど、少なくともガンダム新規勢には面白さが全然伝わってこない……!

Permalink |記事への反応(1) | 16:38

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2025-05-11

anond:20250510152016

というかそこは富野由悠季絵コンテを描く力が異常に高いからという話なる

Permalink |記事への反応(3) | 01:41

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2025-05-10

アニメ見たあとに、、、

脚本

絵コンテ

演出

作画監督

最低でもこのくらいは当たり前に確認するようになったのって、いつくらいから?

Permalink |記事への反応(1) | 12:20

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2025-04-30

anond:20250424122321

アポカリプスホテル4話視聴しました。

前回、「3話目でようやくテーマに対しこちらの理解が追い付いてきた気がします」などと書きましたが、まったく追いつけていませんでした

ごめんなさい

 

はっちゃけ回はあるだろうなあ、ぐらいの予想しかしてませんでした

展開の広がりと、広げたところから身近なテーマに落とし込むストーリーにまとめつつの冒頭の場面までちゃんと帰ってくる構成力が凄まじい

プロが本気で作るとすごいや

 

シーン単位ではラクダのコブすごい。ギアチェンジで話が一気に加速する場面でした。いかにも古典的演出ですが、これは直接的な元ネタあるんでしょうか

 

恥を晒しつつ、4話までの共通要素をあえて考えると、もう「各話のお題がSFしか残ってない気がしま

とすると、これは確かに竹本泉に全体のイメージを決定するキャラクター原案を依頼するのがベストチョイス

竹本泉らしさそのもの

竹本泉じゃないノイズを取り込んで~」などと偉そうに吹いた己を恥じるのみです

 

1話に続く春藤監督絵コンテ

春藤監督助監督を務めた「プリンセスコネクト!Re:Diveアニメ1期は昆虫食の話(ゲーム原作魔物食)

単独絵コンテを務めた8話はギルドリトルリリカルの子供たちが合鴨農法合鴨ヒナと仲良くなる話

なんとなくお題が繋がっている気がしま

Permalink |記事への反応(1) | 18:24

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2025-04-29

ゲド戦記とか、宮崎駿修正絵コンテとか発売されたら絶対に買うよね?

宮崎駿が俺なら、こうつくる、みたいなのを吾郎絵コンテベースにして作り直すの。

なんなら映画カットはそのまんまつかって再編集版とかでもいい。

そういうのを比較して見れたら、ああ、映画ってこうやってつくるのか、って感動できると思う。

Permalink |記事への反応(1) | 08:12

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2025-03-16

劇場版AIR見てる

だってコレクターズエディション(DVD2+本)で300円だったもん

安かったもん

元ネタは良く知らないが、監督の出崎って人は知ってた

あしたのジョーの人で、通夜だか告別式富野コメントしてた人

で、あんまり評価良くなかったのも

ネオヴェネツィアの話だっけ?と思ったらそっちはARIAだった

情報なしで見ようとしたけど、ちょっと調べててゲロの止め絵がある事を知った

あとジャケット見て鳥の歌ってこれなんだって

いたる絵、意外と気にならない

金髪の子かわいいな。学校には行っとけ!(老害

ヒイロ

折出てくるジェットストリームアタック演出面白い

止め絵使いすぎィ!

俺も人形使いみたいな仕事したい

飲酒運転やん!

恐らく過去歴史リンクする展開だ 幻の湖かな?

そのコマの動きはおかしいだろ!?

ハッピーエンドが好きだからちょっと不穏なんだよね

だって麻枝って泣きゲーの人ですよね

病院やん!これ死ぬパターンやん!!😡

不登校だったのってそういう…

元々旅人と現地人の時点で別れるの濃厚ですけど

正門から出るのは駄目だろ!てか警告してるしわりと温情だよね

あっゲロだ!ゲロの飛沫がロマンティック!

関西弁?の母ちゃんケロちゃんに聞こえて調べたらケロちゃんだった

ハードコア和太鼓バンド

写真焼くの!?

ああああああああ😭

恋の病(致死性)

あっNARUTOで見た演出

キスせいや!(気ぶり爺)

逃げるんかいっこの人殺し

学校先生かと思ったら父親だった

戸締まりの親子喧嘩の逆パティーン

逃げるなァァァ

戻って来た!やったぜ

稼ぐとかそういう話じゃないから。キスしろ

これ兵士さん殺してね?

説明しろや!伝わってるや!お前も探せ!探すんかい!(省略法ですね)

これ謀反では?

量産機にやられた弐号機みたいになってんじゃん(それはAir)

ケイスケさん!それはそうだけどお前が言うことではねえだろ

力ってそういう力なの!?

最期に会えたかハッピーエンドですね

キスしろ!した

抱け!抱けーっ!抱いただろこれ

これ死ぬパターンやん😡

あっもうゴールしてもいいよねってこれだったんだ…

今までミームだけ使ってたんだよね

ルビーの指輪っぽいと思ったらルビーの指輪だった

感動しちゃったじゃん…出崎やるじゃん

キーホルダー持ってるやん

ロゴ見て気付いたけどこれ手繋いでたんだね(ブランコ乗ってるかと)

本はなんだと思ったら脚本絵コンテだった

絵コンテ好きだからうれしい

名作でしたわね…映画で感動したの初めてかも(死なすの卑怯だけども)

コスパも良かったですわ

Permalink |記事への反応(0) | 21:45

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2025-02-06

ダンス何が悪いって踊りがキビキビしてないのが悪いよな

まぁ俺アニメーターとかじゃないか絵コンテとかよくわかんねえけどよ

Permalink |記事への反応(0) | 12:45

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2025-02-04

anond:20250202165855

劇場版鬼滅の刃 無限列車編」6回。

 

その前の記録は偶然友人・知人それぞれに付き合って観ることになった「シンゴジラ」(3回)があるが、

自分意思複数回見たのは無限列車編のみ。

 

自分映画館で同じ映画を繰り返し見ることに個人的には意義を見出せないたちである

たとえ映画館という家庭では再現できない環境だろうと同じ映画を見るよりは、

いや素晴らしい環境からこそ違う映画を味わいたいという主義信条人間だった。

 

さらに正直に言えば「鬼滅の刃」のアニメ化にはがっかりする点が多い。

間違いなく漫画が大ヒットする起爆剤になったので足を向けられない存在ではある。絵作りはすばらしい。絵の品質、できる限りの時代考証情熱をこめて積み上げた確かな仕事けが見せる輝きがそこにある。

だがアニメの最大の魅力である空間芸術としての要素を作る絵コンテ、これを切る人間が下手すぎる。

「鬼滅のアニメテンポが悪い」と言われる最大の要因は、演出の下手さにある。

今までよそでは言えなかった。絵コンテを切っているのはおそらくごく少数だから個人攻撃になるような気がして。

だがアニメ鬼滅の刃」は、アニメ化としては成功した部分と、アニメーションの出来としては失敗した部分の両方を色濃く持っている。

 

…というようなことをつらつら思いながら初見

心に大打撃を受け、胸に穴が開いた喪失感からまったく立ち直れず、

あれは創作…あれはただの架空キャラクターから自分に言い聞かせ、

なのになぜか約1カ月が過ぎると、まだ胸に穴が開いた状態で予約し、鑑賞し、フラフラになりながら映画館を出て、

なぜ自分がこうなのかよくわからないままぼーっと1カ月ほど過ごし、…

を5回繰り返した。

もっと早いスパンで鑑賞した人の心の強さにちょっとうちのめされる。

 

これだけアニメ化の出来にくどくど不満を垂れ流しながら、これだけ繰り返した約50週のことは忘れない。

今でも胸に穴の居場所がある。

世に送り出してくれたすべての人に心からありがとう

Permalink |記事への反応(0) | 02:14

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2024-11-18

漫画ネームって実際は絵コンテとか下書きと呼ぶ方がふさわしいよなと常々思う

なぜネームと呼ぶんだ

綴りnameなのか?

とりあえずwikipedia見るか……

語源英単語name」の「指定する」と言う意味で、写植書体やQ数を指定するために、台詞を事前に抜き出しておく必要があったところから。つまり、個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業本来の「ネーム」であり、そこから台詞のものネームと呼ぶようになり、ネーム作業効率化のために事前に用意するようになったコマ割りしたものラフな構図や台詞だけを描いたものまでもがネームと呼ばれるようになっていったのである。[要出典]

[要出典]か……

いかももっともらしい語源ではあるけれど

マンガの「ネーム」はいつから描くようになったのか? - Togetter [トゥギャッター]

先人のまとめがあった

1969年頃、「若草」で知り合った年上の漫画家志望者たち(担当さん付いてる)は、いつも編集部ネームを持って行ってました。当時の少女雑誌編集部はどこもそうだったかと。私は70年(中学生です)に別マ編集長に「次はネームで持ってきて」と言われました。

石ノ森章太郎マンガ家入門』(1965年)にもストーリーマンガを描く準備として、プロットシノプシスコンストラクションときて、コンテ(今でいうネームに相当)を作りましょうと書かれてますね。「物語の細部をかきこみ、コマわりまで完全にしましょう」「めんどうなようですが、この段どりが、もっと重要なのです」

昔だとやっぱりコンテって呼ぶケースもあったんだな

用例として信頼できそうなのはここらへんか

70年代ごろにはネームという言い方が定着してそうだなあ

本来ネームである「個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業」は今もやっているのかな

漫画以外でやっていうる業界……デザイナーDTPとか……

詳しくない

死んだ概念かもしれない

複数人で分担するからこそ指定する必要があり、ひとりで作業が完結するならネーム(真)指定必要ない

デザイナーとかが活躍する業界仕事とか業務の流れを全くイメージできない 門外漢すぎる

生きている概念だとしてもネームとはもう呼ばないのかもしれないな

こういう「よく考えると何故そう呼んでいるかわけわからん名前」の語源を調べるの大好き

second(秒)とか なんで2ndが時間単位やねん、みたいな

minute(小さい単位)の次なる小さい単位なので2nd

ゆる言語学ラジオに対しては愛憎の念が入り混じる

おわり 日記

Permalink |記事への反応(0) | 16:14

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2024-11-13

anond:20241110190204

ルックバックはアニメ業界でも衝撃で、

製作監督脚本絵コンテキャラデザ作画監督を一人の人がやっていて、

本編の作画まで半分以上その人、動画もかなりやっているという、

アニメは一人の人間の力でできているわけでは無いという常識作品でぶち壊している歴史に残る作品なんですよ。

Permalink |記事への反応(2) | 11:10

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2024-07-05

anond:20240705205724

なんていうか末端の作業員自主性があるべきって思想から逆算してる感じ。

監督作業員という構成をとる以上、絵コンテに正解が詰まってるのは正しい状態で、

普通それが難しいからできてないだけだよ。

Permalink |記事への反応(0) | 22:14

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